表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

91/167

第6章 第14話:王宮式の封印片


 封印片は、透明な保護板の向こうに収められていた。


 アルト・レインフォードには見せられていない。


 小講義室の中にも持ち込まれていない。


 それでも、その存在は部屋の空気を重くしていた。


 紙細工の男は捕縛された。


 北白蔦紙装商会を名乗ったが、登録証は偽物だった。


 持っていた紙細工には白い線が仕込まれ、術式反応があった。


 散らされた白い紙片は、セレナ・アイゼンベルグが大部分を焼き切り、残ったものはエレオノーラ・ヴィンスフェルトたちによって一枚ずつ保全されている。


 鐘楼裏の白い小鐘は固定された。


 黒変紙片の残滓も、クラウス・ヴァイゼルが保全した。


 中庭東側は閉鎖され、鐘楼と旧倉庫周辺には誰も近づけない。


 学園祭はまだ続いている。


 だが、その音はもう朝のものとは違っていた。


 金属音は消えた。


 鐘形の飾りは外された。


 出店区域は縮小され、舞台演目も変更されている。


 来場者の声は残っているが、その下に、慎重な足音と緊張した指示が混じっている。


 小さな灯の焼き菓子店は、休止中だった。


 看板はまだ立っている。


 焼き菓子も残っている。


 けれど、販売再開の札はまだ出されていない。


 アルトは小講義室の椅子に座ったまま、左手首に触れていた。


 痛みは弱い。


 熱は中。


 声は遠い。


 扉へ来るな。


 鐘を鳴らすな。


 友達を近づけるな。


 まだ、そこにある。


 だが、今はその声を命令として受け取ってはいない。


 情報。


 断片。


 警告かもしれないもの。


 混ぜられたもの。


 壊れて届いているもの。


 そう分けることができている。


「状態」


 リゼ・グレイスが静かに尋ねた。


 彼女の声も、もう何度目かわからない。


 けれど、その繰り返しがアルトを支えていた。


「痛み弱い。熱中。声あり、遠いです」


「現在地」


「小講義室。小さな灯の焼き菓子店の近く」


「名前」


「アルト・レインフォード」


「役割」


「小さな灯の焼き菓子店の店員。今は休憩中」


「感情」


「怖いです。でも、少し落ち着いています」


「良好です」


 リゼは記録帳に短く書いた。


 その横で、ミリア・ファルネーゼが水の杯を取り替えている。


 机に置かれた焼き菓子の欠けは、まだ半分残っていた。


 カイ・ロックハートは扉の近くに立っている。


 外へ飛び出したい気持ちを、何度も飲み込んでいるようだった。


 それでも、彼はここにいた。


 戻る場所を気にしながら。


 アルトを一人にしないために。


 扉が叩かれた。


 落ち着いた、二度のノック。


「ユリウスだ。クラウス卿とエレオノーラもいる」


 リゼがアルトを見る。


 アルトは左手首の熱を確かめた。


 中。


 痛みは弱い。


 声は遠い。


「大丈夫です。聞きます」


 リゼが扉を開ける。


 ユリウス・エインズワースが入ってきた。


 その後ろに、クラウスとエレオノーラが続く。


 エレオノーラは記録板を持っているが、封印片の実物は持っていない。


 クラウスも手ぶらだった。


 アルトはそれを見て、少しだけ呼吸が楽になった。


 クラウスがまず言った。


「現物はここへ持ち込まない」


「ありがとうございます」


「視覚刺激は避ける。内容だけ、必要最低限を伝える」


 アルトは頷いた。


「はい」


 ユリウスは部屋の入口近くで止まり、室内の全員を見た。


「封印片について、初期確認が出た」


 その言葉だけで、アルトの左手首が少し熱くなる。


 封印片。


 古い王宮式に似たもの。


 実行犯の袖口。


 王宮。


 言葉が一つずつ胸に沈む。


「痛み弱い。熱中から少し上がりました。声遠い」


 リゼが即座に問う。


「現在地」


「小講義室」


「周囲」


「リゼさん、ミリアさん、カイ、ユリウス先輩、クラウスさん、エレオノーラ先輩」


「感情」


「怖いです。でも、聞けます」


「良好です」


 クラウスが静かに話し始めた。


「まず、これは現王宮の正式封ではない」


 アルトはその言葉を聞いて、少しだけ息を吐いた。


 正式封ではない。


 王宮が正式に出したものではない。


 少なくとも、今わかる範囲では。


 クラウスは続ける。


「ただし、王宮をまったく知らない者が作ったものでもない。形状、符号の置き方、封の折り返し。どれも、古い王宮式の封印片に似ている」


 リゼが記録する。


「封印片。現王宮正式封ではない。古い王宮式に類似。王宮知識なしでは作成困難」


 アルトの左手首が少し熱を増した。


「痛み弱い。熱中から強の手前。声遠いです」


「現在地」


「小講義室」


「感情」


「怖いです。王宮を知っている人が関係しているかもしれないから」


 クラウスは頷いた。


「その可能性はある。だが、断定はしない。古い記録から模倣した可能性もある。王宮内部の誰かが関与した可能性もある。旧王家系の知識を受け継ぐ者が関わった可能性もある」


