後嗣
茶番? 筋書き?
山背は信じられぬ思いで、この従兄弟の顔を見つめた。
批判に満ちた視線を、逸らすことも返すこともせず、彼は更に言葉を続ける。
「そうさ。父が、亡くなる前に大王に願い出たらしい。後嗣を田村と断じて欲しい。そうすれば、群臣たちは自分がまとめる、大王の跡継ぎをめぐって、起こり得る無用の争いは避けられる、と――」
大王の最後の言葉すらも、政略に使おうとする、毛人のあざとさ、悪賢さ。
神の言葉の如くに自分には聞こえた。恐らく、田村も同じであったのではないか。
「どうして、貴様らはそうやって…」
大王の権威と神秘性。これを巧みに最大限利用して、そして、己が目的を果たそうと、する。権力を握るためになら、どんなことでもする。
遺言を利用するなど、これまで蘇我氏がやってきたことに比べれば、序の口なのかもしれない。
「お前は、叔父上を止めなかったのか?」
「ああ。蘇我と斑鳩が争いにならぬのなら、俺はそれでいい」
入鹿はそういうと、冷ややかな眸で笑う。
大王を利用して…と、義憤に震える山背の拳など、些細な力にしかならぬ、と侮るように。
(入鹿、お前、気付いてるか?)
その眸は、お前が軽蔑して嫌いぬく、叔父上と同じだって…。
「だが、それでは何故、大王は私にあんなことを…」
「さあ、途中で気が変わられたのか、他の者に吹き込まれたのか…」
他の者がいるのなら、それは摩理勢以外にはいないだろうが。
入鹿は、言外にそんな響きも匂わせて。
「どちらにしても、今回は退けって」
最終的には、山背に諦めろと迫る。だが、山背にしてみたら、簡単に肯える意見ではない。
「お前が憂いているのは、俺のことじゃない、片岡のことだけだろう。さっさとここから、連れ出しゃいいじゃないか。そうすれば、俺が敵に回ろうが、どうだっていいんだろう」
子どもの頃から。何でも持っていて、何にも執着しない、入鹿のただ一つの弱点が、自分の妹であることを、山背は熟知している。
彼女の名を出すと、入鹿の顔色がさっと変わった。
「出来ることなら、とっくにやってるさ」
入鹿は悔しそうに呟いた。
「なら、すればいいだろう、兄の俺が、認めてるんだ」
「片岡を連れて行くのに、あんたの許可なんか取らないよ」
こんな図々しいセリフを、堂々と言ってのけられる、入鹿の神経の図太さに呆れつつ、山背は訊かずにいられなかった。
「なら、どうして」
「片岡は、俺に守られることなんて、望んでない。もしも、蘇我と斑鳩が争うことになったら、片岡は俺とあんたの間に立って、自分にしか出来ぬことをするんだと」
「……」
山背の目蓋に、片岡の双眸の光が浮かぶ。
まだあどけない、何もわかるまい、と思っていた妹が、そんな風に覚悟を決めた言葉を、入鹿に語っているなんて、思いもしなかった。
「片岡があんたを心配してる以上、俺もあんたを放っておくわけには行かないんだよ」
「何だよ、それ」
いつだって、危なっかしくて脆くて、見ちゃいられないのはお前の方じゃないか。
山背の胸に湧いた反駁を、彼の表情から読み取ったのか、入鹿は形のいい口唇をあげて、皮肉に笑う。
「俺は俺の出来ることをする。あんたの敵には回らない。――味方でも、ないけどね」
切れ長の眸に強い光を宿して、入鹿は身勝手にも思える宣言をすると、くるっと背を向けた。
「待てよ、入鹿、何をするつもりだ」
言いたいことばかり言いやがって。
呼びかけた後ろ姿は、振り向きもせずに、真っ直ぐに回廊を進む。
意味がわからない。何がどうなっているのか。
当事者であるはずの自分を置き去りにして、周囲だけがどんどん動いているような、疎外感を覚えながら、山背は入鹿の背中を見送った。
母屋から出た際に入鹿は足を止めて、建物を振り返った。本降りの雨が冠にも肩にも降り積もる。少しでも濡れぬようにと、足早に厩に駆け込もうとした永刀は、主人の行動に疑問を覚えた。
「大郎君?」
忘れ物でもしたかのような未練ありげな態度。荷物はすべて自分が持っている。漏れはないはずだ。
「何でもない」
頭上の冠からほつれた一筋の髪が、雨に濡れて彼の額に貼り付いている。煩わしそうになで上げると、入鹿は永刀に笑みを向けた。本心を押し隠したような笑顔に、永刀は漸く気づく。
「片岡様をお連れしましょうか?」
「いや、いい」
あっさりと永刀の言を退けて、入鹿は厩舎に向けて足を踏み出す。
片岡は一本気で後に引かない性格だ。上宮と蘇我が争うかもしれぬ事態に陥って、恋人に守られ安穏としたいと願う女じゃない。
百も承知でいるのに。山背にも啖呵を切ったくせに、やはり逡巡してしまうのだ。
少なくとも彼女だけは、安全な場所に置いておきたいと。
山背のあの言動だと、容易には大王位を諦めぬかもしれない。それは、この後嗣問題の複雑化長期化を意味する。
