暗闇の手がかり
いつしか、月は雲に隠れていた。
みな、寝静まっているのか、人の気配はない。
片岡は、辺りの様子をそっと窺いながら、滅多に足を踏み入れぬその建物に入っていった。
同じ敷地にあるのだが、片岡には飛鳥よりも遠い隔たりを感じる、その建物は、泊瀬宮と呼ばれる。
文字通り、山背の異母弟の長谷王や彼の弟妹達の住まう屋形だ。
殯の宮での一件以来、片岡は長谷を極力避けてきたし、長谷の方でも臣族と侮る蘇我氏の者に身を任せた女なんかに興味はなくなったか、片岡を追い回すようなことはしなくなった。
今宵、人目を避けるようにして、彼女がここにやってきたのは、ある一つの噂を確かめたかったからだ。
(蘇我摩理勢が、ここにいる)
というのだ。
摩理勢が、何をして飛鳥から逐電したかは、斑鳩の片岡の耳にも伝わってきている。
蘇我宗家の者が、血眼になって彼の行方を追っているというのも、聞いている。
その摩理勢を長谷が匿っているというのだ。
(まさか)
という思いと、もしや、という疑念。
何事によれ、とかくこの目で確かめないと気が済まない性情の片岡である。
長谷への嫌悪感も一時、棚上げしてまで、本当にここに摩理勢の存在があるのか、調べにきたのだ。
小さな燭台の灯りだけを頼りに、足音一つ立てぬように、片岡は泊瀬宮の廻廊を進んだ。闇に包まれた静寂に、どくどくと早鐘を打つ片岡の鼓動も響く。
(静まって)
胸の袷にそっと忍ばせた入鹿に貰った懐剣を布の上から握りしめる。呼吸を整えて、再び宮の奥へ向かうが、普段まるで出入りしない他人の屋形。勝手がわからない。
(罪びとを匿うのなら、きっと奥だと思うのだけれど)
そんな推測を立てながら、進んでいた片岡の背後から、ふいに腕が伸びてきて、彼女は羽交い絞めにされた。
「……っ」
一方の手で、片岡の両の腕を、もう一方の手で、口を覆われ、片岡は身動き出来ずにもがく。
「こんなところで何をしておいでですか? 夜這いのお誘いなら、おっしゃっていただけば、いつでも参上致しますのに」
片岡をありありと嘲笑した響きの涼やかな声は、片岡には地獄からの使者の声のように思えた。
(長谷の兄上…)
声を出したくとも言葉にならず、振り向きたくとも身動きできないが、片岡の五感の全てが、この無礼な腕の持ち主を彼だと、認めている。
胸に入っている懐剣は、両手の自由を奪われているため使えない。
咄嗟に片岡は、持っていた燭台を、足元めがけて、落とした。
「あつっ」
長谷の足の上に、炎がさっと揺れて、履いていた沓で踏み消したものの、一瞬の動揺につけこんで、片岡は長谷の腕から逃れることに成功する。
とにかく彼とは反対方向に逃げようとするのだが、すぐに追いつかれ、右手を掴まれ、後ろ手に捻りあげられた。
「滅多にこちらには寄り付きもしない貴女が、一体何をしに来たんです?」
長谷はもう一度、同じ問いを片岡にする。
「貴方には関係ありません」
「人の屋形に侵入してきて、関係ないもないでしょう。蘇我の御曹司に、何か調べてこいとでも、頼まれましたか?」
冷たい目で、片岡を見下ろしながら、長谷は一つずつ片岡を追及する。
「入鹿はそんなこと言いません」
寧ろ逆だ。
大王崩御を知らせたあの雨の以来、入鹿はここには一度も訪れていない。それでも、飛鳥と斑鳩で起こっていることを伝え、事態の速やかな収束と再び片岡に逢えることを願った文が、月に一度は彼女の元に寄せられる。
そしてそのどれもに。
じりじりすると思うけど、片岡はじっとしてて、と彼女の軽挙妄動を窘める一文が入ってる。今の片岡のこの行動も、きっと彼が知れば、弓なりに弧を描く眉を歪めて、不機嫌になるに決まってる。
(だけど、じっとなんてしてられなかったんだもん…)
「そうですよね、もう彼は貴女には会いますまい」
長谷の断言に、片岡の目の色が変わった。疑いと失望の色を滲ませた、彼女の黒目に、嗜虐心を煽られたか、長谷は更に続ける。
「だって、そうでしょう? 今や我等は、蘇我氏にとっては敵でしかない。大臣殿が望んでやまない田村即位を妨げる無二の邪魔者といっていい。そんな斑鳩宮の姫の貴女を抱きに、わざわざ蘇我の御曹司がここまでやってきますか?」
(そんな話は)
聞きたくない。
耳を覆いたくとも、右手を彼にしっかり拘束されているため、それは叶わず、彼の言葉に抵抗する唯一の手段ででもあるかのように、片岡はかぶりを振った。
(違う違う)
だって、あの時入鹿は、もう来れないなんて言わなかった。
少しでも、その恐れがあるのなら、それを私に何も伝えずに去ったりするわけない。
だから、入鹿は斑鳩の敵に回るつもりなんて、ないはず。
そう思い至って、片岡は先ほどの長谷の言葉に違和感を覚える。
(敵…? 無二の邪魔者?)
