第6章 第14話:王宮式の封印片
封印片は、透明な保護板の向こうに収められていた。
アルト・レインフォードには見せられていない。
小講義室の中にも持ち込まれていない。
それでも、その存在は部屋の空気を重くしていた。
紙細工の男は捕縛された。
北白蔦紙装商会を名乗ったが、登録証は偽物だった。
持っていた紙細工には白い線が仕込まれ、術式反応があった。
散らされた白い紙片は、セレナ・アイゼンベルグが大部分を焼き切り、残ったものはエレオノーラ・ヴィンスフェルトたちによって一枚ずつ保全されている。
鐘楼裏の白い小鐘は固定された。
黒変紙片の残滓も、クラウス・ヴァイゼルが保全した。
中庭東側は閉鎖され、鐘楼と旧倉庫周辺には誰も近づけない。
学園祭はまだ続いている。
だが、その音はもう朝のものとは違っていた。
金属音は消えた。
鐘形の飾りは外された。
出店区域は縮小され、舞台演目も変更されている。
来場者の声は残っているが、その下に、慎重な足音と緊張した指示が混じっている。
小さな灯の焼き菓子店は、休止中だった。
看板はまだ立っている。
焼き菓子も残っている。
けれど、販売再開の札はまだ出されていない。
アルトは小講義室の椅子に座ったまま、左手首に触れていた。
痛みは弱い。
熱は中。
声は遠い。
扉へ来るな。
鐘を鳴らすな。
友達を近づけるな。
まだ、そこにある。
だが、今はその声を命令として受け取ってはいない。
情報。
断片。
警告かもしれないもの。
混ぜられたもの。
壊れて届いているもの。
そう分けることができている。
「状態」
リゼ・グレイスが静かに尋ねた。
彼女の声も、もう何度目かわからない。
けれど、その繰り返しがアルトを支えていた。
「痛み弱い。熱中。声あり、遠いです」
「現在地」
「小講義室。小さな灯の焼き菓子店の近く」
「名前」
「アルト・レインフォード」
「役割」
「小さな灯の焼き菓子店の店員。今は休憩中」
「感情」
「怖いです。でも、少し落ち着いています」
「良好です」
リゼは記録帳に短く書いた。
その横で、ミリア・ファルネーゼが水の杯を取り替えている。
机に置かれた焼き菓子の欠けは、まだ半分残っていた。
カイ・ロックハートは扉の近くに立っている。
外へ飛び出したい気持ちを、何度も飲み込んでいるようだった。
それでも、彼はここにいた。
戻る場所を気にしながら。
アルトを一人にしないために。
扉が叩かれた。
落ち着いた、二度のノック。
「ユリウスだ。クラウス卿とエレオノーラもいる」
リゼがアルトを見る。
アルトは左手首の熱を確かめた。
中。
痛みは弱い。
声は遠い。
「大丈夫です。聞きます」
リゼが扉を開ける。
ユリウス・エインズワースが入ってきた。
その後ろに、クラウスとエレオノーラが続く。
エレオノーラは記録板を持っているが、封印片の実物は持っていない。
クラウスも手ぶらだった。
アルトはそれを見て、少しだけ呼吸が楽になった。
クラウスがまず言った。
「現物はここへ持ち込まない」
「ありがとうございます」
「視覚刺激は避ける。内容だけ、必要最低限を伝える」
アルトは頷いた。
「はい」
ユリウスは部屋の入口近くで止まり、室内の全員を見た。
「封印片について、初期確認が出た」
その言葉だけで、アルトの左手首が少し熱くなる。
封印片。
古い王宮式に似たもの。
実行犯の袖口。
王宮。
言葉が一つずつ胸に沈む。
「痛み弱い。熱中から少し上がりました。声遠い」
リゼが即座に問う。
「現在地」
「小講義室」
「周囲」
「リゼさん、ミリアさん、カイ、ユリウス先輩、クラウスさん、エレオノーラ先輩」
「感情」
「怖いです。でも、聞けます」
「良好です」
クラウスが静かに話し始めた。
「まず、これは現王宮の正式封ではない」
アルトはその言葉を聞いて、少しだけ息を吐いた。
