第6章 第13話:扉へ来るな
白い紙片は、まだ廊下の隅に残っていた。
もちろん、触れられてはいない。
警備班の生徒が床に膝をつき、透明な保護袋へ一枚ずつ収めている。エレオノーラ・ヴィンスフェルトは、その横で紙片の位置、向き、発見時刻、回収者を記録していた。
小講義室の扉は半分ほど閉じられている。
アルト・レインフォードから、廊下の白い紙片が直接見えない角度だ。
それでも、白いものがそこにある気配だけで、左手首の銀環は熱を持ち続けていた。
痛みは中。
熱は中から強の間。
声はある。
だが、今は少し遠い。
扉へ来るな。
鐘を鳴らすな。
友達を近づけるな。
その三つの断片が、銀環の奥で薄く反響している。
アルトは椅子に座り、右手で左手首を押さえていた。
布越しでも熱い。
けれど、触れていることで、自分の手首がここにあるとわかる。
ここは小講義室。
小さな灯の焼き菓子店の近く。
リゼさんがいる。
ミリアさんがいる。
カイがいる。
ユリウス先輩がいる。
ロウ先生がいる。
外にはセレナさんとラウルさんがいる。
紙細工の男は確保された。
意識を失っている。
袖口から、古い王宮式に似た封印片が見つかった。
そこまでを、アルトは聞いた。
聞いたうえで、まだここにいる。
それが、今できていることだった。
「状態」
リゼ・グレイスが静かに尋ねた。
彼女はアルトの左前に立っている。
記録帳は開いているが、ずっと書き続けてはいない。
ロウ教師に言われた通り、今は記録よりもアルトを戻すことを優先している。
「痛み、中。熱、中から強。声あり。内容は、扉へ来るな、鐘を鳴らすな、友達を近づけるな」
「現在地」
「小講義室。小さな灯の焼き菓子店の近く」
「名前」
「アルト・レインフォード」
「役割」
「小さな灯の焼き菓子店の店員。今は休憩中」
「声の扱い」
「命令ではなく、情報として扱います」
「良好です」
リゼは頷いた。
その隣で、ミリア・ファルネーゼが水の杯を机へ置き直した。
アルトが取りやすく、けれど手元を邪魔しない位置。
カイ・ロックハートは扉側に立っている。
外の様子が気になるのだろう。
何度も肩が動く。
けれど、出て行かない。
ラウル・ヴァレンシュタインが廊下で警備班と共に実行犯の退路を押さえ、セレナ・アイゼンベルグが紙片の術式反応を見ていると聞いても、カイは小講義室の中に残っている。
それが、アルトにはわかった。
戻る場所を守るために。
自分を一人にしないために。
「紙片の回収は続いている」
ユリウス・エインズワースが扉の外から戻ってきて、低く報告した。
彼は小講義室の入口で止まり、中へ深く入らない。
アルトの視界を狭くしないためだ。
「セレナさんが、散布された術式の大部分は焼き切ったと言っている。残留紙片には弱い反応が残っているが、強制共鳴を起こすほどではない。クラウス卿が外で確認中だ」
アルトは左手首に触れた。
「痛み中。熱中から強。声あり。でも、今の報告では大きく上がっていません」
リゼが確認する。
「感情」
「怖いです。でも、紙片が保全されていると聞いて、少し安心しました」
「良好です」
ロウ教師は黒い外套の袖についた埃を払いもせず、壁際に立っていた。
その表情は厳しい。
だが、声は落ち着いている。
「紙片より先に、声を分けるぞ」
アルトはロウ教師を見る。
「声を、分ける」
「そうだ」
ロウ教師は指を一本立てた。
「一つ目。『扉へ来るな』。これは場所に関する言葉だ。だが、どの扉かは不明。白鐘礼拝堂の扉か、旧倉庫か、銀環室か、比喩か。断定しない」
アルトは頷いた。
どの扉か、わからない。
だから、今すぐどこかへ行く必要も、どこかから逃げ出す必要もない。
「二つ目。『鐘を鳴らすな』。これは行動に関する言葉だ。だが、誰が鳴らすななのか不明。お前か、敵か、昔の誰かか、封印を管理していた者か。断定しない」
鐘。
白い小鐘。
封音鐘。
朝鐘。
学園祭の鐘。
