新しい命
近頃、毛人の機嫌はとみに悪い。
桃原の地に築いている墓のはかどらないのは、何も摩理勢一人に起因するものでもないらしい。
馬子が亡くなって、毛人が当たり前のように、大臣の象徴である紫冠を受け継ぎ、蘇我の長としても、飛鳥の為政者としても、傲然と振舞っているのが、面白くない者はーー寧ろ、身内である蘇我氏の中に多くいる。
(同族で争っている場合か)
と、腹ただしい思いが、毛人の態度を更に硬化させているし、その不遜なやり口に内部は余計に反発を覚える…。
たった一つの歯車――馬子がこの世からいなくなっただけで、こうまでガタガタになるものかと、改めて存在の大きさを思い知らされる。
そして、もう一つ。
毛人にとっては面白くない事態が起きた。
「宝皇女が懐妊?」
今しがた、父から報告を受けた事柄を、入鹿は鸚鵡返しに呟いた。
「そうらしい。今、四月になるそうだ。生まれるのは年明けじゃな」
ひゅうと、毛人の居室を夏の終わりの風が吹きぬけた。
夏の間中、連日、墓の造営の指揮をしていた毛人は例年になく日に焼け、体つきは少しやつれている。
酷暑の中の重労働というのもあろうが、思いのほか、心労が堪えているのかもしれない。
流石に、そんな父に、殊更に逆らう気はなくて。
「わしは桃原に詰めているので、そなたが代わりに、宝皇女のもとへ、祝いを述べに行ってくれ」
その指示に、入鹿は素直に諾した。
漢の時もそうだった。
だから、自分ではわかってる。病でも何でもないし、時が過ぎれば、自然に癒えるものだと――。
だが、そう自分に言い聞かせてみても、絶えず自分に襲い掛かる吐き気とだるさには、自ら望んだものとは言え、全ての因をこのお腹の中の、未知なる命になすりつけたくなる。
食事も殆ど受け付けず、日がな寝台に寝ている毎日だ。
確か五ヶ月にもなれば、この辛さは治まったはず…。
身を横たえながら、宝は十年前、漢を身ごもっていた頃のことを思い出す。
ただ、あの頃は高向さまが一緒においでになってくださった。
自分が何も食べないなら…と、彼も宝の前では、殆ど食事を摂らなかった。
匂いに敏感になっていた宝は、他人の食事でさえ、吐き気をもよおすこともあったので、高向王の心使いはありがたかったし、胸に沁みた。
この人の子を生むためなら…と、つらい悪阻も耐えられる気がした。
だが。
今、腹の中のややは、高向王の子ではない。
愛の結晶…なんかではなく、自分を手ごまのように扱った毛人や、弟の軽、それに田村への意地の産物…。
自分の元に来た経緯は十分に知っていたのであろう。
初めて、この屋形に新しい夫を迎えた夜。
田村は無理に、宝の心も体も開かせようとしなかった。
「ゆっくり時間を掛けて夫婦になりましょう」
そう言った田村に、宝は言ったのだ。
「お情けを賜りたいのです」
当て付けのような懐妊だから、気も重く、体調も優れないのだろうか。
こみ上げてきた吐き気に、宝は急に身を起こした。
「宝さま」
異変に気づき、宝の身を抱えるように、支えてくれたのは、楓だった。
宝の願いによって、入鹿がこの屋形に連れてきてくれた彼女の乳母である。
五十路を迎えようとする彼女は、変わらず宝の母代わりで、厳しく優しく暖かい。
楓に背をさすって貰うと、楽になり、吐き気はそのまま収まった。
「お辛いですね。せめて何か、お召し上がりになれるものがあれば…」
「そうねえ」
米の匂いもむかむかするし、魚も生臭い。肉は食感が受け付けないし、野菜も癖のある匂いが強いものは無理。
食べられるものなど、本当にわずかしかなかった。
でも、こうして起き上がれるのだから、今は体もお腹の子も、栄養を必要としていないのだろう。
無理に食事を摂るよりも、そう考えた方が宝の体には楽だった。
「…申し上げます」
少し乱暴な足捌きで、嶋の屋形の女官が入ってくる。
元の主馬子の死去以後、この屋形は実質、宝の母、吉備姫王と宝のものになっている。初めは無駄に広く、豪奢な屋形の造りに主従共に戸惑ったものだが、いつしか人間は環境に慣らされていく。
今ではもうすっかり、宝はこの家の女主人となり、田村の想い人として、ここで暮らしている。
「何です」
咎めるように言ったのは、楓だった。
「あの、来客が…。蘇我入鹿様がお見えです」
楓の勢いに怯んだのか、遠慮がちにその若い女官は来訪の目的を告げた。