正式封ではない。
王宮が正式に出したものではない。
少なくとも、今わかる範囲では。
クラウスは続ける。
「ただし、王宮をまったく知らない者が作ったものでもない。形状、符号の置き方、封の折り返し。どれも、古い王宮式の封印片に似ている」
リゼが記録する。
「封印片。現王宮正式封ではない。古い王宮式に類似。王宮知識なしでは作成困難」
アルトの左手首が少し熱を増した。
「痛み弱い。熱中から強の手前。声遠いです」
「現在地」
「小講義室」
「感情」
「怖いです。王宮を知っている人が関係しているかもしれないから」
クラウスは頷いた。
「その可能性はある。だが、断定はしない。古い記録から模倣した可能性もある。王宮内部の誰かが関与した可能性もある。旧王家系の知識を受け継ぐ者が関わった可能性もある」
ミリアが静かに言った。
「また、似せる」
「そうだ」
クラウスは苦い表情で答えた。
「紹介状、透かし、記録、封。完全な本物ではない。だが、十分に人を誤認させる程度には似せている」
カイが低く言う。
「似てれば通るってやつか」
エレオノーラが頷いた。
「学園祭の混雑中であれば、特に。確認者が忙しく、手順が簡略化されやすい状況を狙っています」
リゼが記録する。
「敵の手口。混雑、祝祭、外部来場者、記録処理の負荷を利用し、不完全模倣を通過させる」
アルトは左手首に触れた。
熱は中から強の手前。
痛みは弱い。
声は遠い。
怖い。
でも、分けられている。
正式封ではない。
似ている。
王宮を知っている可能性。
断定ではない。
その一つ一つを置いていけば、恐怖だけに飲まれずに済む。
ユリウスが言った。
「問題は、これをどう扱うかだ。オルド監察官は、今回の襲撃を理由に、アルト君の王宮移送を強く主張している」
アルトの左手首が強く熱を持った。
痛みが中へ上がる。
声が少し近づく。
来るな。
その断片が、胸の底から浮かんだ。
「痛み中。熱強。声少し近いです」
リゼが即座に前へ出る。
「現在地」
「小講義室」
「名前」
「アルト・レインフォード」
「役割」
「小さな灯の焼き菓子店の店員。今は休憩中」
「声の内容」
「来るな、が少し。あと、扉へ来るな」
「扱い」
「命令ではなく情報です」
「良好です」
ミリアがアルトの隣で静かに言った。
「王宮へ、という言葉で反応したのね」
「はい」
「怖い?」
「怖いです」
「嫌?」
アルトは少し喉を詰まらせた。
それでも答えた。
「嫌です」
ミリアは頷いた。
「その二つを分けて言えたわ」
カイが腕を組みかけて、やめた。
「移すとか言ってる場合かよ。王宮式に似た封が出たんだろ。なら王宮が安全って、どうやって言えるんだ」
クラウスが低く答える。
「その反論は正しい」
カイは少し驚いたようにクラウスを見た。
クラウスは続ける。
「古い王宮式の知識が使われている可能性がある以上、王宮だから安全とは断言できない。むしろ、王宮内に情報を求める必要はあるが、アルト君本人を移す理由にはならない」
ユリウスが頷く。
「僕も同意見だ。学園長も、現時点で本人意思を無視した移送には反対している」
アルトは息を吐いた。
少しだけ、胸が緩む。
しかしすぐに別の不安が来る。
オルドはそれで引き下がるだろうか。
王宮は、本人意思をいつも軽く扱う。
怖いから判断が歪んでいる。
未成年だから決められない。
保護対象だから、従うべき。
そう言うかもしれない。
「僕のことを」
アルトは言った。
声が少し震える。
「僕のいないところだけで、決めないでほしいです」
室内が静かになった。
リゼが記録帳を開く。
だが、すぐには書かなかった。
アルトの言葉が続くのを待っている。
「今日、怖いことがたくさんありました。測定印も、小鐘も、紙細工も、声も、全部怖いです」
左手首が熱い。
でも、言葉は続く。
