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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第6章 第15話:灰銀への要請


 小講義室の中に、焼き菓子の甘い匂いがかすかに残っていた。


 見届けクッキーの欠けを食べ終えた後も、その香りは机の上と指先に残っている。


 学園祭の午後は、朝とは別の顔になっていた。


 鐘は鳴らない。


 鈴も鳴らない。


 鐘形の飾りはすべて外され、白い紙片は透明な袋に封じられ、鐘楼と旧倉庫へ続く導線は青い布と警備班によって塞がれている。


 中庭の東側には、来場者が入れない。


 舞台では金属小道具を使わない演目だけが続けられ、出店区域も縮小されている。


 それでも、人の声は残っていた。


 完全な沈黙ではない。


 説明する声。


 案内する声。


 不安を抑えて笑おうとする声。


 子どもに「大丈夫よ」と言う母親の声。


 学園祭は傷ついた。


 でも、まだ終わってはいなかった。


 アルト・レインフォードは、小講義室の椅子に座って左手首へ触れた。


 痛みはない。


 熱は少し。


 声は遠い。


 扉へ来るな。


 鐘を鳴らすな。


 友達を近づけるな。


 その断片は、まだ銀環の奥に残っている。


 けれど、今は水の底に沈んでいるように遠かった。


 近くにあるのは、もっと別の声だ。


 カイの、鍵じゃねえ、アルトだ、という声。


 ミリアの、あなたを一人にすることを最初の答えにはしない、という声。


 リゼの、あなたは危険そのものではありません、という声。


 ユリウスの、本人意思を軽く扱いすぎています、という声。


 クラウスの、王宮式類似封印片は本人移送の理由ではない、という声。


 それらの方が近い。


 だから、アルトは今、椅子に座っていられる。


「状態」


 リゼ・グレイスが尋ねた。


 彼女はアルトの左前に立っている。


 灰銀の髪は少し乱れているが、制服の襟は整えられていた。


 剣を抜いたわけではない。


 だが、今日一日、彼女は剣を抜かないために何度も自分を止めてきた。


 その疲労が、わずかに目元に出ている。


「痛みなし。熱少し。声あり、遠いです」


「現在地」


「小講義室。小さな灯の焼き菓子店の近く」


「名前」


「アルト・レインフォード」


「役割」


「小さな灯の焼き菓子店の店員。今は休憩中です」


「感情」


「疲れています。怖さはあります。でも、少し落ち着いています」


「良好です」


 リゼは記録帳に短く書いた。


 その手つきはいつも通りに見える。


 けれど、アルトは気づいていた。


 リゼの指先が、少しだけ硬い。


 小講義室の反対側では、ミリア・ファルネーゼが静かに椅子へ座っていた。


 彼女は先ほどロウ教師に「場を整えるために疲労を隠すな」と言われてから、ようやく座った。


 膝の上には、淡橙色のリボンの予備がある。


 無意識に指で触れかけ、途中で止める。


 結ぶためではない。


