密かな野望
「長谷っ」
片腕で片岡の体の重みを支えながら、山背はもう一方の腕で、長谷に着物の袷を掴んだ。
妹に対する狼藉としては、遠慮会釈なさ過ぎる。だが、気色ばんだ山背と対照的に、長谷は余裕の態度を崩さない。
「心配要りませんよ。気を失わせただけです。いずれ目を覚まします」
「何故こんな…」
「何故? この姫の前で話したことは、全て蘇我に筒抜けになる。そうしたら、我等が何のために内密に、準備を進めていたか、わからなくなるではありませんか」
内密? 準備?
「何の…話だ」
狐につままれたような山背の顔を、呆れたように長谷は見つめ返すと、無言で棟の奥に入って行く。
ついてこい、ということか。
意識を失った片岡を、自分の背に負うと、山背は長谷に続いた。
泊瀬宮の最奥の部屋。
長谷に誘われるように入ったその部屋には、摩理勢と、そして妻の舂米がいた。
片岡を部屋の隅に横たえると、山背は上座に着く。
しかし、居心地の悪い席だった。
この座にいる誰もが承知していることを、自分だけが知らぬ疎外感が、彼を包む。
摩理勢が斑鳩に息子の毛津と二人でやってきたのは、十日前の未明。
「豊浦大臣と諍いになってしまった。当分飛鳥には帰れぬ故、ほとぼりが冷めるまで、ここで匿って頂きたい」
摩理勢に涙ながらに乞われ、詳しい事情も聞かぬまま、山背は諾の返事を与えてしまっていた。
いずれ時を見て、豊浦には自分からも、とりなしをするつもりでいたし、何より修復不可能な暴挙を、彼が飛鳥でしてきているとは、思ってもいなかった。
爾来、斑鳩宮よりは、奥まった泊瀬宮の方が、人目につきにくいのでは…と、摩理勢は長谷に預けた形になった。
そう、それが間違いのもとだったのか?
長谷と摩理勢は、自分を締め出し、結託し密謀を謀っていたのだ。
「三日後には、我が境部臣の兵が、五百ほど、斑鳩に到着することになっています。機先を制し、毛人入鹿親子を襲い…」
と、得意げに摩理勢が語りだしたのを聞いては、幾ら山背も黙っていられず。
「ちょっと待て」
摩理勢の言葉を制止した。
「どういうことだ、摩理勢。毛人と直接対峙するなんて話は…」
「聞いてない、だから知らない、そう仰せですか、兄上」
山背の狼狽を、長谷は咎める。
「今更、摩理勢が毛人殿と和解などありえぬ…ということは、彼がここに逃げ込んできた時から、察せられたではないですか。彼の目的と、我等の目的は、初めから相容れない」
「だからといって、徒に毛人と事を構えるつもりもない」
山背は飽くまで自分の権利を主張してるのみだ。毛人とは叔父甥の関係である。言葉を尽くせば、わかって貰えぬはずはない。山背はそう信じていたし、また毛人の方から情理を尽くし、国の為だ…と言われれば、得心しいつでも引くつもりだったのだ。だが、長谷は山背のそんな見通しを甘いと嘲笑う。
「兄上が、大王となるためには、我等が勝たねばならない。寡兵を持って、勝利を収めるには、相手の油断を誘うは定石。だから、摩理勢がここにいることは、この宮の王子王女にまで、秘していたのですはないですか。それを事が大きくなりそうだから、知らぬ…など」
まるで、摩理勢のはじめの言い分を、鵜呑みにした山背が悪いとでも言うような、長谷の言葉だった。
「飛鳥と全面対決をする、というのか。負ければ我等はどうなる」
「さあ。丁未の年の物部や、穴穂部王子のようになるのでは」
つまり、死しかないということではないか。
大胆な計画を秘めているというのに、長谷の落ち着き振りに、山背は背筋が寒くなる。
『一か八か、乾坤一擲の大勝負、あんたが打って出ることはない』
入鹿の言葉がまざまざと、彼の脳裡に甦った。
入鹿や毛人、飛鳥の官人たちを大向こうに回して、関係ない人たちを巻き込み、野を焼き、兵を殺し…殺戮の末の頂点など、父だって望むまい。
「そこまでしての、帝位なと求めてはいないっ」
山背は思わず立ち上がって、宣言する。
「甘いお方だ。そこまでしないと、兄上の帝位など、ない」
倶に天を戴かざる敵と、どちらかが相手の全てを飲み込むか支配するまで、憎みあい、争えと――蘇我と?