たくさんの鐘が頭の中で重なりそうになる。
アルトは左手首を押さえ直した。
「痛み、少し上がりそうです。熱強に近い」
リゼがすぐに問う。
「現在地」
「小講義室」
「周囲」
「リゼさん、ミリアさん、カイ、ユリウス先輩、ロウ先生」
「良好です」
ロウ教師は、アルトが言い終えるまで待った。
それから三本目の指を立てる。
「三つ目。『友達を近づけるな』。これは人に関する言葉だ。だが、誰が友達を危険にするのか不明。扉が危険なのか、鐘が危険なのか、敵が孤立させるために利用しているのか、声そのものが壊れて伝わっているのか。断定しない」
友達を近づけるな。
その言葉が、三つの中で一番痛かった。
アルトはミリアを見る。
カイを見る。
リゼを見る。
近くにいる。
近づけている。
そのせいで、危ないのではないか。
扉へ来るなという声が正しいなら。
友達を近づけるなという声が、誰かを守るためのものなら。
自分は、今すぐ離れるべきなのではないか。
左手首が熱くなる。
声が近づく。
友達を、近づけるな。
アルトの体が、椅子から浮きかけた。
「アルトさん」
ミリアの声が届く。
優しい。
だが、逃がさない声だった。
「今、何をしようとしたの?」
アルトは息を呑んだ。
立ち上がろうとした。
扉へ向かうつもりだったのか。
それとも、部屋の隅へ逃げるつもりだったのか。
わからない。
「離れようと、しました」
言うと、胸が痛んだ。
リゼが静かに問う。
「誰から」
「みんなから」
「理由」
「友達を近づけるなって、声が。僕が近くにいると、危ないのかもしれないと」
カイが一歩近づきかけ、そこで止まった。
近づきすぎない。
でも、声は強い。
「だからって、一人になるなって言っただろ」
アルトは目を伏せそうになった。
カイの声が少しだけ震えている。
怒っているのではなく、怖がっている。
アルトが一人になろうとしたことが、怖かったのだ。
「すみません」
「謝るな」
カイは即座に言った。
「謝ると、終わったことみたいになる。終わってねえ。戻れ」
戻れ。
ロウ教師の言葉でもある。
リゼの言葉でもある。
看板裏の言葉でもある。
アルトは椅子に座り直した。
「戻ります」
小さく言う。
リゼが頷く。
「良好です」
ミリアがアルトの右側にしゃがんだ。
「声が友達を遠ざけようとしても、私たちはそれをそのまま受け取らないわ」
「でも、もし本当に危険なら」
「危険なら、一緒に距離を取る。危険なら、手順を変える。危険なら、守り方を考える」
ミリアは柔らかく、はっきりと言った。
「でも、アルトさんを一人にすることを、最初の答えにはしない」
リゼが続ける。
「孤独化は敵の目的と一致します」
カイも言う。
「お前が一人で部屋の隅行ったら、男の言った通りだろ。孤独にしなければ扉は開かない、って」
その言葉で、アルトははっとした。
男の声。
孤独にしなければ、扉は開かない。
銀環の声。
友達を近づけるな。
二つは違うもののはずだ。
でも、混ぜれば、同じ方向へ押し出される。
アルトを一人にする方向へ。
それが、敵の狙いなのかもしれない。
「混ぜられている」
アルトは呟いた。
リゼの目が鋭くなる。
「何がですか」
「銀環の声と、男の言葉です」
アルトは左手首を押さえながら言った。
「銀環の声は、たぶん警告です。でも、男の言葉は僕を孤独にしようとしていました。二つを一緒に聞くと、一人にならなきゃいけない気がします」
ロウ教師が頷いた。
「よく分けた」
ユリウスも静かに言う。
「重要だ。記録しよう」
リゼが記録帳を開く。
「アルトさん申告。銀環の声は警告の可能性。実行犯の言葉は孤独化誘導。混合すると、一人になる必要があるように感じる。今後、分離して扱う」
書かれていく文字を見て、アルトは少し息を吐いた。
記録される。
混ぜられたものが、分けられる。
それだけで、声の力が少し弱くなる。
「痛み中。熱中。声あり、遠いです」
