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炎―かぎろひ―  作者: 紗夏
第3章 雲の波立ち
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密かな野望

「長谷っ」

 片腕で片岡の体の重みを支えながら、山背はもう一方の腕で、長谷に着物の袷を掴んだ。

 妹に対する狼藉としては、遠慮会釈なさ過ぎる。だが、気色ばんだ山背と対照的に、長谷は余裕の態度を崩さない。

「心配要りませんよ。気を失わせただけです。いずれ目を覚まします」

「何故こんな…」

「何故? この姫の前で話したことは、全て蘇我に筒抜けになる。そうしたら、我等が何のために内密に、準備を進めていたか、わからなくなるではありませんか」

 内密? 準備?

「何の…話だ」

 狐につままれたような山背の顔を、呆れたように長谷は見つめ返すと、無言で棟の奥に入って行く。

 ついてこい、ということか。

 意識を失った片岡を、自分の背に負うと、山背は長谷に続いた。


 泊瀬宮の最奥の部屋。

 長谷に誘われるように入ったその部屋には、摩理勢と、そして妻の舂米がいた。

 片岡を部屋の隅に横たえると、山背は上座に着く。

 しかし、居心地の悪い席だった。

 この座にいる誰もが承知していることを、自分だけが知らぬ疎外感が、彼を包む。

 摩理勢が斑鳩に息子の毛津と二人でやってきたのは、十日前の未明。

「豊浦大臣と諍いになってしまった。当分飛鳥には帰れぬ故、ほとぼりが冷めるまで、ここで匿って頂きたい」

 摩理勢に涙ながらに乞われ、詳しい事情も聞かぬまま、山背は諾の返事を与えてしまっていた。

 いずれ時を見て、豊浦には自分からも、とりなしをするつもりでいたし、何より修復不可能な暴挙を、彼が飛鳥でしてきているとは、思ってもいなかった。

 爾来、斑鳩宮よりは、奥まった泊瀬宮の方が、人目につきにくいのでは…と、摩理勢は長谷に預けた形になった。

 そう、それが間違いのもとだったのか?

 長谷と摩理勢は、自分を締め出し、結託し密謀を謀っていたのだ。

「三日後には、我が境部臣の兵が、五百ほど、斑鳩に到着することになっています。機先を制し、毛人入鹿親子を襲い…」

 と、得意げに摩理勢が語りだしたのを聞いては、幾ら山背も黙っていられず。

「ちょっと待て」

 摩理勢の言葉を制止した。

「どういうことだ、摩理勢。毛人と直接対峙するなんて話は…」

「聞いてない、だから知らない、そう仰せですか、兄上」

 山背の狼狽を、長谷は咎める。

「今更、摩理勢が毛人殿と和解などありえぬ…ということは、彼がここに逃げ込んできた時から、察せられたではないですか。彼の目的と、我等の目的は、初めから相容れない」

「だからといって、徒に毛人と事を構えるつもりもない」

 山背は飽くまで自分の権利を主張してるのみだ。毛人とは叔父甥の関係である。言葉を尽くせば、わかって貰えぬはずはない。山背はそう信じていたし、また毛人の方から情理を尽くし、国の為だ…と言われれば、得心しいつでも引くつもりだったのだ。だが、長谷は山背のそんな見通しを甘いと嘲笑う。

「兄上が、大王となるためには、我等が勝たねばならない。寡兵を持って、勝利を収めるには、相手の油断を誘うは定石。だから、摩理勢がここにいることは、この宮の王子王女にまで、秘していたのですはないですか。それを事が大きくなりそうだから、知らぬ…など」

 まるで、摩理勢のはじめの言い分を、鵜呑みにした山背が悪いとでも言うような、長谷の言葉だった。

「飛鳥と全面対決をする、というのか。負ければ我等はどうなる」

「さあ。丁未の年の物部や、穴穂部王子のようになるのでは」

 つまり、死しかないということではないか。

 大胆な計画を秘めているというのに、長谷の落ち着き振りに、山背は背筋が寒くなる。

『一か八か、乾坤一擲の大勝負、あんたが打って出ることはない』

 入鹿の言葉がまざまざと、彼の脳裡に甦った。

 入鹿や毛人、飛鳥の官人たちを大向こうに回して、関係ない人たちを巻き込み、野を焼き、兵を殺し…殺戮の末の頂点など、父だって望むまい。

「そこまでしての、帝位なと求めてはいないっ」

 山背は思わず立ち上がって、宣言する。

「甘いお方だ。そこまでしないと、兄上の帝位など、ない」

 倶に天を戴かざる敵と、どちらかが相手の全てを飲み込むか支配するまで、憎みあい、争えと――蘇我と?