 何かを確かめるための動きだった。


 カイ・ロックハートは扉の近くにいた。


 店が気になる。


 それは顔に出ている。


 見届けクッキーの残数も、きっと頭の中で数えている。


 だが、ロウ教師に「顔に出ている」と言われてから、彼は何度か眉間を揉んでいた。


 隠そうとしているのだろう。


 隠せてはいない。


 それも含めて、少しだけ日常の匂いがした。


 扉が叩かれた。


 今度は一度だけ。


 ためらうような、しかし正式なノックだった。


「エレオノーラです。入室よろしいでしょうか」


 リゼがアルトを見る。


 アルトは左手首を確かめる。


 痛みなし。


 熱少し。


 声遠い。


「大丈夫です」


 扉が開き、エレオノーラ・ヴィンスフェルトが入ってきた。


 白い制服の袖口に、まだ記録用の黒い粉が少しついている。


 紙片の保全作業をしていたのだろう。


 彼女は室内に入ると、まずアルトの状態を視線で確認し、それからリゼへ一枚の封書を差し出した。


「リゼ・グレイスさん宛です」


 リゼの動きが止まった。


「私宛ですか」


「はい。王宮連絡員より、学園長経由で届きました。学園長が開封前の共有を求めています。内容の分類は、王宮からの協力要請です」


 協力要請。


 その言葉に、アルトの左手首が少し熱を持った。


 痛みはない。


 声も遠い。


 だが、胸の奥が硬くなる。


 王宮。


 リゼ宛。


 協力。


 その三つが、嫌な形で繋がりかける。


 リゼは封書を受け取らなかった。


 まず、エレオノーラの手元を見た。


 封蝋。


 文面の表記。


 宛名。


 差出部署。


「外見上の異常は」


 リゼが尋ねた。


 エレオノーラは即答する。


「封蝋は現王宮の正式通信封。差出は王宮監察局補助室。オルド監察官の名は直接記されていませんが、監察官付の処理印があります。封そのものは正式です」


 ミリアの目が細くなる。


「正式な封」


「はい。少なくとも外見上、偽装ではありません」


 カイが低く言う。


「正式なら余計に面倒ってやつか」


 エレオノーラは否定しなかった。


「はい」


 リゼは一拍置いて、封書を受け取った。


 その瞬間、アルトの左手首が熱を持つ。


「痛みなし。熱中より少し弱い。声遠い。リゼさん宛の王宮封書を見ています」


 リゼがすぐにこちらを向く。


「現在地」


「小講義室」


「感情」


「怖いです。リゼさん宛なのが怖いです」


 リゼの瞳がわずかに揺れた。


 ミリアが静かに言う。


「リゼさんのことだから、アルトさんにも負荷があるのね」


「はい」


 アルトは答えた。


「僕の移送だけじゃなくて、リゼさんまで何か言われる気がします」


 リゼは封書を見つめた。


 灰銀の瞳に、冷たい光が差す。


「開封します」


 エレオノーラが記録板を構える。


「立会人を記録します。リゼ・グレイスさん、ミリア・ファルネーゼさん、カイ・ロックハートさん、アルト・レインフォードさん、エレオノーラ・ヴィンスフェルト。必要であればユリウス先輩を呼びます」


