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炎―かぎろひ―  作者: 紗夏
第2章 見えない楔
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薄暮の塒

「――痴れ者」

 投げつけられた言葉と共に、飛んできた掌が小気味いい音を響かせて、入鹿の頬を張り飛ばした。

「って」

 痛みに歪む息子の顔など、毛人はまるで頓着せずに、古人の方を見やった。

 止利が鋳型に流し込んだ溶銅に興味津々だった古人は、つい好奇心に負けて、まだ熱かったその中味に手を触れてしまったのだ。

 すぐに引っ込めたし、即工房の裏を流れる飛鳥川で冷やしてみたものの、水ぶくれの火傷になってしまった。

 毛人の住まう豊浦の屋形に三人で戻り経緯を、毛人に話終える前に飛んできたのが、先ほどの罵声と平手だった。


「皇子、工房などには近づいてはなりません。あそこは、貴方が近づくような場所ではない」

 古人の滑らかな手を撫でながら、毛人はさも心配げな声を出した。

「毛人、だが、入鹿に工房に連れていけとせがんだのは、この私だ。それに、この火傷も私の不注意だ。入鹿を責めるには及ばぬ」

「いいえ。大郎めが悪うございます。ささ、皇子はこちらへ。舶来の良き薬がございます」

 門前に入鹿と山背を取り残したまま、毛人は古人を連れ、屋形の奥へ入っていこうとする。

 ひかれた手に抗いながら、古人が申し訳なさげに、入鹿の方を見るのを、入鹿は手振りで気にするな、と伝えた。

「良かったな、山背」

 父の背中が完全に見えなくなってから、ぽつりと入鹿は呟いた。

「何が」

「父上の無事が確認出来ただろ」

 皮肉に笑って、入鹿は庭に回りこむ。

 甘樫丘の麓、飛鳥川が流れる脇に、毛人の住む豊浦の屋形も、嶋の屋形ほどではないが、広大な土地に、贅を尽くして建てられた。

 めぐらされた柵、昼夜問わず番人を配した門扉。その奥に、配された母屋と見張り台の意味もあろう高楼。そして、四季折々の草花を楽しめる庭。

 今は、楓や銀杏の樹の葉が、紅く染まり始めていた。

「お前こそ大丈夫か、それ」

 入鹿の後を歩きながら、山背は彼の仄白いカンバセの赤みを指差した。

「音の割には、痛くなかった。実の息子より、育ての君だぜ、全く容赦ないよなあ」

 入鹿がぼやくと、くすくすと背後から笑い声が聞こえた。

 咄嗟に振り返ると、回廊を歩いていた女性がゆっくりとキザハシを降りて、入鹿と山背の元に近づいてきた。

「また、諍われたとか」

 優雅な笑みを湛えて、彼女は入鹿の行動をちくりと刺した。

「いいえ、一方的に怒鳴られただけです、法提ホテ様」

 入鹿は苦く笑ってから、彼女の名を呼んだ。

 彼女こそが、田村皇子の寵妃で、蘇我毛人の妹、そして古人の母である法提郎女ホテノイラツメだった。

 毛人の末の妹なので、入鹿とも年は十も変わらない。大きな瞳、紅くぷっくりした柔らかそうな唇は、一目で古人と血の繋がりを思わせるほど、似ている。

 薄絹の下の白きに過ぎる肌は、彼女の腕を走る赤や青の血の管すらも、鮮やかに浮き立たせ、それが儚げで、尚更男の庇護欲をそそる。傾国の美女と言っても差し支えない艶やかさだ。

