逆風
625年春
(今更何を…)
頭ごなしに、発せられた言葉に覚えたのは反発心。
否定の思いを、眸にこめて、見つめ返しても、彼に向けられた冷たい視線は、些かの揺らぎも見せず、もう一度同じことを繰り返した。
「斑鳩の女王とは別れろ、すぐにだ」
諾の答えを聞くまでは、何度でも言う、他に用などない、と言わんばかりの毛人の峻烈さだった。
今朝、急に入鹿の元を訪れた豊浦からの使者。横柄な態度は、そのまま主の機嫌を伝えていたものらしい。
豪奢な屋形のいちばん奥の部屋に陣取り、懐手に腕を組み、伏目がちに視線を落としているのに、話すときだけ力をこめて、こちらを見る。
いつもにもまして、取り付くしまもなさそうな父に。
「何故、今おっしゃいます。ずっと見てみぬふりをなさっていたのに」
感情的になったら、父の気魄に飲まれてしまう。入鹿は、努めて冷静に尋ねた。
「以前から、言うつもりでいた」
にべもない返事を、毛人は苦虫をつぶしたような顔で語る。
そうであろうか。斑鳩に入鹿が足繁く通うようになって、既に二年が経過してる。好ましくないと思いつつも、捨て置いていたものを、今になって急に駄目だの別れろだの言ってくるのは、情勢が変わったことを物語っているのではないだろうか。
「それは、蘇我のためですか、父上のためですか?」
「そなたと片岡女王のために言うておる。父の言に従って良かったと、必ず感謝する日が来る」
「でしたら、口出し無用に願います」
珍しく、きっぱり拒絶した入鹿の言葉に、毛人は深く嘆息した。
女など誰を抱いても同じだろう、と父の瞳は言っている。そんなことはないのに。
幸福と興奮の絶頂に果てたその後でも、まだ先を求めてしまう。性急に貪欲に彼女の全てを貪りながら、それでも飽き足らないーそんな風に入鹿を酔わせられるのは、片岡だけだ。
蘇我宗家と上宮王家の微妙な距離感は、入鹿とて感じてる。
父が、日頃から上宮王家と親しい摩理勢を脅威に思っているのも、気づいてる。そして、父が山背よりも古人に、より多くの期待を掛けていることも。
そんな不安定な力関係の中で、自分と片岡の恋は、なるほど父には、看過しがたいものだろう。
だが。簡単に手を離せるくらいなら、最初から抱きしめたりしていない。
「後悔するぞ」
「父上の示す道を選んでもしますよ」
だったら、己の信じた道を行く。
曇りのない極上の笑みを、父に向けて、入鹿は立ち上がった。これ以上話した所で、お互い平行線を辿るだけだ。
「ああ、あと――」
退席しようとする入鹿の背中を引き止めるように、毛人は加えた。
「父上の、お加減があまり良くない。顔を見せてやってくれ」
眉を上げて、祖父の容態を憂いた表情を浮かべながら。
「承知しました」
短い言葉を残して、入鹿は出て行った。
自分で確かめればいいと思っているのか、詳しい事情は毛人に聞きもしない。
そんな息子の背中を見送ることしか出来ない自分に気づいて、毛人は自嘲する。
距離を遠ざけたいわけではないのだが、逢うたびにこうなってしまう。
毛人は息子を頭ごなしに抑え付け、入鹿はそれに不満げな態度を露にし、そしてお互い気まずいまま、別れることになる――。
普通の親子のような心通い合うこともなく、相見えると、緊張の糸を張り巡らせ続け、後には悔いだけが残る。こんな風になってしまったのは、いつからなのか。どうしてなのか。
脇息にもたれて、溜息をついていると、転がり込むように、一人の男が入ってきた。
「申し訳ありませんっ」
無礼なのも承知の上で、彼の前に出てきたのは、入鹿の乳兄弟の永刀であった。
恐らく、先ほどの父と子の会話は聞いていたのであろう。