 リゼは少し考えた。


「呼んでください。王宮文書です」


「了解しました」


 エレオノーラは扉の外へ短く指示を出した。


 すぐにユリウス・エインズワースが来た。


 学園長室での協議から一時的に戻ってきたらしく、表情は硬い。


「リゼ宛の王宮文書?」


「はい」


 ユリウスは封を確認し、眉を寄せた。


「正式封だ。開封していい。ただし、内容は学園記録にも残す」


 リゼは頷いた。


 封蝋を丁寧に切る。


 紙が開かれる音が、小講義室にやけに大きく響いた。


 アルトの左手首がまた熱を帯びる。


 王宮の紙。


 正式な紙。


 偽装ではない。


 だからこそ、逃げ道が少ないように見える。


 リゼは文面へ目を落とした。


 読み進めるごとに、彼女の顔から温度が消えていく。


 ミリアがそれを見て、ほんの少し唇を引き結んだ。


 カイは扉の近くで身を乗り出しかけ、必死に止まっている。


 アルトは左手首を押さえた。


「リゼさん」


 思わず呼ぶ。


 リゼは顔を上げた。


「はい」


「状態は」


 自分でも、逆に聞いたことに少し驚いた。


 リゼも一瞬だけ瞬きをした。


 それから、静かに答える。


「不快です。警戒があります。怒りもあります」


 ミリアが小さく頷く。


「言えているわ」


 リゼは文面を机へ置いた。


「読み上げます」


 ユリウスが言う。


「負荷が高ければ途中で止めよう」


 アルトは頷く。


「聞きます」


 リゼは文面を見た。


「王宮監察局補助室より、王立学園在籍生リゼ・グレイスへ。学園祭における保護対象関連事案発生を受け、灰銀の戦乙女としての臨時保護協力を要請する」


 灰銀の戦乙女。


 その名が出た瞬間、部屋の空気が冷えた。


 リゼの名前ではない。


 リゼ・グレイスではない。


 戦場で呼ばれた名。


 王宮が便利に使いたがる名。


 アルトの左手首が熱くなる。


「痛みなし。熱中。声遠い。灰銀の戦乙女という呼称で反応しました」


 リゼが確認する。


「現在地」


「小講義室」


「感情」


「嫌です。リゼさんをそう呼ぶのが嫌です」


 リゼは少しだけ目を伏せた。


「私も嫌です」


 短い言葉だった。


 だが、はっきりしていた。


 カイが低く言う。


「続きは?」


 リゼは読み続けた。


「本件は、銀環反応を有する保護対象の安全確保、および学園内外に残存する可能性のある危険物排除を目的とする。貴殿は過去の戦時功績に鑑み、即応戦力として高い適性を有するものと判断される」