ミリアが微笑む。
「下がってきたわね」
「はい」
カイが壁にもたれかかりながら言う。
「じゃあ、もう一回言っとけ」
「何をですか」
「鍵だけじゃないってやつ」
アルトは少し戸惑う。
けれど、カイの顔は真剣だった。
リゼも頷く。
「有効です」
ミリアも言う。
「言葉の上書きね」
アルトは左手首に触れた。
声は遠い。
まだある。
でも、言える。
「僕は、鍵だけではありません」
一度目。
熱が少し揺れる。
「僕は、アルト・レインフォードです」
二度目。
痛みが少し引く。
「小さな灯の焼き菓子店の店員です」
三度目。
ミリアが静かに頷く。
「看板係でもあります」
アルトは続けた。
「看板係です。記録係です」
カイが言う。
「見届けクッキーの説明係」
アルトは少し笑った。
「見届けクッキーの説明係です」
リゼが静かに言った。
「私たちの友人です」
その言葉で、喉が詰まった。
友人。
近づけるなと言われた友人。
でも、ここにいてくれる友人。
「僕は」
アルトは少し時間をかけて言った。
「リゼさんたちの友人です」
左手首の熱が、強いものから中へ落ちた。
痛みは弱くなる。
声はまだ残っているが、遠くなった。
リゼが記録する。
「アルトさん、鍵だけではない、アルト・レインフォード、店員、看板係、記録係、見届けクッキー説明係、友人と発言。反応、痛み低下、熱中、声遠化」
カイが少しだけ満足そうに頷く。
「よし」
ミリアが水を差し出す。
「飲めそう?」
「はい」
アルトは水を飲んだ。
喉が少し痛い。
たぶん、さっき強く息を詰めたせいだ。
水の冷たさが染みた。
小講義室の外では、まだ慌ただしい足音が続いている。
紙片の回収。
実行犯の搬送。
王宮式に似た封印片の保全。
中庭東側の導線変更。
学園祭の縮小運営。
すべてが同時に動いている。
その中で、扉がまた叩かれた。
「ラウル・ヴァレンシュタインです。入室許可を求めます」
礼儀正しい声だった。
リゼがアルトを見る。
アルトは少し考えた。
ラウル。
剣術大会で戦った相手。
カイの好敵手。
正統派の騎士剣。
さっき、男の退路を塞いでくれた。
「大丈夫です」
リゼが扉を開ける。
ラウルは入口で足を止め、中へ入りすぎないようにした。
濃紺の髪が少し乱れ、制服の袖に白い紙片の粉がついている。
彼はまずリゼへ視線を向け、次にアルトへ礼をした。
「無事ですか」
「痛みは少しあります。声もあります。でも、現在地は言えます」
ラウルは真面目に頷いた。
「よかった」
カイが言う。
「お前、外で何した」
「退路を塞いだだけだ」
「だけって」
ラウルは落ち着いて答える。
「ユリウス先輩とセレナさんが主に対応した。私は逃げ道を一つ塞いだ」
リゼが静かに言う。
「有効な行動です」
「ありがとうございます」
ラウルは少しだけ頭を下げる。
それから、アルトへ言った。
「先ほどの男は、あなたを見て言葉を選んでいました。剣よりも、言葉と紙で距離を崩そうとしていたように見えました」
アルトの左手首が少し熱を持つ。
「痛み少し。熱中。声遠い。男の話で反応しました」
リゼが確認する。
「現在地」
「小講義室」
「感情」
「怖いです。でも、聞けます」
ラウルは言葉を選ぶ。
「私は剣で退路を塞ぎましたが、あなたを戻したのは、ここにいる皆さんの声でした」
アルトは顔を上げる。
「声」
「はい」
ラウルはまっすぐに言った。
「戦い方は、剣だけではないのだと思いました」
カイが少しだけ照れたように顔をそらす。
「俺は叫んだだけだ」
「その叫びが効いていた」
「……そうかよ」
ラウルは頷く。
リゼも静かに言った。
「カイさんの呼びかけは、孤独化阻止に有効でした」
「だから、そういうの今言うなって」
カイは文句を言ったが、少しだけ耳が赤い。
アルトはそれを見て、ほんの少し笑った。
笑えた。
そのことに気づいて、また少し戻る。
ラウルは長居しなかった。