「でも、怖いから何も聞かなくていいとか、怖いから王宮が決めるとか、そういうのは嫌です」
ミリアの目が少し揺れた。
カイが真っ直ぐアルトを見る。
ユリウスも、エレオノーラも、クラウスも黙っている。
「僕のことなら、僕の前でも話してください。全部を一度に聞くのは無理かもしれません。でも、僕のいない場所だけで決めないでください」
言い終えると、胸が大きく上下した。
左手首は熱い。
痛みは中。
声は遠い。
けれど、言えた。
リゼが静かに記録する。
「アルトさん発言。僕のことを、僕のいないところだけで決めないでほしい。情報共有は段階的に希望。本人不在での決定拒否」
エレオノーラも同じ内容を記録板へ書き取った。
「学園公式記録にも残します」
ユリウスが言った。
「必ず残す。学園長にも伝える。いや、君の前で伝えるべきだな」
アルトは頷いた。
「はい」
その時、廊下側から声が聞こえた。
オルド・ハイマンの声だった。
距離はある。
だが、冷えた礼儀は壁越しにもわかる。
「王宮式に類似する封印片が出たのなら、なおさら王宮で解析すべきです。保護対象も同時に移せば、情報と対象を一元管理できます」
情報と対象。
一元管理。
その言葉が、アルトの胸を締めつけた。
対象。
また、自分が人ではなくなる言葉。
「痛み中。熱強。声遠い。対象という言葉が嫌です」
リゼの瞳が冷えた。
「現在地」
「小講義室」
「名前」
「アルト・レインフォード」
「あなたは」
アルトは息を吸った。
「対象だけではありません」
カイがすぐに言う。
「だけじゃねえ、対象じゃねえ」
ミリアも頷く。
「あなたは人よ。本人よ」
リゼが静かに言った。
「アルトさんは、情報でも対象でも資産でもありません」
資産。
その言葉に、リゼ自身の過去が重なる。
灰銀の戦乙女。
王宮の剣。
使われる力。
アルトはリゼを見た。
リゼの表情は落ち着いている。
だが、目の奥には冷たい怒りがあった。
ユリウスは扉へ向かった。
「協議は学園長室で行うよう伝えてくる」
リゼが言う。
「廊下側会話はアルトさんへの負荷が高いです」
「わかっている」
ユリウスは外へ出た。
廊下で、彼の声が聞こえる。
「監察官殿、この場所はアルト君の休憩室に近すぎます。協議は学園長室でお願いします」
オルドの声が返る。
「危険が発生している現場で確認することに意味があります」
「本人の身体反応を悪化させる環境で、本人移送の協議を続けることは適切ではありません」
「本人意思を重く見すぎているのでは?」
「本人意思を軽く扱いすぎています」
その言葉に、アルトの左手首が少し温かくなった。
痛みではない。
支えられるような熱。
ユリウスの声は続く。
「封印片が古い王宮式に似ているなら、王宮への照会は必要です。しかし、アルト君本人を王宮へ移す根拠にはなりません。むしろ、王宮側の知識が利用された可能性を考慮すべきです」
廊下が一瞬静かになる。
オルドの声は少し低くなった。
「それは、王宮を疑う発言ですか」
「王宮を含めた全ての可能性を記録する発言です」
エレオノーラが小さく呟く。
「良い表現です」
カイが小声で言う。
「今それ評価するのか」
「記録上、重要です」
「まあ、そうだけど」
アルトは少しだけ笑いそうになった。
その小さな緩みで、銀環の熱が少し落ち着いた。
廊下では、学園長の声が入った。
「監察官殿、協議場所を移しましょう。ここでは休憩中の生徒に負荷がかかります」
「承知しました」
オルドの声は礼儀正しい。
だが、納得している声ではなかった。
足音が遠ざかる。
アルトは息を吐いた。
「痛み弱くなりました。熱中。声遠い」
リゼが頷く。
「良好です」
ユリウスが戻ってきた。
「学園長室で協議に移る。僕も行く。ただ、その前にアルト君の意思を記録として学園長へ伝える。君が望むなら、後で学園長に直接言える場を作る」
