森で出会った魔族
王都を出て、半日ほど歩いた頃だった。
ルークは街道を外れ、王都近郊の森を歩いていた。
別に目的地があるわけではない。研究院を追い出されたばかりで、これから何をするかも決めていなかった。
宿に戻ってじっとしていても仕方がない。それなら少しくらい歩こう。何か珍しい生き物でも見つかれば、気分転換にもなる。
その程度のつもりだった。
王都の近郊なら、危険なモンスターもほとんどいない。
見かけるとしても、小型のスライムや角ウサギ。せいぜい、森ネズミや小型の魔鳥くらいだ。
「まあ、この辺なら危ないこともないか」
そう呟いた直後だった。
森の奥から、低い咆哮が響いた。
「……?」
ルークの足が止まる。
もう一度。地面を震わせるような、重い鳴き声。
「まさか」
音を立てないよう、木々の間を進む。
大きな岩陰から、そっと向こうを覗く。
そして。
「……ブラックホーン?」
思わず声が漏れた。
馬より一回り大きな身体。黒い体毛。額から前方へ伸びる二本の太い角。
間違いない。ブラックホーンだ。
「なんで、こんなところに……」
ルークの目が輝く。
ブラックホーンは本来、王都から遠く離れた山地や深い森林に生息するモンスターだ。王都近郊で見られるような種類ではない。
しかも危険度も高い。興奮した個体の突進を受ければ、人間など簡単に吹き飛ばされる。
だから。
「観察だけにしよう」
ルークは岩陰へ身を隠した。
鞄から研究ノートを取り出す。
『王都近郊の森林にてブラックホーン一頭を確認――』
そこまで書いたところで。
「……あれ?」
筆が止まった。
ブラックホーンの様子がおかしい。
地面を何度も前脚で掻いている。ときおり大きく首を振り、木の幹へ角を打ちつける。そして数歩進んでは、また同じ場所へ戻ってくる。
「威嚇……?」
最初はそう思った。
しかし。
「違うな」
ブラックホーンは、誰かを威嚇しているわけではない。こちらにも気づいていない。
それなのに落ち着かない。
地面を嗅ぐ。
掘る。
少し離れる。
また戻る。
「……何か探してる?」
ルークは目を細めた。
ブラックホーンは地面へ鼻先を近づける。
また低い声で鳴く。今度は、さっきより短い。
「この鳴き方……」
ルークの表情が変わった。
ノートをめくり、昔書いた記録を探す。
「ブラックホーンは群れで子育てをする。幼体が見えなくなった時、親個体は――」
もう一度、鳴き声。
短く。二度。
「……やっぱり」
ルークは岩陰から周囲を見回した。
親個体。
それなら。
「近くに子供がいる」
ブラックホーンが地面を掘っている場所を見る。
その先。少し下った場所に、小さな沢がある。
数日前の雨で、地面が崩れた跡。
「まさか」
ルークは慎重に移動した。
ブラックホーンから十分に距離を取ったまま、沢の方へ回り込む。
斜面の下。
倒木の陰から。
「……いた」
小さな黒い角が見えた。
ブラックホーンの幼体だった。
崩れた土と倒木の間に挟まり、動けなくなっている。
怪我はなさそうだ。ただ、自力では出られない。
「なるほど」
親個体は暴れていたのではない。
子供を探していた。
地面を掘っていたのも、何度も同じ場所へ戻っていたのも、すべてこの幼体の匂いを追っていたからだ。
ルークは少し考える。
このまま幼体へ近づけば、親に襲われる可能性が高い。
なら。
「直接触らない方がいいな」
周囲を見る。
倒木。蔓。傾斜。
ルークは丈夫な蔓を拾い、倒木へ引っかけた。
少し離れた位置から、てこのように動かす。
一度では動かない。
二度。
三度。
「あと少し……」
倒木がずれた。
幼体が身体をよじる。
隙間ができる。
次の瞬間。
小さなブラックホーンが飛び出した。
「よし」
幼体が鳴く。
すると、遠くにいた親個体が顔を上げた。
そして一直線に駆けてくる。
「うわ」
ルークはすぐ木陰へ下がった。
親個体はルークには目もくれず、幼体のもとへ走る。
鼻先を何度も押しつけ、幼体も親へ身体を擦りつける。
さっきまで地面を蹴り、角を木へ叩きつけていたブラックホーンは、嘘のように落ち着いていた。
しばらくして。
二頭は並んで森の奥へ歩いていく。
ルークはその背中を見送った。
「……やっぱり子供だったんだ」
ノートを取り出す。
『親個体は幼体を見失った際、通常の威嚇行動とは異なる短い二連鳴きを発する』
書く。
『探索中は鼻先を地面へ近づけ、同一地点を繰り返し掘る傾向あり』
「これは初めて見たな……」
夢中で筆を走らせる。
だから。
背後に誰かが立っていることに、まったく気づかなかった。
「……あんた」
「――っ!?」
ルークは飛び上がった。
振り返る。
そこに、一人の女が立っていた。
艶のある長い黒髪。
身にまとっているのは、黒を基調に深い紫の差し色が入った、動きやすさと気品を両立した装い。
腰には細身の剣。
そして頭部から伸びる、黒い角。
「……」
ルークの思考が止まる。
女がこちらを見ている。
「今、何をしたの?」
「…………」
「聞いてるんだけど」
ルークは一歩下がる。
背中に冷たい汗が流れた。
ブラックホーンより怖い。
王都近郊には、危険なモンスターすらほとんどいない。
まして魔族など。
いるはずがない。
「ま、魔族……?」
「そうだけど」
女の目が細くなる。
「ここで何してるの?」
「散歩を」
「散歩?」
「……そのついでにブラックホーンを見てました」
「見てた?」
「はい」
「今、あれを助けたでしょ」
「僕は木を動かしただけです」
「その前よ」
「?」
「あれが暴れてるって、いつ気づいたの?」
ルークは少し考える。
「鳴き声です」
「鳴き声?」
「ブラックホーンの威嚇音はもっと長いです。さっきのは短く二回ずつ鳴いてたので」
「……」
「それと同じ場所を何度も掘ってました。攻撃性が高まってるなら、もっと周囲全体に反応するはずです」
「それで、子供を探してると?」
「多分」
「多分で近づいたの?」
「幼体が見えたので、その時点ではほぼ確信してました」
「……」
女はルークをじっと見た。
「名前は?」
「ルークです」
「私はリゼット」
「あなた、何者?」
「研究者です」
「王国の?」
「今日までは」
「今日まで?」
「さっき研究院をクビになりました」
「……」
リゼットは少し考えたあと、森の奥を見る。
「ルーク」
「はい」
「あんた、今から暇?」
「……まあ」
無職なので。
「なら、少し付き合って」
この時のルークはまだ知らなかった。
この半ば連行とも言える誘いが、これまでとはまったく別の人生へ、自分を連れていくことになるなんて。
そして同じ頃。
王立研究院の飼育棟では、別の騒ぎが起きていた。
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