(絶対に上宮と蘇我宗家が全面的に争うような事態にはさせない)
雨に煙る五重の塔の天辺にそびえる相輪に誓って、入鹿は豊浦に急いだ。
◇◇◇
(誤算だった)
舌打ちして、蘇我毛人は顎にたくわえられた髭に手を当てた。
全くもって、想定外の事態だ。口が滑ったのか、情にほだされたのか知らないが、とんでもない置き土産を残して、逝ってくれたものである。
既に、亡くなって三日。小治田宮の南庭では、玉体が安置され、もがりの宮が営まれている。高齢の余り、お子達の方が、先に亡くなり、殯の宮に集っている親族は、もっぱら彼女の孫達ばかりだ。
今、彼の豊浦の屋形では、群臣たちが集い、向後のことを論じている。
向後とは、無論、大王の後嗣について――である。
ほぼ、田村皇子で決まりかかっていたのだ。
大王も納得していただいてたはずだし、本人も群臣たちも、一部を除いては、異議なしという状態であった。
田村の後嗣を揺るがないものにするために、毛人はある密約を、大王と取り交わしていた。
それは、遺言――この場合は、大王の言葉なので、遺詔というが、それを田村皇子にのみ、残して欲しい。そう依頼したのだ。
一方に篤く、一方に冷淡にすることで、大王の遺志が何処にあったか、明確にさせておきたかったのだ。
それで、度々起こる後嗣争いの起こる可能性が、皆無になるわけではないだろうが、ある程度の抑止力にはなったはずだ。
(それを)
腹ただしさに、毛人は奥歯を噛み締めた。
目の前で繰り広げられている百出の議論など、先ほどから彼の耳には、少しも入っていない。
本来なら、こんなのも形式だけの集まりに出来うるはずだったのに。
最後の最後で、大王に裏切られた。言葉は悪いが毛人にはそうとしか、思えない。
あれ程、あれ程言ったのに何故。
(山背にお言葉を与えたのか…)
群臣たちが集まる前に席を立ってしまったが、先ほどまでここには、毛人の叔父の摩理勢がいた。
元々折り合いの良くない叔父と甥である。
今は、毛人が就いている大臣の職掌も、蘇我の族長位も、機会あらば、奪ってやろうと、虎視眈々と狙う叔父と、その魂胆を見抜きつつ、奪われまいと必死な甥。。
一対一で話すこと自体、間違っていたのかもしれない。
最初の第一手から、考え方も目的も違うのだ。
毛人が聞きもしないうちから、機先を制すように、摩理勢は舌鋒鋭く切り出した。。
「俺は、山背王を推す」
彼の意図は、わかりきっていたが、毛人は敢えて訊ねた。
「何故、山背王を?」
「当然だ、厩戸皇子の跡取りで、仏法にも篤い。徳もある。何より、そなたの姉が母ではないか。蘇我腹の皇子だ、彼では駄目だという理由を、寧ろ俺は聞きたいね」
違うだろう。一番の理由は、「俺が山背を推さないから」だろう?
自分に対抗したいだけなのだ。恐らく、毛人が山背を推せば、摩理勢は田村を担ぎ出す。
透けて見える摩理勢の本心を、心の中で嘲笑しながら、毛人は彼の問いに答えた。
「仮に、山背王を、大王に即けるとして――宮は何処に営みます? 斑鳩の地ですか?」
毛人の静かな抗弁に、摩理勢は口をつぐむ。
そう、皇子の血筋が蘇我氏だとかそうでないとか、そんなことには拘らぬ飛鳥の群臣たちも、山背を推挙することに消極的なのは、偏に彼の基盤が斑鳩という、偏狭の地にあるからだ。
飛鳥と斑鳩を結ぶ筋違道は、およそ六里。地の果て…と厭う距離ではない。
しかし、既に飛鳥の地に宮が置かれて30年、すっかり根ざしてしまったこの地を、離れがたく思う者は多いのだ。
もっとも、毛人が彼を大王に相応しくない、と当の昔に見切りをつけたのは、それが理由ではない。
理想家肌で、融通が利かず、愚直な様は、己を曲げて生きることを知らぬように見受ける。
他の氏族と交わりの少ない斑鳩宮で、一生を終えるなら、その性格も生き様もいいだろう。
いや、それが彼の生涯に相応しく思えたからこそ、大王なんて窮屈で面白みもない肩書きからは、逃れさせてやろうと思ったのに。
「山背には、勤まりますまい…」
毛人のふと漏れた呟きに、摩理勢は殊更に反応した。
「そなたがひとり決めにすることでは、あるまい。そう思ったからこそ、大王は山背にも言葉を残したのではないのか?」
白々と嘯く摩理勢に、毛人は冷たい一瞥を向けた。
(よく言うわ)
息も絶え絶え、意識も混濁している大王の枕元に、囁いたに違いないのに。苦々しく思っても、証だてるものは何もない。増して、綸言汗の如し。放たれてしまった遺詔は、覆すことも葬ることも出来ぬのだ。
「お前を愛することは、比類がない、だの、国家のことを勤めよ」などと、山背に告げたせいで、言われた当の本人は、すっかり舞い上がってしまった。
そして、公言して憚らない。
「大王は、我こそを次の大王と目されていた」――と。




