嵐の予兆
丘の上に立つと、爽やかな風が吹きぬけ、周囲を山に囲まれた飛鳥盆地のうだるような暑さからも、しばし解放された。
「素晴らしい眺めだな」
眼下に望むその景色に、目を奪われながら、山背王は驚嘆の声を上げる。その大げさな態度に、入鹿は首をかしげた。
「来たことなかったっけ」
「ないよ。お前ら二人の秘密の場所だろ。斑鳩に行きたくない、飛鳥に残りたい~って」
山背がからかうと、片岡が顔を赤らめて俯いた。斑鳩に移る日の朝、ここに身を隠した時のことがまざまざと蘇る。
もう八年も前になるのだ。幼さ故にしでかした無謀で一途な冒険を片岡は悔いてはいないが、彼と彼女を取り巻く事情は、余りに変化している。父も、祖父ももういなくなってしまった。
「今、片岡が同じこと言ったら、俺は斑鳩には絶対帰さないけどね」
山背のからかいを、冗談めかして受けて、入鹿は片岡の手を取った。山背に気付かれぬようこっそりと背後で結ばれた割に、握る力は強い。
(帰るな、って言われてるみたい…)
片岡は困惑しながら、入鹿の横顔を見上げた。兄とのやりとりはまだ続いてる。白皙の美貌を崩した笑顔からは、何も読み取れない。
傍にいたい、離れたくない。片岡とて入鹿と同じだ。慕情は、幼かったあの頃よりも、ずっと強くなってる。
成人した今の入鹿なら、片岡ひとりを傍に置くことくらい可能だろう。けれど、毛人は叱責し、大王は眉を顰め、他の群臣たちのやっかみと中傷の的になるかもしれない。元々大手を振って、認められる恋じゃない。
(それに…)
片岡は兄の山背の方に視線を移す。
『もしも、蘇我と斑鳩で争いになったら…片岡はどうする?』
先日聞いた入鹿の言葉が、片岡の胸に張り付いてしまってる。片岡を飛鳥に引っ張ってしまえば、片岡が恋人と兄の板挟みになって苦しむのを、緩和出来る。そんなことまで、入鹿は考えてやしないかと、片岡もつい先を先を読んでしまう。
大人になったら、恋を貫けて、何の憂いも無くなると思ってた、思いたかった。実際は却って柵が増えた。自分も入鹿も、己の立場に縛られて自由に動けないことがままある。
同じ祖父を持つ従兄弟同士なのに、上宮王家か蘇我家かというだけで、川の彼岸と此岸くらい見える景色が違う。
けれど、この手を離すことだけは出来ないのだ。
入鹿の手を片岡もぎゅっと握り返した。
◇◇◇
昼頃に飛鳥を出たのに、斑鳩についた頃には早、日が落ちかけていた。走らせる馬の速度にも拠るのだろうが、こんな距離をあいつはよく女ひとりのために通ってくるものだ。
祖父馬子の殯を終え、斑鳩に戻った山背は、眼前に広がった見慣れた光景に安堵の溜息を漏らす。
夕映えに煙る五重塔を横切って、雁が一啼きし、渡っていった。
季節外れの、列に連ならない一羽だけの雁。
まるで自分の姿のように思えて、山背は雁の消えていった空の彼方をながめていた。鳥の声に驚いたのか、馬上の片岡は、ゆらゆらさせていた首をハッと持ち上げて、背後の山背を振り返る。
「起きたか? 丁度、起こそうと思っていたところだ。――斑鳩に着いたぞ」
兄の馬の背に揺られ、まどろんでいた片岡は、気恥ずかしそうに辺りを見渡した。
「帰ってきて良かったのか?」
山背は片岡に尋ねる。
飛鳥に。入鹿の元に、残るのかと思った。事実、入鹿はそれを希望していたように見受けられたし。
が、片岡は兄の疑問を、却って不思議そうに。
「何故ですか? 私の帰る場所はここにしかありません」
迷い無く言って、馬から降りた。
「そうか」
山背の質問の意図さえ理解していないような、片岡の態度に、山背は安堵する。
