祖父の死
馬子の病が篤くなったのは、宝皇女が嶋の館に移ってしばらくして後のことだった。
食欲が落ち、憔悴していくのを最初は、本人も周囲も暑気あたり程度にしか思っていなかったのだが、夏も本番になると、いよいよ床も上がらなくなった。
「いよいよわしも長くないのう…」
皐月に入って5度目。足繁く通うようになった孫に、馬子は力のない笑みを向けた。永刀の母が教えてくれた滋養のつく薬草を携えて訪れた入鹿は馬子の弱気な言葉を退ける。
「宝皇女に何くれと頼まれてるものもあります。そのついでに、立ち寄ってるだけですよ」
「そうか? 先日などは山背がわざわざ斑鳩から出向いて来たくらいだ」
「山背が? 出不精な山背にしては、珍しい」
確かに珍事だ。入鹿が眉を上げると、祖父は諦観を皺だらけの顔に滲ませた。
「そうであろう? 見舞いの客がひっきりなしに訪れては、覚悟も決まるわ」
「勝手に的はずれな覚悟など、なさらないでください。お祖父様はまだ、蘇我にもこの国にも必要な人です」
手ずから煎じた薬湯を馬子の前に差し出すと、馬子は顔をしかめる。小ぶりの椀に満たされたそれを、馬子は一息に飲み干してから、大きく息をついた。
「年をとると、視野が狭くなっていかんのう…。国のことよりも、今は蘇我の事のほうが気がかりじゃ。摩理勢と毛人。そなたと山背と古人…」
「ですから」
と入鹿は気弱な祖父を叱責したいようなもどかしさに襲われた。長さも太さもまるで違う薪のような蘇我の面々だ。馬子のような頑丈な縄でなければ束ねられぬ。
「頼むぞ、入鹿…」
指も甲も、すっかり肉が落ちて頼りなくなった手で、馬子は入鹿の手を掴む。自分が掌握してるものを、まとめて孫に移そうとしてるかのように、長く強く握りしめられた。最後の力を振り絞っている姿に、落ちそうな涙を入鹿は必死に堪えた。
祖父と言葉を交わしたのは、それが最後になった。
数日ののち、嶋大臣と称され、この国に絶大な権力を誇った蘇我馬子がこの世を去った。
この国に仏法の礎を築き、長年の政敵であった物部氏を滅亡させ、大王の刹逆まで犯した、豪胆で、それでいて懐の深さもあった稀有な政治家。
76歳という高齢は、大往生ではあるのだが、入鹿は思わずにいられない。
(せめて次の大王が決まるまでは、生きていて欲しかった)
現に今も、馬子の亡骸の横で、毛人と摩理勢が侃々諤々の議論をしてる。殯の際、死者を弔わんための言葉を、氏族の代表が述べる。しのびごとと言うのだが、それをどちらが言うか、さっきから両者とも譲らない。
馬子の殯には大王も他の氏族も来るだろう。数多の列席者の中で、氏族を代表したしのびごとを言うとなれば、その者が蘇我の次の族長と誰もが一目置く。それをわかっているから、毛人も摩理勢も躍起になっているのだ。誰かが諍いを止めるべきなのだが、馬子の嫡子の毛人か、馬子の弟で年長者の摩理勢か、どちらに肩入れしていいかわからず、毛人の他の兄弟達もみな、おろおろと見守るだけ。
そんな中。
「もうおやめになったらどうですか」
毛人と摩理勢の不毛の言い争いに、凛と割って入った声があった。
「長幼の序、といいます。ここは、摩理勢殿に執り行っていただくのがいいのでは」
空気を読まぬ正論を、堂々とぶちかましたのは山背だった。山背にとっても馬子は祖父だ。訃報に斑鳩からう馬を飛ばして駆けつけ、亡骸の横に跪き、ぽとりと涙を落とす姿を入鹿が見たのは、つい先ほどのことだ。故人の傍らで繰り広げられる口論に嫌気がさしたのだろう。そして、それは山背以外の者達にも共通してはいたが、みな毛人と摩理勢の怒りを恐れて言えなかったのだ。
「ば…」
かか、あんたは。いつもの調子で口走りそうになって、入鹿は慌てて口を手で覆う。流石にこの場で年上の身分高い従兄弟をバカ呼ばわりはまずい。
飲み込んだ言葉をため息に変えて、入鹿は大きく吐き出した。わざわざ火中の栗を拾いに行くようなことをしなくてもいいのに。
