亀裂
628年秋
大王の後嗣問題は、九月になって、大王の葬礼が終わっても、未だ決着を見ていなかった。
稲をほぼ刈り取られた田の殺風景さに、無為に過ぎた時間を思いながら、入鹿は祖父の墓所に向かう。
父の名で、本日蘇我氏全体に召集がかけられた。大王が身罷られて後、等閑にされている桃原の墓の造営を急ぎたい、ついては、一度みなにお集まり頂き、今後のことについて、ゆるりと話し合いをしたい。使者はそんな口上を入鹿に伝えた。恐らく、他の蘇我の者に対しても、同様であろう。
祖父の桃原の墓は、彼の死から三年を経て未だに完成を見ていないが、今後…のことが、墓の造営なんかでないことは、見え透いている。
毛人があっけなく片付けるつもりだった、田村の擁立は思いの外紛糾し、そのことに、彼は日ごとに苛立ちを募らせている。
山背を強引に推しているのは、摩理勢一人なのだが、蘇我一族の長老の言でもあり、山背自身も蘇我の血を濃く引く王であるので、蘇我の中でも、摩理勢に同調まで行かずとも、毛人を積極的に支持しない者は少なくない。
そういった内訌を、この機に解消したいという狙いの、集いなのだろう。
「永刀」
懐かしい風景の前で、入鹿は駒を止めた。
まだ目的地までは、距離がある。先を進んでいた永刀は、不思議そうに馬首を返して戻ってきた。
「どうされました?」
「少し、寄って行きたいところがある」
昼前には集まれ、と大臣は固く申しつけておいででしたよ。
口をついて出そうになった小言を、ぐっと永刀は堪えた。
言ったところで、聞く耳持つ主でないことは…、長年の経験で重々承知している。
「では…少しだけ」
丘の下の楡の木に馬を繋ぎ、入鹿が慣れた足取りで、草が踏み分けられた道を登っていくのを、永刀は追いかけた。
たとえ、地上でいかに血なまぐさい風が吹こうとも。
(この丘からの景色は変わらない…)
久しぶりにここから、飛鳥を眺めたいと思ったのは、そのことを確かめたかったからかもしれない…。
前回登った時には、丘の上を吹きぬける風を、爽やかに心地よく感じたものだが、秋の風は首をすくめるほど、冷たく、眼下の穂波を靡かせて、過ぎ去って行く。
幼い頃から慣れ親しんだ風景に、入鹿は安堵し、胸に安らぐものを覚えた。
前回、来たのは、祖父の死後まもなくだった。
山背と片岡と、三人で眺めた風景。
(もう、あの面子でここに来ることは、ないかもしれぬ)
山背は頻りに、父の毛人の屋形に使者を送って、大王の遺詔を主張しているらしい。
田村に向けた言葉も、具に聞きたがり、そして最後にはこう言うのだという。
「大王は、我をこそ、次の大王と見做されていた」
(だから、何だって言うんだ、馬鹿)
彼の直情的な暴走に、思わず吹き出しそうになる。
前の大王の言葉なんか、どれほどの重みがある、と――。そんなものが、この国でどれほど、崇められてきたと――?
(こんな)
箱庭みたいな、土地で争ったって仕方ないだろ。
そう言った筈なのに。
大王の代替わりの度に、宮を変え、土地を移り…、いつまでも、そんな犬の縄張り争いしてるんじゃなくて。
百年二百年の風雨に災害に、耐えうる立派な宮殿を作り、その王宮の周囲には、整備された道を作り、家々を並べ、寺を建て、そうして作る定都。
どうせ、君臨するのなら。
それからでも、遅くないと思わないか、山背。
何年かかるかわからないが、成し遂げてみたい。
だから、それまで待ってろ、って。
そこまで、言わなきゃ伝わらなかったか?