入鹿と?
山背はごくりと固唾を飲んだ。
立ち上がったものの、行き先が掴めない。振り上げた拳を、下ろす位置が見えない。
円坐に棒立ちになったままの山背を、座ったままの3人が、下から睨めつけてくる。
「今になって怖気づかれましたか? 望まれたのは、兄上ですよね…。尤も、そう仕向けたのはこちらですが」
「どういう…ことだ」
渇き切った口内で、音を搾り出すように、声帯を震わせながら、山背は尋ねた。
「大王にお願いしました。田村に言ったのと同じことを兄上にも、申し上げて欲しいと。もう判断力も無くなった大王です。
孫の行く末のことなどをちらつかせれば、すぐに承諾してくださいました。
大王自ら後事を託されれば、兄上のご気性から言っても、蘇我に刃向かってでも、その期待に応えんとなさるでしょう」
滔々と語る長谷の弁が、しかし、山背の胸には、すっと入っていかないのは、彼の想起を超えた事態だからか、それとも、胸奮わせた歓喜がの言葉が、まやかしだったと信じたくないためか。
全て、謀られていた。
長谷と摩理勢の野心のために、利用されていたに過ぎないとわかった今は、大王位になど、爪の先ほどの執着もないものを。
力なく再び、床に座り込んだ山背に、長谷の冷ややかな視線が振りそそぐ。あからさまな侮蔑の視線も、今の山背には跳ね返す気力もなかった。
兄と長谷が、争ってる声がする。初めは夢の中の声のように、模糊として遠くに聞こえていた会話。だが、その中に、愛しい人の名を聞いて、片岡は瞬時に覚醒した。
『三日後には、我が境部臣の兵が、五百ほど、斑鳩に到着することになっています。機先を制し、毛人入鹿親子を襲い…』
悲鳴をあげ、起き上がりたい衝動を必死に堪えた。人事不省になる前の瞬間を思い出したからだ。
腹部に受けた長谷の拳。吐き気すら伴って、未だに痛む。けれど、意識を失ってる場合じゃない。
身動ぎ一つ、吐き出す息すら殺して、片岡は、この恐ろしい話を聞いていた。
三日後には、摩理勢の兵が、斑鳩に? そして、斑鳩と飛鳥が…兄上と、入鹿が争うと?
そんな事態には、絶対させたくない。
「兄上も、ご覚悟決めてくださいね」
どちらが兄で。どちらが、斑鳩の主なのか。
わからない不遜さで、長谷は言うと、山背の膝にもたれていた片岡の身体を持ち上げる。
(や、やだっ)
嫌いな男の腕の感触に、片岡の全身が強張る。もがいて足掻いて、この腕から抜け出したい…だが、彼に自分の意識が戻ってたことは知られない方がいい。
(ごめん、入鹿…)
無抵抗のまま。片岡はその身を長谷に委ねる。
「片岡をどうする」
「こちらの目の届く場所に置いておきますよ。この姫は何をするかわかりませんから」
「……」
「兄上も、ゆめ、愚かなことなどお考えにならないでくださいね。事、ここに至って、蘇我毛人が我等を許すことなどありえない――矢は弦を、離れたのですから」
そう言って、呆然としたままの山背ひとりを残し、長谷・摩理勢・舂米は場を辞した。
片岡を自分の部屋の隣の房に、長谷は横たえる。片岡は相変わらず瞼を閉ざしたままなので、何処に連れて来られたかもわからない。ただ、人の気配は、長谷のものしかないようだった。
「随分と面変わりしたものだ…」
ぽつりとそんな言葉が片岡の耳朶を打つ。
(…どういう、意味だろう)
表情も確かめようがないから、彼がこの言葉に込めた想いも判然としない。疲れてる、かなあ。それとも老けた、とか? やだなあ、入鹿に会う前に、肌荒れにいい薬草を緋良と摘みに行こう。
暗い視界の中で片岡が、そんなとりとめのないことを考えていたら、彼女の唇に何かが触れた。
冷たくて、固い…。長谷の指先だろうと、片岡が結論づけた時には、もう彼の気配は消えていた。