「大郎にも、困ったものだな」
全て自分の責とでも言いたげに、平身低頭している彼に、毛人は苦笑いして、労わるように永刀を見た。
「いえ、私の不徳の致す所…」
「斑鳩の姫とは別れないそうだ。そなたがついていながら…、、と言いたい所だが、人の忠告など、元から聞く男ではない。そなたの責とは思わぬ」
息子に手綱をつけて操ることなど、とうの昔に諦めたような毛人の言葉に。
「血の近いお従兄弟同士、増して幼馴染のお二人。気心も知れ、睦まじいご様子。決して悪いご縁ではないかと…」
永刀は必死に入鹿を庇う。
「確かに、斑鳩の上宮王家と、我等蘇我宗家は、身内とも言っていい間柄。だが、その近さに甘えておる。入鹿も山背王もーーそんな気はせぬか、永刀」
入鹿と片岡、ひいては山背。血の繋がりと、昔なじみの知己としての親しさ。
その絆を断ち切ってしまいたと毛人が思うのは、己が描きだす未来と、息子の歩んでいる道に、隔たりを感じるからであろうか。
永刀はふいに向けられた話に、相槌も打てずに、ぽかんとした顔をした。
「父上も、近頃はめっきり老いられて、小墾田宮に、行かれるのもままならなくなって来ている。父の次の大臣は、私――と、誰もが認めるわけでもないだろう。きっと、飛鳥は揺れる。いつまでも、大郎に性根が据わり切らないままでいられては、困るのだ」
「大郎君はお優しいから」
「優しさは必要か?永刀」
ふいに、毛人の口調が視線が、鋭さを増す。
「蘇我の跡目を享ける者として、必要な素質じゃない。身内故に、同情して狎れ合ったりしていては、この国は立ち行かぬ。何せ、王族に連なる者、全てわが眷族と言っても、過言ではないからな」
毛人の傲岸な物言いも、決して大げさではない。
毛人の祖父、馬子にとっては父に当たる稲目は、蘇我氏として、初めて自分の娘を二人、大王の后とした。後の世に、藤原氏のお家芸とも言うべき、外戚政治の緒は、既に稲目の時代に萌芽していたといってもいい。
以来、生まれ来る皇子に、蘇我の娘を娶らせ、子どもを生ませてきた。あっという間に張り巡らされた血脈は、蘇我の繁栄と、この国の発展に役立ってきた。
その、蘇我の直系として、毛人の目に、入鹿は甘く見える。
己が手で、幼き時分より育てていれば、こうはならなかったであろうか。彼を襲う悔恨の情が、余計に歯がゆく、つい突き放してしまう。
毛人にしてみれば、厳しさも親心なのだが、一向に伝わらないまま、溝だけが深くなっている。
そして。
ここに来て、片岡女王との恋だ。入鹿が斑鳩宮に足繁く通う理由が彼女にあることなど、群臣も大王もみな知っている。暗黙の了解、公然の秘密。蘇我の嫡男が、何の益にもならぬ――それどころか、厄災を連れてくるような女に執着するなんて、毛人にとっては忌々しいことほかならない。
息子の心に掛けられぬ鍵を、歯がゆく思う毛人だった。
◇◇◇
加減が悪い、といわれたから来たのに。
父の話との相違に、入鹿が面食らう程、嶋の屋形で、馬子は孫二人の来訪を目を細めて歓迎した。
父に一歩的に別れを命じられたあと、却って片岡への思いが募って訪れた斑鳩宮で、片岡にポツリと祖父の話をしてしまった。片岡がそれを、素通りするわけもなく。
「私も行きます」
凛とした声は、入鹿の制止など振り切る響きだった。
鯛を醤でつけたもの、猪の肉、一気に春めいた野で摘んできた若菜など、土器いっぱいの料理が、入鹿と片岡の目の前に並ぶ。
脚は衰えたと言っても、歩けなくなるようなことではなく、最近屋形に引きこもりがちなのも、馬子に言わせると。
「毛人が、自分が廟堂を仕切ると言ってきかないから、なるべくあいつにやらせているだけだ」
