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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第6章 第16話:それでも灯を消さない


 小講義室の扉を開けると、中庭の音が戻ってきた。


 けれど、それは朝の音ではなかった。


 金属の響きは、どこにもない。


 鐘楼の大鐘は沈黙し、小鐘飾りは保全され、鈴も鐘形の飾りも外されている。


 舞台から聞こえるのは、木の床を踏む足音と、人の声だけだ。


 風に揺れる布飾り。


 紙ではなく布に替えられた案内札。


 来場者をゆっくり誘導する準備委員会の声。


 少し低くなった笑い声。


 それでも、中庭に人はいた。


 学園祭は終わっていなかった。


 傷ついたまま、形を変えて続いていた。


 アルト・レインフォードは、左手首に触れた。


 痛みはない。


 熱は少し。


 声は遠い。


 扉へ来るな。


 鐘を鳴らすな。


 友達を近づけるな。


 その声は、まだ消えたわけではない。


 けれど今は、水底に沈んだ古い鐘のように遠かった。


 近くにあるのは、石畳の感触。


 薄くなった焼き菓子の甘い匂い。


 リゼ・グレイスの足音。


 ミリア・ファルネーゼの衣擦れ。


 カイ・ロックハートが少し先で「看板、まだ立ってる」と言う声。


 それらだった。


「状態」


 リゼが隣で尋ねる。


 彼女は剣に触れていない。


 記録帳も今は閉じている。


 ただ、アルトの歩く速度に合わせている。


「痛みなし。熱少し。声あり、遠いです」


「現在地」


「中庭東側から小さな灯の焼き菓子店へ移動中です」


「名前」


「アルト・レインフォード」


「役割」


「小さな灯の焼き菓子店の店員。今は、看板を見に行っています」


「感情」


「怖いです。でも、少し……戻りたいです」


「良好です」


 リゼはそれだけ言った。


 記録はしなかった。


 今は、歩く時間だった。


 ミリアがアルトの右側を歩く。


 疲れているはずなのに、背筋は伸びていた。


 しかし、いつもの完璧な微笑みではない。


 少し弱く、少し素直な表情だった。


 ロウ教師に「疲労を隠すな」と言われたことを、ちゃんと守っているのだろう。


 カイは先に進み、店の周辺を見ていた。


 走らない。


 急に箱へ触れない。


 看板に触る前に、周囲を確認する。


 それから振り返る。


「看板、無事だ」


 その言葉で、アルトの胸が少し温かくなった。


 小さな灯の焼き菓子店。


 看板は、そこに立っていた。


 午前中にみんなで立てた看板。


 表には、丸みのある文字で店名が書かれている。


 小さな灯の焼き菓子店。


 横には、見届けクッキーの案内。


 台の上には布がかけられた籠。


 代替箱S-四は封をされたまま、警備補助の生徒とリリア・ノースが見守っていた。


 旧物資箱B-十七はもうない。


 証拠保全のために運ばれている。


 成分表示札は、新しいものに替えられた。


 淡橙色のリボン封は、ミリアの二重折り目がきれいに残っている。


 店は、無傷ではなかった。


 でも、壊れてもいなかった。


 アルトは看板の前で足を止めた。


 左手首が、ほんの少し温かくなる。


「痛みなし。熱少し。声遠い。看板を見ています」


 ミリアが尋ねる。


「表を見るのは大丈夫?」


「はい」


「裏は?」


 裏。


 戻ってこい。


 その言葉がある場所。


 アルトは少しだけ息を吸った。


 怖くはない。


 でも、胸が揺れる。


「見たいです」


 カイが看板に触れる前に、リゼを見る。


 リゼは周囲を確認する。


「看板周辺、外観異常なし。警備補助立会い。カイさん、ゆっくり回してください」


「了解」


 カイが看板を少し傾け、裏側が見えるようにした。


 木の裏面。


 少し歪んだ文字。


 戻ってこい。


 食べた後、戻れる場所を確認してください。


 アルトの胸が詰まった。


 今日、何度も戻った。


 小講義室へ。


 現在地へ。


 友達の声へ。


 自分の名前へ。