ま、言ったところで、あんたなら、俺みたいな青二才が何が出来るって、一笑に付して、終わりだろうけどな。
いくつかの問いかけを、山背に語り、応え(いらえ)を待つように、入鹿はその場に座り、空を眺めた。
秋の空は、抜けるような青さと純度で、入鹿の瞳を惹きつける。
太陽が真上に来たのを合図に、永刀が声を掛けるまで、彼はその場を動かなかった。
その祖父の墓前では、大きな騒ぎになっていた。
摩理勢が現れないのだと、言う。それも、彼は己の庵を壊してから、自分の屋敷に逃げ帰ったらしい。
墓所の造営に携わる蘇我の者が、銘銘作り上げた仮の宿としての草庵。わざわざ壊していくということは、もうここには戻らぬ、この事業には携わらぬという、意思表示に他ならない。
無残な形骸を留めるだけの庵を、皆が取り囲んでいた、その輪の中に入鹿は入っていった。
「今頃何をしにきた」
年若のくせに一番最後にやってきた入鹿に、毛人は厳しい一瞥を向ける。ひとたび、詫びの文句でも入れようものなら、飛び掛ってくる、罵声はとめどなく続きそうで、入鹿は敢えて毛人の問いには答えず、単刀直入に訊いた。
「摩理勢殿は一体…」
いずれ、雌雄を決さなくてはならぬ相手――と、互いが互いを見ていたからであろうか、一族の重鎮の反逆といっていい行為の前に、毛人の態度は、淡々としていた。
昨夜。毛人の豊浦の屋形に、摩理勢を招び、もう一度話をしたのだと言う。蘇我氏全体としての意見をまとめるべく。
しかし、田村を推す毛人の意見に摩理勢は肯んじなかったし、摩理勢の推す山背は、毛人は受け入れられない。
要は、同じ氏族であっても、相容れない敵だというのを、再確認し、決裂を決定的にして、二人は別れた。
摩理勢は逃亡を、謀った。その際にこの桃原墓の庵も、壊していったものらしい。
「それで…摩理勢殿の一族は何処に」
渇ききった喉の奥から、搾り出すような力ない声で、入鹿は尋ねる。
嫌な予感しかしない。彼の想像の通りであってはならぬという、願いをこめて。
「屋形にはおらぬ…。こうなっては蘇我の一門で奴をかばう者はおるまい。お前だったら、何処に身を寄せる?」
毛人は、意地の悪い笑みを湛えて、入鹿を見た。
自邸でなく、親戚筋でもなく…、摩理勢が逃げこめる所…。
「斑鳩…」
先ほどから胸に抱いていた危惧を、入鹿は毛人に誘導されるままに、口にした。
そう、今彼に救いの手を差し伸べるとしたら、山背しかいない。
「確かめてはおらぬが、恐らくそうであろうな」
父の声は何処までも冷静だ。
自分が生まれるずっと前の話。祖父が何度となく話してくれた武勇伝を入鹿は思い出す。
橘豊日の大王、つまり山背の祖父だが――彼の薨去後も、やはり次の御位をめぐって、争いは起きた。
あの時は、祖父馬子と物部守屋の争いだった。馬子が後の泊瀬部大王を推し、守屋は穴穂部皇子を推挙した。
結局、馬子側が勝利し、穴穂部皇子は殺され、物部氏は滅亡。あの二の舞を、またやろうというのか。
しかも、今度は蘇我対蘇我の同族の中で。
もう後がない摩理勢の口車に乗って、山背がこちらに公然と歯向かうようなことがなければいいのだが。
何とか自分が説得できないかと、入鹿の気持ちは斑鳩に向いていた。
だが。
「そなたは勝手に斑鳩に赴いたりするなよ」
毛人は入鹿の心を読みきったように、烈しい語気と視線で彼の次なる行動を制す。
毛人の迫力に二の句の継げないでいる入鹿に、毛人は更にかぶせた。
「まだ斑鳩の情勢もわからぬうちに、のこのこ行ってみろ、殺されるか人質にでもなるのがオチだぞ。屍を晒すのは構わぬが、わしの邪魔になるようなことはするな」
山背が自分に刃を向けるとは思えないが、斑鳩の宮の王といっても、気持ちは一つではない。父の怖れも決して大げさではない。
不本意ながらも、頷かざるを得ない。
「わかりました。父上は、摩理勢をどうされるおつもりで」
「許すつもりはない」
淡々とした言葉と表情が、却って毛人の意志の強さを浮き彫りにする。
血で血を洗う争いは避けられないのだと――。




