仄暗い朝
朝になっても主の戻らぬ部屋で、緋良はまんじりともせずに、夜を明かした。
(…片岡は何処に消えたのだろう)
しかも、探索を願い出た山背までもが、斑鳩宮に戻ってきていないようだ。なにかあったのだろうか。近頃の斑鳩は不穏な空気に包まれている。早馬は日に何度も往来しているし、舎人たちは武装を始めている。
争いが起こるのだろうか。起こり得るとしたら、相手は蘇我なのだろうか。だとしたら、蘇我の嫡子を恋人に持つ、片岡が何をしようとしたかなんて、緋良には容易に想像がつく。震える手を組んで恋人の無事を祈り、仏に縋って事の成り行きを見守る、そんな女では片岡はない。だからこそ、嫌な予感も不安も尽きぬのだが。
(ご無事でいればいいのだけれど…)
緋良も、ただ主の帰りを待ってはいられない。立ち上がると、彼女はかつての女主人の元に急いだ。
片岡も一睡も出来ずに、朝を迎えた。長谷が立ち去ってから、昏倒していた振りをやめて、ゆっくりと瞼を開ける。しかし、灯火のない闇の中ではぼんやりとした部屋の輪郭が掴めただけだった。
痛む腹部を抑えて、這いずって部屋の外の様子を窺うと、見張りらしい男にぎろっと睨まれた。片岡をここから出すなと、厳命でもされているらしい。肩幅広く屈強な体格の男がふたりも、自分だけのためにそこに立たされているのだ。長谷の自分への警戒感が顕著に出ている。
闇の中で片岡は、考える。長谷と摩理勢の謀を入鹿に伝える方法を。
(せめて、緋良に伝えられたら…)
胸元深く抱いている懐剣を、衣の上からぎゅっと掴む。見張りを刀で脅せば、部屋からの脱出くらいは叶うだろうか…。けれど、相手はふたりだ。見張りがひとりになった時とか、油断してる時とか、機会を狙わねばならない。
慎重に迅速に。簾いちまい越しの、様子を片岡は僅かな隙も逃さぬように注視し続けた。
橘大郎女は、突然の緋良の来訪にも、快く応じてくれた。そして、緋良が片岡が昨夜から戻らない胸を告げると、麗しい眉を寄せる。そしてすぐに。
「泊瀬宮に行ってみましょう」
と決断し、腰を上げてくれたのには、緋良は涙が出そうなくらいありがたかった。
普段は楚々とした雰囲気で、片岡のような気丈さはないが、事に当たった時の頼もしさは、
やはり亡き大王の孫に相応しい貫禄を備えてる。
額田部の皇女が、こんなにも長きに渡って大王の位に君臨し続けなければ、この方の人生はもっと違ったものだったろうに。
長谷は不在だった。代わりに彼女の姉の舂米が出てきたが、しれっと片岡などは知らない、と嘯く。
そんなわけない、と叫びいだしたい緋良の横で、橘大郎女は、艶然とした笑みを浮かべる。
「けれどもしや舂米様の預かり知らぬこともあるかもしれません。探して行っても、よろしいかしら?」
「では、私も同行致しますわ」
父の妃だった橘大郎女の乞いを、すげなく退けることは出来ぬのか、舂米は不承不承と言った顔で頷く。
元来、泊瀬宮は斑鳩宮よりも小ぶりに造られている。建物を隈なく探索したところで、半時も掛からない。増して、出入口にふたりも男が立っているのだ、片岡の居場所はすぐに知れた。
「片岡様…」
「緋良!」
再会を喜び合うふたりを、橘大郎女は目を細め、舂米は忌々しそうに眺める。
「戻りましょう」
と片岡の手を取って促す緋良に、舂米が鋭く返す。
「なりません」
「あら、どうして」
舂米の拒絶に疑問を投げかけたのは、橘大郎女だった。
「飛鳥との情勢が危うくなったので、片岡様はこちらでお預かりしてますの。勝手に連れて行かれたら困ります」
しらじらとよく言えたものだわ。
舂米の言葉に反発を覚えながら、片岡は緋良を見た。
自分はこの際どうでもいい。入鹿に伝えたい情報があるのに。それを託せる相手が目の前にいるのに。
