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炎―かぎろひ―  作者: 紗夏
第2章 見えない楔
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宝皇女(後)

 通された屋敷を、入鹿は隅々まで眺めた。

 元々、最低限のものしかない家ではあったけれど、今は置かれたものの少なさ以上に、家全体の空気が澱んでいる。

 床も磨かれていないし、柱の隅には埃が溜まっている。荒んだ屋形の様子は、そのまま宝の心の中を映しているようだ。強い陽射しは軒を越えて、室内にも入り込む。乾き切った空気。雲ひとつない空。

「今日は、雨降りそうもないですね」

 先年訪れた時のことを思い出して、入鹿は彼女に話しかける。蘇我の者だと思うだけで気詰まりなのか、宝は俯いたまま、か細い声で答えた。

「ええ、降らぬでしょうね」

「貴女に太鼓判を押して頂けるなら、安心して帰れます」

「天気など読めても、女は少し先の自分の行く末すら、見通せないか弱いものですね」

 毛人と田村に翻弄された己が身の上を、宝は愚痴った。少なくとも、前回訪れた時の宝は、こんな鬱鬱とした愚痴を、それと知りつつ零すような女ではなかった。彼女の変貌に責任の一端を感じながらも、入鹿は更に残酷なことを問いかける。

「高向王と漢王はどうされました?」

 出て行ったことはわかるのだが、落ち着いた先を知りたかった。宝は触れて欲しくなさそうに、憮然とした面持ちで答えた。

「乳母のいる高向の里ですわ。(アヤも連れて」

「貴女はここで、これからどうされるんですか」

 非難されていると思ったのか、カッと宝の眸が怒りに燃えて見開いた。

「入鹿殿には関係ありません」

 怒りを向けられるのは当然だ。平和な暮らし。暖かな家族、宝から奪ったのは入鹿の父だ。

 蘇我の者だと言うだけで、彼女にとっては目も合わせたくない存在なのかもしれないが、入鹿だってこんな事態を望んでいたわけではない。

「いっそ、共にお逃げになれば良かったのに」

「何を…言って」

「逃げるのなら、手を。死をもって、父に抗議するというなら、刀は貸しますよ」

 冗談ではないという証に、脇に置いていた佩刀を鞘ごと、宝の前に差し出した。



 入鹿の言葉に、宝は彼を穴が開くほど見つめた。涼しげな目元も口元も、柔和な笑みを湛えていて、とても先ほどのような乱暴な意見を述べるのに、相応しくない。

 だが、その冷静さが、却って本気のような気もするのだ。

「ご自分の仰ってること、わかっておいでなの? 貴方は毛人殿の名代で来ているのでは、ないの?」

 狐にでもつままれた思いで、宝は入鹿を問い質す。

「名代…。でも、父と同じ思いで来ているわけでもないし。ずっと、ここにいて逃れ続けることが出来るとも思えないから、やっぱり選択肢は先ほどのどちらかしかない」

 入鹿は淡々と、宝の疑問に答える。

 逃亡か死かーー。

 誰にどう咎められても構わない。この屋形から姿を消して、夫と子の元へ奔るか。

 絶対にどうあっても嫌だという、自分の意思を強く表現した上での死を選ぶか。

 毛人や田村、そして弟の軽までもが彼女の気持ちを無視して、事を運ぼうとする。その反発心から居直っていた自分。

 何処まで意地を通せるか。根競べをしていたに過ぎないのかもしれない。

 一皮剥いて、彼女の希望を、入鹿のように改めて問われると、建設的な考えも、貫き通したい思いもないのだ。

「そして、そのどちらの覚悟もないのなら、おとなしく命に従えーーつまり、貴方が言いたいのはそこね」

 悔しさを滲ませて、宝は入鹿の刀を押し返した。

「覚悟、ないんですか?」

 寧ろ、残念がる響きで入鹿は言うと、何事もなかったかのように、先ほどの位置に佩刀を戻す。

「ないことに、気付かせたのは貴方じゃない」

 夫と息子。彼女の人生の全てで、必死に守ってきたはずのものは、呆気無く彼女の元を去った。先ほどの入鹿の言葉を、宝は夫の高向から言って欲しかった。


「もう…いいです。私、田村皇子の妃になります。但し、一つだけ条件があります」




 ◇◇◇


 「新しい夫を迎えるための、新しい屋形――を」

 宝の出した条件がこれだった。

 夫と息子の思い出の沢山つまった、この屋形からは離れたい。

 そんな彼女の感傷と、精一杯の皮肉のこめられたこの要求。

 毛人は、更に皮肉に応酬した。


 待ってました、の素早さで、彼女の母の、吉備姫王きびひめおおきみまで、引っ張ってきて、嶋の屋形の一棟を、丸ごとさあどうぞ、と宝に提供したのだ。


(何もそんなことは望んでいない)