 そして今、ここへ。


 戻ってこい。


 その言葉は、命令ではなかった。


 縛るものではなかった。


 帰るための印だった。


「痛みなし。熱少し。声遠い。看板裏を見ています」


 リゼが静かに問う。


「感情」


「泣きそうです」


 ミリアの目が柔らかく揺れた。


「泣いてもいいわ」


 アルトは首を横に振ろうとして、やめた。


 我慢する理由がなかった。


 涙が一粒こぼれた。


 怖かった。


 測られた。


 鳴らされた。


 呼ばれた。


 鍵と言われた。


 孤独にしなければ扉は開かないと言われた。


 友達を近づけるなという声も聞いた。


 でも、戻ってきた。


 一人で戻ったのではない。


 みんなの声で、戻ってきた。


「怖かったです」


 アルトは言った。


「でも、全部は奪われませんでした」


 カイが小さく息を吐いた。


 ミリアはそっと頷く。


 リゼが静かに答える。


「はい。全部は奪われていません」


 その言葉で、アルトはまた少し泣いた。


 リリアが近くで見守っていた。


 彼女は何も聞かなかった。


 ただ、手に持った案内用の青い布を胸元で握りしめている。


「アルトさん」


 リリアが小さく言った。


「店、ずっと見ていました。誰も触っていません」


 アルトは顔を上げる。


「ありがとうございます」


「はい」


 リリアは少しだけ笑った。


「看板も、ずっと立っていました」


 その言葉が、アルトの胸へまっすぐ届いた。


 看板は立っていた。


 自分が小講義室にいる間も。


 紙片が散った時も。


 王宮の文書が来た時も。


 リゼが王宮の剣ではないと書いた時も。


 看板は、ここに立っていた。


 カイが布のかかった籠を見た。


「焼き菓子、まだある」


 ミリアが台の札を確認する。


「残数は少ないわね」


「見届けクッキー、残り十二」


 カイが即答した。


 ミリアが少しだけ眉を上げる。


「数えていたのね」


「顔には出さないようにしてた」


「出ていたわ」


「やっぱりか」


 リゼが真面目に言う。


「残数十二。販売再開する場合、短時間で完売見込み」


 カイが少しだけ笑った。


「記録始まったな」


 リゼは少し考えてから、記録帳を開いた。


「必要です」


 ミリアはアルトを見る。


「どうする?」


 急かさない声だった。


 開けてもいい。


 閉めたままでもいい。


 どちらでも、今日が失敗になるわけではない。


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声遠い。


 体は疲れている。


 頭も重い。


 長く店に立つことはできない。


 人がたくさん来たら、きっと怖くなる。


 けれど、閉じたまま終わるのは嫌だった。


 小さな灯の焼き菓子店を、測定印や小鐘や紙片の記憶だけで終わらせたくなかった。


 今日を、怖い記憶だけで終わらせたくなかった。


「短時間だけ」


 アルトは言った。


「残っている分だけ、売りたいです」


 ミリアが頷く。


「条件を決めましょう」


 リゼがすぐに記録する。


「本人意思。短時間再開希望。残数十二販売まで、または状態悪化時に停止」


 カイが続ける。


「追加で焼かない。残ってる十二で終わり」


「はい」


 アルトも頷く。


「熱が上がったら止めます。声が近くなったら止めます。人が多くなったら、ミリアさんが列を止めてください」


 ミリアが微笑む。


「了解しました」


「リゼさんは、僕の状態確認と店の導線をお願いします」


「了解しました」


「カイは」


 アルトは少しだけ笑った。


「焼き菓子を、いつも通り渡してください」


 カイは一瞬だけ目を見開いた。


 それから、少し照れたように笑う。


「任せろ」


 リリアが言う。


「私、近くで案内します。列が増えないように」


「ありがとうございます」


 リゼが周囲を確認する。


「再開条件。物資照合済み。S-四封異常なし。成分表示札再照合済み。警備補助立会い。鐘形装飾なし。金属音源なし。アルトさん、痛みなし、熱少し、声遠い。本人短時間再開希望」