舂米や警備の者の目をかいくぐって、緋良に文を預けるにはどうしたらいい。
「片岡様」
焦燥で焼き焦がれそうな片岡に、橘大郎女は彼女自身も気づいていなかったことを指摘した。
「お怪我をなさってないですか? 裳に血が…」
みなが一斉に片岡の下半身に注目する。白い絹に転々と赤い染みがついていた。
殴られた腹部は痛みは収まっていたのだが、下腹部に鈍い痛みが続いている。内部で出血でもしていたのだろうか。
「すぐに着替えをお持ちします」
そう言ってひとり出て行った緋良は、電光石火の早さで戻ってきた。
「私達は席を外してますわね」
橘大郎女の気遣いに、舂米は仕方なく従って、部屋には主従ふたりが残された。裳を脱いでみると、下帯は更に血で染まっていた。
「片岡様…」
緋良が険しい表情で片岡を見る。放置しておいていい出血でないことは、誰の目にも明らかだ。でも今は。
鈍痛を忘れるように、下半身に力を込めて、緋良の両の二の腕を掴んだ。
「私のことはいいから」
「けれど」
「それよりお前に頼みがあるの」
夕刻を知らせるような、冷たい一陣の風が吹きぬけて、部屋の片隅にかけてあって風鐸が、ちりんと音を鳴らした。
わずかなその音に気づいたのは、彼女だけだったのか、それとも常に聞いていれば、耳にも留まらなくなっていくものなのか。
入鹿は、視線をピクリとも動かさず、片岡が認め、緋良に託した封書を読んでいる。
無論、恋文などでは、ない。
摩理勢が斑鳩にいること、そして摩理勢や長谷が目論む謀を、片岡は出来るだけ詳細に綴り。
「お願い、これを入鹿の元に届けて」
緋良の手に握らせて、懇願した。
自分だって、大変な時なのに。片岡の身を案じる緋良は、無論、傍を離れたくなかった。けれど、片岡は緋良でなければ出来ぬという。重責を手紙と共に、ひしと抱きながら、緋良は舎人の操る馬の背に揺れて、入鹿の屋形までやってきた。
「やはり摩理勢は斑鳩か」
読み終えた手紙を、脇において、入鹿はふうと呟いた。
「諜報みたいな真似をしろなんて言っていないのに」
もたらされた情報はありがたい。けれど、恋人を危険な目に遭わせ、身内を裏切るような行為をさせたことも、入鹿にしてみれば心苦しいのだろう。
「片岡は変わりない?」
当然のように片岡の安否を気遣う入鹿に、緋良の中で逡巡が生まれる。言って、しまおうか。
『お前は、これを届けるだけでいいから。入鹿の知りたいことは、全部ここに書いてあるはず。私のことは、余計な心配掛けるだけだから何も言わないで』
着替えをしながら、片岡は必死に緋良にそう言い含めた。
主の命に逆らいたくはない。けれど、黙ってることが片岡と、そして彼女を憂う入鹿のためになるのだろうか。もしも自分だったら、恋人の苦境を自分だけ知らなかったら、悔しいし歯がゆい。
「片岡様は…」
意を決して、緋良は今片岡の置かれてる状況をつぶさに語った。監視までつけられて、泊瀬宮の奥に閉じ込められてること、誰かに殴られたらしく、腹部から出血が止まらないこと。
入鹿は途中からは言葉も失う程に、衝撃を受けた。苛烈な状況は彼の想像を遥かに超えていた。今すぐにでも、斑鳩に馬を駆って行きたいところだが、それだと彼女が託してくれた思いが台無しになる。
片岡が望んでるのは、自身の救出なんかではないことを、誰より知るのは入鹿だからだ。
「委細承知した――片岡にそう伝えて」
事務的な常套句に緋良の目が、失望に揺れる。片岡が思うほどには、彼は片岡を大事に思ってはくれないのか。自分が憤るのは筋違いとわかっても、割り切れない感情が緋良を襲う。
だが、次の入鹿の言葉に、すぐに緋良は己を恥じた。
「あと、もうひとつ――必ず、助けるって」