 ミリアが静かに言った。


「また、似せる」


「そうだ」


 クラウスは苦い表情で答えた。


「紹介状、透かし、記録、封。完全な本物ではない。だが、十分に人を誤認させる程度には似せている」


 カイが低く言う。


「似てれば通るってやつか」


 エレオノーラが頷いた。


「学園祭の混雑中であれば、特に。確認者が忙しく、手順が簡略化されやすい状況を狙っています」


 リゼが記録する。


「敵の手口。混雑、祝祭、外部来場者、記録処理の負荷を利用し、不完全模倣を通過させる」


 アルトは左手首に触れた。


 熱は中から強の手前。


 痛みは弱い。


 声は遠い。


 怖い。


 でも、分けられている。


 正式封ではない。


 似ている。


 王宮を知っている可能性。


 断定ではない。


 その一つ一つを置いていけば、恐怖だけに飲まれずに済む。


 ユリウスが言った。


「問題は、これをどう扱うかだ。オルド監察官は、今回の襲撃を理由に、アルト君の王宮移送を強く主張している」


 アルトの左手首が強く熱を持った。


 痛みが中へ上がる。


 声が少し近づく。


 来るな。


 その断片が、胸の底から浮かんだ。


「痛み中。熱強。声少し近いです」


 リゼが即座に前へ出る。


「現在地」


「小講義室」


「名前」


「アルト・レインフォード」


「役割」


「小さな灯の焼き菓子店の店員。今は休憩中」


「声の内容」


「来るな、が少し。あと、扉へ来るな」


「扱い」


「命令ではなく情報です」


「良好です」


 ミリアがアルトの隣で静かに言った。


「王宮へ、という言葉で反応したのね」


「はい」


「怖い?」


「怖いです」


「嫌?」


 アルトは少し喉を詰まらせた。


 それでも答えた。


「嫌です」


 ミリアは頷いた。


「その二つを分けて言えたわ」


 カイが腕を組みかけて、やめた。


「移すとか言ってる場合かよ。王宮式に似た封が出たんだろ。なら王宮が安全って、どうやって言えるんだ」


 クラウスが低く答える。


「その反論は正しい」


 カイは少し驚いたようにクラウスを見た。


 クラウスは続ける。


「古い王宮式の知識が使われている可能性がある以上、王宮だから安全とは断言できない。むしろ、王宮内に情報を求める必要はあるが、アルト君本人を移す理由にはならない」


 ユリウスが頷く。


「僕も同意見だ。学園長も、現時点で本人意思を無視した移送には反対している」


 アルトは息を吐いた。


 少しだけ、胸が緩む。


 しかしすぐに別の不安が来る。


 オルドはそれで引き下がるだろうか。


 王宮は、本人意思をいつも軽く扱う。


 怖いから判断が歪んでいる。


 未成年だから決められない。


 保護対象だから、従うべき。


 そう言うかもしれない。


「僕のことを」


 アルトは言った。


 声が少し震える。


「僕のいないところだけで、決めないでほしいです」


 室内が静かになった。


 リゼが記録帳を開く。


 だが、すぐには書かなかった。


 アルトの言葉が続くのを待っている。


「今日、怖いことがたくさんありました。測定印も、小鐘も、紙細工も、声も、全部怖いです」


 左手首が熱い。


 でも、言葉は続く。


「でも、怖いから何も聞かなくていいとか、怖いから王宮が決めるとか、そういうのは嫌です」


 ミリアの目が少し揺れた。


 カイが真っ直ぐアルトを見る。


 ユリウスも、エレオノーラも、クラウスも黙っている。


「僕のことなら、僕の前でも話してください。全部を一度に聞くのは無理かもしれません。でも、僕のいない場所だけで決めないでください」


 言い終えると、胸が大きく上下した。


 左手首は熱い。


 痛みは中。


 声は遠い。


 けれど、言えた。


 リゼが静かに記録する。


「アルトさん発言。僕のことを、僕のいないところだけで決めないでほしい。情報共有は段階的に希望。本人不在での決定拒否」


 エレオノーラも同じ内容を記録板へ書き取った。


「学園公式記録にも残します」


 ユリウスが言った。


「必ず残す。学園長にも伝える。いや、君の前で伝えるべきだな」


 アルトは頷いた。


「はい」


 その時、廊下側から声が聞こえた。


 オルド・ハイマンの声だった。


 距離はある。


 だが、冷えた礼儀は壁越しにもわかる。


「王宮式に類似する封印片が出たのなら、なおさら王宮で解析すべきです。保護対象も同時に移せば、情報と対象を一元管理できます」


 情報と対象。


 一元管理。


 その言葉が、アルトの胸を締めつけた。


 対象。


 また、自分が人ではなくなる言葉。


「痛み中。熱強。声遠い。対象という言葉が嫌です」


 リゼの瞳が冷えた。


「現在地」


「小講義室」


「名前」


「アルト・レインフォード」


「あなたは」


 アルトは息を吸った。


「対象だけではありません」


 カイがすぐに言う。


「だけじゃねえ、対象じゃねえ」


 ミリアも頷く。


「あなたは人よ。本人よ」


 リゼが静かに言った。


「アルトさんは、情報でも対象でも資産でもありません」


 資産。


 その言葉に、リゼ自身の過去が重なる。


 灰銀の戦乙女。


 王宮の剣。


 使われる力。


 アルトはリゼを見た。


 リゼの表情は落ち着いている。


 だが、目の奥には冷たい怒りがあった。


 ユリウスは扉へ向かった。


「協議は学園長室で行うよう伝えてくる」


 リゼが言う。


「廊下側会話はアルトさんへの負荷が高いです」


「わかっている」


 ユリウスは外へ出た。


 廊下で、彼の声が聞こえる。


「監察官殿、この場所はアルト君の休憩室に近すぎます。協議は学園長室でお願いします」


 オルドの声が返る。


「危険が発生している現場で確認することに意味があります」


「本人の身体反応を悪化させる環境で、本人移送の協議を続けることは適切ではありません」


「本人意思を重く見すぎているのでは?」


「本人意思を軽く扱いすぎています」


 その言葉に、アルトの左手首が少し温かくなった。


 痛みではない。


 支えられるような熱。


 ユリウスの声は続く。


「封印片が古い王宮式に似ているなら、王宮への照会は必要です。しかし、アルト君本人を王宮へ移す根拠にはなりません。むしろ、王宮側の知識が利用された可能性を考慮すべきです」