 ミリアが一時休止中の札へ手をかける。


 アルトは看板の裏をもう一度見た。


 戻ってこい。


 それから、表を見る。


 小さな灯の焼き菓子店。


「再開します」


 ミリアが札を外した。


 小さな灯の焼き菓子店は、午後の変わってしまった中庭で、もう一度開いた。


 最初に気づいたのは、ティナ・ベルだった。


 彼女は遠くから走りかけ、途中で速度を落とした。


 もう、誰かが走ると周囲が驚くことをわかっている。


 ノエル・バートンと一緒に、少し息を弾ませながら来る。


「開いてる?」


 ティナは小声で聞いた。


 ミリアが頷く。


「残り少しだけ、短時間の再開よ」


 ティナは看板を見た。


 それから、アルトを見る。


 何かを聞きたそうにして、聞かなかった。


 代わりに、にこっと笑った。


「じゃあ、一つください」


 ノエルも頷く。


「僕も。一つ」


 アルトは成分表示札を示した。


 指先は少し震えている。


 でも、声は出た。


「小麦、卵、乳、林檎、杏を使っています。こちらに表示があります」


 ティナは真剣に札を見た。


「確認しました」


 ノエルも同じように見る。


「確認しました」


 その言い方に、アルトは少し胸が熱くなった。


 ただの買い物ではない。


 手順を一緒に守ってくれている。


 カイが焼き菓子を包む。


 包装紙を折る手つきは、朝より少し遅い。


 疲れているからではない。


 一つずつ、確かめているからだ。


「見届けクッキー、一つ」


「ありがとう」


 ティナが受け取る。


 ノエルも受け取る。


 アルトは販売記録へ線を引いた。


 四十九。


 五十。


 数字を見た瞬間、少しだけ息が止まった。


 第1話の朝、最初の線を引いた時。


 五本の線が灯の数に見えた時。


 あれから、こんなに遠くへ来た。


 でも、線は続いている。


「痛みなし。熱少し。声遠い。販売記録五十まで来ました」


 リゼが記録する。


「良好です」


 次に来たのは、ラウル・ヴァレンシュタインだった。


 彼は少し離れた位置で礼をし、ゆっくり近づいた。


 剣は収められている。


 制服の袖には、まだ紙片対応の跡が少し残っていた。


「一ついただけますか」


 カイが少しだけ口角を上げる。


「お前、甘いの食うのか」


「必要だと思った」


「何に」


 ラウルは少し考えた。


「今日を終えるのに」


 カイは黙った。


 それから、少し乱暴に見えて丁寧な手つきで包んだ。


「見届けクッキー、一つ」


 アルトは成分表示を説明した。


 ラウルは真剣に確認し、頷く。


「確認しました」


 販売記録、五十一。


 次にセレナ・アイゼンベルグが来た。


 いつものように静かで、どこか観察するような目をしている。


 だが、今日は視線をアルトの左手首へ長く置かなかった。


「一つください」


 ミリアが微笑む。


「ありがとうございます」


 セレナは成分表示を読み、言った。


「この札は、もう怖いだけのものではありませんね」


 アルトの左手首が淡く温かくなる。


「はい」


 自分でも少し驚くくらい、自然に答えられた。


「怖さは残っています。でも、これは確認済みの札です」


 言ってから、少し止まる。


 確認済み。


 その言葉は、さっきまで怖かった。


 偽の確認済み。


 記録の中へ入り込まれた感覚。


 だが、今のこれは違う。


 みんなで照合した札。


 偽装ではない。


 それでも少しだけ熱が揺れた。


 リゼがすぐに問う。


「状態」


「痛みなし。熱少し上がりましたが、すぐ下がっています。声遠い。確認済みという言葉を自分で言いました。でも、今は大丈夫です」


 エレオノーラが近くで聞いていたら、きっと記録しただろう。


 リゼは短く頷いた。


