巫女の務め(12)
街から離れた川沿いの道を、陽向と実菜穂が走り抜けている。その二人の背後を、巨体の猿鬼が後を追っていた。
一見すれば、二人の少女が凶悪な物の怪に襲われているシーンに見えるだろう。しかし、猿鬼の表情から険しさは完全に抜け落ちていた。それどころか、まるで親の後に必死でついていく子猿のようにどこか健気さを滲ませながら、素直に二人の足跡を追っている。
「陽向、もうそろそろいいかな?」
大きく跳ねるようなステップで跳びながら、実菜穂が隣を走る陽向に声をかけた。
「そうだね。人目も無さそうだし、このあたりなら誰も巻き込まずに済むか」
今まで猿鬼を誘導するように走っていた二人が、ぴたりと足を止めて一斉に向きを変えた。
猿鬼もそれに合わせて大きな地響きをたてて、立ち止まった。見上げるその背丈は、三メートルを優に超えている。人だかりの街でこの巨体が暴れようものなら、いったいどれ程の犠牲者が出たことだろう。
だが、猿鬼の狂暴な性格は、今は微塵も感じられず、目つきは驚くほど穏やかであった。
その要因は、二人の姿を見ればすぐに分かった。
実菜穂の身体から放たれている水色の神気が、まるで産着のように優しく猿鬼の巨体を包み込んでいる。万物を静寂と平穏へ導く、水面の神の力―――その確かな神気を実菜穂は備えていた。さらに実菜穂の背後では、陽向が神剣『紅雷』をいつでも抜けるよう構え、鋭い眼光を放っていた。
ただでさえ心穏やかに鎮められているのに、圧倒的な制裁の刃を突きつけられているのだ。抵抗する気など最初から起きるはずもなかった。
「もう、大丈夫だよ。君は、あの異質な空気に間違って迷い込んじゃっただけなんだよね。大人しく元の場所に帰ってくれたら、嬉しいな」
実菜穂が猿鬼に一歩近づき、小さな手を差し伸べた。すると巨体の猿鬼は静かに屈め、自ら大きな頭を差し出した。それはまるで犬や猫が飼い主に甘え、撫でてほしいと請うときの仕草そのものだった。
実菜穂は、ゴツゴツとした頬を優しく愛おしそうに頬を撫でていく。猿鬼はうっとりとした表情で、安らいだ目をしていた。
「さあ、お帰り。もう、街に出て暴れちゃ駄目だよ」
実菜穂と陽向に送られ、猿鬼はゆっくりと山のある方向へと歩きだした。
あたりは既に夜の闇に染まり、暗がりの中に巨体の姿が溶け込もうとしたその瞬間だった。漆黒の闇の中から目にも止まらぬ速さで、一つの影が滑り落ちてきた。
本当に一瞬の出来事であった。
凄まじい太刀筋が一閃し、猿鬼の首が宙を舞った。地面に崩れる巨体と、その傍らに落ちた頭部。血飛沫が舞う凄惨な光景の真ん中に、その正体は立っていた。
「なに……?」
突発的な出来事に実菜穂が呆然として、正体を見極めようと目を凝らした。陽向も紅雷の柄に手をかけ、迎撃態勢を取る。
静まり返った夜の川辺で、実菜穂と陽向は、得体の知れない強襲者を見つめた。
(……女の子⁉)
二人は一瞬顔を見合わせ、目の前に佇む少女の姿を瞳に焼き付けた。
それは、小学生くらいにしか見えない幼い少女だった。ショートヘアを揺らし、黒い袴を身に付けた巫女姿だった。
幼さの残る手には、一振りの中刀が握られている。陽向が持つ大ぶりな紅雷に比べると短いが、小学生の女の子の身体には最も扱いやすい長さの刀であった。
黒い巫女の少女が、ゆっくりと実菜穂と陽向の方に視線を向けた。
(この子、なんて目をしているの……)
実菜穂は少女の瞳を見て、言葉を失った。
物の怪とはいえ、無情にも首を切り捨てた彼女の瞳は、あまりにも悲しく、そして寂しく、それなのに、苛烈なまでに怒りの炎を宿していたからだ。
やがて少女は、実菜穂と陽向を拒絶するように、小さな唇を震わし、こう告げた。
「そんな、甘いことしないで」
少女は冷たく言い放つと、刀に着いた血を振り払い、二人の視線を断ち切るようにして静かに闇の中に消えていった。