(蘇我と斑鳩の微妙な争いになど片岡は巻き込みたくない)
性格も立場も物の考え方もまるで違う山背と入鹿だが、その一事に於いてだけは、ふたりの思いは一致してるのだ。
「飛鳥はいかがでしたか」
自邸で寛いでいた山背に舂米が声を掛け、燭台に灯りをともした。。
見ると、難波・弓削の二人の皇子、それに長谷も後ろに従えている。
二人の息子を自分の膝の上に抱き寄せて。
「ああ。改めて嶋大臣殿の偉大さを思い知ったよ」
山背は思いとは裏腹な、当たり障りのない返事をした。
「あそこが、今祖父の墓を作っている桃原の地」
丘の上から入鹿は、飛鳥川の流れに挟まれた地を指さした。あそこに馬子の眠る墓が今、築かれようとしているのだという。
ここからでも、その夥しい数の工人が動く様子や、切り出された石が、運ばれる様子が見える。
「叔父上が、指揮しておられるんだっけ」
「ああ。だけど、…決裂は時間の問題かな」
事ある毎に、毛人と、馬子の弟の摩理勢は対立しているという。
理由など別に大したことではなく、どちらのやり方が手際がいいの悪いのと、取るに足らないことなのだが。
長年積み重ねられてきた悪感情、それに、己こそが蘇我の長たる者だという自負心が、どちらにも、言葉の矛を容易に収めさせようとはしない。しかも、二人の仲介をしてきた馬子が、もういないのだ。
それまで和やかだった顔つきを、急に硬くして、入鹿は山背に忠告する。
「お前、あんまり摩理勢に近づくな」
「俺から近づいているわけじゃない。時候の挨拶だ、機嫌伺いだと、足しげくやってくるのは向こうの方さ」
「わかってるのか?」
山背の鷹揚な態度に焦れたように、入鹿は言葉を重ねた。
「わかってるつもりだよ」
今の大王に何かあれば、きっと毛人は古人の父、田村を次の大王に…と担ぎ出す。そうなれば、摩理勢は山背こそを…と主張するのだろう。摩理勢が山背に擦り寄るのは、そうした打算あってのことだ。
蘇我同士で争う愚を避けたいとする入鹿の意図も、摩理勢の目論見もわかっていないわけじゃない。
しかし、厩戸皇子の長子。蘇我馬子の孫。
これは、どうあがいたって、消しえない事実で、山背の中にその血が流れている限り、斑鳩に安穏と暮らしたい、などという理想は、夢想に近いのだ。
たとえ、摩理勢を払っても、第二第三の摩理勢は、きっと彼の前に現れる。それに、彼自身も執着がないではない。父の即けなかった御位に上り詰めることに。
そんな自分を父は愚かしいと哂うのだろうか。
「争わずに帝位に即けるものなら、なってはみたいがな」
山背が本音をぽつりとこぼすと、入鹿は「理想論だよ」と鼻で笑う。
「こんな箱庭みたいな土地の中でさ。誰が一番だ二番だって、争ってること自体、おかしいだろ」
人より一段高いところから、景色を見下ろしているーーそれだけで、この地を統べる神にでもなったつもりか。
山背がそう揶揄したくなるほど、不遜な入鹿の言葉だった。
まだ二十歳にもならぬ、出仕もしない身のくせに。思い上がりに気づかせようと、山背はあえて、彼の言葉に乗ってみる。
「じゃあ、どうしろと」
明確な未来像を引き結ばない、拙い夢想を、その時こそ、笑ってやればいい。
「厩戸皇子がよく仰ってなかったか?」
条理にひかれた都大路。その最奥に築かれた宮殿。大王の命を全ての国の民に行き渡らせるために作られた法。日頃黙しがちな入鹿が雄弁に語るのは、かつて山背も父から散々聞かされた、異国の国の在り方だった。
「それでは、唐の国の模倣ではないか」
「初めはそれでいいじゃないか。どうせ、作り上げていく上で、修正は必要になる。この国独自の」