「お願いします」
アルトは答えた。
「今すぐは難しいです。でも、後で、言いたいです」
「わかった」
エレオノーラが記録する。
「アルトさん、学園長への直接意思表明希望。ただし現時点では休憩優先」
ミリアがそっと言う。
「急がなくていいわ」
「はい」
クラウスは壁際で腕を下ろしたまま、少し俯いていた。
アルトはその様子に気づく。
「クラウスさん」
「何だ」
「王宮式に似ているって、クラウスさんには嫌なことですか」
クラウスは少し目を見開いた。
それから、苦笑に近い表情を浮かべた。
「嫌だな」
正直な答えだった。
「王宮の知識が、保護や封印ではなく、君を揺さぶるために使われた可能性がある。非常に嫌だ」
アルトは左手首に触れた。
熱は中。
痛みは弱い。
声は遠い。
「クラウスさんは、王宮の人です。でも、今は止める側にいます」
クラウスは黙った。
アルトは続ける。
「全部同じにしないように、記録したいです」
リゼが静かにペンを構える。
クラウスは一拍置いてから頷いた。
「記録してくれ。私は王宮側の人間だ。だが、現時点ではアルト君の本人意思なき移送には反対する。封印片が王宮式に似ている以上、王宮へ照会は必要だが、本人移送の理由にはならない」
リゼが記録する。
エレオノーラも同時に書く。
「クラウス卿見解。王宮式類似封印片の存在は、王宮照会の理由であり、本人移送の理由ではない」
カイが言った。
「それ、すげえ大事だな」
ミリアが頷く。
「ええ。王宮の人が言った、という意味でも」
クラウスはわずかに苦い顔をした。
「その分、王宮内で私は面倒な立場になるだろうな」
カイが即座に言う。
「じゃあ、焼き菓子食うか」
室内が一瞬、止まった。
クラウスも目を瞬く。
「今か」
「今だろ。面倒な立場になる用」
ミリアが思わず小さく笑った。
「用途がまた増えたわね」
リゼは真面目に言う。
「クラウス卿への提供は、物資照合済みの焼き菓子に限ります」
「もちろんだ」
カイは少し得意げに頷く。
アルトはそのやり取りを見て、胸の奥が少し温かくなった。
王宮式。
封印片。
移送。
対象。
そういう重い言葉が並んだ後でも、カイは焼き菓子を出そうとする。
それは軽いのではない。
日常を戻そうとしているのだ。
ミリアが布包みの中から、照合済みの見届けクッキーの欠けを一つ取り出した。
さすがに商品としてではなく、休憩用の欠け。
クラウスは少し迷った後、それを受け取った。
「……いただこう」
カイが言う。
「味はちゃんとしてる」
「それは知っている」
「食べたことあったか?」
「以前、似たものをな」
クラウスは焼き菓子を口に入れた。
しばらく黙って噛み、それから小さく言った。
「甘いな」
カイが少し満足そうにする。
「だろ」
アルトは左手首に触れた。
「痛み弱い。熱中から少し下がっています。声遠い。クラウスさんが焼き菓子を食べて、少し落ち着きました」
リゼが記録する。
「焼き菓子による場の安定、継続」
カイが胸を張りかけて、途中で控えめにした。
ミリアが微笑む。
小講義室の空気が、わずかに戻る。
その時、エレオノーラの記録板に、別の連絡が届いた。
彼女は紙を受け取り、目を通す。
表情が少しだけ硬くなった。
「共有してよろしいですか」
アルトは左手首を確かめた。
痛み弱い。
熱中。
声遠い。
「はい」
エレオノーラは慎重に言った。
「実行犯の身元確認はまだ完了していません。ただし、所持していた偽登録証の発行元欄に、王都文化局の古い部署名が使われていました。現在は廃止された部署名です」
ミリアの目が鋭くなる。
「古い紹介状と同じ構造ね」
「はい」
エレオノーラが頷く。
「現行制度ではなく、古い制度を使った偽装。知らない者には格式ある公的名称に見えるが、現在は無効」
リゼが記録する。
