遺詔
628年春三月
斑鳩の山背の元に、小治田宮から使いが来たのは、三月に入ってすぐのことだった。
宮におわす大王が、病に斃れたのは、斑鳩の山背の元にも伝わってきている。
(お会いするのは、これが最後になるやもしれぬ)
そんな予見を、妻の舂米にだけは告げて、彼は飛鳥に随身と共に向かった。
小治田の宮の門前で、田村皇子とすれ違った。
彼も来ていたのか…。
当然のような、不思議なような。
他に誰が召されているのか、訝りつつ、山背は采女の案内のままに、大王の御前に向かった。
近習の栗下女王の他に、大王に近くには采女らが十数人、一斉に山背に視線を向けた。
ただ、一人、大王を除いて。
栗下が山背の来訪を告げると、大王は重たそうな体を支えられながら起こした。
容貌、端麗しと、大后時代は持て囃された美貌も既に衰え、その顔を支える首は、老木のように朽ちていた。
この国で30年の長きに渡って君臨した女帝であっても、老いは避けられず、最期の時が迫っている。
声をあげてしまいたくなる衝動に、山背はこらえながら、手招きに従い、更に傍に寄った。
よく耳を澄ませていないと、聞き取れない、幽かな声で、大王は山背に言葉を投げ掛ける。
「よく来てくれました。朕の命もつきようとしているようです。お前を愛しく思う気持ちは比類がありません。だが、そなたはまだ若い。国家のことは、本気であい勤め、群臣たちの言葉をよく聞いて、従うことです」
かそけき声は、山背の心に沁みていった。
滂沱の涙を流しながら、山背は大王の手を取って頷くのだった。
翌七日に、大王は薨じたと、日本書紀は伝える。宝算75。――諡号推古天皇。
◇◇◇
ザーザーと地面に打ち付ける不快な音に、入鹿は不本意ながらも、目を覚ました。
「…雨か」
半身を起こすと、彼は誰に言うでもなく、不機嫌につぶやいた。
飛ぶ鳥を落とす勢いの、大臣家蘇我宗家嫡男にも、天気ばかりはどうにもならない。
「雨は嫌い?」
彼の呟きに、疑問を投げ掛けたのは、傍らにいた片岡女王。
昨夜も、夜を徹して、睦み合い、やっと明け方まどろんだ二人だった。
「嫌いって…空気重くなるし、外には出られないし、いいことない」
「でも、私には恵みの雨です。これだけ降っていたら、屋形まで帰れないでしょう?」
そう言って片岡が簾をあげると、雨に打たれる前庭が視界に入った。
既に明るくなっていい刻限のはずなのに、空は薄暗く、黒い雲は大量の雨を地面に降り注いでいた。
入鹿には、うんざりするような光景と音だが、片岡の発想は面白かった。
「遣らずの雨か」
「何ですか?それ」
片岡が小首を傾げる。
「雨などにたのまなくとも、片岡が一言帰るなと言えばいいのに」
「そんなはしたない真似…入鹿には、私の気持ちはわからないわ」
まだ、通い婚の時代。男は妻や恋人の家を訪ねるのが一般的だった。夜を待って愛しい女のもとへ行き、朝を待たずに帰る。
尤も、入鹿と片岡の場合。畝傍に居を構える入鹿は、二刻かけて、斑鳩の片岡のもとへ行く。復路も当然同じだけ時間がかかるわけで。
その行き帰りの時間を厭い、何日も斑鳩に逗留することは、珍しくない。しかし、その場合でも、片岡から引き留められたことはなかった。
自然現象なんて、当てにならないものに、儚い願いを繋ぐなら、言えばいいのに、と入鹿は思う。
けれど、
「それなら、俺もここに来た時は、雨になるように願うよ」
打ち明けてしまった思いに恥ずかしそうに俯く片岡が愛しくて。入鹿は背中から彼女を抱きしめた。
片岡の手を取って、額にくちづけようとした瞬間、回廊を急ぎ渡る足音が近づいてきた。
「緋良…?」
片岡が不思議そうに声をあげる。普段、緋良はこんな乱暴な足捌きで、歩くことなど滅多にない。
「片岡さま」
簾の向こうから、呼びかける声もピンと張り詰めていて、火急の事態の訪れを言葉にせずとも物語る。
「どうしました?」
互いの身を離してから、片岡は緋良に尋ねた。
「今、豊浦から使者が…」
緋良が告げるが早いか、もうひとつの足音がこだまして、緋良の横に並ぶと、その人物はこう告げた。
「――大王、薨去。至急豊浦に参れ、と大臣からの火急の知らせにございます」
天地を揺るがす一報に、入鹿はすぐさま立ち上がり、回廊に出ると、ひれ伏していたのは、永刀だった。
