第6章 第10話:予定にない鐘音
小さな金属音は、中庭の誰にでも聞こえたわけではなかった。
舞台の演目紹介に混じれば、ただの小道具の音に聞こえたかもしれない。
出店の皿が触れ合った音だと思った者もいるだろう。
子どもが持っていた飾りを鳴らしたのだと、気にも留めなかった者もいたかもしれない。
だが、アルト・レインフォードの左手首には届いた。
ちり、と。
大鐘ではない。
朝を知らせる鐘楼の鐘ではない。
開門を告げる響きでも、閉会を知らせる音でもない。
もっと小さい。
もっと細い。
けれど、銀環の内側へ直接差し込まれるような音だった。
小講義室の空気が、ひどく薄く感じられた。
壁の向こうでは学園祭が続いている。
笑い声も、人の流れも、出店の呼び込みもある。
小さな灯の焼き菓子店の近くには、きっとまだ甘い匂いが残っている。
カイの見届けクッキー。
ミリアのリボン封。
リゼの記録。
看板の裏の、戻ってこい。
全部が近くにあるはずなのに、左手首の熱が、それらを遠ざけようとしていた。
「現在地」
リゼ・グレイスの声が、まっすぐに届く。
アルトは椅子の縁を握りしめた。
指先が冷たい。
左手首だけが熱い。
「小講義室。小さな灯の焼き菓子店の近く」
「名前」
「アルト・レインフォード」
「役割」
「小さな灯の焼き菓子店の店員。今は休憩中」
「近くにいる人」
「リゼさん、ミリアさん、カイ」
「痛み」
「中」
「熱」
「強」
「声」
アルトは息を止めた。
声。
まだ聞こえない。
聞こえていない。
けれど、そこに何かがある。
言葉になる直前の形。
閉じた扉の向こうで、誰かが息を吸ったような気配。
「まだ、声ではありません」
言った直後、左手首の奥で熱が脈を打った。
銀色の輪が布の下で光っているのが、自分でもわかった。
見なくてもわかる。
骨の奥で光っている。
ミリア・ファルネーゼが、アルトの正面から少し横へ移動した。
リゼの確認を妨げない位置。
けれど、アルトから見える位置。
金色の髪が、室内の光を受けて柔らかく揺れている。
「ここにいるわ」
ミリアは言った。
「見えている?」
「はい」
「私はどこにいる?」
「僕の右前です」
「カイさんは?」
アルトは視線を動かす。
カイ・ロックハートは壁際にいた。
だが、腕を組んではいない。
拳も握っていない。
すぐ動けるように、けれど突撃しないように、自分を押さえている姿勢だった。
「壁の近く。扉と僕の間ではなく、少し横です」
「リゼさんは?」
「僕の正面。少し左。扉側も見ています」
「良好よ」
ミリアの声は柔らかい。
その柔らかさが、今は糸のようにアルトを現在地へ繋ぎ止めている。
カイが低く言う。
「勝手に行くなよ」
「はい」
「行きたくなったら、まず言え」
「はい」
「怖くても言え」
「はい」
言葉を重ねるたび、銀環の熱が少しだけ形を持つ。
まだ強い。
痛みもある。
だが、熱だけに飲まれずに済む。
リゼが扉の方へわずかに視線を向けた。
外では連絡員が走っている気配がする。
ユリウスへ。
鐘楼へ。
警備班へ。
予定にない金属音。
音源照合。
アルトの反応。
それらが今、学園祭の裏側で記録され、伝達されている。
リゼは動かなかった。
剣に手を伸ばさなかった。
アルトの前に残った。
「呼吸」
短い指示。
アルトは息を吸う。
だが、うまく吸えない。
胸の奥に何かが詰まっている。
ミリアがすぐに声を重ねた。
「止めなくていいわ。吸って、吐くだけ。小さくていいの」
吸う。
浅い。
吐く。
震える。
もう一度。
吸う。
吐く。
左手首の熱はまだ強い。
耳の奥に、さっきの金属音の残響がこびりついている。
ちり、と。
いや、今は鳴っていない。
思い出しているだけだ。
アルトは自分に言い聞かせる。
今は鳴っていない。
さっき鳴った。
今は小講義室。
近くに三人がいる。
その時、扉の外から足音が近づいた。
リゼが即座に振り向く。
「誰ですか」
「ユリウスだ。ロウ先生から第一報が来た」
リゼはアルトを見る。
アルトは左手首を押さえたまま、小さく頷いた。
「聞きます」
リゼが扉を開ける。
ユリウス・エインズワースが入ってきた。