 廊下が一瞬静かになる。


 オルドの声は少し低くなった。


「それは、王宮を疑う発言ですか」


「王宮を含めた全ての可能性を記録する発言です」


 エレオノーラが小さく呟く。


「良い表現です」


 カイが小声で言う。


「今それ評価するのか」


「記録上、重要です」


「まあ、そうだけど」


 アルトは少しだけ笑いそうになった。


 その小さな緩みで、銀環の熱が少し落ち着いた。


 廊下では、学園長の声が入った。


「監察官殿、協議場所を移しましょう。ここでは休憩中の生徒に負荷がかかります」


「承知しました」


 オルドの声は礼儀正しい。


 だが、納得している声ではなかった。


 足音が遠ざかる。


 アルトは息を吐いた。


「痛み弱くなりました。熱中。声遠い」


 リゼが頷く。


「良好です」


 ユリウスが戻ってきた。


「学園長室で協議に移る。僕も行く。ただ、その前にアルト君の意思を記録として学園長へ伝える。君が望むなら、後で学園長に直接言える場を作る」


「お願いします」


 アルトは答えた。


「今すぐは難しいです。でも、後で、言いたいです」


「わかった」


 エレオノーラが記録する。


「アルトさん、学園長への直接意思表明希望。ただし現時点では休憩優先」


 ミリアがそっと言う。


「急がなくていいわ」


「はい」


 クラウスは壁際で腕を下ろしたまま、少し俯いていた。


 アルトはその様子に気づく。


「クラウスさん」


「何だ」


「王宮式に似ているって、クラウスさんには嫌なことですか」


 クラウスは少し目を見開いた。


 それから、苦笑に近い表情を浮かべた。


「嫌だな」


 正直な答えだった。


「王宮の知識が、保護や封印ではなく、君を揺さぶるために使われた可能性がある。非常に嫌だ」


 アルトは左手首に触れた。


 熱は中。


 痛みは弱い。


 声は遠い。


「クラウスさんは、王宮の人です。でも、今は止める側にいます」


 クラウスは黙った。


 アルトは続ける。


「全部同じにしないように、記録したいです」


 リゼが静かにペンを構える。


 クラウスは一拍置いてから頷いた。


「記録してくれ。私は王宮側の人間だ。だが、現時点ではアルト君の本人意思なき移送には反対する。封印片が王宮式に似ている以上、王宮へ照会は必要だが、本人移送の理由にはならない」