「貴女、何を言っているの。宝様の様子を見れば、人に逢えるかどうかくらい、わかるでしょう」
門前払いを食わせようとした、楓の言葉を遮って。
「いいえ、お通しして。入鹿殿なら、お話してみたいわ。気が紛れるかもしれないから」
宝はそう答えていた。
良かれ悪しかれ、己が手に、力を握ることを、生きる糧の全てとし。拳に握り締めた権力を、手放したくないから、何があっても、その手を開こうとはしない。
蘇我氏というのは、みな、そうして生きている一族かと思って、いた。
だが、彼は少し違う気がする。
手から、零れ落ちるものがあるのを知りながら、愛する者には、その手を開いて差し伸べてしまう。
蘇我氏らしくないし、彼自身もその氏族の枠の中に、収まる気はさらさらないように見受けられる。
賢しらなのか、愚かなのか、不思議な青年だ。
彼と逢うのは、宝がこの屋形に来た時以来だ。
「田村皇子の情けに縋って子を生みたい」
彼にした宣言を、入鹿は憶えているのだろうか。言葉通りに、懐妊した自分が面映い。
いっそ、忘れていて欲しい。身勝手なことを思っていたら、人の入ってくる気配がした。
「懐妊したとお聞きし、まずはお祝いを申し上げに参りました」
居室と回廊の間の簾越しの、通る張りのある声。
「ありがとうございます」
宝の方は、ここ何日かの絶食と嘔吐のせいで、消え入るような声しか出てこない。
そのかぼそさを不審に思ったのか。
「お体は、大丈夫ですか?」
宝の身を案じる言葉が降ってきた。
「余り、よろしくないのです。ご気分が優れなくて、お食事もままならないのですから」
それでも、逢ってやったんだ、言外にそんな傲慢さを含めて、宝の代わりに楓が答える。
「何か、欲しいものがあれば」
入鹿は何でもないことのように言う。
恐らく、宝の願いがどんなものであれ、それを手にすることは、この若者には造作もないことだろう。
しかし、今の自分には…。贅沢さも珍しさもいらないのだ。
ふと、思い出したのは。漢が、熱を出した時に、高向王が汲んできてくれた湧き水。
あれを飲んだ息子は、翌日には熱が下がり、翌々日には喉の痛みが引き、食事が摂れるようになった。
――無論、子どもゆえ、快復が早かっただけで、全てを水に起因させるつもりはない。
だが、自分も少し分けてもらった、あの水の甘さ。思い出してしまうと、強烈に焦がれている自分に、宝は気づいた。
入鹿は、あの水の在り処を知っているはずだ。
「水を」
宝は、うわごとのように呟いた。
「あの、葛城山の水が飲みたいのですが」
長居は、宝の体に負担になると思ったのであろう。
宝の要求を聞くと、入鹿はすっと立ち上がった。
「わかりました、では明日にでも」
理由も聞かず、詳細も確認せず、承知した旨だけ告げると、入鹿は宝の前を辞した。
そして、次の日、竹筒どころではない量の、湧き水が宝の住まう嶋の屋形に届けられた。
水の注ぎ口のついた、人間の身丈の半分ほどもある大きな樽を、厨の裏手に運びいれ、呆然としている楓に、入鹿は。
「無くなったら、また届けさせますので、お申し付けください」
何でもないことのように言ったという。
どうやって葛城の山から、そんな大きな樽を、ここまで運んできたのか。
今、宝の目の前にもたらされた、金銅製の杯の水は、彼がそうして汲んできたものだ。
手に取り、宝はゆっくり口に含んだ。
いつもの水とまるで違う、味と匂いは、山中の様々な成分を含んで、じっくりと地中から地表に湧き出ているからであろうか。
「入鹿殿は?」
体に力が漲っていくのを感じながら、宝は楓に訊ねた。
「もう、お帰りになりました。お体、ご自愛くださいとのことです」
(礼くらい、言いたかったのに)
十日ほどして、入鹿は再び、宝の元を訪れた。
その時は、大分胸のつかえも収まり、気分も良かったので、直接に対面した。
夏の暑さがぶり返したような、陽射しの強い日だった。もう夕刻も近いというのに、一向に気温は下がらず、宝は汗ばむ肌を不快に感じながら、楓に風を送らせていた。
身ごもってからというもの、体温の調節がうまく自分で出来ない。
少しでも涼しくなれば、指先まで冷えて、いたたまれなくなるし、今日みたいに、真夏を思わせる日には、汗が止まらない。
身重の体の不思議なのだろうか。
目の前に対峙した青年は、暑さも寒さも感じぬような、涼しい顔で座っているというのに。