「お前の方が理想論だよ」
得々と語り出した入鹿を、今度は山背がぶっと笑った。
「大体、箱庭だって今自分で言ったじゃないか。そんな立派な都を造るには――」」
そして、入鹿の言葉の矛盾を指摘する。
「飛鳥の地は狭すぎる――だろ?」
「わかってるんだ」
「そりゃね」
肩をすくめて笑って、入鹿は再び丘陵の下に広がる景色を見下ろした。けれど、何処かに思いを馳せたような遠い遠い目線。正直、入鹿が何を思って何処を見てるのか、山背には掴めなかった。
本来ならば他愛無いはずの従兄弟との会話を振り返り、山背は我知らず難しい表情になっていたらしい。押し黙ったまま、眉間に皺を寄せた夫に、舂米は不穏なものを感じたのか、心配そうに彼の顔を覗き込む。
「いかがされました?」
「いや、…疲れが出ただけだ」
蘇我家の内部も、王家も。
嵐を予感させる風が吹き渡っていた。そんなことは言えない。
「片岡殿までお連れになって、お優しいですこと」
「そなたも行きたかったのか?」
舂米が責めているのはそこではないと、わかっていながら、山背はわざと、とぼけた。
「いいえ。私は、斑鳩の地から出たくはありません。増して、蘇我の本拠の地など、絶対に嫌です」
ここは父が張り巡らした結界みたいなものだからな。
権力闘争から逃れ、大王の後嗣争いから逃れ、仏法に安らぎと光を見出した、父の安住の地。
それでも、曲がりなりにも上宮王家などと称され、一定の地位を保っていられたのは、父が聖なる太子などと呼ばれるほど、超越した存在であったからだ。大王や大臣といったはっきりした地位につかずとも、額田部の大王からも嶋大臣からも、一目置かれていたのは、篤い仏教への思いと知識、それに俗っぽさの欠片も無い無欲さからであっただろうか。
(しかし)
自分は、そんな風には生きられない。父のように大きな器でもないだろう。
群れからはぐれて、ひとり空を行くのか、仲間を探すのか。
先ほど見たあの雁は、何処へ行ったのだろう。
「片岡はどうしたのです」
長谷がふいに、山背に尋ねる。
「先ほど共に帰ってきた」
「戻ってこなくていいのに」
忌々しげな長谷の呟きに、山背は眉を上げた。
「どういう意味だ」
「入鹿はどうして、片岡に執着するんです。不思議に思われないのですか、兄上」
「思わない」
山背のまるで迷いのない返答に、長谷は些か小ばかにしたように、ふっと鼻で笑ってから、彼自身の疑念を吐露した。
「まるで片岡を使って、この宮を探っているようで不快なのは、私だけではないと思うのですが」
「……」
彼の言葉に、初めて気づく。そういう見方も、あったのか、と。
「蘇我は――宗家は特に、我等を必要としていないと思うのですが」
「入鹿はそんなことはない。昔からの幼馴染だし、それに入鹿は決して、私を裏切るようなことはしないはずだ」
山背がそう信じられるのは、ずっと幼い頃より、彼を見てきたからで。殆ど入鹿との接点がない長谷にとってみれば、その言葉を鵜呑みに出来ないだろうとはわかってるが。
「兄上は人が良すぎます」
長谷は口元に酷薄な笑みを浮かべて、山背を見た。
何を言っても、無駄だ――と、互いに諦めたような空気が漂う中を、長谷は立ち上がった。
「私は私で、この宮を守りますよ。元々、ここは我等のものですから」
嵐の到来を訪れる風は、飛鳥だけに吹いているのではなかったのか。
長谷の背中を見送りながら、山背はごくんと生唾を飲み込んだ。
舂米…山背の異母妹で今は妻でもあります。
長谷…舂米の同母弟。12話以来の登場




