宝皇女(前)
625年夏
この間、咲いたと思った桜が、もう葉桜になって、川岸の向こうに揺れている。
父の屋形に赴くのは、片岡のことで「別れろ」「別れない」、売り言葉に買い言葉の喧嘩をして以来だが…。
(足が重いのは、いつものことか)
むしろ、さばさばした気持ちで、入鹿は屋形の門をくぐった。
この間の話を蒸し返すのかと思っていたら、毛人は全く違う話を切り出した。
割と機嫌良く、珍しく入鹿に柔和な顔を向けながら。
「宝皇女の元に、これを届けて欲しい」
そう言った、彼の横に積まれた、絹や反物。そして、魚の醤漬けや、米といった食料。
「何故宝皇女のもとに?」
「田村皇子の婚姻が決まった。まあ、簡単に言えば、祝いの品じゃ」
「決まったんですか?」
嶋屋形で、馬子に聞いた話を思い出す。あの時は、まだ画策している…という事であったはずだが。
「あと一押し…という所かな。高向王には快諾して頂いたが、肝心の宝皇女がな」
「仲睦まじいご家族だったものを引き裂いてまで…。そうまでして、宝皇女にこだわる意味がわかりませんが」
入鹿の口調は、自然葛城山で逢った、不思議な夫婦に同情的になっていた。
快諾と毛人は言うが、怪我をしたからと馬に乗せて、入鹿に手綱を引かせるのでさえ、遠慮がちにしていた高向王のことだ。蘇我の名で、妻を別の男に…などと請われて、拒絶出来るはずがない。
「そうか? 古人に話を聞いた時に、これはうってつけの人材がいたものだと、手を打ったがな。蘇我氏とは、確かに余り縁がないが、年齢も三十路にさしかかるところ、田村皇子とは丁度よい年回りだし、神がかった能力の持ち主だというのも、祭祀の統治者として、素晴らしいではないか」
古人はどうやら、葛城山でのことを、具に毛人に話したようだ。雨の匂いがわかると言って、驟雨の予想を見事に的中してみせた宝皇女は、確かに神秘的な女性だった。
「だからといって、他人の妻だった女性。しかも、子を生むには、もっと若い方の方が…」
「そこが、いいのではないか」
毛人は入鹿の言葉を撥ね付けた。
「わしが欲しいのは田村と宝の間の、跡継ぎなどではない。あくまで、大后としての彼女が欲しいだけじゃ、法提の代わりとしてな。夫との仲を無理やり引き裂いたのであれば、田村と情を交わす気にもなれまい。田村の跡継ぎは、古人一人で十分じゃ」
「…そんなことのために。まだ大王はご健勝です。先の、そのまた先の大王の位が、どうなるかなど、父上にも誰にもわかりますまい」
「そうだ、わからぬ。わからぬからこそ、方々に手を打つ。そのための布石であろう」
多分、父の言っていることの方が正しいのだろう。
蘇我の為に。この国の為に。一対の夫婦の縁など、どうなっても構わない。
それくらい、非情に撤しないと、権力は保たれないものなのだ。
いずれ、法提郎女の忘れ形見、古人を帝位に即ける為に。
(何もそこまでしなくても…)
だが、正面切って批判も出来ず、入鹿は黙って立ち上がった。
◇◇◇
いつもうるさいくらいに、絶えることなく響いていた、漢王の声がしなくなった。
熊みたいな体型で、いるだけで存在感のあった高向の姿も今はない。
それだけで、家というものはこんなにも広く、空虚な空間になるのだと、失って初めて宝は知った。
年が明けてからというもの、蘇我毛人や田村皇子の使いが、この人里離れた家屋に、やいのやいのとやってきて、不躾で心無い要求だけを伝えて帰って行く。
田村皇子が宝を望んでいるという。
宝の父である茅淳王の弟に当たる、その男に、宝は好悪いずれの情も持ち合わせてはいなかった。
年賀の儀に、折々の挨拶に、決まりきったような儀礼的な言葉を、二言三言交わすだけ。
印象も薄く、はっきりとその顔立ちも声も思い出せない程なのに。
それを抜けぬけと恋だと主張し、夫も子もいる身と知りながら、拙い歌などを送って寄越す。
いや、見え透いた手口であっても、宝の歓心を買おうと努力をしているだけ、田村の使者の方が幾分ましだ。
毛人の使者に至っては、彼の権力を嵩に、命令と言わんばかりの高圧さで、宝の身を田村のもとに寄せようとする。
脅しにも似た言葉を、若しくは、餌で釣るような真似を、高向にもしていたのであろう。
ついに、耐えかねて、彼は漢を連れ、宝を置いて、屋形を飛び出したのだ。
ひとつきほども前のことである。
「もういい加減、諦めたらいかがですか」
姉の強情さを、愚かしいと諭す口ぶりで、弟の軽が切り出した。
