雨より細く
男の妻は、宝皇女と言うらしい。
(知ってるか?)
と、古人に目配せしてみても、彼も知らない女性のようだ。
「私たちは、余り蘇我氏とは、縁がないからね。蘇我の方だったら、飛鳥から?」
「ええ。余りに暑いので、涼みに」
「そうか」
頷いて、高向王は、よいしょと立ち上がった。まだ、足に痛みが残るのか、眉間に皺が寄る。
「お送りしましょうか、屋敷まで」
放っておけない男だ。入鹿は、思わず言っていた。
樹に繋いだ馬を引いてきて、高向をその背に乗せる。
入鹿が手綱を引くと、上から申し訳なさそうな声が降ってきた。
「蘇我の若君に、こんなことして頂いたんじゃ、後で大臣殿から怒られてしまいそうだな」
「確かに、俺も初めてです」
見上げてにやりと笑うと、高向は馬上でおろおろしだす。
「やっぱり、罰当たりだよ。何とか歩けるから、降ろしてくれないか」
王と名が付く身分であるのに、卑屈な。
というよりも、実際、蘇我の名は、王族の者にすら、それ程脅威になるのか?
臣族の束ねになるのが、祖父の地位、大臣だと思っているが、飽くまで立場は臣であって、王家とは一線を画しているはずなのだが、王家も高向のような、三世四世になってみると、どちらが主、どちらが臣なのか、わからなくなってくるのかもしれない。
「無理しないでください。それより案内頼みます」
彼の家は、葛城の山の麓にひっそりと建っていた。
入鹿の屋形も大きくはないが、それよりまだ一回りも小さい。
構えた門も無く、庭…と呼べるのか、屋形の前面の土がならしてあって、数羽の鶏が放し飼いになっている。
言われなければ、王族の者の屋形だなんて、誰も思わない。そんな質素な家だった。
「悪いね、ありがとう」
高向が馬から降りるかどうかの刹那、一人の女が屋形から出てきた。
「高向さま」
と、彼の姿を見て、目をむいたこの人が、恐らく妻の宝皇女なのだろう。
年のころは、彼とほぼ同じ、三十路になるやならずや、といったところか。
日にやけた褐色の肌、まんまるとした頬、ぷっくり厚い唇も、美人ではないが、愛嬌のある顔だ。
夫が、知らぬ少年と戻ってきた。普通なら、不審の目をこちらに向けてもおかしくないのだが、彼女の瞳は、夫だけを映していた。
「どうされたのですか?」
「ああ、清水を汲もうとして、足を挫いてしまってね。丁度通りかかった彼らが、助けてくれたのさ。蘇我大臣の孫らしい」
妻に話す態度も、高向王は腰が低い。
「それは…」
と、漸く彼女は入鹿の方を見て、一礼をした。
「では、我らは帰ります。お大事にどうぞ」
古人を先に鞍に乗せ、入鹿が鐙に足をかけた時。
「お待ちください」
入鹿と古人が驚くような切実さで、引きとめたのは、宝皇女だった。彼女は四方の空を眺めながらこう言った。
「じきに雨になります。お帰りは待たれた方が…」
見上げた空には、雲は一つもなく、ごくありふれた夏の昼下がり。夕立を誘う雲が、近くにあるとも思えないのだが。
「あ…め?」
「妻の予報は当たります。もし、お急ぎでなければ」
と、高向王までが彼らを留めるのを幸いに。
「では、遠慮なく。そちらで待たせて頂こう」
言うが早いが、馬から飛び降りたのは、古人だった。
「皇子っ」
入鹿が肩を掴むと、彼は首をそらして、入鹿を見上げる。
「降っても降らなくても面白そうじゃないか」
半信半疑、いや、宝の言葉を殆ど信じてはいなかったが、こうなっては、行きがかり上やむを得ない。入鹿は、古人の後を追って、彼の屋形に入った。
しかし。果たして、雨は降り出したのである。
遠雷が響いたかと思うと、瞬く間に空は黒い雲に覆われ、夜みたいに暗くなり、轟音と共に、雨の粒が滝のような勢いで降ってきた。
「おお」
予言通りになったことが嬉しいのか、驟雨の凄まじさに興奮してか、古人は庭先に降りんばかりに、端近に出て、その光景を眺めていた。
「濡れますよ」
入鹿は部屋の中からたしなめる。そんな様子を見ていた、宝皇女の口元が、少し緩む。
「本当のご兄弟のようですね」
「何故、雨が降るとわかったのですか」
入鹿の質問に、宝は今度ははっきり、笑みを漏らした。
「何故と問われましても、言葉では説明出来ません。雨の匂いを感じた、とでも申しましょうか」
「つまり。貴女にしかわからない、というわけか。では、もう一つ。いかほどでやみますか?」
「夏の夕立は勢いは強くとも、持続はしません。小半時ほどで、止むかと…」
小半時。それくらいなら、雨が止むのを待っても、夏の長い日のうちに、飛鳥まで戻れるか。
まあ、そうだとしても、父の小言は食らうだろうな。わしのいない間に、古人を連れ出すな、と――。
しかし、憂鬱な雨だ。入鹿は、庭先を眺めた。
絶え間なく地面にうちつけられる雨だれの音も、その作り出すにわたづみも、湿気をはらんで生ぬるく、肌に纏わり付くような空気も。全部、入鹿は好きじゃない。
「子息の所についていて、いいですよ。何も、こんな予定外の客のところにいることはない」
宝と二人の空間に間が持てなくて、入鹿は言った。