 即応戦力。


 カイが机を叩きそうになり、寸前で止めた。


 代わりに、自分の膝を掴む。


「ふざけんな」


 声だけが低く漏れた。


 ミリアの目も冷えている。


 エレオノーラのペンが止まらない。


 リゼは一拍置き、さらに読んだ。


「王宮側担当者の指示に基づき、必要時には保護対象の移送補助、周辺脅威の制圧、学園内警備経路の確保に協力されたし」


 保護対象の移送補助。


 周辺脅威の制圧。


 学園内警備経路の確保。


 アルトの胸が冷たくなる。


 それは、つまり。


 自分を王宮へ移す時に、リゼを使うということだ。


 自分が抵抗したら。


 学園が拒んだら。


 誰かが止めようとしたら。


 リゼを、灰銀の戦乙女として、道を開かせる。


 アルトの左手首に痛みが走った。


「痛み少し。熱強。声遠いけど揺れています」


 リゼが即座に文面から顔を上げる。


「現在地」


「小講義室」


「名前」


「アルト・レインフォード」


「感情」


「怖いです。僕のせいで、リゼさんがまた王宮に使われるなら」


「停止」


 リゼの声が鋭く響いた。


 アルトは息を止めた。


 リゼは文書を机に置き、まっすぐアルトを見た。


「あなたのせいではありません」


「でも」


「違います」


 その声は、戦場の剣よりも強かった。


「あなたが存在することは、私が王宮に使われてよい理由にはなりません」


 アルトの胸が震えた。


 その言葉は、かつてリゼがアルトへ言った言葉に似ていた。


 あなたが存在することは、誰かがあなたを利用してよい理由にはなりません。


 今度は、反対だった。


 アルトが存在することは、リゼが使われてよい理由にはならない。


 左手首の痛みが少し引いた。


 熱はまだ強い。


 だが、形が変わる。


 ミリアが静かに言う。


「リゼさんの言う通りよ。これは王宮の文面の問題であって、アルトさんの存在の問題ではないわ」


 カイが続ける。


「お前のせいじゃねえ。王宮が勝手にリゼを使おうとしてるだけだ」


 ユリウスの声も低い。


「この文面は明確に問題がある。本人意思不在、学園長承認なし、リゼを戦力として扱う文言。正式封であることと、適切であることは違う」


 エレオノーラが記録する。


「ユリウス先輩見解。正式封と内容適切性は別。本人意思不在、学園長承認なし、戦力扱い文言あり」


 リゼは文書を見下ろした。


 灰銀の戦乙女。


 即応戦力。


 制圧。


 移送補助。


 その言葉が、彼女の前に並んでいる。


 アルトには、紙の上の文字が見えない。


 けれど、そこに剣のような言葉があるのはわかった。


 リゼは静かに言った。


「私は王宮の剣ではありません」


 小講義室の中に、その言葉が落ちた。


 誰もすぐには動かなかった。


 リゼは続ける。


「私は現在、王宮で剣を振るうことを望んでいません。本人意思なき移送への協力も、学園内での武力制圧要請も受けません」


 カイが深く息を吐いた。


「言ったな」


「はい」


「もう一回言ってもいいぞ」


 リゼは少しだけカイを見た。


 そして、もう一度言った。


「私は王宮の剣ではありません」


 アルトの左手首の熱が、少し下がった。


「痛みなしに近い。熱中。声遠い。リゼさんが王宮の剣ではないと言って、少し安心しました」


 リゼは一瞬だけ目を伏せた。


「記録します」


 エレオノーラが先に言った。


「学園公式記録にも残します」


 ミリアは文書を見た。


「リゼさん、この文面を整理してもいいかしら」


「お願いします」


 ミリアは机の上に紙を置き、問題点を一つずつ言葉にした。


「一つ目。宛名はリゼ・グレイスさんだけれど、呼称は灰銀の戦乙女。個人ではなく戦時称号を前面に出している」


 リゼが頷く。


「はい」


「二つ目。臨時保護協力という言葉で柔らかく見せているけれど、内容には移送補助、脅威制圧、警備経路確保が含まれている。実質的な武力協力要請」


 ユリウスが頷く。


「その通りだ」


「三つ目。アルトさん本人の意思に触れていない。保護対象という語のみ」


 アルトの左手首が少し熱を持つ。


 だが、痛みはない。


「痛みなし。熱少し。声遠い。保護対象という言葉は嫌ですが、整理として聞けます」


 ミリアが頷く。


「四つ目。学園長の承認や生徒としての立場が抜けている。リゼさんを、学園所属生徒ではなく王宮が直接使える戦力として扱っている」


 カイが低く言う。


「完全に駄目だろ」


「ええ。駄目だと思うわ」


 ミリアは柔らかく、しかしはっきりと言った。


「この文面は、リゼさんを人ではなく戦力として扱っています」


 リゼの指が、記録帳の端を押さえる。


「はい」


 声は静かだった。


 でも、揺れている。


 アルトはリゼを見た。


「リゼさん」


「はい」


「リゼさんは、資源ではありません」


 リゼの灰銀の瞳が、アルトを見た。


 アルトは続ける。


「戦力でも、王宮の剣でもありません」


 少し間が空いた。


 ミリアがそっと目を伏せる。


 カイが唇を結ぶ。


 リゼは息を吸い、ゆっくり吐いた。


「はい」


 短い返事。


 それだけだったが、十分だった。


 ユリウスが言う。


「正式回答を作ろう。リゼ本人の意思、学園所属生徒としての立場、学園長承認なしの王宮直接要請への抗議、本人意思なき移送協力不可、武力制圧要請拒否。文面は僕とエレオノーラが整える。ミリアさん、貴族文書上の表現を見てもらえる?」


