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炎―かぎろひ―  作者: 紗夏
第2章 見えない楔
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土中の花

 表に出た途端、容赦のない陽射しが照り付ける。

 額に手を翳して、入鹿は雲一つない空を、恨めしげに見上げた。

(暑くなりそうだな)

 そして視線を庭に落とすと、ちょこまかと動く影を見つけた。

「嘉陽」

 名を呼ぶと、その影は、額いっぱいの汗を拭いながら、振り返った。

「若、お出かけですか?」

「ああ。豊浦に行ってくる」

 普段、寄り付かない行き先を告げると、嘉陽は目を丸くして、空を見上げた。

「雨なんか降らねえよ。父が朝参でいない間に、古人に逢ってくるだけだ」

「ああ」

 と、納得して手を叩かれるのも、なんだか微妙に癪に障る。

「お気をつけて、行ってらっしゃいませ」

「お前もさあ」

 入鹿は、雑多な花ばな、草が所狭しと植えられた、庭を眺めた。

 昼顔・木槿(むくげ)・姫百合…、競うように咲いた夏の花は、全て嘉陽が植えて育てているものだ。

 統一感のないこの有り様は、入鹿の趣味ではないのだが、嘉陽に好きにやらせている。

「こんな暑い日に、花の手入れなんかして、ぶっ倒れないか?」

「私が水をやらなければ、花は暑さに耐えかねて、萎れてしまうじゃないですか」

「急に、凝り出したかと思ったら、好きだねえ」

 いつにない嘉陽の熱の籠った言葉に、入鹿は思わず苦笑いした。

「思いを籠めた分だけ、花は綺麗に咲いて返してくれますから」

「お前がかけた思いを、返してくれない奴でもいるのか?」

「いません!」

 嘉陽は向きになって否定すると、入鹿の相手は御免だとばかりに、昼顔のそばに歩み寄った。

「じゃあ、行ってくる」

 嘉陽の背中に語りかけて、入鹿は屋形を後にする。

 入鹿の気配が遠ざかるのを感じながら、嘉陽は花の近くの雑草を荒々しく引き抜いた。

 振り向きたくても、振り向けない。滲んだ瞳を見られる訳には行かないから。

(懸けた想いを)

 気づきもしないくせに。

 そして、言えない想いを、種に託して、嘉陽は土中に埋める。

 咲き乱れたところで、どうせ、入鹿は大して目にも止めない、野の花ばなを。




 母を亡くして半年余り。

 少しずつ、哀しみが思い出に風化していく頃なのだろうか。

 思いの外、古人はあっけらかんとしていた。

 馬の嘶きで来訪に気付いたか、門の所まで駆けて出てきて、まだ馬上の入鹿に「馬に乗せろ」とせがむ。

 入鹿の返事も待たず、彼の乳母が陽射しの強さを心配して止めるのも聞かず、古人は鐙に足をかけ、入鹿の体と馬首の間に入り込んだ。

 彼らしい強引さに、入鹿は馬から降ろすのを諦めて聞く。

何処(イズコ)へ参りましょう」

「涼しい場所」

 漠然とした要求に、苦笑いしながら、入鹿は白い馬を走らせた。

 どうせなら…と、遠出した。

 飛鳥から西に、二里ほど。葛城(カツラギ)の山は、鬱蒼と樹が生い茂り、方々に伸びた枝が日の光を遮り、木下闇を作り、若干ではあるが、暑さを忘れさせてくれた。

 檜の樹に、馬を繋ぎ、木立を散歩しながら、古人は饒舌に語る。

 先月逢った時には、何を話し掛けても上の空で、彼の目蓋に肌に残る母の面影を、追い掛けては、捉えられずに寂しくなる…そんな虚ろな状態であったのだが。

「泣いたからって、母上が戻られるわけでもないし」

 と、嘯くのは、強がりだけでもなさそうだった。


「乳母が言ってた。入鹿は母の顔も憶えぬうちに、亡くしたと。それに比べたら、私は仕合わせだって」

「この手に確かに掴んでいたものを奪われるくらいなら。初めから手にしてない方が仕合わせかもしれませんよ」

 現に、母を知らぬ境遇を入鹿自身は不幸に思ったことはないのだ。

「それは、母に対する思いとは違うだろう」

 古人は入鹿の言葉を的外れと笑った。

「両親はいずれ時が奪っていく。自分より先に死ぬのは、自然のコトワリであろう? そなたの言葉は、恋人に対しての思いではないのか?」

 大人びた思考と台詞に驚いた。こんな物の考え方をする皇子だったか?

「そうかもしれません」

「で、誰にも奪われたくない、入鹿の恋人はどんな女性だ」

 畳み掛けるように古人が訊ねる。

「いや、今のは一般論です」

「そうかなあ。絶対に、目交に誰かの面差しを宿した言葉に思えたが」

「皇子の思い違いです」

「なら、もしも――」

 先ほどまで、ちゃめっけたっぷりに煌めいてた瞳が、ふいに暗く伏し目がちになる。

「もしも、最愛の恋人を亡くしたとしたら入鹿はどうする?」

「嫌な仮定ですね」

 言いつつも、想像は彼の脳裏を掠めてしまう。もしも片岡が?