「今日は暑いですね」
体の至る所から吹き出る水の言い訳のように、宝は切り出した。
「ええ。しかし、飛鳥川のほとりには、もうすすきが風に揺らいでいました。秋も、すぐと思います」
「先日は水をありがとうございました。とても、美味しく頂きました。おかげで、悪阻も漸くおさまり、食事も少しずつですが、摂れるようになりました」
宝が頭を垂れると、入鹿は屈託無く笑って、彼女の行為をやめさせる。
「それは良かった。しかし、お礼には及びません。葛城で高向王と、漢皇子にお会いして参りました」
「どんな様子でございました?」
期待に満ちた、上擦った声で、宝は入鹿に尋ねる。
その身に他の男の種を宿していても、かつての夫は懐かしいらしい。
餌をまいたのは自分だが、食いついてきた宝の正直さを可笑しく思いながら、入鹿は高向王の許に行った日のことを想起していた。
西日になっても、じりじりと太陽の熱が残る、その日も暑い一日だった。
一度は乳母の里に戻っていたようだが、高向は漢と共に、あの葛城の屋形に戻っているという噂を聞いたのだ。
先触れもなく、供も連れず、ふらりと立ち寄った自分に、高向は目を丸くしていたが、きちんと応対してくれた。
「今日はどうされました?」
入鹿に尋ねる高向の横で、漢皇子が父にじゃれつく。
こういった畏まった場が、照れくさいのか慣れていないのか、父に邪険に手を払いのけられても、やめもしない。
(母がいなくともこの親子は仲良しなんだな。
入鹿はその二人の様子を、和やかな気持ちで見つめていた。
「宝皇女の様子をお伝えしようと」
彼女の名を出すと、二人の動きがピタリと止まった。触れてはいけなかったか、と危ぶむほどの緊張感の走り様に、入鹿も思わず次の言葉が出せなくなった。
「彼女は元気に…してますか」
長い沈黙の後で、高向が絞り出すような声で尋ねた。
権力に屈したとしても、彼女を置いていったのは厳然たる事実で、自分に対する慙愧の念は拭えない。資格がないとわかっていながら、消息が気になり、聞かずにはいられない。
彼の苦悩が伝わってくる言葉であり、表情であった。
入鹿は先日の宝の生気のない表情を思い出した。
つわりとは言え、身重の期間の栄養不足や、産後の肥立ちが悪くて、命を落とす例など、貴賎を問わず数多ある。現に入鹿の母がそうだ。
だからこそ、毛人も宝の現状を憂い、入鹿に、何か滋養のつくものを、若しくは本人のお好きなものを、差し上げてくれ、と嶋の屋形に遣わしたのだった。まさか、水が欲しいといわれるとは思わなかったが。
そんな事情を彼らは何も知らぬ。徒に心配をさせたくはないが、まことしやかな嘘をついても仕方ない。
入鹿は、宝の懐妊したことや、現在の状態などをつぶさに語った。
宝の懐妊と体調の不良を告げると、思い当たる節があるような顔をした。
「そういえば、漢のときもひどかった…。けれど、田村皇子との間は良好のようですね」
彼をこの手に抱くまでの、宝の苦しみを想起したのか、高向は宝物みたいに、漢を抱きしめた。そしてやおら立ち上がると、入鹿の前に丁寧に折りたたまれた布を差し出す。
「嶋屋形にいるのだから、何ひとつ不自由はしていないでしょうが…。これを宝に渡して頂けますか?」
漢が使っていた産着だと聞かされて、入鹿は驚いた。赤子とはこんなに小さな布切れに包まれるほど、小さなものなのか。
「健やかなお子をお生みになられるよう、祈っております、ともお伝えください」
高向の言葉は穏やかだが、別れた妻への愛情が惜しみなくさらけ出されている。断ち切った絆の断面を見せつけられているかのようで、入鹿の胸が軋んだ。
「これが高向王からお預かりしたものです」
入鹿が宝の前に麻の産着を差し出すと、宝の瞳から幾筋もの涙が頬を伝って流れていた。
入鹿にそれを気付かれたと悟った宝は、慌てて袖で涙を拭う。
「入鹿殿にお願いがあります」
「何でしょう」
「この子が生まれたら…、葛城で漢と共に育てては頂けませんか?」
高貴な者の子は、大抵が乳母や母方の実家に預けられ、己が手元では育てられない。それなら、漢と共に育って欲しい。この子のことに託けて、漢の様子も垣間聞けたりするだろう。
年が明けて、宝は田村との間に、無事皇子を生み落とした。
この皇子は、宝が望む葛城の地で、葛城皇子と呼ばれ、成育されることになる――。