 宝の呆然とした戸惑いも、きっと織り込み済みの措置であっただろう。

 えげつないというべきか、敏腕と誉めそやすべきか。飛鳥の官人は、蘇我毛人の目的のためには手段も周囲の批評も、歯牙にもかけぬやり方に、感嘆もしたし、恐懼もした。


 ともあれこれで、蘇我馬子の屋形に居する宝皇女。

 彼女の元を訪れる、田村皇子。

 二人ながら、蘇我の手中に収めたも同然だった。



「何かご入用なものはありますか?」

 宝を屋形に案内しながら、入鹿は訊ねた。幼い頃散々出入りした嶋の屋形は、入鹿には馴染みだが、宝には物珍しいらしい。言葉は殆ど発しないが、目だけはせわしなくあちこちに注がれている。


 頑なな態度だった宝を軟化させ、田村との婚姻を承諾させたことで、毛人は珍しく入鹿を誉めそやした。毛人の目論見を粉砕してみせたら、少しは鼻が明かせるだろうかと、宝皇女を揺さぶってみたのに、却って宝に新しい道を歩ませる一歩のための背中を押す結果になってしまったのだから、毛人の珍しい褒め言葉も、入鹿には全く嬉しくない。

 

 入鹿の後に続いて、部屋に入った宝は、その豪華さに目を剥きながら。

「いいえ」

 繕った冷静さで、首を振った。

「もし、何かありましたら、父か私に…」

 入鹿が言うと、宝は敵意を露に。

「毛人殿の顔など、見たくありません。まだ、子息の貴方の方がまし」

 吐き捨てるように言う。

「では、私に」

 頷いた入鹿の顔を、宝はじっと見つめた。

 好意でも敵意でもなく、何か珍しい動物でも見るような、好奇に満ちた視線に入鹿は戸惑う。

「何か」

「貴方の恋人は、斑鳩宮の姫なんですってね。父の反対を押し切って手に入れた、幼馴染の姫だとか」

「よくご存知で」

 少し照れながら、入鹿は笑う。

「だから、あんなことが言えたのね。もしも、私が、高向さまの元に奔っても、死を選んでも、貴方自身は困らない」

 鋭い目つきと口調になって、宝皇女は断定的に語る。

「まだ出仕もしてない私に、そんな先のことまで、読んで動く力はないですよ。話がぶち壊しになっても構わない、と思っていたのは事実ですが」

「それはどうして?」

「貴女と同じじゃないですか。――父のやり方は気に入らない。表立って逆らえないから、貴女をたきつけてみただけです」

 語ってる内容は激しいのに、相も変わらず、感情を乗せない声で、入鹿は飄々と語る。

 掴めない男だ…と宝は、その秀麗な眉目を見上げた。

 でも、父の毛人よりは、信頼できる気がする。

 いや、信頼などしなくてもいい。ただ、毛人に一矢報いたい。その一点においては彼と自分の利害は一致する。


「何か入用なものは…と、おっしゃいましたね」

「ええ」

「暇を出してしまった乳母が、あの葛城の屋形の近くにおります。楓といいますの。その者を、召し使っても構わないかしら」

「どうぞ」

「それと。上等の平絹の衣と、真新しい裳を用意してくださる?」

 無論、入鹿は否は言わない。二つ返事で承諾した彼の声に被せるように。

「私は、田村皇子の情けに縋って、子を生みたいと思っています」

 思いもよらぬあからさまな宣言に、何も構えずに聞いてしまった入鹿の方が、顔を赤くした。

「何故、それを私に…?」

「決意表明は、何方かが聞いてくれないと、面白くないわ」

 袖で顔を隠して、宝は優雅に笑った。

「高向王のことは、もういいんですか?」

 自分の元を去っていった男の名を出され、宝の眉が歪んだ。

 無理やり引き裂いておきながら。毛人は、田村の新しい妃は、飾り物でよい、と身内にはこっそり語っていると言う。二人の間に情も要らぬ、子も要らぬーーと。

 それなら、木偶でも置いておけばいいじゃないか。

「女が守りたいのが、恋とは限らないわ、入鹿殿」

 宝の声は雨上がりの空のように晴れやかだった。


この話、嘘ばっかり…なんですが、数少ない史実。嶋の屋形が、後に宝と彼女の母のものだったのは、史実ホントウです。事情や経緯までは知りませんが。

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