第07話 白銀
「——様、お嬢様ーっ!」
しばらくキャビィが羊の世話をする様子を眺めていると、遠くの方から響くレミィの呼ぶ声。
「レミィ、ここよ」
ソアラが応えれば呼び声は途切れ、代わりにメイド服の裾をたくし上げ、猛烈な勢いで走って来る彼女の姿が迫ってきた。
羊たちが驚いて距離を取ろうとする程の迫力。
レミィはまるで、飼い主を見つけた大型犬のように全身を大きく広げて飛びつこうとしたが、大岩の上に座っているソアラに届くはずもなく、岩の下で「う~、う~」言いながら飛び跳ねている。
そのレミィへ向けて飛び降りれば、彼女はソアラの身体を受け止め、ギュッと抱き締めた。
温かい。
まるでストーブのように火照った彼女の身体は、少し湿気を帯び、乱れた呼吸のまま、不規則に上下に動いていた。
「ハァ、ハァ……かったぁ。ハァ、ハァ、ほんとに」
「ほらレミィ、とりあえず落ち着いて。息、整えて?」
痛いほどに抱き締めてくる彼女の背中を擦りながら、レミィが落ち着くのを待つ。
ソアラにとってレミィは、姉同然であり、常に快活に笑顔でいる太陽のように眩しい存在だった。
そんな彼女が、ここまで取り乱す姿は見たことがなかった。
半日にも満たないこの僅かな時間、レミィに何があり、なぜこんなに取り乱しているのか。ソアラには理解できないでいた。
レミィの肌から感じる熱さとは別の温かいものが心に灯っていく。
柔らかな彼女の身体を抱き返しながら、ソアラはゆっくりと彼女へと尋ねた。
「どうしたの、レミィ? そんなに慌てて」
息を整えたレミィが腕の中からそっと抜け出す。
強く抱きしめていた両手は肩に添えられるだけになり、上気した顔から汗を滴らせながら、じっとソアラの顔を見つめていた。
「お嬢様……私、もしかしてと思って……本当に良かった」
「もしかして?」
「そうですッ! 何がその身に起こるか……お嬢様はご自分の価値を理解されていなさすぎます!」
「追放された私に、もう、価値なんて――」
「そういうところですよッ! その身なりも、その美しいお顔も、声も、家格も、かつてのお立場だって。すべて……すべて、凡百の平民はおろか、並みの貴族ですら持ちえない価値なんですよッ!」
「……ッ、大、袈裟よ。そんなハズないわよ」
「あります! それに、何より……お嬢様がいなくなったら……」
レミィの頬を、雫が一条の軌跡を描いた。
「もう、側仕えは私だけしかおりません。目の届かない場所には行かないでいただきたいです」
「……私に、座ってるだけの置物になれ、と?」
「置物だなんて。お嬢様は居られるだけで価値があります」
「無いわよッ、そんな人生に価値なんてッ!」
「そんなことありませんッ」
「あるわよッ!」
口を開くたび、言葉を発するたび――喉の奥に、目の奥に、熱い感情が溜まっていくのをソアラは感じる。
これ以上はいけない。これ以上吐露すれば、きっと傷付けてしまう、と。
それでも、踏み出した足は止まらなかった。
「ありませんッ! それに、お嬢様はこれまで頑張ってこられたんですから……」
「そうよ、頑張ってきたわよ! でも……もう終わりなの? 私の人生――」
そんなソアラを引き留めるように、腕に添えられる手があった。
「ちょっといいかな?」
引き留めたのはキャビィ。
その手は、ソアラだけでなくレミィの腕も掴んでいる。
「ここで大声で喧嘩されると、羊が怯えて困るんだけど」
「え……あ、ごめん、なさい」
水を差す口実ではなく、本気で迷惑そうな表情だった。
「それと、お姉さん。ソアラ、ここにいるときは本当に楽しそうにしてたよ。いいじゃん、楽しいことしたって。いなくて心配なら、ボクのところに来たときは何か合図しようか? たとえば、歌を歌う、とか」
キャビィの提案を、渋ることなくレミィは受けた。
冬支度を疎かにすることのできないレミィにとっても、その提案は渡りに船だったのだろう。
ただし、提案を飲むのにいくつかの条件が付けられた。
一つ、離れるときは声をかけて了承を得てから。
一つ、離れた際は、必ずキャビィの所に顔を出すこと。
一つ、キャビィはソアラと一緒にいる際、牧歌でその所在を知らせること。
一つ、帰宅は陽が傾くまで。
まるで子どもとするような約束。
しかし、ソアラとキャビィはそんな約束をちゃんと守り、穏やかに日々を過ごしていった。
いよいよ本格的に雪が降り積もったある日、キャビィは鼠色の重い空を見上げながら、言葉を紡ぐ。その横顔は、少年らしさのない哀愁を帯びたものだった。
「ソアラ……明日からは、もう来ちゃだめだよ」
友人からの明確な拒絶。
予期していなかったその言葉の刃は、容易く胸に突き刺さり、痛みと疼きはソアラの足元さえ脆く揺らした。
それでも、努めて平静を装いながら、ソアラは彼の言葉の意味を問いただす。
わずか数日の付き合いだとはいえ、友人が無意味に人を切り捨てるような性分ではないことが分かっていたから。
「雪が積もり過ぎたからね。もう、明日からは羊たちを放牧できないと思う。だから、たぶんここに来ても、ボクはいないと思うからさ」
拒絶ではなかった。
ただの言葉足らず。ただの季節の移ろいによる理由。
安堵と少しの苛立ち、心の痛みが緩やかに引いていく。
「それなら……春になったら、また来て良いの?」
「もちろんだよ、絶対また来てよね」
問えば、不思議とキャビィの頬は染まっていた。
それはきっと、辺りを包む空気の冷たさのせいだけではないのだろう。
「ソアラ……あのさ、最後だし一緒に歌わない?」
「えっ」
「ほら、いつもボクが歌ってるだけだし。楽しいよ?」
「……たぶん、私、歌えないと思う」
「大丈夫、せーのっ」
キャビィの掛け声に、しかし歌声は重ならなかった。
ソアラの口は歌を紡がず、歌う心と同じように、ただぽっかりと穴が開いていただけだった。
「ソアラ、こうやってお腹から声を出すんだよ。あ~って」
「あああ」
「ほら、ここだって。下っ腹」
「ちょ、ちょっと! あ゛ッ!」
キャビィは唐突にソアラの下腹に手を添えると、その手を強く押し込んだ。
押し出されるように変な声を漏らしたソアラは、咎めるようにキャビィを睨みつけるが、その目に映るのは下心の一切ない純真。
「そうやって声を出すんだよ」
そんな様子で朗らかに笑われれば、怒るものも怒られない。
さらに、間髪容れず、手を引くように彼は声をかけた。
「ほらいくよ、せーのっ」
「――――あ……」
「せーのっ」
「――――ああぁ」
「せーのっ」
「――――あ~~」
まるで扉を叩くように、何度も何度も繰り返すキャビィと、応え、下腹部に意識を集中するソアラ。
何度も、何度も、そして――
「――ッ!? せーのっ」
「あ~ああ~~」
「ソアラッ!」
歌え……た?
そんな言葉も出せず、口を開けたまま友人の顔を見つめ返すソアラに、キャビィはその手を取って踊るように回りだす。
「歌えてるッ、歌えてるよ!」
喜ぶ友人に振り回されながら、ソアラの視界に映る世界は、白く美しく輝いていた。