「偽登録証、王都文化局旧部署名使用。現行無効。古い制度知識を用いた偽装」
アルトは左手首に触れる。
熱は少し上がるが、痛みは強くならない。
「怖いです。でも、似せ方がまた同じだと思います」
ミリアが頷く。
「古い名前、古い封、古い透かし、古い記録形式。過去の形を使って、今の門を通ろうとしている」
ロウ教師が腕を組んだ。
「祝祭は境界を開く。古いものが戻ってくることもある。だが、戻ってきたものを全部受け入れる必要はない」
「はい」
アルトは答えた。
古いもの。
白鐘。
王宮式。
旧部署名。
母の記録。
礼拝堂。
扉。
それらが一度に押し寄せてくる。
でも、今は全部を決めなくていい。
分ける。
記録する。
現在地へ戻る。
ユリウスは学園長室へ向かう準備を始めた。
「僕は協議へ行く。アルト君の発言はそのまま伝える。エレオノーラ、記録写しを」
「準備済みです」
「ありがとう」
エレオノーラは一枚の記録写しを渡した。
そこには、アルトの言葉が整理されている。
本人不在での決定拒否。
段階的情報共有希望。
王宮移送への恐怖と拒否。
小さな灯の焼き菓子店への帰還希望は保留。
ユリウスはそれを受け取り、アルトへ言った。
「君の言葉として扱う。僕の意見として薄めない」
アルトは少しだけ目を見開いた。
それは、とても大事なことだった。
「お願いします」
「任せて」
ユリウスは部屋を出ていった。
クラウスも少し遅れて続く。
「私は解析側へ戻る。封印片の詳細は、君に見せずに共有する方法を考える」
「ありがとうございます」
クラウスは扉の前で一度止まった。
「アルト君」
「はい」
「王宮という言葉が怖いなら、怖いと言っていい。王宮側の者の前でもだ」
アルトは息を止めた。
クラウスは静かに続けた。
「その怖さは、私たちが受け取るべき記録でもある」
そう言って、彼も外へ出た。
扉が閉まる。
小講義室には、リゼ、ミリア、カイ、ロウ教師、エレオノーラ、そしてアルトが残った。
少しだけ静かになる。
中庭の音は遠い。
小さな灯の焼き菓子店は、まだ休止中。
だが、看板は立っている。
アルトは左手首を押さえた。
「痛み弱い。熱中。声遠い」
リゼが問う。
「感情」
「疲れました。怖いです。でも、言いたいことを言えました」
「良好です」
ミリアが微笑む。
「よく言えたわ」
カイが言う。
「対象じゃないってのも、もっと言っていいぞ」
「はい」
「対象とか資産とか、勝手に呼ぶなって話だ」
その言葉に、リゼの表情がわずかに変わった。
資産。
その言葉は、リゼ自身にも深く刺さるものだった。
ロウ教師がそれに気づかないはずはなかった。
「グレイス」
「はい」
「今、王宮がアルトを保護対象として扱っている構造と、お前を灰銀の戦乙女として扱う構造は似ている」
リゼは静かに頷いた。
「はい」
「似ているが、同じではない。混ぜるな。だが、構造は見ろ」
「了解しました」
ロウ教師は続ける。
「お前が自分を資源ではないと言ったことは、アルトが測定対象ではないと言うことと繋がる。忘れるな」
リゼの灰銀の瞳が揺れた。
彼女は少し間を置いて答える。
「はい。忘れません」
アルトはリゼを見た。
あの日、リゼは言った。
私は資源ではありません。
私は王宮の剣ではありません。
今、アルトは言った。
僕は測られるためにここにいるんじゃありません。
僕のことを、僕のいないところだけで決めないでください。
二つは違う。
でも、根は似ている。
誰かを、役割や機能や危険や力だけで扱うこと。
それを拒むこと。
「リゼさん」
アルトは小さく呼んだ。
「はい」
「リゼさんも、王宮に決められないでください」
リゼは一瞬、何も言わなかった。
それから、とても静かに頷いた。
「はい」
カイが腕を組もうとして、やはりやめた。
「二人とも、勝手に決められんなよ」