「お体の調子は如何ですか。このような所に出て障りは」

 庭に吹き始めた夕刻の風から、彼女の身体を庇うように、入鹿は風上に立った。

 兄、毛人の病が移ってしまったか、ここしばらく法提は、原因不明の咳が続き、床に臥せっている日が多いのだという。

 入鹿が古人を連れ出したのも、母の病に気鬱になった少年を慰めたく思ったからに他ならない。

「ご心配には及びません。滅多にこちらに姿を見せぬ、入鹿殿がおいでになったと伺えば、奥で寝てなどおれませんわ」

 袖で口元を隠し、法提はふふと笑う。

「古人に怪我を負わせてしまって、申し訳ありません」

 珍しく謝罪の言など口にする、入鹿に山背は意外な思いがした。

「それで、貴方は兄に叩かれたとか」

 法提は、ゆっくりを袖口を入鹿の顔に近づけた。

 まだ彼の顔に残る赤みに、そっと触れるか触れないかの距離に、白い指が伸ばされた。

「私も拝見しましたが、男の子ならば、あの程度の怪我は日常茶飯事。兄は、古人のことになると、些か過敏になりすぎます。お許しくださいね、入鹿殿」

「ええ、わかってるつもりです」

 法提が思い至らぬ先にまで、入鹿は疾うに気付いている。

 父は、古人を大王の地位に即けたいのだと。

 幼き頃より、この手で育て、自分の妹を母に持つ彼に、恐らく今度は、己が娘を、后につけて。

 だから、過剰なまでに、保護する。風邪のひとつもひかせぬようにと、用心する。万が一の間違いも起きてはならない、古人こそが、毛人にとっては、掌中の珠だからだ。

「お体、ご自愛ください」

 言い残すと、入鹿はさっと毛人の屋形を辞した。


「綺麗な方だなあ。我が母と姉妹とは到底思えぬ」

 入鹿の後を歩きながら、山背はまだ彼女の妖艶な姿を目蓋から消しきれないで嘆息した。

「そうだな」

 山背の言葉に、相槌を打つ入鹿の声は、しかし何処か上の空だ。

 法提の持つ元々色白の肌が、更に透明度を増していた。

 それは美しさというよりも、消え入りそうな儚さで、入鹿に不吉な予感しか与えなかった。

(自分の思い過ごしで、何も、なければいいのだが)

 拭い去れない不吉な予感に苛まれる入鹿に、山背は全く違うことを問いかけてきた。


「なあ。どうしてお前と叔父上って、仲悪いの?」

 あまりに真っ直ぐな質問に、思わず立ち止まって、山背の顔を凝視した。

 聞いてどうするんだ、そんなこと。

 逆に問いかけてやりたいくらいだったが、彼の答えが明確に想像出来てやめた。他意も悪意もなさげな山背の瞳は、純粋に彼と父親の間を、憂いているように見えたから。

「別に不仲なわけじゃない」

 良くも無いだけだ。

 答えにならない答えを呟いて、入鹿は再び歩き出す。

 昔から父は自分にあんな態度だし、それを冷たいとか、厳しいとか思うほど、入鹿も父に期待していない。

 幼い頃から、別の屋形に起居し、大して接点も持たずに過ごしたその人を、父だから、というだけで、敬う気にも、従う気にもなれないだけだ。

 そして、入鹿のそんな感情を見抜いたように、毛人は殊更に居丈高に振舞うから、余計に言葉を飲み込み、距離を置いてしまう。溝が深まる一方なのを、互いに感じながら、歩み寄る努力もしないのを、それでもいいと諦めてしまうのを、不仲というなら、きっとそうなのであろうが、あっさり認めてしまえるほど、割り切れない。

(そんな胸中)

 山背にいちいち語ることでもないし、説教なんかされるのは、もっと嫌だ。

「それより」

 入鹿は話題をすり替えた。

「あんた何処に向かってる?」


「何処って…」

 入鹿の素朴な疑問に、はっと山背は我に返った。

(愛馬を)

 豊浦の屋形の厩舎に繋いできたままだ。

 徒歩カチで来たのか、駒で来たのか、忘れてしまうほど。

 歩き出した入鹿の背中が、やけに寂しげに見えて、放っておけなかっただけだ…。

 そんなことを言ったら。

 心外だ、と綺麗な顔を皮肉に歪めて、こっちの顔も見ずにスタスタ、歩調を早めて行ってしまうんだろうな。

(傍目に、とても脆く見えるのに)

 入鹿は、その脆さを気取られるのを、極端に嫌う。

 感情をさらけ出すのも、言葉にするのも、彼が苦手なのは、家族の愛情に恵まれてないせいもあるのだろうか…。

 と言うか。

(俺が恵まれすぎているだけなのか…?)

「お前、徒歩カチで屋形に戻るのか?」

「ああ。然程遠くはないし」

「今、駒とって来るから、乗せてやるよ、屋形まで」

 山背の好意の申し出を、入鹿はぶっと吹きだした。

「は? いらねえよ。子どもじゃあるまいし」

 成人した男がふたりで、ひとつの馬の背に揺られるのは、気恥ずかしいものなのだろうか。

「甘えるの下手だよなあ、お前」

 山背がしみじみ言うと。

「あんたに甘える気がないだけだっ。理由もな。いつまでも、俺をガキ扱いするのやめろ」

 照れたのか、本気で怒ってるのか、耳まで赤くして、入鹿はぷいとそっぽを向いた。

 …自分だって、俺のことをばか呼ばわりしたくせに。

 六年の間に、自分の背丈を追い越して。何もかもわかったような素振りで、偉そうな口をきいていても、山背にはどうしても、幼い頃の彼の姿が脳裡から離れない。

 虚勢を張って、張り切れなくて、泣き出したあの日のように、何処かで無理をして、肩肘を張ってるように思えて、ぞんざいな態度も言葉遣いも、心底から咎める気になれない。

(結局弟みたいなものだからな)

 血の繋がってるはずの長谷や舂米らよりも、ずっと近い存在に思っているのは、自分だけなのだろうか。

「じゃあ、俺は一人で帰るけど?」

「ああ、どうぞ」

 僅かに残っていた夕陽は、薄紫の空に覆われ始め、上弦の月が白く浮かび上がっている。こうなってしまうと、暮れるまではあっという間だ。秋の日暮れの早さに急き立てられるように、山背は再び豊浦の館へ急ぐ。



 次の満月を見ることなく法提郎女は、この世を去った。




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