白い制服の襟元が少し乱れている。
走ってきたのだろう。
だが、呼吸は整えられている。
アルトに不安を移さないために、意識しているのがわかった。
「まず確認する。アルト君、話せる?」
「はい」
「無理なら止める」
「聞きたいです」
ユリウスは頷いた。
「鐘楼の大鐘は鳴っていない」
その一言に、室内の全員が息を詰めた。
大鐘は鳴っていない。
では、何が鳴ったのか。
ユリウスは続ける。
「大鐘は固定状態。鐘楼管理者、ロウ先生、警備班が確認した。使用痕跡なし。音源は大鐘ではない」
アルトの左手首が強く熱を持った。
「痛み中。熱強。声なし。大鐘ではないと聞いて、反応しました」
リゼがすぐに問う。
「現在地」
「小講義室。小さな灯の焼き菓子店の近く」
「感情」
「怖いです。でも、大鐘ではないなら、たぶん小さいものです」
ユリウスが頷く。
「その可能性が高い。鐘楼裏で、白い小鐘状の飾りが一つ見つかった」
白い小鐘。
その言葉が、銀環を強く打った。
熱が一気に跳ねる。
痛みが鋭くなる。
アルトは椅子の縁を握った。
「痛み、中から強。熱強。声……」
言葉が詰まった。
耳の奥で、何かが動く。
さっきまで言葉ではなかったものが、輪郭を取り始める。
リゼの声がすぐに来る。
「現在地」
「小講義室」
「名前」
「アルト」
「周囲」
「リゼさん、ミリアさん、カイ、ユリウス先輩」
「声は」
アルトは歯を食いしばった。
聞きたくない。
でも、聞こえかけている。
音ではない。
自分の内側に沈んでいた古い記録が、白い小鐘の言葉に触れて浮き上がるような感覚。
「まだ……言葉になっていません」
言った直後、左手首から肩へ熱が走った。
視界の端が白く滲む。
ミリアが言う。
「アルトさん、私を見て」
アルトはミリアを見る。
「何色?」
「金色」
「私のリボンは?」
「淡い橙」
「店の看板は?」
「小さな灯の焼き菓子店」
「裏の言葉は?」
戻ってこい。
口に出そうとした瞬間、銀環の奥で何かが揺れた。
白い小鐘。
鐘を鳴らすな。
来てはいけない。
友達を——
アルトは息を詰めた。
言葉の断片が近い。
まだ声ではない。
でも、もう形を持っている。
カイが一歩近づく。
リゼが視線だけで距離を測る。
近すぎない。
逃げ道を塞がない。
カイはそこで止まった。
「戻ってこい」
カイが言った。
看板裏の言葉を、そのまま。
「声が来ても、今ここに戻れ。俺らがいる。店もある。焼き菓子もある」
アルトは震える息を吸った。
「戻ってこい」
自分でも小さく繰り返す。
その言葉が、左手首の熱の中で短く光った。
ユリウスは言葉を止めて待っていた。
リゼが確認する。
「情報継続できますか」
アルトは少し時間をかけて頷いた。
「聞きます。小鐘のことを、少しだけ」
ユリウスは慎重に言った。
「白い小鐘状の飾りは、鐘楼裏の柵近くにあった。大きさは手のひらより少し小さい。祭具か装飾品に見える。旧倉庫に残っていた白鐘系の飾りと似ている可能性がある」
旧倉庫。
白鐘。
小鐘。
言葉が重なる。
アルトの左手首がまた強く熱を持つ。
「痛み中。熱強。声、手前」
リゼが即座に言う。
「中止しますか」
アルトは唇を噛んだ。
聞きたい。
でも、限界が近い。
声になる前に止めるべきか。
しかし、すでに音は鳴った。
小鐘は見つかった。
逃げても、知らないまま怖いものが増える。
「あと一つだけ」
アルトは言った。
「それは、今も鳴るんですか」
ユリウスは答えた。
「現時点では教師が保全し、固定している。これ以上鳴らないよう処置中だ。クラウス卿が術式確認に向かっている」
「そうですか」
少しだけ、胸が下がった。
止められている。
今は、鳴らないようにしている。
リゼが記録する。
「白い小鐘状飾り、教師側で保全・固定中。追加音防止処置中。この情報によりアルトさん反応、若干低下」
実際、熱は強のままだが、痛みは少し弱くなった。
だが、その安心は長く続かなかった。
小講義室の外で、もう一つ足音が止まる。
今度は軽いが、速い。
「ユリウス先輩!」
連絡員の声。
リゼが扉を開けるより先に、ユリウスが外へ出た。
声は抑えられているが、室内にも聞こえる。