 リゼが記録する。


 エレオノーラも同時に書く。


「クラウス卿見解。王宮式類似封印片の存在は、王宮照会の理由であり、本人移送の理由ではない」


 カイが言った。


「それ、すげえ大事だな」


 ミリアが頷く。


「ええ。王宮の人が言った、という意味でも」


 クラウスはわずかに苦い顔をした。


「その分、王宮内で私は面倒な立場になるだろうな」


 カイが即座に言う。


「じゃあ、焼き菓子食うか」


 室内が一瞬、止まった。


 クラウスも目を瞬く。


「今か」


「今だろ。面倒な立場になる用」


 ミリアが思わず小さく笑った。


「用途がまた増えたわね」


 リゼは真面目に言う。


「クラウス卿への提供は、物資照合済みの焼き菓子に限ります」


「もちろんだ」


 カイは少し得意げに頷く。


 アルトはそのやり取りを見て、胸の奥が少し温かくなった。


 王宮式。


 封印片。


 移送。


 対象。


 そういう重い言葉が並んだ後でも、カイは焼き菓子を出そうとする。


 それは軽いのではない。


 日常を戻そうとしているのだ。


 ミリアが布包みの中から、照合済みの見届けクッキーの欠けを一つ取り出した。


 さすがに商品としてではなく、休憩用の欠け。


 クラウスは少し迷った後、それを受け取った。


「……いただこう」


 カイが言う。


「味はちゃんとしてる」


「それは知っている」


「食べたことあったか?」


「以前、似たものをな」


 クラウスは焼き菓子を口に入れた。


 しばらく黙って噛み、それから小さく言った。


「甘いな」


 カイが少し満足そうにする。


「だろ」


 アルトは左手首に触れた。


「痛み弱い。熱中から少し下がっています。声遠い。クラウスさんが焼き菓子を食べて、少し落ち着きました」


 リゼが記録する。


「焼き菓子による場の安定、継続」


 カイが胸を張りかけて、途中で控えめにした。


 ミリアが微笑む。


 小講義室の空気が、わずかに戻る。


 その時、エレオノーラの記録板に、別の連絡が届いた。


 彼女は紙を受け取り、目を通す。


 表情が少しだけ硬くなった。


「共有してよろしいですか」


 アルトは左手首を確かめた。


 痛み弱い。


 熱中。


 声遠い。


「はい」


 エレオノーラは慎重に言った。


「実行犯の身元確認はまだ完了していません。ただし、所持していた偽登録証の発行元欄に、王都文化局の古い部署名が使われていました。現在は廃止された部署名です」


 ミリアの目が鋭くなる。


「古い紹介状と同じ構造ね」


「はい」


 エレオノーラが頷く。


「現行制度ではなく、古い制度を使った偽装。知らない者には格式ある公的名称に見えるが、現在は無効」


 リゼが記録する。


「偽登録証、王都文化局旧部署名使用。現行無効。古い制度知識を用いた偽装」


 アルトは左手首に触れる。


 熱は少し上がるが、痛みは強くならない。


「怖いです。でも、似せ方がまた同じだと思います」


 ミリアが頷く。


「古い名前、古い封、古い透かし、古い記録形式。過去の形を使って、今の門を通ろうとしている」


 ロウ教師が腕を組んだ。


「祝祭は境界を開く。古いものが戻ってくることもある。だが、戻ってきたものを全部受け入れる必要はない」


「はい」


 アルトは答えた。


 古いもの。


 白鐘。


 王宮式。


 旧部署名。


 母の記録。


 礼拝堂。


 扉。


 それらが一度に押し寄せてくる。


 でも、今は全部を決めなくていい。


 分ける。


 記録する。


 現在地へ戻る。


 ユリウスは学園長室へ向かう準備を始めた。


「僕は協議へ行く。アルト君の発言はそのまま伝える。エレオノーラ、記録写しを」