とのことらしい。
そうは言っても、馬子は既に74。気概も体力も、若い頃のそれとは、まるで違う。
「そろそろ老醜の者は、表舞台から去って、若い者に道を譲らねばな…」
寂しそうに付け足した、そちらの方が、本音であったかもしれない。
酒も料理も勧めらるがままに、盃を重ねる内に、すっかり辺りは暗くなった。
「ゆるりとしていけ」という、馬子の言葉のままに、その夜は嶋の屋形に泊まることになった。
先に片岡は休ませ、馬子と入鹿、二人になると。
馬子は急に厳しい顔つきになって語り始めた。
「片岡女王は、見目も良い、聡明でもある。そなたの執着はわかるがの」
「おじいさまも反対ですか」
「いや、憂いているだけじゃ。何も起こらねばいいのう、と」を
「何も…と仰せられますと?」
顎に蓄えられた髭を、しきりに触りながら、馬子は言いにくそうにポツポツと言う。
「田村皇子の後添えに、宝皇女を…と、毛人が画策しているのを知っておるか?」
意外な名前に、入鹿は目を見開いた。
葛城山の麓の高向王の屋形で、雨宿りさせてもらったのは、先年のことだが、あの仲睦まじげな一家のことは、よく覚えている。
「何故…」
「もしも。田村が大王になった時に、大后として、立てられる女が欲しいのだろう。古人の母の法提が亡き後、田村の后には、ろくなのが残っておらんからな」
この国の統治者大王には、彼を支えるが如く傍につき従う大后の存在が必要になる。
無論誰でもいいというわけではない。
王族か、蘇我氏の娘に限られていたその地位。
だからこそ、毛人は法提の死後、すぐに探していたのではなかったか。
田村擁立の暁に、大后として立てられる女性を。
そして、そこまで彼に肩入れするからには、今の大王亡き後の後継者を、毛人は山背ではなく、田村と目しているのだろう。
馬子に代わって、廟堂で力を振るうのも、そのための協力者を募っておきたいのかもしれない。
自分は隠居状態になり、息子の毛人に政を任せているからには、馬子も毛人の方策に、大筋のところで異論はないと見える。
実は、田村自身は蘇我の血は、色濃く入っていない。
それでも、毛人が彼に白羽の矢を立てたのは、古人が成人した時のことを考えて…。
そうなると、問題は山背だ。あっさり、おとなしく引き下がるであろうか。
いや、彼だけでは実は何も出来ない。大王は立候補制じゃない。手を挙げたところで、担ぎ上げる誰かがいなければ、その意思など、無視されたままなのだ。
毛人に対抗して、山背を擁立する人物…そこまで思い至って、入鹿は思わず馬子の顔を見た。
(わかったか)
と、馬子は、入鹿の直感を支持するように薄く笑う。
毛人とは犬猿の仲で、斑鳩の宮に足しげく通う、如才ない人物――。馬子の弟の境部臣摩理勢だ。彼が山背につけば、間違いなく争いは始まる。
「わしの妻は物部守屋の妹だった。守屋は仇敵で、丁未の年の戦いでわしが倒した。そちも昔語りによく聞いたであろう。兄と夫の争い、間に立つ女にとって、これほど切ないことはないぞ」
馬子は、かつての自分の妻と片岡を重ね合わせる。上宮王家と、蘇我が全面的に争いあう事態が起きるかもしれない。その前に片岡とは別れろ。
みなまで言わないが、祖父も父と同じ考えなのだと、入鹿は思った。
祖父と別れ、寝所に向かう回廊で、ポツリと小さな灯りが、入鹿の目に入った。
近寄ってみると、片岡が階に座り、足を投げ出して座っていた。襪(古代の足袋)もつけずに、バタバタ上下させた白い足が、闇にぼんやり浮かぶ。
「…何、してるの」
月でも見えるのかと、入鹿は端近に出て、空を眺めた。