「鐘楼裏の小鐘飾りに、黒変した紙片の残滓があります! クラウス卿が、黒い札そのものではないが類似系統の可能性ありと!」
黒変した紙片。
黒い札。
その言葉で、アルトの中の何かが跳ねた。
左手首が焼けるように熱くなる。
痛みが強くなる。
耳の奥の圧迫感が、一気に開いた。
声。
声が来る。
リゼが即座に振り向いた。
「アルトさん!」
アルトは手首を押さえた。
布の下の銀環が光っている。
熱い。
痛い。
視界の端が白く滲む。
遠くで、小さな鐘がまた鳴った気がした。
実際に鳴ったのか、記憶なのかわからない。
でも、銀環の奥から、低い、かすれた声が押し上がってくる。
……鳴らすな。
アルトは息を呑んだ。
それは、自分の声ではなかった。
誰の声かもわからない。
男か女か、若いのか老いているのかも曖昧だ。
ただ、必死だった。
命令のようで、悲鳴のようで、警告のようだった。
……鳴らすな。
「声」
アルトは震える声で言った。
「声、あります」
室内の空気が変わった。
リゼが膝をつくように視線を合わせる。
「内容」
「鳴らすな、って」
「現在地」
「小講義室……」
言えた。
まだ言える。
でも、声が遠くからもう一度近づく。
……鳴らすな。
……来るな。
アルトは思わず耳を塞ぎそうになった。
リゼの声が鋭く届く。
「耳ではなく銀環です。耳を塞いでも遮断できない可能性があります。現在地を優先」
リゼの声。
現在地。
小講義室。
小さな灯の近く。
リゼ。
ミリア。
カイ。
ユリウス。
アルトは必死に言う。
「小講義室。小さな灯の焼き菓子店の近く。リゼさん、ミリアさん、カイ、ユリウス先輩がいます」
「名前」
「アルト・レインフォード」
「役割」
「店員……小さな灯の焼き菓子店の店員」
「声の内容」
「鳴らすな。来るな、も少し……でも、はっきりしません」
ミリアが静かに言う。
「それは、あなたへの命令?」
アルトは目を閉じそうになったが、開けたまま答えた。
「わかりません」
「警告に聞こえる?」
警告。
その言葉に、声の質が少し変わって感じられた。
鳴らすな。
来るな。
攻撃ではない。
引き寄せる声でもない。
遠ざけようとしている。
だが、遠ざけられれば、自分は孤独になるかもしれない。
アルトは震えながら言った。
「命令みたいにも聞こえます。でも、怖がっているみたいにも聞こえます」
カイが低く言う。
「じゃあ、従うとか従わないとかの前に、ここにいろ」
アルトはカイを見る。
「声の方に行くな。声から逃げて一人にもなるな。ここにいろ」
その言い方は荒い。
でも、必要だった。
ミリアが続ける。
「声が警告でも、あなたを一人にする必要はないわ」
リゼがはっきり言う。
「声を命令として処理しません。情報として記録します」
情報として記録。
命令ではない。
それは重要だった。
声が来る。
だが、声が言ったから動くのではない。
声が言ったことを、今ここで確認する。
アルトは椅子の縁を握る力を少し緩めた。
「痛み強。熱強。声あり。でも、現在地は言えます」
リゼが頷く。
「良好です。小講義室待機を継続します」
ユリウスは扉の外へ短く指示を出した。
「ロウ先生とクラウス卿へ伝達。アルト君、声あり。内容は『鳴らすな』および『来るな』の断片。小鐘飾りは完全固定、視覚情報は本人へ非提示。中庭の音響物品を一時停止。鐘類、金属音の発生源を全停止」
連絡員が走る。
その足音が遠ざかる。
中庭のざわめきの中で、いくつかの音が止まっていくのがわかった。
どこかの出店の飾り鈴。
舞台袖の金属小道具。
案内用の手鈴。
学園祭の華やぎの中にあった小さな金属音が、一つずつ沈黙していく。
誰かが説明している声。
少し戸惑う来場者の声。
だが、大きな混乱はまだない。
ミリアがアルトに水を渡す。
「飲める?」
「少し」
手が震える。
ミリアは杯を押しつけない。
机に置き、アルトが自分で取れるようにする。
アルトは右手で杯を持ち、一口飲んだ。
水の冷たさが喉を通る。
左手首の熱と、体の中の冷たさが、少しだけ分かれる。
「痛み、中に下がりかけています。熱強。声、まだ遠くにあります」
リゼが問う。
「内容は続いていますか」
