薄暮の塒
「――痴れ者」
投げつけられた言葉と共に、飛んできた掌が小気味いい音を響かせて、入鹿の頬を張り飛ばした。
「って」
痛みに歪む息子の顔など、毛人はまるで頓着せずに、古人の方を見やった。
止利が鋳型に流し込んだ溶銅に興味津々だった古人は、つい好奇心に負けて、まだ熱かったその中味に手を触れてしまったのだ。
すぐに引っ込めたし、即工房の裏を流れる飛鳥川で冷やしてみたものの、水ぶくれの火傷になってしまった。
毛人の住まう豊浦の屋形に三人で戻り経緯を、毛人に話終える前に飛んできたのが、先ほどの罵声と平手だった。
「皇子、工房などには近づいてはなりません。あそこは、貴方が近づくような場所ではない」
古人の滑らかな手を撫でながら、毛人はさも心配げな声を出した。
「毛人、だが、入鹿に工房に連れていけとせがんだのは、この私だ。それに、この火傷も私の不注意だ。入鹿を責めるには及ばぬ」
「いいえ。大郎めが悪うございます。ささ、皇子はこちらへ。舶来の良き薬がございます」
門前に入鹿と山背を取り残したまま、毛人は古人を連れ、屋形の奥へ入っていこうとする。
ひかれた手に抗いながら、古人が申し訳なさげに、入鹿の方を見るのを、入鹿は手振りで気にするな、と伝えた。
「良かったな、山背」
父の背中が完全に見えなくなってから、ぽつりと入鹿は呟いた。
「何が」
「父上の無事が確認出来ただろ」
皮肉に笑って、入鹿は庭に回りこむ。
甘樫丘の麓、飛鳥川が流れる脇に、毛人の住む豊浦の屋形も、嶋の屋形ほどではないが、広大な土地に、贅を尽くして建てられた。
めぐらされた柵、昼夜問わず番人を配した門扉。その奥に、配された母屋と見張り台の意味もあろう高楼。そして、四季折々の草花を楽しめる庭。
今は、楓や銀杏の樹の葉が、紅く染まり始めていた。
「お前こそ大丈夫か、それ」
入鹿の後を歩きながら、山背は彼の仄白い顔の赤みを指差した。
「音の割には、痛くなかった。実の息子より、育ての君だぜ、全く容赦ないよなあ」
入鹿がぼやくと、くすくすと背後から笑い声が聞こえた。
咄嗟に振り返ると、回廊を歩いていた女性がゆっくりと階を降りて、入鹿と山背の元に近づいてきた。
「また、諍われたとか」
優雅な笑みを湛えて、彼女は入鹿の行動をちくりと刺した。
「いいえ、一方的に怒鳴られただけです、法提様」
入鹿は苦く笑ってから、彼女の名を呼んだ。
彼女こそが、田村皇子の寵妃で、蘇我毛人の妹、そして古人の母である法提郎女だった。
毛人の末の妹なので、入鹿とも年は十も変わらない。大きな瞳、紅くぷっくりした柔らかそうな唇は、一目で古人と血の繋がりを思わせるほど、似ている。
薄絹の下の白きに過ぎる肌は、彼女の腕を走る赤や青の血の管すらも、鮮やかに浮き立たせ、それが儚げで、尚更男の庇護欲をそそる。傾国の美女と言っても差し支えない艶やかさだ。
「お体の調子は如何ですか。このような所に出て障りは」
庭に吹き始めた夕刻の風から、彼女の身体を庇うように、入鹿は風上に立った。
兄、毛人の病が移ってしまったか、ここしばらく法提は、原因不明の咳が続き、床に臥せっている日が多いのだという。
入鹿が古人を連れ出したのも、母の病に気鬱になった少年を慰めたく思ったからに他ならない。
「ご心配には及びません。滅多にこちらに姿を見せぬ、入鹿殿がおいでになったと伺えば、奥で寝てなどおれませんわ」
袖で口元を隠し、法提はふふと笑う。
「古人に怪我を負わせてしまって、申し訳ありません」
珍しく謝罪の言など口にする、入鹿に山背は意外な思いがした。
「それで、貴方は兄に叩かれたとか」
法提は、ゆっくりを袖口を入鹿の顔に近づけた。
まだ彼の顔に残る赤みに、そっと触れるか触れないかの距離に、白い指が伸ばされた。
「私も拝見しましたが、男の子ならば、あの程度の怪我は日常茶飯事。兄は、古人のことになると、些か過敏になりすぎます。お許しくださいね、入鹿殿」
「ええ、わかってるつもりです」
法提が思い至らぬ先にまで、入鹿は疾うに気付いている。
父は、古人を大王の地位に即けたいのだと。
幼き頃より、この手で育て、自分の妹を母に持つ彼に、恐らく今度は、己が娘を、后につけて。
だから、過剰なまでに、保護する。風邪のひとつもひかせぬようにと、用心する。万が一の間違いも起きてはならない、古人こそが、毛人にとっては、掌中の珠だからだ。