「良好です」


 セレナは見届けクッキーを受け取り、小さく言った。


「戻るための確認ですね」


「はい」


 販売記録、五十二。


 次にユリウスが来た。


 白い制服は朝よりも明らかに乱れている。


 しかし、表情は少し穏やかだった。


「学園長室から戻った。リゼの回答は学園長承認のうえ、王宮へ提出された」


 リゼが静かに頷く。


「ありがとうございます」


「オルド監察官は不満そうだったけれど、正式に受け取った」


 アルトの左手首が少し熱を持つ。


 オルド。


 王宮。


 だが、痛みはない。


「痛みなし。熱少し。声遠い」


 ユリウスはアルトを見る。


「店、開けたんだね」


「はい。残りだけです」


「では、一ついただこう」


 アルトは成分表示を説明した。


 ユリウスは丁寧に確認する。


「確認しました」


 カイが包む。


 ミリアが代金を受け取る。


 販売記録、五十三。


 ユリウスは焼き菓子を受け取り、少し笑った。


「今日を見届けたものとして、食べるよ」


 その言葉に、カイが少し照れた。


「味わえよ」


「もちろん」


 エレオノーラも来た。


 彼女は記録板を小脇に抱え、疲れた顔をしていた。


 だが、店の前に立つと、背筋を伸ばした。


「一つ購入します」


 ミリアが優しく言う。


「記録係も休憩ですね」


 エレオノーラは一瞬だけ目を逸らした。


「ロウ先生に言われました」


 カイが笑う。


「言われてたな」


 アルトは成分表示を説明した。


 エレオノーラはいつものように、いや、いつも以上に真剣に確認した。


「照合しました」


 確認しました、ではなかった。


 アルトのために言葉を選んだのだとわかる。


「ありがとうございます」


 販売記録、五十四。


 残りは六つ。


 少し離れたところで、リーナ・カルヴェルが走らずにこちらへ来た。


 準備委員長の腕章が少し歪んでいる。


 何度も導線を走り回ったのだろう。


 額には薄く汗が浮かんでいる。


「まだ買える?」


 声は明るい。


 でも、疲れている。


 ミリアが微笑む。


「残り少しです」


「じゃあ、一つ。準備委員長としてじゃなくて、ただのお客として」


 アルトは成分表示を説明する。


 リーナは深く頷く。


「照合しました」


 また、その言葉。


 アルトは少し笑った。


「ありがとうございます」


 リーナは焼き菓子を受け取り、看板を見た。


「灯、消えなかったね」


 その言葉に、アルトの胸が震えた。


「はい」


 販売記録、五十五。


 その後、リリアが一つ買った。


 警備補助の生徒が一つ買った。


 通りかかった卒業生が、縮小運営を知ったうえで一つ買った。


 残り三つ。


 人の流れは大きくならないよう、ミリアが丁寧に調整していた。


 カイは一つずつ包む。


 リゼはアルトの状態と導線を見ている。


 アルトは声を出す。


 小麦、卵、乳、林檎、杏を使っています。


 こちらに表示があります。


 照合しました。


 確認しました。


 ありがとう。


 見届けクッキー、一つです。


 その繰り返しが、少しずつ店を戻していく。


 完全には戻らない。


 でも、戻ろうとしている。


 残り二つになった時、クラウス・ヴァイゼルが来た。


 彼は少し離れたところで足を止めた。


 近づく前に、アルトを見る。


「負荷は?」


 アルトは左手首に触れた。


「痛みなし。熱少し。声遠いです。大丈夫です」


 クラウスは頷き、店の前へ来た。


「一ついただけるか」


 カイが少しだけ口角を上げる。


「面倒な立場になる用、追加ですか」


「今日はそれが必要そうだ」


 クラウスは真面目に答えた。


 ミリアが少し笑う。


 アルトは成分表示を説明した。


 クラウスは丁寧に札を見た。