高向と宝の間の一粒種の皇子、漢王は、昨夜から熱を出して寝込んでいる。
喉の痛みもあって、食事も殆ど取れない。水しか飲めないのなら、せめておいしい水を…と、高向王は葛城山に入ったのだという。
父がわざわざとってきた湧き水の甘露を、漢王は竹筒に口をつけ、一気に飲み干すと、満足して眠ってしまった。
その王の傍に、父の高向はついている。
自分が熱を出した時に、父が傍にいてくれた記憶なんかない。
決して、豊かには見えない親子三人の暮らしの温かさを。
そして、自分の歪さを垣間見た気がした。
「では…」
と、低い声がして、宝の気配が遠ざかっていった。
俄かに降り出した雨は、俄かにやみ、先ほどまでの荒れ狂った空が信じられない程、美しい夕焼けの空が広がった。
「すっかりお邪魔して申し訳ありません」
見送りなど…と固辞したのだが、高向は門の所まで出てきてくれた。
「いや、こちらこそ。すっかりお世話になった」
「不思議な力をお持ちの奥様、大事になさってください」
「ああ。もちろん」
臆面もなくのろけた台詞も、何だかこの男なら、許せてしまう愛嬌がある。
些事にまるで頓着しないこんな男が、あの神経質で、風の流れ一つ読み誤らなそうな宝の夫というのは…。
(合っているのか、いないのか)
夫婦という結びつきの縁の妙を感じながら、入鹿は帰路についた。
◇◇◇
「また来たのか」
山背がぞんいな言葉を掛けると、男はにやにやした笑いを浮かべ、ずいと膝を進めた。
言葉の辛辣さほどには、彼の来訪を煩わしく思ってなどいない。山背のそんな胸の内まで、透かして見ているような笑みだ。
今、彼の目の前にいる男は、蘇我摩理勢。そして、彼の息子の毛津。
馬子の弟で、毛人の叔父に当たる摩理勢は、厩戸皇子の亡き後、度々斑鳩宮を訪れている。
盛りの果物を持って来たり、狩りで得た兎を、血を滴らせながらぶら下げてきて、舂米の顰蹙を買ったり。
「ええ。本来ならば、毎日でもまかり越したい所を、これでも抑えております」
しれっとした口ぶりも、何処までが本心かわからない胡散臭さ。まあ、これは、蘇我の者全般に言えることか。
身内なのに、気がおけない。頼りつつも、信用出来ない。矛盾に満ちた関係が、父の代から続く、この一族との馴れ合いの結果だ。
「近々、新羅との間に、一戦交える…などという話もあります。そうなれば、私などは、真っ先に最前線へ送られます故、今のうちに、せっせと通いつめておかねば」
「新羅と?」
唐突に海の向こうの国の話をされて、山背は目を丸くした。
そう。全面的に気を許せないと思いつつ、彼の来訪を心待ちにしてしまうのは、彼がもたらす、これらの情報だ。
斑鳩という僻地にあって、なかなか毎日のように、飛鳥に朝参することの適わない山背には、摩理勢が伝える飛鳥の話は、またとない土産なのだ。
「新羅が任那を攻める…という噂が、この国に流れています。そうならば、由々しきこと…と、大王などは御気色悪しくなられておりますが、さあ、どうなりますか」
この国に従い、貢納国である任那。
古くから親交のある百済。
ずっと敵対していたが、近頃漸く国交を通わせている高句麗。
そして、最近勢いを増している新羅。
朝鮮半島の国々は、境が隣接しているだけに、攻防も頻繁。互いの領地を奪い合うせめぎあいを、海峡という絶好の壁越しに、何処か対岸の火事、暢気に眺めていられた倭国だったのだが…。
百済につくべき。いや、勢いのある新羅は怒らせられない。
飛鳥の朝廷の中でも、意見は百出。対外交の明確な指針は立っていない。
斑鳩にいてさえ、飛鳥のことを遠く感じるのに、増して海を隔てて、何百里も先の国のことなど、幾ら真剣に考えてみても、何処か他人事に聞こえてしまう山背だった。
「そういえば」
摩理勢が話を切り替える。
「先ほど、片岡さまとすれ違いました。艶やかな女人になられましたなあ」
「ああ」
片岡ね。確かに綺麗になった。それは認める。
だが、それがあいつのせいかと思うと、何だか癪だ。
「長谷王が悔しそうに仰られていましたよ」
「長谷が何と?」
「片岡は私に…と再三願い出ていたのに、兄上はあっさり、入鹿などにくれてしまった、と」
彼に愚痴った長谷の口ぶりまで真似ながら、摩理勢は言う。
摩理勢の信用出来ないのは、こういう部分。
自分にだけ逢いに来ているのかと思えば、ちゃっかり長谷のもとにも参じている。
「次の大王には是非あなたに」耳元で囁く、心を揺さぶる甘言を、他の者にも言っていないと、誰が言える。
毛人と摩理勢の不和は誰もが知っている。今は馬子がいるから、彼がしっかり睨みを効かせていて、表面だってはいないが、馬子が不在になれば、きっと顕になる対立だ。
額田部大王と嶋大臣と父。三人がしっかり体制を作り上げてしまった為、動かず澱んでしまっていた時の流れ。
父がいなくなったことで、水底に空いた穴が、少しずつ漏れてきている。高齢の大臣か大王どちらか欠けても、その穴は更に大きくなり、覆い尽くせない速度で、堰を切って流れ出すだろう。
その時に、どうするべきか。
流れが行き着く先は、山背にも誰にもわからない。