弟は普段は摂津国にいるのだが、この話が持ち上がってからというもの、姉を説得させようと、飛鳥に留まり続けている。
田村か毛人の内意でも受けているのか、それとも、姉の縁談にかこつけて、自らも飛鳥の廟堂に入り込もうとしているのか、彼の真意は宝にはわからない。
「高向王は戻っては来ませんよ。このまま、あなたが田村の求愛を突っぱね続けたとしても、戻って来られないでしょう。蘇我宗家ににらまれるようなことは致しますまい」
だったら、貴女の抵抗は何の意味もなさない。
軽はそう言いたいのであろう。
「それよりも、降って湧いた幸運と、この際、田村の元に行かれた方が、貴女の行く末も明るくなるというものではないですか」
「幸運?」
宝は、柳眉を逆立てた。普段、余り変わることがない表情だけに、怒った時の声色や目つきには、弟の軽ですらも、ぞっとする凄みがある。
「夫と息子を奪われ、ただ何の意思もない人形として、田村の閨房に半ば強引に侍らされるのが、幸せと?」
「そうすることで、大后になれるかもしれませんよ。ここまで、強引な手を使うからには、蘇我宗家は額田部大王の後は、上宮王家ではなく、田村を推すつもりなのでしょうからね」
訳知り顔で、説明されずとも、田村や毛人の思惑に気付いていない宝ではない。
だが、そのやり方が業腹なのだ。
勝手に人を、世に忘れられた不遇の皇女と決め付け、大王の後継者の后にもしてやる、ありがたく受けろ、という傲慢さが、使者の態度からも滲み出ている。
うまうまと、乗ってたまるものか。
その宝の矜持が、一人になっても、彼女をここに留まらせ続けているのだ。
ぎりりと、奥歯を噛んだ宝の耳に、馬の嘶きが響いた。
「また、豊浦からの使者ではないですか?」
軽がからかうように言う。
「……」
宝は黙って立ち上がって、入り口に歩き出した。
もう使用人すらも、この屋形にはわずかしか残っていない。自ら客を迎える屈辱を隠して、戸を開けた途端、宝は目を丸くした。怜悧な美貌は一度しか逢っていなくても、鮮明に宝の記憶に焼き付いていた。
「貴方は…」
「憶えていただいていたようで、恐縮です。蘇我毛人が一子、鞍作入鹿です。本日は父の名代として参りました」
明朗な口調で、青年は名乗った。
一昨年の夏、もうひとりの少年と負傷した夫を馬に乗せ、突如訪れた彼は、今度は蘇我毛人の名代として我が家に来訪する。あの時とは何もかもが違う。宝が失ったものを、彼はとうに知っているだろうが、それを目の当たりにされるのは宝の心を硬化させた。こんな風に再会はしたくなかった。
「父から託された品々です」
入鹿が従者に運ばせた何頭もの馬の背に乗せた荷。屋形に運び入れようと、降ろさせようとするのを、宝は止めた。
「どうぞ、このままお持ちください。こんな素晴らしいものを頂く、いわれがございませんもの」
やんわりと、けれど皮肉をたっぷりこめて、拒絶の意を宝は示した。
「子どもの使いではありません。はい、そうですか、とこのまま踵を返す訳にも行かないのですが」
「そちらの都合は、こちらには関係ありませんもの」
口元に笑みまで浮かべて飽くまで優雅に、しかし、はっきり宝皇女は入鹿を、いや、背後の毛人を拒絶する。
(無理もないか)
入鹿は彼女に気付かれぬようため息をつく。
あの日、計らずも訪れたこの小さな屋形には、暖かな空気が充満していた。
父と母と子と三人。ささやかな幸せな暮らしを、ぶち壊したのは、誰あろう、自分の父だ。有無を言わさず、荷だけ置いて帰るような、強引な真似はしたくない。
「姉上」
奥から一人の男が出て来た。姉上、と呼んでいるからには、弟なのであろうが、肌にも表情にも締りがなく、媚びた笑みを張り付かせているようなにやけた顔。
美貌とは言えなくても、毅然とした雰囲気のある姉とは偉い違いだ。
「何です、軽」
軽、と呼ばれた男は、無遠慮に入鹿の姿を、上から下まで舐めるように見て。
「嶋大臣殿の孫が、こんなに艶やかとはね。男でなければ、今頃きっと、田村の寵妃にでもなっていて、そうしたら、姉上の出番など、なかったかもしれませぬなあ」
入鹿にも、宝にも、不愉快な冗談を言って、呵呵と笑ってから、促す。
「まあ、中へ入られたらいかがですか。ここでは、ゆっくり話も出来ますまい」
わかりにくい人間関係ですみません。宝を中心にした系図、書こうと思ったけど、無理だった…
彦人大兄の子どもが田村と茅渟王。茅渟王の子が、宝と軽なので、彼ら姉弟と田村は叔父―姪の間柄です。生年が田村593年、宝594年、軽596年。