「照合した」


 カイが焼き菓子を渡す。


 販売記録、五十九。


 残り一つ。


 最後の一つを前に、四人は少し黙った。


 誰に渡るのだろう。


 それを決めるのは店ではない。


 来た人が買う。


 ただ、それだけのはずなのに、最後の一つは妙に重く感じられた。


 そこへ、ロウ教師が来た。


 黒い外套はまだ埃を払われていない。


 彼は看板を見て、台を見て、四人を見た。


「残っているか」


 カイが答える。


「最後の一つです」


「なら、それをもらう」


 アルトは成分表示を説明した。


 ロウ教師は札を見た。


「照合した」


 カイが最後の見届けクッキーを包む。


 包み終えた手が、少しだけ止まった。


 それから、台の上に置く。


「見届けクッキー、最後の一つです」


 ロウ教師はそれを受け取った。


 代金を置き、短く言う。


「よく戻したな」


 誰に向けた言葉かは、全員に向けてだったのだと思う。


 カイが少し顔を伏せる。


 ミリアが静かに微笑む。


 リゼが真っ直ぐ頷く。


 アルトは販売記録へ最後の線を引いた。


 六十。


 見届けクッキー、完売。


 その線を引いた瞬間、左手首が淡く温かくなった。


 痛みはない。


 声は遠い。


 熱は、灯のように小さい。


「痛みなし。熱少し。声遠い。見届けクッキー、完売しました」


 リゼが記録した。


「小さな灯の焼き菓子店、見届けクッキー完売」


 カイが深く息を吐いた。


「完売した」


 ミリアが頷く。


「ええ。完売したわ」


 アルトは看板を見た。


 小さな灯の焼き菓子店。


 今日、何度も奪われそうになった名前。


 怖い場所にされそうになった店。


 それでも、最後まで灯を消さなかった。


 閉会の時間は近づいていた。


 本来なら、鐘が鳴る予定だった。


 開会と同じように、学園祭の終わりを告げる鐘。


 だが、鐘は鳴らされない。


 学園長の通達で、すべての鐘音は停止されたままだ。


 代わりに、リーナが中庭の中央へ立った。


 彼女の声は少し掠れている。


 それでも、よく通った。


「本日の学園祭は、安全確認のため予定より早く閉会します! 鐘は鳴らしません!」


 来場者の一部がざわつく。


 しかし、すぐに準備委員の生徒たちが案内を続ける。


 リーナは一呼吸置いて、言った。


「代わりに、手拍子で閉会します!」


 最初に手を叩いたのは、誰だったのか。


 たぶん、ティナだった。


 ぱん、と小さな音。


 金属ではない。


 紙でもない。


 人の手の音。


 次に、ノエルが叩いた。


 リリアが続く。


 ラウルが、少し戸惑いながらも手を叩く。


 セレナも静かに叩く。


 ユリウス、エレオノーラ、リーナ、準備委員、警備補助の生徒、出店の生徒たち。


 手拍子が中庭に広がる。


 鐘の代わりの音。


 誰かを一人だけに届かせる音ではない。


 みんなで鳴らす音。


 アルトの左手首が温かくなる。


 痛みはない。


 声は遠い。


 熱は少し。


 怖くない音だった。


 ミリアが尋ねる。


「大丈夫?」


「はい」


 アルトは頷いた。


「これは、怖くありません」


 カイが手を叩きながら言う。


「鐘じゃねえしな」


 リゼも手を叩いていた。


 少しぎこちない。


 だが、確かに。


 アルトも、そっと右手を左手首から離した。


 両手を合わせる。


 ぱん。


 小さな音。


 もう一度。


 ぱん。


 左手首は痛まない。


 銀環は叫ばない。


 人の手の音が、中庭に広がっていく。


 閉会の鐘は鳴らなかった。


 でも、学園祭は終わった。


 鐘ではなく、手拍子で。


 閉会後、小さな灯の焼き菓子店の片付けが始まった。


 完売した籠。