 入鹿と?

 山背はごくりと固唾を飲んだ。

 立ち上がったものの、行き先が掴めない。振り上げた拳を、下ろす位置が見えない。

 円坐に棒立ちになったままの山背を、座ったままの3人が、下から睨めつけてくる。

「今になって怖気づかれましたか? 望まれたのは、兄上ですよね…。尤も、そう仕向けたのはこちらですが」

「どういう…ことだ」

 渇き切った口内で、音を搾り出すように、声帯を震わせながら、山背は尋ねた。

「大王にお願いしました。田村に言ったのと同じことを兄上にも、申し上げて欲しいと。もう判断力も無くなった大王です。

 孫の行く末のことなどをちらつかせれば、すぐに承諾してくださいました。

 大王自ら後事を託されれば、兄上のご気性から言っても、蘇我に刃向かってでも、その期待に応えんとなさるでしょう」

 滔々と語る長谷の弁が、しかし、山背の胸には、すっと入っていかないのは、彼の想起を超えた事態だからか、それとも、胸奮わせた歓喜がの言葉が、まやかしだったと信じたくないためか。


 全て、謀られていた。

 長谷と摩理勢の野心のために、利用されていたに過ぎないとわかった今は、大王位になど、爪の先ほどの執着もないものを。

 力なく再び、床に座り込んだ山背に、長谷の冷ややかな視線が振りそそぐ。あからさまな侮蔑の視線も、今の山背には跳ね返す気力もなかった。




 兄と長谷が、争ってる声がする。初めは夢の中の声のように、模糊として遠くに聞こえていた会話。だが、その中に、愛しい人の名を聞いて、片岡は瞬時に覚醒した。

『三日後には、我が境部臣の兵が、五百ほど、斑鳩に到着することになっています。機先を制し、毛人入鹿親子を襲い…』

 悲鳴をあげ、起き上がりたい衝動を必死に堪えた。人事不省になる前の瞬間を思い出したからだ。

 腹部に受けた長谷の拳。吐き気すら伴って、未だに痛む。けれど、意識を失ってる場合じゃない。


 身動ぎ一つ、吐き出す息すら殺して、片岡は、この恐ろしい話を聞いていた。

 三日後には、摩理勢の兵が、斑鳩に? そして、斑鳩と飛鳥が…兄上と、入鹿が争うと?

 そんな事態には、絶対させたくない。


 「兄上も、ご覚悟決めてくださいね」

 どちらが兄で。どちらが、斑鳩の主なのか。

 わからない不遜さで、長谷は言うと、山背の膝にもたれていた片岡の身体を持ち上げる。

(や、やだっ)

 嫌いな男の腕の感触に、片岡の全身が強張る。もがいて足掻いて、この腕から抜け出したい…だが、彼に自分の意識が戻ってたことは知られない方がいい。

(ごめん、入鹿…)

 無抵抗のまま。片岡はその身を長谷に委ねる。

「片岡をどうする」

「こちらの目の届く場所に置いておきますよ。この姫は何をするかわかりませんから」

「……」

「兄上も、ゆめ、愚かなことなどお考えにならないでくださいね。事、ここに至って、蘇我毛人が我等を許すことなどありえない――矢は弦を、離れたのですから」

 そう言って、呆然としたままの山背ひとりを残し、長谷・摩理勢・舂米は場を辞した。

 片岡を自分の部屋の隣の房に、長谷は横たえる。片岡は相変わらず瞼を閉ざしたままなので、何処に連れて来られたかもわからない。ただ、人の気配は、長谷のものしかないようだった。

「随分と面変わりしたものだ…」

 ぽつりとそんな言葉が片岡の耳朶を打つ。

(…どういう、意味だろう)

 表情も確かめようがないから、彼がこの言葉に込めた想いも判然としない。疲れてる、かなあ。それとも老けた、とか? やだなあ、入鹿に会う前に、肌荒れにいい薬草を緋良と摘みに行こう。

 暗い視界の中で片岡が、そんなとりとめのないことを考えていたら、彼女の唇に何かが触れた。

 冷たくて、固い…。長谷の指先だろうと、片岡が結論づけた時には、もう彼の気配は消えていた。




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