一方を立てれば、一方の憎しみを買う。現に摩理勢はほくほく顔だが、毛人は普段から狷介な顔つきが更に厳しくなった。甥というより敵を見る眼差しになってる。無論、毛人だって大人だ。結局山背の意見を取り入れて、毛人が一歩譲る形になって、この夜の騒動は決着した。だが、しのびごとひとつでこの有り様だ。これから先が思いやられる…と暗澹たる思いに駆られたのは、入鹿のみではないだろう。
騒々しい母屋を抜け出し、祖父の自慢の庭の池の辺りに、入鹿はしゃがみこんで祖父を偲ぶ。なみなみと水を湛えた池面には、今宵は月は映らず、代わりに今にも泣き出しそうな己の顔が浮かんでいた。
『頼むぞ、入鹿…』
祖父の遺言が、入鹿の胸にずしんと重く伸し掛かった。頼むと言われたって、父と大叔父の間の諍いすら諌められず、山背に要らぬ喧嘩売らせて、その場にいたのにじりじりと事の成り行きを見守っていただけ。
(こんなんじゃ、俺だめだめだろ…)
自嘲が夏の夜に溶けて行く。
「入鹿…?」
後ろから声を掛けられて、膝に埋めてた顔を上げると、水面には入鹿の様子を膝を曲げて窺う片岡の姿が映っていた。幻かと疑いながら、振り返る。
「…来てたの?」
山背と共には来ていなかった恋人の姿を認めただけで、落ちてた心が少しだけ軽くなる。
「ええ」
財王、と。片岡は山背より年少の別の兄の名を挙げる。
「そうか…」
納得して頷くと、入鹿は立ち上がって片岡の肩に顔を埋めた。薄衣に覆われた細い肩が入鹿の重みで沈む。
「い、入鹿…?」
「ちょっとだけ、こうさせて」
いきなりの接触に片岡は両腕を上下にあわあわと振る。抱き締められるのは、慣れてるけれど、こんな風に抱きつかれるのは…珍しい、というか初めてかもしれない。押しのけるべきか、抱き寄せるべきか迷って、結局おずおずと背中に手を回した。
「…泣いてます?」
「泣いてないよ」
くすっと笑いの交じる声は、確かに強がりではなさそうだ。けれど、馬子という理解者を失って、生じた不安は、同じ祖父を亡くしたと言っても、片岡よりも大きいのかもしれない。
脆く繊細な部分を露わにした、次の彼の言葉に、片岡の身体も心も強張った。
「もしも、蘇我と斑鳩で争いになったら…片岡はどうする?」
「……」
さっきまで、問い掛けられた謎は、余りに緊迫した内容で。
なのに、それを囁く入鹿の声は、睦言のように甘く、そして表情は優しい。矛盾に満ちた入鹿の態度に戸惑いながら。
「仮定の話は嫌いです。でも…」
片岡は途中で言葉を止めて、小さく息をついた。
蘇我と斑鳩の争い…。考えたくないことだけれど、身内故にありえない、と楽観しているのは、兄だけなのかもしれない。
もしも…なんて、いるかいないかわからない、青龍を捕まえに行くような、荒唐無稽な話ではなく、一つ先の山にかかった雨雲を見つけて、先に進むか立ち止まるか迷うような、確実な未来を憂いている話ではないの?
それなら、はぐらかしたりしたくない。
「仮定とも予見とも、区別のつかないところまで、話が来ているのなら、兄と入鹿の間に立って、私にしか出来ぬことを探します」
凄く慎重に考えて、凄く言葉を選んで、そう言うと、入鹿は目を細めてふわっと笑う。
「片岡らしいね」
ぷつりと片岡の中で何かが弾けた。
「もうっ。こっちは真剣に憂いたのに」
生じた怒りを拳に乗せて、入鹿の胸板を叩こうとすると、入鹿は苦笑いしながら彼女の拳を手で受け止める。
「ごめん。試すようなこと聞いて」
「卑怯です、あんな問いかけ」
「うん、わかってる」
宥めるように拳を開かれて、指を絡められても、まだ怒りも不安も収まらない。
「そんなことになるの?」
兄と入鹿が争う事態。無理やりさせられた最悪の想像を、否定して欲しくて、片岡は入鹿の瞳を見つめる。
「ならない、って断言は出来ないけど…俺も山背とは争いたくないから」
一陣の風が漣を立てて、水面のふたりの影を揺らした。繋がる手の温もりは確かに感じるのに、実態のない影のゆらめきにどうして心が落ち着かなくなるのだろう。庭を飛ぶ蛍が、祖父の魂のように片岡には見えた。