そしてその横に、緋良が侍っている。
急ぎ、袍を着こんで腰帯を締めて、刀を腰に差す。身支度を整えてから、入鹿は片岡に向き直った。
「しばらく来れないと思う」
逢えない間の寂しさを、先に埋めておこうとでも言うように、彼女の身体を、入鹿は強く腕に抱いてから、永刀を連れて、片岡の前から去って行った。
「しばらく…ってどれくらいだと思う?」
後に残された片岡は、緋良に聞くともなしに呟く。
「さ、さあ。後嗣問題の決着がつくまで、では…」
大体の事情は、飲み込めているらしい。緋良の答えは、片岡と同じだった。
「それでは…」
片岡は雨雲に覆われた東の空を仰ぐ。
「当分、無理ですね…」
彼の温もりが残る、己が身を、片岡はぎゅっと抱きしめた。
入鹿も兄も、自分に事細かに説明したりはしないが、肌で感じる空気はある。
次の大王は容易に決まらないだろうと、いうこと。
(命を賭けて争うくらいなら)
どちらかが、とっとと譲ればいいのに。
何がそんなに、魅力なのか…と、冷ややかに見てしまうのは、自分が女だからだろうか。
いや、でも、ずっと大王として君臨していた額田部皇女も自分と同じ女性だ。
性の問題ではなく、個人の資質の問題か。
空虚な願いとわかっていても、片岡は祈らずにはいられない。
(何も、起きなければいい…)
回廊を足早に歩を進めていた入鹿は、ふと入り口付近で立ち止まった。
同じく身支度を整え、空の様子を窺っている人物の存在に気づいたからだ。
「山背」
入鹿が名を呼ぶと、山背は目を丸くして呆れた表情を作ってから、苦笑いした。
「お前、ここにいたのか」
蘇我の御曹司が、女と戯れてる場合じゃないだろう。
皮肉めいた口調は相も変わらない。
「今、聞いたんだよ」
入鹿は、照れ隠しにわざと、乱暴に答えた。
大王の病の篤いのは知っていたが、今日明日の命とは思わなかったのだ。
「そうか、お前は暢気でいいな」
「暢気って…」
あんたに言われたくない、言い返そうとして、入鹿は山背の違和感に気づいた。
笑みを押し殺したような、それでいて、重圧に潰されそうな。
素晴らしい宝物の入った行李を手に入れ、背中に負ったはいいが、その重みに耐えかね、歩みが止まってしまったかのような。
「何かあった?」
急がなきゃいけないのはわかっているが、素通りも出来なかった。
「大王から最期のお言葉を頂いた」
山背は先日聞いた、あの言葉を一字一句違えずに入鹿に伝えた。
諳んじてしまうくらい、彼の心に嬉しく、深く、心に刻み付けられた言葉だったのだ。
「それ…」
山背の話の内容に、入鹿の方が言葉を失った。
そんな手はずではなかったはずだ。父から聞いた話では。
「これは、大王が私を跡継ぎに指名したようなものだと思わぬか?」
歓喜に震えた声で、山背の言葉に思いに、冷水を浴びせるように。
「それ…」
入鹿は厳しく詰め寄る。
「誰かに言ったか?」
「ああ。舂米と長谷部には、戻ってすぐに。後、摩理勢にも――」
いちばん、聞きたくない名前だな。父の仇敵の名を聞いて、入鹿は目の前が暗くなっていくのを感じた。舌打してから。
「摩理勢とは組むな」
とにかく、摩理勢と父の権力闘争に、山背を、斑鳩宮を巻き込みたくなくて、入鹿は、つい命令口調になった。
「持ち駒を失えば、あの男も大きなことは出来ない。どうやってあがいても、大勢は決まってる。一か八かの大博打、あんたまで、打ってでることはない」
年下の従兄弟で、妹の恋人。常に、自分を低く見てる山背が、こんな忠告をまともに耳に入れるかどうかなんて、語ってる入鹿が一番良く知っている。
それでも、伝えたかった。
たとえ、彼を怒らせても。
「今さら…それは出来ない」
激昂して詰ってくるかと想像していたら、山背の言葉は思いの外静かで、そして重かった。
「どうして…」
「俺にだって、守りたい意地も誇りもあるんだ。大王からあんな言葉を頂いて、何もしないで、蚊帳の外にいるのは嫌だ」
「同じような言葉は、田村にも仰せのはずだ」
確信ありげな入鹿の言葉に、山背は不審を抱く。
「何故、わかる。お前はあの場にいなかったであろう?」
しかし、入鹿の言葉は山背の予期せぬものだった。
「わかるさ。遺詔なんて茶番は、父が描いた筋書きだからな――」