「見ていたのはこっちです」
片岡は真っ直ぐにその腕を伸ばし、庭を指差した。
祖父の屋形の広い中庭。その真ん中にある自慢の池は、闇と同化し、墨をこぼしたような黒い水面が広がっている。池の中央には嶋があるはずなのだが、それも今はわからない。
「憶えていますか。あそこに、私が母の大切にしていた鏡を落としてしまって」
片岡の言葉で、入鹿の中にも呼び起こされる記憶があった。
幾つもの花の紋様が刻み込まれた、朱塗りの美しい手鏡。遣隋使の手によってもたらされたその品は、この家のかつての女主人、刀自古郎女の愛蔵品であった。
片岡が無理を言って、借りてきたその品を、この庭の中で「見せて」「嫌」と、ふざけあっているうちに、どちらの手からも、するりと抜けて、池の中に吸い込まれるように落ちて行った。
「入鹿と兄上が、必死に池をさらって探してくれましたよね」
「もしかして、池にでも入ってた? この足」
片岡の隣に腰掛け、素足のままの左足首を掴むと、片岡は気まずそうに袖で口元を覆って笑う。
「丁度、今時分の季節だったから、どのくらいの冷たさだったんだろうと思って」
その好奇心の旺盛さと、行動力に、入鹿は開いた口が塞がらない。わざわざ、確かめたいと思うようなことか。
「呆れた。あれは夜じゃなかったし。体を冷やして、風邪でも引いたらどうするの。あの時は、池のほとりで泣いてばかりいたくせに」
「だって、大変なことをしてしまったと思ったから。でも」
あの後、その鏡は見つかったのか、自分は母にどうやって怒られたのかは、憶えていない、と片岡は付け足した。
「山背が見つけたけれど、鏡面にひびが入ってしまってた」
彼女の記憶を補完すると、ぴったりと符号したのだろう、片岡は嬉しそうに声を弾ませた。
「そうでした。兄上が見つけて、おじいさまと母上にも、共に謝ってくださって、それでも二人怒られて」
「しばらく、俺はここには来られなかったーー」
「十日ほどだったかしら。不思議。その時は凄く寂しかったはずなのに、今最初に思い出すのは、逢えなかった時の寂しさじゃなくて、ふざけて鏡を落としてしまった時のこと。この屋形で、嫌なことも、つらいこともあったはずなのに、どうしてかな、浮かぶのは入鹿と遊んだ思い出ばかり」
「そうだねえ」
頬杖をついて、入鹿も前面に広がる庭園を眺めた。
確か、その鏡は、司馬の工房で修繕して、刀自古郎女の手元に戻ったはずだが、今は何処にあるのだろう。
言われなければずっと、忘れていたままであっただろう、頭の隅に眠っていた小さな小さな思い出。
「あの頃に、戻りたい?」
蘇我も斑鳩も関係なくて、ただ無邪気に笑っていて、一日いちにちを、どう過ごせばいいがだけを、考えていればよかった頃に。
聞かれて、片岡は遠い目をする。
「戻りたいのは」
少し間を置いてから、片岡は入鹿の方に向き直った。
「入鹿の方ではないですか?」
ずばずばと胸の内を射抜く片岡の瞳を避けるように、入鹿は目を細めた。そして、片岡への回答も、自分の気持ちも誤魔化すように、彼女をふわっと抱きしめる。
「違うよ。だって子どものままだったら、こんなこと出来ないでしょ」
身分も血脈も財も。人が羨む大抵のものを自分は持っているけれど、本当に自らの手にしたいものは、たった
一つだけなのに、既に抱えた荷が多すぎて掴み損ねてやしないだろうか。
この両腕を、彼女を抱きしめるためだけに使えるのなら、どんなにかいいだろ。
「今の片岡の方が好きだし」
ふたり共にある今このひとときだけは。父の命も祖父の憂いも忘れたくて、入鹿は彼女の柔らかい唇に口付けた。