「もちろんです」


 カイが言う。


「俺は?」


 ユリウスが少し考える。


「怒りすぎないでいてくれると助かる」


「それ、仕事か?」


「重要な仕事だ」


 リゼが真面目に言う。


「カイさんの怒りは妥当です。しかし文書作成時、机を叩くと紙が乱れます」


「叩かねえよ」


「良好です」


「だから今じゃなくていいって」


 アルトは少しだけ笑った。


 この状況で笑えることに、自分でも驚く。


 でも、その笑いは軽薄なものではない。


 みんながここにいるから出る笑いだった。


 エレオノーラが新しい紙を用意した。


 リゼは椅子へ座る。


 彼女が座るのを、アルトは今日初めて見た気がした。


 ずっと立っていた。


 ずっと警戒していた。


 ずっと誰かの前にいた。


 今、リゼは机に向かい、ペンを持つ。


 剣ではなく、ペンを。


 アルトはその姿を見て、胸が少し温かくなった。


 リゼは文面を考え始めた。


「王宮監察局補助室宛。リゼ・グレイスより回答」


 エレオノーラが隣で書式を整える。


 ユリウスが助言する。


「まず、正式封受領の確認」


 リゼが頷く。


「正式文書として受領しました」


 ミリアが補足する。


「ただし、内容については本人意思および学園所属生徒としての立場から回答する、という形が良いわ」


 エレオノーラが筆を走らせる。


「記載します」


 リゼは少し考え、言った。


「私は現在、王立学園所属生徒であり、学園内における行動は学園長および学園規則に従います」


 ユリウスが頷く。


「良い」


 リゼは続ける。


「私は灰銀の戦乙女としてではなく、リゼ・グレイス個人として回答します」


 ミリアの表情が柔らかくなる。


「とても良いわ」


 カイが小さく言う。


「いいな、それ」


 アルトの左手首が温かくなる。


「痛みなし。熱少し。声遠い。リゼ・グレイス個人として、という言葉で安心しました」


 リゼはペンを止めずに、わずかに頷いた。


「本人意思なきアルト・レインフォードさんの移送に対し、私は協力しません」


 アルトの胸が揺れる。


 リゼの言葉が、自分を守る盾になる。


 でも、それだけではない。


 リゼ自身の意思がそこにある。


「学園内における武力制圧要請についても、学園長指示および本人意思確認を伴わないものには応じません」


 ユリウスが補足する。


「王宮担当者の直接指示に基づく行動は拒否、と入れよう」


 リゼが頷く。


「王宮担当者からの直接指示に基づき、学園内で独自行動を取ることはありません」


 エレオノーラが書き取る。


 ミリアが表現を整える。


「協力を拒絶するだけではなく、必要な安全確認には学園を通じて協力可能、と書くと、反抗ではなく正式な手順の主張になるわ」


 リゼは考え、言った。


「危険物確認および生徒安全確保に関しては、学園長指示のもと、学園所属生徒として可能な範囲で協力します」


 カイが顔をしかめる。


「まだ協力って入るのか」


 ミリアが説明する。


「完全拒否にすると、王宮は“非協力的で危険”と書ける。手順を通せば協力する、と書くことで、問題は王宮の直接指示にあると示せるの」


「なるほど。腹立つけど、なるほど」


 ユリウスが頷く。


「ミリアさんの言う通りだ」


 リゼは最後に、少しだけペンを止めた。


「私は王宮の剣ではありません」


 彼女はそう呟いた。


 エレオノーラが顔を上げる。


「その文言を入れますか」


 ユリウスは少し迷った。


「正式回答としては強い表現だ。ただ、本人意思として記録する価値はある」


 ミリアが言う。


「文面本文ではなく、添付本人意思確認として記録するのはどうかしら」


 エレオノーラが頷く。


「可能です」


 リゼは静かに言った。


「入れてください。本人意思として」


 エレオノーラは別紙に記した。


 リゼ・グレイス本人意思。


 私は王宮の剣ではありません。


 私は灰銀の戦乙女という戦時称号ではなく、リゼ・グレイス個人として、学園所属生徒として、本人意思なき移送および武力制圧要請に協力しません。


 書かれていく文字を見て、アルトの胸が熱くなった。


 これはリゼの記録だ。


 誰かに書かされたものではない。


 王宮がつけた称号ではなく、リゼ自身の言葉。


「痛みなし。熱少し。声遠い。安心しています」


 リゼがアルトを見る。


「ありがとうございます」


 その言葉に、アルトは少し驚いた。


「僕が、ですか」


「はい。あなたが言ってくれました。私は資源ではないと」


 アルトは少しだけ首を横に振る。


「本当のことです」


「それでも、ありがとうございます」


 カイが言う。


「俺も言っとく。リゼは王宮の剣じゃない。あと、アルトは対象じゃない」


 ミリアが微笑む。


「では、私も。リゼさんは戦力ではなく、リゼさんです。アルトさんは保護対象だけではなく、アルトさんです」


 エレオノーラが記録する。


「周囲証言として残します」


 カイが少し慌てる。


「え、今のもか」


「はい」