 空になった包装紙入れ。


 成分表示札。


 淡橙色のリボン封。


 販売記録。


 六十本の線。


 リゼが一つずつ記録する。


 カイが籠を持つ。


 今度は急がない。


 ミリアが看板を外す。


 アルトは看板の裏をもう一度見た。


 戻ってこい。


 その文字を指でなぞりそうになって、やめた。


 触らなくても、読める。


「戻りました」


 アルトは小さく言った。


 リゼが聞き取る。


「はい」


「怖かったです」


「はい」


「でも、全部は奪われませんでした」


「はい」


「僕は、今日を怖い記憶だけで終わらせませんでした」


 リゼは静かに頷いた。


「はい。記録します」


 アルトは少し笑った。


「お願いします」


 リゼは記録帳に書いた。


 アルトさん発言。


 怖かった。


 でも、全部は奪われなかった。


 今日を怖い記憶だけで終わらせなかった。


 その文字を見て、ミリアが微笑む。


「良い記録ね」


 カイが言う。


「めちゃくちゃ良い記録だろ」


「はい」


 リゼが真面目に頷く。


「非常に良い記録です」


 片付けが終わる頃、中庭には夕方の光が差していた。


 朝の明るさとは違う。


 少し疲れた、でも柔らかい光。


 鐘楼は沈黙している。


 旧倉庫側は青い布で塞がれたまま。


 紙片も小鐘も、封印片も、まだ解析されていない。


 王宮とのやり取りも続く。


 終わっていないことは多い。


 むしろ、今日で始まったことの方が多いのかもしれない。


 それでも、小さな灯の焼き菓子店は完売した。


 それは、確かな事実だった。


 学園長室へ、最後の報告に向かうことになった。


 アルトは少し疲れていたが、歩けた。


 リゼ、ミリア、カイ、ユリウス、エレオノーラが同行する。


 廊下は、学園祭後の匂いがした。


 人が多く通った床。


 片付けられた飾り。


 遠くで笑う生徒の声。


 少しだけ焦げた焼き菓子の匂い。


 学園長室の扉の前で、アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声遠い。


 リゼが確認する。


「現在地」


「学園長室前」


「名前」


「アルト・レインフォード」


「感情」


「疲れています。でも、報告できます」


「良好です」


 学園長室に入ると、学園長が机の向こうで待っていた。


 ロウ教師もいる。


 クラウスも、少し離れた位置にいた。


 オルド・ハイマンの姿はなかった。


 それだけで、アルトは少し息を吐いた。


 学園長は全員を見て、静かに言った。


「小さな灯の焼き菓子店、完売と聞いた」


 カイが胸を張りかけ、少しだけ控えめにした。


「はい」


「よく戻した」


 学園長の言葉に、カイは照れたように顔を伏せた。


 ミリアは微笑み、リゼは「ありがとうございます」と答えた。


 アルトも頭を下げる。


「ありがとうございます」


 学園長はアルトを見た。


「怖かっただろう」


「はい」


「それでも、戻った」


「はい」


「無理をしたか」


 アルトは少し考えた。


 無理は、した。


 でも、無茶ではなかった。


「無理は少ししました。でも、止める条件を決めていました。一人ではありませんでした」


 学園長は頷いた。


「なら、記録として受け取る」


 エレオノーラがすぐに書いた。


 ロウ教師が小さく息を吐く。


「今日の報告は山ほどある。だが、まず休ませろ」


「そうだな」


 学園長は机の上の書類を一つ脇へ寄せた。


 その中に、封印片や小鐘の報告書が混じっているのだろう。


 アルトはそれを見ないようにした。


 見なくていいものは、今は見ない。


 それも選択だ。


 報告が短くまとめられた。


 小鐘の保全。


 紙片の封入。