「やはり、摩理勢殿はこちらにおいでなのですね」
片岡の確信に満ちた強い語調に、優位に立っていたつもりの、長谷の口ぶりが怯む。
「な、何を突然…」
「これまで表だって、兄上も豊浦大臣殿も相争ってはいない。兄上は、何度も豊浦に使いを送ってますし、その返事も来てます。
豊浦大臣殿にとっては、摩理勢殿こそが、無二の敵であり、目の上の瘤のはず。
蘇我を敵と断じる、今の貴方のお言葉は、その摩理勢殿に与したからこその、発言に他ならないのではありませんか?」
整然とした片岡の言葉に、長谷は眉をひそめた。
しかし、動揺を見せたのはその一瞬で、すぐに酷薄そうな笑みを口元に湛えると。
「これだから、賢しらな女は嫌いだ。やはりあの時、橘郎女など気を失わせても、貴女は我が物にしておけば良かった」
長谷は片岡の手を握る手に、力を増した。
「……っ」
片岡の顔が、痛みに歪むのを、寧ろ愉しげに眺めて。
「今からでも遅くはないか。私の物になるというのなら、この手は離しますよ」
にこやかな表情の、何処にそんな力があるのかと訝る力強さで、長谷は片岡の腕を捻る。
これ以上、力を込めたら、折れるぎりぎりの線を知っているかのような。
痛い痛い痛い。
でも、そんなこと絶対、言いたくない。
「強情な姫だ」
持て余したように吐き捨てて、長谷は片岡の細腕を、更に捩じ曲げようとした。
ポキッと頼りなげな音を立てて、肩が外れるんじゃないかと、目を固く閉じたその瞬間だった。
掴まれていた手を、誰かが外してくれた。
「兄上…」
先に、その人影の正体を確かめた長谷の動揺を隠せない声に、片岡はすかさず顔を上げた。
片岡と長谷の間に割り込むようにして立ち、長谷の二の腕を、衣の上から掴んでいたのは、一番上の兄、山背だった。
「何故」
片岡の疑問に、山背はピクンと眉を上げて、一気に怒り出した。
「何故、じゃないっ、緋良が、血相変えて、俺の閨に飛び込んできた。片岡さまがいない、きっと、泊瀬の宮だと思うのですが、見てきていただけないでしょうか、と。無礼を承知で、何度も何度も頭を下げてきた。己の勝手な行動が、いかに周囲に迷惑を撒き散らしているか、いい加減学ばないか、片岡っ」
怒りの強さは、心配の強さで、きっと山背は、緋良の分まで、怒っている。
よく見たら、山背は燭台すらも手にしていない。
気紛れに見え隠れする月の灯りと、庭に焚かれた篝火と、その僅かな明るさを頼りに、兄は自分の姿を、探したのだろうか。
暴挙に及んだ自分の言い分は、とりあえず置いておいて、片岡も反省せざるを得ない。
「申し訳、ありません」
俯いた発せられた謝辞に、山背は「わかったか」と言いたげな、優しい視線になって、片岡の頭を自分の胸に引き寄せた。
そして、もう片方の手で、掴んだままだった長谷の腕を放し、彼の方へ向き直る。
「とはいえ、幾らなんでも妹にこの仕打ちはないんじゃないか、長谷」
長谷は、すっかり平常心に戻ったか、全然悪びれずに言う。
「闇に紛れての闖入者、まさか我が妹とは思いませんでした。てっきり賊か、この宮を探る者と、早とちりしての狼藉です、すまなかった、片岡」
(嘘をつけ――――っ)
最初の一手から、全部私を私と認識しての、乱暴だったくせに。
反論したいことだらけだが、山背は正面を向こうとした片岡の後頭部を、ぐっとまた自分の手で押さえ込む。
(お前は会話に入ってくるな)
兄の言葉が、密着した胸から聞こえてきた気がして、片岡はやむなく口をつぐんだ。
しかし、次の瞬間、彼女の耳に入ってきたのは信じがたい言葉だった。
「摩理勢はどうしている?」
(兄上も、摩理勢の行方をご存知でいる…?)
片岡は堪えきれず、顔を上げて、兄の表情を確かめる。
山背が訊くと、長谷はわざとらしくため息をつく。
「そういう話は」
山背が守るように抱いていた、片岡の肩を掴んで、長谷は自分の方に向き直させる。相変わらず、敵意を露にした、意地悪な目元と口元を、片岡が大きな黒目に捉えたと思ったら、瞬間、強烈な一撃を鳩尾に食らって、片岡の視界は明るさを失い、意識が薄らいで行く。
「何をするっ」
山背の憤りに満ちた呼びかけにも、長谷は全く動じない。
「この姫の聞いていない所でお願いしますよ」
長谷の言葉を最後に、片岡は意識を手放した。