「まあ、いいけど」


 ユリウスが小さく笑った。


「大事な証言だよ」


 正式回答が整う頃には、小講義室の空気は少し変わっていた。


 王宮からの文書は、確かに重かった。


 それはリゼを灰銀の戦乙女として呼び、即応戦力として扱い、アルトの移送と学園内制圧に協力させようとするものだった。


 だが、その文書に対して、リゼは自分の言葉で回答した。


 剣ではなく、ペンで。


 命令ではなく、本人意思で。


 エレオノーラが完成した回答文を読み上げる。


 リゼ・グレイス個人として受領。


 王立学園所属生徒として、学園長指示を優先。


 本人意思なきアルト・レインフォードの移送協力不可。


 王宮担当者の直接指示による学園内独自行動不可。


 武力制圧要請については、学園長指示および本人意思確認を伴わない限り拒否。


 危険物確認および生徒安全確保については、学園長指示のもと、可能な範囲で協力。


 添付本人意思。


 私は王宮の剣ではありません。


 読み上げが終わると、少しの沈黙があった。


 リゼは頷いた。


「この内容で提出します」


 ユリウスが受け取る。


「学園長へ届ける。学園長承認後、王宮へ返答する」


 リゼは「お願いします」と答えた。


 その声は疲れていた。


 けれど、折れてはいなかった。


 ユリウスが部屋を出ていく。


 エレオノーラも記録写しを持って続く。


 扉が閉まると、部屋の中は少し静かになった。


 リゼはペンを置いた。


 それから、ほんの少しだけ肩を落とした。


 ミリアがすぐに言う。


「座ったままでいて。立たなくていいわ」


「はい」


 リゼは素直に頷いた。


 それが少し珍しくて、カイが目を丸くする。


「リゼが素直に休んだ」


「現在、休息が必要です」


 リゼは真面目に答えた。


「自分で言えるなら良好だな」


 カイが得意げに言う。


 リゼは少しだけ瞬きをし、それから頷く。


「はい。良好です」


 アルトは笑った。


 左手首に痛みはない。


 熱は少し。


 声は遠い。


「僕も、少し安心しました」


 ミリアが微笑む。


「よかった」


 カイは布包みから、小さな焼き菓子の欠けを取り出した。


「王宮の剣じゃない用」


 ミリアが目を細める。


「今日の中では、かなり大事な用途ね」


「だろ」


 カイはリゼへ差し出した。


 リゼはそれを見た。


 少し迷ったようだった。


 だが、受け取った。


「ありがとうございます」


 彼女は小さく一口食べた。


 その姿は、灰銀の戦乙女ではなかった。


 戦場で敵を斬る剣ではなかった。


 王宮が呼び出せる即応戦力でもなかった。


 小講義室で、友人から渡された焼き菓子を食べる、一人の生徒だった。


 アルトの胸が温かくなる。


「痛みなし。熱少し。声遠い。リゼさんが焼き菓子を食べています。安心しています」


 リゼが記録しようとして、手を止めた。


 ミリアが柔らかく言う。


「今は食べていていいのよ」


「はい」


 リゼは記録帳を閉じた。


 その時、扉の外から軽いノックがあった。


 エレオノーラの声が戻ってくる。


「追加連絡です。小さな灯の焼き菓子店について、準備委員会より確認が来ています。再開するか、休止を継続するか、出店班の判断を求められています」


 部屋の中の空気が、わずかに変わった。


 小さな灯の焼き菓子店。


 今日、何度も狙われた場所。


 戻る場所。


 測定印を混ぜられた場所。


 オルドが来店した場所。


 看板裏に、戻ってこいと書いた場所。


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声遠い。


 疲れている。


 怖い。


 でも、店のことを聞いて、胸の奥に小さな光がともった。


 閉じたまま終わるのは、やはり嫌だった。


 けれど、すぐには言えなかった。


 リゼも、ミリアも、カイも、アルトを見る。


 誰も急かさない。


 エレオノーラも扉の外で待っている。


 アルトはゆっくり息を吸った。


「今すぐは、まだ決められません」


 正直に言った。


「でも、看板を見に行きたいです。そこで、少し考えたいです」


 ミリアが頷く。


「ええ。そうしましょう」


 カイも言う。


「看板、見に行こう。店は逃げねえ」


 リゼは椅子から立ち上がろうとして、少しだけ止まった。


 休息が必要。


 自分で言ったばかりだ。


 それでも、彼女はゆっくり立った。


「同行します」


 ミリアが尋ねる。


「出店班として?」


 リゼは一拍置いて答えた。


「はい。出店班として。そして、私自身がそこへ行きたいからです」


 アルトの左手首が淡く温かくなる。


 痛みはない。


 声も遠い。


 扉へ来るな、という声は、まだ水底にある。


 でも、今向かうのは、一人で開ける扉ではない。


 友達と一緒に、看板を見に行くのだ。


 小さな灯の焼き菓子店へ。


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