「準備済みです」


「ありがとう」


 エレオノーラは一枚の記録写しを渡した。


 そこには、アルトの言葉が整理されている。


 本人不在での決定拒否。


 段階的情報共有希望。


 王宮移送への恐怖と拒否。


 小さな灯の焼き菓子店への帰還希望は保留。


 ユリウスはそれを受け取り、アルトへ言った。


「君の言葉として扱う。僕の意見として薄めない」


 アルトは少しだけ目を見開いた。


 それは、とても大事なことだった。


「お願いします」


「任せて」


 ユリウスは部屋を出ていった。


 クラウスも少し遅れて続く。


「私は解析側へ戻る。封印片の詳細は、君に見せずに共有する方法を考える」


「ありがとうございます」


 クラウスは扉の前で一度止まった。


「アルト君」


「はい」


「王宮という言葉が怖いなら、怖いと言っていい。王宮側の者の前でもだ」


 アルトは息を止めた。


 クラウスは静かに続けた。


「その怖さは、私たちが受け取るべき記録でもある」


 そう言って、彼も外へ出た。


 扉が閉まる。


 小講義室には、リゼ、ミリア、カイ、ロウ教師、エレオノーラ、そしてアルトが残った。


 少しだけ静かになる。


 中庭の音は遠い。


 小さな灯の焼き菓子店は、まだ休止中。


 だが、看板は立っている。


 アルトは左手首を押さえた。


「痛み弱い。熱中。声遠い」


 リゼが問う。


「感情」


「疲れました。怖いです。でも、言いたいことを言えました」


「良好です」


 ミリアが微笑む。


「よく言えたわ」


 カイが言う。


「対象じゃないってのも、もっと言っていいぞ」


「はい」


「対象とか資産とか、勝手に呼ぶなって話だ」


 その言葉に、リゼの表情がわずかに変わった。


 資産。


 その言葉は、リゼ自身にも深く刺さるものだった。


 ロウ教師がそれに気づかないはずはなかった。


「グレイス」


「はい」


「今、王宮がアルトを保護対象として扱っている構造と、お前を灰銀の戦乙女として扱う構造は似ている」


 リゼは静かに頷いた。


「はい」


「似ているが、同じではない。混ぜるな。だが、構造は見ろ」


「了解しました」


 ロウ教師は続ける。


「お前が自分を資源ではないと言ったことは、アルトが測定対象ではないと言うことと繋がる。忘れるな」


 リゼの灰銀の瞳が揺れた。


 彼女は少し間を置いて答える。


「はい。忘れません」


 アルトはリゼを見た。


 あの日、リゼは言った。


 私は資源ではありません。


 私は王宮の剣ではありません。


 今、アルトは言った。


 僕は測られるためにここにいるんじゃありません。


 僕のことを、僕のいないところだけで決めないでください。


 二つは違う。


 でも、根は似ている。


 誰かを、役割や機能や危険や力だけで扱うこと。


 それを拒むこと。


「リゼさん」


 アルトは小さく呼んだ。


「はい」


「リゼさんも、王宮に決められないでください」


 リゼは一瞬、何も言わなかった。


 それから、とても静かに頷いた。


「はい」


 カイが腕を組もうとして、やはりやめた。


「二人とも、勝手に決められんなよ」


 ミリアが微笑む。


「私たちも、勝手に決められないように記録と証人を残しましょう」


 エレオノーラが即座に言った。


「記録は残します」


 そのあまりの即答に、カイが少し笑った。


「頼もしいな」


「それが役目です」


 リゼが言う。


「そして、本人意思を記録することも重要です」


 アルトは頷いた。


 声は遠い。


 扉へ来るな。


 まだある。


 でも今、別の声もある。


 僕のことを、僕のいないところだけで決めないでください。