「外の警備に戻ります。必要な時は呼んでください」
リゼが頷く。
「ありがとうございます」
ラウルは出ていった。
扉が閉まる。
小講義室の中に、また四人とロウ教師、ユリウスが残る。
やがて、セレナも短く報告に来た。
彼女は扉の外で止まり、入らずに言った。
「紙片の術式は大部分を焼き切りました。残留反応は弱いです。男が持っていた紙細工は、北白蔦紙装商会を名乗るための偽装具でした。登録証は偽物です」
ユリウスが確認する。
「白線は?」
「測定印と同系統。ただし、反応記録と視界撹乱を兼ねています。目で追うと、対象の記憶と声を混ぜやすくする構造です」
アルトの左手首が熱を持つ。
「痛み少し。熱中。声遠い。視界と記憶を混ぜると聞いて反応しました」
リゼが問う。
「現在地」
「小講義室」
「見ていますか」
「紙片は見ていません」
「良好です」
セレナは続ける。
「見ない判断は正しいです。今のアルトさんには視覚情報が強すぎる可能性があります」
「ありがとうございます」
アルトが言うと、セレナは少しだけ頷いた。
「あと、男の言葉ですが」
彼女は少し考えた。
「彼自身の魔力は強くありません。紙細工と封印片に言葉を乗せられていた可能性があります。つまり、あの男が全体の設計者ではないと思います」
ユリウスの表情が厳しくなる。
「末端か」
「はい」
ロウ教師が低く言う。
「捕まえたが、根は残っている」
カイが拳を握りかけた。
だが、すぐ開く。
「今は殴りに行かない」
自分で言った。
リゼが頷く。
「良好です」
「もういいって」
それでも、リゼは記録した。
アルトはそのやり取りを見て、少しだけ肩の力を抜いた。
末端。
根は残っている。
怖い。
でも、今ここで全部を解決することはできない。
今できるのは、現在地を失わないこと。
声を命令にしないこと。
友達から離れないこと。
自分を鍵だけにしないこと。
扉へ来るな。
その言葉は、まだ残っている。
だが、今は少し違って聞こえる。
ただの命令ではなく、どこかから届いた警告の断片。
壊れた記録。
混ぜられた声。
誰かを守ろうとしたものかもしれないが、そのままではアルトを縛るもの。
だから、分ける。
ロウ教師が言ったように。
場所。
行動。
人。
意図。
わからないものは、わからないまま記録する。
「扉」
アルトは小さく呟いた。
全員がこちらを見る。
アルトは続ける。
「扉へ来るな、って声は、怖いです。でも、どこの扉かわからないなら、今すぐ動く必要はありません」
リゼが頷く。
「はい」
「鐘を鳴らすな、も、誰が鳴らすななのかわからない。でも、小鐘は今止められています」
「はい」
「友達を近づけるな、も、僕を一人にするために使われるなら、そのまま従いません」
ミリアの目が少し潤んだ。
「ええ」
カイが言った。
「従うな。俺らが勝手に近くにいる」
アルトは笑いそうになった。
「勝手に、ですか」
「そうだ。友達だからな」
友達。
その言葉に、銀環は痛まなかった。
むしろ、熱が少し下がった。
「痛み弱い。熱中。声遠い。友達という言葉で、痛みは上がりません」
リゼが記録する。
「友達という語、現時点で安定要素」
ミリアが微笑む。
「大事な記録ね」
「はい」
小講義室の外では、学園祭の音がまだ続いている。
かなり変わった音だ。
金属音は消え、鐘形装飾は外され、東側の導線は閉じられている。
それでも、人の声は残っている。
説明する声。
誘導する声。
誰かを落ち着かせる声。
そして遠く、小さな灯の焼き菓子店の周辺にも、警備補助とリリアが立っている。
店は閉まっている。
でも、看板は立っている。
戻る場所は残っている。
扉がまた叩かれた。
今度はエレオノーラだった。
「追加記録の共有です。負荷が高ければ後にします」
アルトは左手首に触れた。
痛み弱い。
熱中。
声遠い。
「聞けます」
エレオノーラは扉の外から報告した。