ミリアが微笑む。
「私たちも、勝手に決められないように記録と証人を残しましょう」
エレオノーラが即座に言った。
「記録は残します」
そのあまりの即答に、カイが少し笑った。
「頼もしいな」
「それが役目です」
リゼが言う。
「そして、本人意思を記録することも重要です」
アルトは頷いた。
声は遠い。
扉へ来るな。
まだある。
でも今、別の声もある。
僕のことを、僕のいないところだけで決めないでください。
リゼさんも、王宮に決められないでください。
勝手に決められんなよ。
記録は残します。
それらの声が、銀環の奥の古い声よりも近かった。
しばらくして、学園長室へ向かったユリウスから短い連絡が戻った。
エレオノーラが受け取り、読み上げる。
「学園長より。アルトさん本人意思を記録。現時点で本人意思なき王宮移送は認めない。封印片の解析は学園、王宮、クラウス卿の三者立会いで行う。身体反応詳細は本人同意の範囲で共有」
アルトは息を吐いた。
深く。
左手首の熱が少し下がる。
「痛みほぼなし。熱中から少し下がっています。声遠いです」
リゼが頷いた。
「良好です」
ミリアの肩も少し下りた。
カイは天井を見上げて、長く息を吐いた。
「よかった……いや、まだよくはないけど」
「はい」
リゼが答える。
「完全解決ではありません」
「そこは言わなくていい」
「しかし事実です」
「わかってる」
そのやり取りで、アルトはまた少し笑った。
笑える。
まだ笑える。
それが、今日何度も救いになっている。
ロウ教師が壁から背を離した。
「アルト、今は休め。決めることは増えたが、全部今決めるな」
「はい」
「グレイス、店の再開判断も急がせるな」
「了解しました」
「ロックハート、焼き菓子の残数を頭の中で数えるな。顔に出ている」
カイがぎくりとする。
「出てますか」
「出ている」
ミリアが少し笑った。
「出ているわ」
「マジか」
ロウ教師はミリアを見る。
「ファルネーゼ、お前も笑ったなら休め。笑える者ほど、まだ動けると思って無理をする」
ミリアは小さく頭を下げた。
「はい」
最後にロウ教師はエレオノーラを見る。
「ヴィンスフェルト、記録係も休憩を取れ」
「記録します」
「今のは記録するな。休め」
「……了解しました」
カイが小さく吹き出した。
アルトも笑った。
リゼも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
小講義室の空気が、少しだけ軽くなる。
外の中庭では、学園祭が縮小した形で続いている。
鐘は鳴らない。
小鐘も止められている。
紙片は封じられた。
封印片は保全された。
王宮との協議は続く。
不安は消えない。
だが、アルトの本人意思は記録された。
王宮へ移せば安全だと、誰かが一方的に言うことはできなくなった。
少なくとも、今この学園の中では。
アルトは左手首から手を離した。
まだ少し熱い。
でも、触れていなくても現在地がわかる。
小講義室。
小さな灯の焼き菓子店の近く。
友達といる。
アルトは机の上に置かれていた見届けクッキーの欠けを一つ取った。
小さな欠け。
商品にはならない形。
でも、味は同じ。
口に入れると、甘さがゆっくり広がった。
「痛みなし。熱少し。声遠い。焼き菓子を食べています」
リゼが聞く。
「感情」
「疲れています。でも、少し安心しています」
「良好です」
アルトは小さく頷いた。
廊下の向こうでは、誰かがまだ走っている。
学園祭の午後は、完全には戻らない。
けれど、完全に奪われてもいない。
白い小鐘は鳴った。
紙細工は散った。
王宮式に似た封印片も見つかった。
それでも、アルトはここにいる。
対象ではなく。
鍵だけでもなく。
自分のことを、自分のいないところだけで決めないでほしいと、言えた者として。