「鳴らすな、が残っています。来るな、は薄いです」
「現在地」
「小講義室」
「周囲」
「リゼさん、ミリアさん、カイ、ユリウス先輩」
「良好です」
カイが小さく息を吐いた。
「鳴らすなってんなら、鳴らさせなきゃいいんだろ」
単純な言葉。
でも、今はそれがありがたかった。
鳴らしてはいけない鐘。
それをずっと夢で聞いてきた。
来てはいけない。
友達を近づけてはいけない。
その言葉は、アルトを孤独へ押しやりそうだった。
だが、今のカイの言葉は違う。
鳴らすなと言われたから、一人で逃げるのではない。
みんなで、鳴らさせない。
ミリアも頷いた。
「ええ。警告なら、みんなで扱うものよ」
リゼが記録する。
「声の内容『鳴らすな』。命令ではなく警告情報として処理。対応方針、音源停止と共同確認」
ユリウスは少しだけ表情を緩めた。
「良い整理だ」
その時、扉の外から別の声がした。
「クラウスです。入ってもよろしいか」
アルトの左手首が少し反応する。
クラウス。
王宮側。
だが、白い小鐘を見ている人。
情報は必要だ。
リゼがアルトを見る。
アルトは少し迷ってから頷いた。
「入っても、大丈夫です。現物は見せないでください」
リゼが扉を開ける。
クラウス・ヴァイゼルが入ってきた。
彼は手袋をしたままだが、何も持っていない。
それを見て、アルトは少し安心した。
「現物は外に保全している。ここには持ち込まない」
「ありがとうございます」
クラウスは距離を取って立った。
「小鐘飾りについて、必要最低限を伝える。大丈夫か」
「はい」
「大鐘ではない。白い小鐘状の祭具だ。旧倉庫にあったものと同系統の可能性がある。表面に白鐘系の意匠。内側に、黒変した紙片の残滓が貼りついていた」
アルトの手首が熱くなる。
しかし、先ほどほどではない。
「痛み中。熱強。声は遠くにあります」
リゼが確認する。
「現在地」
「小講義室」
「感情」
「怖い。でも聞けます」
クラウスは続けた。
「黒い札の完成品ではない。以前の強制共鳴札とは違う。だが、似た思想で作られている。音と反応を結びつけるための、残滓、あるいは試作品に近い」
ミリアが問う。
「小鐘自体が鳴ったのですか」
「おそらくは。大きな音ではない。人に聞かせるためではなく、銀環に届かせるための音だ」
銀環に届かせるための音。
アルトは左手首を押さえた。
やはりそうだ。
中庭全体へ響く音ではない。
自分だけを狙う細い音。
測定印で反応を見て、小鐘で届かせる。
孤独な鍵。
響かせる。
胸が重くなる。
リゼがすぐに言う。
「あなたが響いたことは、あなたの責任ではありません」
アルトは顔を上げる。
「でも、届きました」
「届かせた者がいます」
リゼの声は硬い。
「届いたことは事実です。しかし、届かせた責任は、仕掛けた者にあります」
クラウスも頷く。
「その通りだ」
カイが言う。
「勝手に鳴らしてんじゃねえよな」
「はい」
アルトは小さく答えた。
勝手に鳴らされた。
勝手に測られた。
勝手に近づけられた。
嫌だ。
怖い。
でも、自分のせいではない。
その言葉を何度も置き直す。
ミリアが静かに尋ねた。
「小鐘は、もう鳴らない状態ですか」
クラウスが答える。
「現在、布と固定具で振動を止めている。術式的にも遮断処理を始めている。完全な解析は後になるが、少なくとも追加で鳴らすことは防いでいる」
カイが息を吐く。
「なら、今すぐ次はないんだな」
「現時点では」
クラウスは慎重に答えた。
「ただし、同種の小鐘や紙片が他にないとは言えない。中庭全域で金属小物、紙飾り、鐘形装飾の再点検が必要だ」
ユリウスが頷く。
「すでにリーナとエレオノーラが各班へ通達している。鐘類、鈴類、鐘形装飾、白い紙飾りは一時撤去。来場者には安全確認として説明する」
ミリアが小さく言う。
「完全中止ではなく、部分停止」
「現時点では」
ユリウスの表情は厳しい。
「学園長判断待ちだ。ただ、正門を即時閉じると混乱が大きい。まず危険音源を止め、来場者導線を整理する」
リゼが記録する。
「対応。音源停止、金属小物撤去、鐘形装飾撤去、白紙飾り確認、来場者導線整理」
クラウスはアルトを見る。