「実行犯の袖口にあった封印片について、クラウス卿の初見では、現王宮の正式封ではありません。ただし、古い王宮式封印片に類似しています。詳細は解析待ちです」
王宮式。
左手首が少し熱を持つ。
だが、痛みは大きくならない。
「痛み少し。熱中。声遠い」
リゼが確認する。
「現在地」
「小講義室」
「感情」
「怖いです。でも、現王宮の正式封ではない、と聞きました。古い王宮式に似ている、です。断定ではありません」
エレオノーラが頷く。
「その通りです。断定ではありません」
ミリアが静かに言う。
「似せる、がまた出てきたわね」
リゼが記録する。
「封印片、現王宮正式封ではない。古い王宮式に類似。偽装または旧式知識使用の可能性。断定保留」
カイが低く言った。
「似せるやつ、多すぎだろ」
ロウ教師が答える。
「だから、本物か偽物かだけで考えるな。似せて何を通そうとしたかを見ろ」
アルトはその言葉を聞いた。
似せて、何を通すか。
紹介状。
透かし。
記録。
封。
小鐘。
紙片。
全部、何かを通すためのもの。
門を通る。
記録を通る。
心の境界線を通る。
銀環へ通る。
扉。
また、その言葉に戻る。
でも、今度は少しだけ整理できた。
「扉って」
アルトはゆっくり言った。
「場所だけじゃなくて、通すもののことかもしれません」
リゼの目が鋭くなる。
「説明できますか」
「まだ、うまくは」
アルトは左手首を押さえた。
「でも、男も、紙も、記録も、みんな何かを通そうとしていました。学園の門とか、物資箱とか、僕の銀環とか。扉へ来るな、は、どこかの扉かもしれないけど、勝手に通させるな、みたいにも聞こえます」
ロウ教師が黙って聞いていた。
そして、短く言った。
「記録しろ」
リゼが頷く。
「アルトさん推測。扉は物理的場所だけでなく、通過・侵入・接続の比喩の可能性。断定保留」
アルトは少しだけ息を吐いた。
断定保留。
今はそれでいい。
わからないものを急いで決めなくていい。
やがて、ユリウスが学園長からの追加通達を受け取った。
実行犯確保により、中庭東側の一部閉鎖は継続。
学園祭全体は、さらに縮小して継続。
小さな灯の焼き菓子店は、出店班の判断で休止継続、または安全確認後の短時間再開が可能。
ただし、アルト本人の状態を最優先。
その言葉を聞いて、カイは焼き菓子のことを考えた顔をした。
ミリアも看板のことを思ったのだろう。
リゼはアルトの状態だけを見ている。
アルトは左手首に触れた。
痛みは弱い。
熱は中。
声は遠い。
今すぐ店に戻るのは、まだ怖い。
白い紙片の後で、すぐに笑って接客できるとは思えない。
でも、店を閉めたまま終わるかどうかは、まだ決めたくない。
「今は休みたいです」
アルトは言った。
「でも、あとで、看板を見に行きたいです。店を開けるかどうかは、その時に決めたいです」
リゼが頷く。
「本人意思、現在休憩。後ほど看板確認希望。再開判断保留」
ミリアが微笑む。
「ええ。それでいいわ」
カイも頷く。
「看板、残ってるからな」
「はい」
アルトは小さく頷いた。
扉へ来るな。
声はまだ残っている。
でも、今は小講義室の扉を怖いものとして見る必要はない。
この扉の向こうには、白い紙片もある。
警備班もいる。
学園祭もある。
小さな灯の看板もある。
危険と、戻る場所が同じ方向にある。
だから、ひとりで行かない。
ひとりで逃げない。
みんなで確認する。
アルトはもう一度、自分の現在地を言った。
「小講義室。小さな灯の焼き菓子店の近く。僕はアルト・レインフォード。鍵だけではありません。今は、友達といます」
リゼが静かに頷いた。
「良好です」
カイが笑った。
「よし」
ミリアが小さく息を吐き、やっと少しだけ肩の力を抜いた。
廊下の外では、白い紙片がすべて回収され、透明な袋に封じられていく。
扉へ来るな。
声は、まだ遠くでそう言っている。
だが、アルトは今、その扉を一人で開けようとはしなかった。