 リゼさんも、王宮に決められないでください。


 勝手に決められんなよ。


 記録は残します。


 それらの声が、銀環の奥の古い声よりも近かった。


 しばらくして、学園長室へ向かったユリウスから短い連絡が戻った。


 エレオノーラが受け取り、読み上げる。


「学園長より。アルトさん本人意思を記録。現時点で本人意思なき王宮移送は認めない。封印片の解析は学園、王宮、クラウス卿の三者立会いで行う。身体反応詳細は本人同意の範囲で共有」


 アルトは息を吐いた。


 深く。


 左手首の熱が少し下がる。


「痛みほぼなし。熱中から少し下がっています。声遠いです」


 リゼが頷いた。


「良好です」


 ミリアの肩も少し下りた。


 カイは天井を見上げて、長く息を吐いた。


「よかった……いや、まだよくはないけど」


「はい」


 リゼが答える。


「完全解決ではありません」


「そこは言わなくていい」


「しかし事実です」


「わかってる」


 そのやり取りで、アルトはまた少し笑った。


 笑える。


 まだ笑える。


 それが、今日何度も救いになっている。


 ロウ教師が壁から背を離した。


「アルト、今は休め。決めることは増えたが、全部今決めるな」


「はい」


「グレイス、店の再開判断も急がせるな」


「了解しました」


「ロックハート、焼き菓子の残数を頭の中で数えるな。顔に出ている」


 カイがぎくりとする。


「出てますか」


「出ている」


 ミリアが少し笑った。


「出ているわ」


「マジか」


 ロウ教師はミリアを見る。


「ファルネーゼ、お前も笑ったなら休め。笑える者ほど、まだ動けると思って無理をする」


 ミリアは小さく頭を下げた。


「はい」


 最後にロウ教師はエレオノーラを見る。


「ヴィンスフェルト、記録係も休憩を取れ」


「記録します」


「今のは記録するな。休め」


「……了解しました」


 カイが小さく吹き出した。


 アルトも笑った。


 リゼも、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 小講義室の空気が、少しだけ軽くなる。


 外の中庭では、学園祭が縮小した形で続いている。


 鐘は鳴らない。


 小鐘も止められている。


 紙片は封じられた。


 封印片は保全された。


 王宮との協議は続く。


 不安は消えない。


 だが、アルトの本人意思は記録された。


 王宮へ移せば安全だと、誰かが一方的に言うことはできなくなった。


 少なくとも、今この学園の中では。


 アルトは左手首から手を離した。


 まだ少し熱い。


 でも、触れていなくても現在地がわかる。


 小講義室。


 小さな灯の焼き菓子店の近く。


 友達といる。


 アルトは机の上に置かれていた見届けクッキーの欠けを一つ取った。


 小さな欠け。


 商品にはならない形。


 でも、味は同じ。


 口に入れると、甘さがゆっくり広がった。


「痛みなし。熱少し。声遠い。焼き菓子を食べています」


 リゼが聞く。


「感情」


「疲れています。でも、少し安心しています」


「良好です」


 アルトは小さく頷いた。


 廊下の向こうでは、誰かがまだ走っている。


 学園祭の午後は、完全には戻らない。


 けれど、完全に奪われてもいない。


 白い小鐘は鳴った。


 紙細工は散った。


 王宮式に似た封印片も見つかった。


 それでも、アルトはここにいる。


 対象ではなく。


 鍵だけでもなく。


 自分のことを、自分のいないところだけで決めないでほしいと、言えた者として。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