助ける巫女と拒む巫女(8)
陽向と霞は、一瞬にして景色が様変わりした世界を見渡していた。秋の夜風を微かに感じる路地裏にいたはずなのに、目の前には春の心地よい風が吹き抜け、風に乗った花びらがフワリと舞っていた。
「これは……桃の花……陽向さん、ここは一体どこですか?」
心地よい風と、心を優しく解きほぐす甘い花の香が、霞と陽向を包み込んでいた。
咲き誇る桃林の奥からは、川のせせらぎが聞こえてくる。二人は渇きを癒すようなその音に誘われ、吸い寄せられるように二、三歩足を進めた。
「霞ちゃん、足を止めて。ちょっと大変なことになってるかもしれない……『紅一閃』!」
陽向は、紅雷を鞘から引き抜くと、居合のごとく閃光の一撃を横一線に振り抜いた。
鋭い深紅の光が地を駆けて行った。だが、それっきり何の変化も起きない。目の前の桃の木一本すら、傷ひとつついていなかった。
「これは……一体どうなってるのですか? それにこの桃の花……何か意味があるのでしょうか」
霞もまた、この場所が単なる別世界などではないことに気づき始めていた。
「ここは、『桃源郷』かもしれない」
「とうげんきょう……あっ! 古典で習いました。たしか、漁師が川を遡ると、美しく咲く桃林の奥に、世間から完全に隔絶された平和な村を見つける物語……理想郷……。あれっ、陽向さん、なんだかとても気持ちいいです……身体がフワフワしてきました」
つい先ほどまでハキハキと喋っていた霞の瞳が、トロンと微睡み始めている。陽向はその様子を見て、即座に異常の原因を突き止めた。
(この香の中に、お酒が混ざっている。甘い香は桃の花だけじゃない!)
陽向は両手で霞の頬を挟み込むと、パチンと強い音を立てて叩いた。
「霞ちゃん、しっかりして! ダメだよ、いま眠ったらこの世界に取り込まれちゃう!」
陽向の強烈なビンタを受け、霞は微睡んでいた目をパチリと開けてハッと息を吹き返した。
「いったたたた……⁉ 陽向さん! すごく良い気持で……思わず眠りそうになってました」
霞は痛む頬を摩り、涙目になりながら慌てて周囲を見渡した。
「陽向さん、私の肩に掴まってください。ここを脱出します」
霞が風の神の力の一つである瞬間移動を試みた。陽向も迷わず右手を霞の肩にかける。
「行きます!」
霞が威勢よく声を張り上げた……が、二人の身体はその場を一ミリも動かずに、静止していた。
「えーっ! 力が……この世界を抜け出せない⁉」
霞が甲高い悲鳴を上げながら、助けを求めるような視線を陽向に向けた。
「そうみたいね。完全に閉じ込められたってことか。これは強力な固有結界の類……内側から破るのは不可能かもしれない」
「えーっ! そんなぁ―っ」
あまりにも深刻な陽向の言葉に、霞は絶望的な声を上げた。
「あーーあ、マジ洒落になんないんですけど。あいつ、あたしらがいること知ってて閉じ込めたんだ! ほらぁーっ、だから言ったじゃん。さっさと片つければよかったのに」
「声が大きいですわ。おかげで、しっかり気づかれたじゃないですか」
花が舞い散る空間に突如響き渡った二つの話し声に、陽向と霞は声の主を探そうと咲き乱れる桃の木の奥へと視線を向けた。