 実行犯の意識不明と監視。


 王宮式に似た封印片の三者立会い解析。


 リゼの王宮要請への回答。


 学園祭の縮小継続と閉会。


 小さな灯の完売。


 最後に、学園長はリゼを見た。


「リゼ・グレイス」


「はい」


「王宮への回答、正式に提出した。君の本人意思としても記録した」


「ありがとうございます」


「君は王宮の剣ではない。少なくとも、この学園にいる間、君をそう扱わせるつもりはない」


 リゼの灰銀の瞳が揺れた。


「はい」


 それだけの返事だった。


 だが、アルトにはわかった。


 その言葉は、リゼにとって重かった。


 カイが小声で言う。


「学園長、たまにかっこいいな」


 ミリアが小さく肘で止める。


「たまに、は余計よ」


 学園長は聞こえていたらしく、ほんの少し口元を動かした。


 その時、机の端に置かれていた別の封書が、アルトの目に入った。


 白い封ではない。


 王宮のものでもない。


 青みがかった封紙。


 端に、見慣れない紋章。


 学園長がそれに気づき、少しだけ表情を引き締めた。


 ロウ教師も同じ封書を見る。


 ユリウスが問う。


「学園長、それは」


 学園長は一拍置いた。


「今日の件とは別の通達だ。だが、無関係ではないかもしれん」


 アルトの左手首が、ほんの少しだけ熱を持った。


 痛みはない。


 声は遠い。


 ただ、何か新しいものが来た気配がした。


 学園長は封書を手に取る。


「隣国外交局からの留学生受け入れ通知だ」


 隣国。


 その言葉に、部屋の空気が少し変わった。


 カイが首を傾げる。


「留学生?」


 ミリアの表情がすっと整う。


 貴族家の令嬢としての顔。


 ユリウスはすぐに記録を求めるようエレオノーラを見る。


 リゼは黙って学園長を見た。


 学園長は続けた。


「旧敗戦国王家血統。保護観察対象。王立学園への短期受け入れを希望する、とのことだ」


 旧敗戦国。


 王家血統。


 保護観察対象。


 アルトの胸に、今日とは別の重さが落ちた。


 左手首は熱くならない。


 銀環の声も近づかない。


 けれど、リゼの横顔が少し変わった。


 灰銀の戦乙女。


 戦争。


 敗戦国。


 卒業していない過去が、また別の形で学園の門を叩いている。


 カイが小さく呟く。


「また、厄介そうなのが来るな」


 ミリアが静かに言う。


「でも、まだ会っていない人よ」


 リゼは少しだけ息を吐いた。


「確認が必要です」


 その言葉は、いつものリゼだった。


 だが、アルトにはもう少しだけ別のものも聞こえた。


 警戒だけではない。


 会う前に敵と決めないための確認。


 自分も、アルトも、誰かに役割だけで決められたくないからこその確認。


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声遠い。


「現在地」


 リゼが自然に尋ねる。


 アルトは答えた。


「学園長室。学園祭の終わった後です。リゼさん、ミリアさん、カイ、ユリウス先輩、エレオノーラ先輩、ロウ先生、クラウスさん、学園長がいます」


「感情」


「疲れています。怖いことはまだあります。でも、今日は終わりました」


 リゼが頷く。


「良好です」


 学園長室の窓の外では、夕方の光が中庭へ落ちている。


 小さな灯の焼き菓子店の看板は、片付けられている。


 けれど、その文字は消えていない。


 戻ってこい。


 アルトは心の中で、その言葉をもう一度読んだ。


 今日、戻ってきた。


 怖かった。


 でも、全部は奪われなかった。


 鐘は鳴らなかった。


 それでも、手拍子は響いた。


 灯は、小さくても消えなかった。


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