「アルト君。声は今もあるか」
「遠くにあります。鳴らすな、が残っています。来るな、は薄いです」
「それを、命令として受け取らないでほしい」
クラウスの声には、珍しく苦さが滲んでいた。
「古い封印や記録に残った声は、必ずしも正しい形で届くわけではない。守ろうとした言葉が、後の時代では人を縛ることもある」
アルトはその言葉を聞いた。
守ろうとした言葉が、人を縛る。
鳴らすな。
来るな。
友達を近づけるな。
それは、守ろうとした言葉なのか。
それとも、閉じ込める言葉なのか。
まだわからない。
「今は、命令ではなく情報として聞きます」
アルトは言った。
リゼが頷く。
「良好です」
ミリアも微笑む。
「とても良いわ」
カイが言う。
「声より俺らの声聞け」
アルトは少しだけ笑った。
「はい」
その笑いで、左手首の痛みが少し弱くなった。
熱はまだ強い。
だが、耐えられないほどではない。
声は遠い。
鳴らすな、という断片が、暗い水の底から浮かぶように残っている。
でも、今はその上に、別の声が重なっている。
現在地。
ここにいるわ。
勝手に行くなよ。
声より俺らの声聞け。
小さな灯の焼き菓子店。
戻ってこい。
しばらくして、学園長からの通達が届いた。
ユリウスが廊下で受け取り、室内へ戻ってくる。
「学園祭は一部区域を閉鎖。鐘楼、旧倉庫、舞台裏の一部、鐘形装飾のある展示区画を立入制限。出店区域は安全確認後に縮小継続。ただし、各出店は任意で一時停止可能。小さな灯は、当面休止して構わない」
カイが焼き菓子のことを考えたのが、顔でわかった。
だが、何も言わない。
ミリアもアルトを見るだけだった。
リゼは問わない。
今は決める時ではないとわかっている。
アルトは左手首に触れた。
痛みは中から少し下がっている。
熱は強から中へ向かっている。
声は遠い。
まだ、戻れない。
店に立つことはできない。
「今は休みたいです」
アルトは言った。
「でも、店を閉めたまま終わるかどうかは、まだ決めたくありません」
リゼが記録する。
「本人意思。現時点休憩希望。最終判断保留」
カイが頷いた。
「よし。じゃあ、店は休み。焼き菓子は残す」
ミリアが微笑む。
「戻れそうなら戻る。戻れなければ休む。それでも出店班ね」
「はい」
アルトは答えた。
小講義室の外では、学園祭の音が少しずつ変わっていた。
金属音が消えていく。
鈴が外される。
鐘形の飾りが布に包まれる。
舞台側の演目が一部止まる。
それでも、人の声は残っている。
説明する声。
誘導する声。
不安を抑える声。
そして遠く、小さな灯の焼き菓子店の看板が、風に揺れる気配。
アルトは椅子に座ったまま、ゆっくり息を吐いた。
鳴らすな。
声はまだ、遠くでそう言っている。
だが、今は一人でその言葉を抱えなくていい。
リゼが記録する。
ミリアが水を置く。
カイが扉の向こうの店を気にしている。
ユリウスが外で人を動かしている。
クラウスが小鐘を止めている。
誰かが、鳴らさないために動いている。
だからアルトは、左手首の熱の中で、もう一度現在地を言った。
「小講義室。小さな灯の焼き菓子店の近く。僕はアルト。今は休憩中です」
リゼが静かに頷いた。
「良好です」
その時、廊下の向こうから別の連絡員が駆けてくる足音がした。
足音は小講義室の前で止まり、扉越しに声が響いた。
「ユリウス先輩! 鐘楼裏の小鐘飾り、旧倉庫の記録にない白鐘飾りと形状が一致しました!」
アルトの左手首が、再び熱を帯びる。
だが、今度はすぐにリゼの声が重なった。
「現在地」
アルトは目を開けたまま答えた。
「小講義室」
「名前」
「アルト・レインフォード」
「周囲」
「リゼさん、ミリアさん、カイ、ユリウス先輩、クラウスさん」
「声は」
銀環の奥で、かすかに揺れる言葉。
鳴らすな。
来るな。
けれど、今度は少しだけ距離があった。
「あります。でも、遠いです」
カイが低く言った。
「遠いなら、こっちの声聞いとけ」
「はい」
アルトは頷いた。
小さな灯の焼き菓子店は、今は閉まっている。
それでも、その看板はまだ中庭に立っている。
鳴ってはいけない鐘があった。
でも、消えていない灯もあった。