「お体、ご自愛ください」
言い残すと、入鹿はさっと毛人の屋形を辞した。
「綺麗な方だなあ。我が母と姉妹とは到底思えぬ」
入鹿の後を歩きながら、山背はまだ彼女の妖艶な姿を目蓋から消しきれないで嘆息した。
「そうだな」
山背の言葉に、相槌を打つ入鹿の声は、しかし何処か上の空だ。
法提の持つ元々色白の肌が、更に透明度を増していた。
それは美しさというよりも、消え入りそうな儚さで、入鹿に不吉な予感しか与えなかった。
(自分の思い過ごしで、何も、なければいいのだが)
拭い去れない不吉な予感に苛まれる入鹿に、山背は全く違うことを問いかけてきた。
「なあ。どうしてお前と叔父上って、仲悪いの?」
あまりに真っ直ぐな質問に、思わず立ち止まって、山背の顔を凝視した。
聞いてどうするんだ、そんなこと。
逆に問いかけてやりたいくらいだったが、彼の答えが明確に想像出来てやめた。他意も悪意もなさげな山背の瞳は、純粋に彼と父親の間を、憂いているように見えたから。
「別に不仲なわけじゃない」
良くも無いだけだ。
答えにならない答えを呟いて、入鹿は再び歩き出す。
昔から父は自分にあんな態度だし、それを冷たいとか、厳しいとか思うほど、入鹿も父に期待していない。
幼い頃から、別の屋形に起居し、大して接点も持たずに過ごしたその人を、父だから、というだけで、敬う気にも、従う気にもなれないだけだ。
そして、入鹿のそんな感情を見抜いたように、毛人は殊更に居丈高に振舞うから、余計に言葉を飲み込み、距離を置いてしまう。溝が深まる一方なのを、互いに感じながら、歩み寄る努力もしないのを、それでもいいと諦めてしまうのを、不仲というなら、きっとそうなのであろうが、あっさり認めてしまえるほど、割り切れない。
(そんな胸中)
山背にいちいち語ることでもないし、説教なんかされるのは、もっと嫌だ。
「それより」
入鹿は話題をすり替えた。
「あんた何処に向かってる?」
「何処って…」
入鹿の素朴な疑問に、はっと山背は我に返った。
(愛馬を)
豊浦の屋形の厩舎に繋いできたままだ。
徒歩で来たのか、駒で来たのか、忘れてしまうほど。
歩き出した入鹿の背中が、やけに寂しげに見えて、放っておけなかっただけだ…。
そんなことを言ったら。
心外だ、と綺麗な顔を皮肉に歪めて、こっちの顔も見ずにスタスタ、歩調を早めて行ってしまうんだろうな。
(傍目に、とても脆く見えるのに)
入鹿は、その脆さを気取られるのを、極端に嫌う。
感情をさらけ出すのも、言葉にするのも、彼が苦手なのは、家族の愛情に恵まれてないせいもあるのだろうか…。
と言うか。
(俺が恵まれすぎているだけなのか…?)
「お前、徒歩で屋形に戻るのか?」
「ああ。然程遠くはないし」
「今、駒とって来るから、乗せてやるよ、屋形まで」
山背の好意の申し出を、入鹿はぶっと吹きだした。
「は? いらねえよ。子どもじゃあるまいし」
成人した男がふたりで、ひとつの馬の背に揺られるのは、気恥ずかしいものなのだろうか。
「甘えるの下手だよなあ、お前」
山背がしみじみ言うと。
「あんたに甘える気がないだけだっ。理由もな。いつまでも、俺をガキ扱いするのやめろ」
照れたのか、本気で怒ってるのか、耳まで赤くして、入鹿はぷいとそっぽを向いた。
…自分だって、俺のことをばか呼ばわりしたくせに。
六年の間に、自分の背丈を追い越して。何もかもわかったような素振りで、偉そうな口をきいていても、山背にはどうしても、幼い頃の彼の姿が脳裡から離れない。
虚勢を張って、張り切れなくて、泣き出したあの日のように、何処かで無理をして、肩肘を張ってるように思えて、ぞんざいな態度も言葉遣いも、心底から咎める気になれない。
(結局弟みたいなものだからな)
血の繋がってるはずの長谷や舂米らよりも、ずっと近い存在に思っているのは、自分だけなのだろうか。
「じゃあ、俺は一人で帰るけど?」
「ああ、どうぞ」
僅かに残っていた夕陽は、薄紫の空に覆われ始め、上弦の月が白く浮かび上がっている。こうなってしまうと、暮れるまではあっという間だ。秋の日暮れの早さに急き立てられるように、山背は再び豊浦の館へ急ぐ。
次の満月を見ることなく法提郎女は、この世を去った。