 しかし、古人は入鹿の答えには、興味が無いらしい。そして、続いた彼の言葉は、入鹿にも大きな衝撃を与えた。

「父上は、次の后を探しているらしい。それも、叔父上と」

 まだ、法提の死からは、半年しか経っていないのに…。余りにも性急な…。しかも、何故父が一緒になって?

「相手は…?」

「知らぬ。まだ決まっていないようだ。新しい后…と言ったところで、私には直接関わりはないのだが」

 古人の耳に入る程度には、大っぴらに探しているわけか。急ぐ理由は、大王の高齢か? そうだとしたら、父の思惑は――。

「入鹿?」

 黙ってしまった入鹿を、古人は心配そうに見上げる。

「いや、何でもない」

「父上も父上だ。まだ、母の死より間もないこと。今は、後添いなどいらぬこと――と、きっぱりお断りすればいいものを」

 毛人と田村。二人に批判の炎を燃やす古人からは、先ほどまでの、大人びた分別が消えている。

 背伸びしていたんだな、と入鹿は、兄が弟を見るような、優しい視線を古人に向けた。

「田村皇子の立場上、そうも行かない事情もあるのでしょう。だからといって、皇子の母を軽く見ていた訳では、ないと思いますよ」

「…慰めはいらないぞ」

 古人は、上目使いに入鹿を睨む。子ども扱いされたと、拗ねているらしい。

 だが、彼が不快に思うのも尤もだ。

 田村に他に妃がいないわけではない。子だって、古人以外の間にもいる。にも関わらず、法提に代わる正妃を見つけたいと焦る理由は、大王の高齢か? そうだとしたら、父の思惑は――

「入鹿?」

 急に険しい顔つきになり、足を止め、口を閉ざしてしまった入鹿を、古人は心配そうに見上げる。

「いえ、何でも」

 心に生じた疑惑を予感を振り払うように、彼は笑った。




「…何の音だ」

 更に道を進みながら、古人が呟いた。

 絶え間なく響く清らかで涼しげなその音は、先ほどから入鹿も耳に留めていた。

「湧き水でもあるのでは」

「それは丁度いい。喉が渇いていたのだ、入鹿探せ」

 肩をすくめて、入鹿は右手の山肌に、目を向ける。

 ごつごつとした地肌は、苔に覆われ、あちこちから草の芽が伸びている。湿った地肌は、いかにも中に水分を多く含んでいそうで、その割れ目の何処からでも、水はこんこんと湧いてきそうに見えるのだが。


 視線を前方に向けると、見知らぬ男の姿が目に入った。

 岩に足をかけよじ登り、上方に手を伸ばし、バランスの悪い体制で、必死に何かを掴もうとしている。

(いや、違う)

 手にしているものに、何かを入れようとしている。それが湧き水なのだと気付き、入鹿は歩調を早める。

 そして入鹿の目の前で、その男は、上から落ちてきた。

「大丈夫ですか」

 思わず声を掛ける。

 落ちてきた男は、「痛い」と呻きながら、しきりに右の足首をさする。どうやら、着地の際に捻ったらしい。

「あ、ああ、大丈夫…」

 声を掛けてきた者の存在に気付いて、男は無理に笑顔を見せた。

 緑の冠に緑色の衣。着古した感じのその衣は、元の鮮やかな色味を失ってしまっている。がたいが大きく、ゆったりとした動作、笑うとなくなってしまう細い目。親しみやすい風貌の男だった。

「水を」

 そう言って、男は落ちてきた先を指差す。

「水を汲もうと思ったのだけれど…、鈍くさいから落ちてしまってね」

 自嘲する男の手から、入鹿は竹製の水筒を奪って言った。

「取ってきますよ」

「え、でも」

 男の躊躇いなど、意にもかけずに、彼は岩場に足をかけた。

「入鹿~、私にも頼むぞ」

 追いついてきた古人が、下から声を掛ける。

 冷たそうな湧き水を、二つの水筒に満たして、入鹿は山路に下りた。

「すまないねえ。子どもが、熱を出してしまって、少しでも冷たい水が欲しくて…。私はこの山の麓に住む高向王(タカムク)

 高向王。

(…聞いたことがない)

「王」の呼称は、大王から数えて、五世まで名乗れる。

 元々、大王の一族などは、子どもが多い。その子どもが、またそれぞれに子孫を作り…どんどん枝分かれしていく訳だから、王とは言っても名ばかりで、誰からも知られていない存在の者も少なくはないのだ。

「よく似ているけれど、君たちは兄弟?」

 古人と目を見合わせてから、否定した。

「いいえ。従兄弟同士の関係になります。私は、蘇我毛人が一子、入鹿。こちらが、田村皇子の子息、古人皇子です」

 自己を紹介すると、高向王は、意外なことを言った。

「田村皇子だったら、知っているよ。妻の伯父に当たる方だ」



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