第6章 第9話:声にならない震え
声ではなかった。
それは、アルト・レインフォードの耳に届いたものではない。
中庭には相変わらず音が満ちている。
来場者の話し声。
舞台側の演目紹介。
子どもが笑う声。
包装紙が擦れる音。
遠くの水場で手を洗う音。
小さな灯の焼き菓子店の看板が、ほんのわずかに揺れる音。
それらは、いつも通りの学園祭の音だった。
だが、その下に、音ではないものがあった。
左手首の奥。
銀環のさらに奥。
骨より深い場所を、低い震えが撫でている。
誰かが遠くで、まだ鳴っていない金属に指を添えたような。
扉の向こうで、呼吸だけが近づいたような。
声ではない。
言葉ではない。
けれど、何かが近い。
「状態」
リゼ・グレイスの声が鋭く届いた。
アルトは左手首を押さえたまま、息を整えようとした。
「痛み、少し。熱、強。声なし」
「現在地」
「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店」
「何が起きていますか」
「声ではありません。でも、何かが近いです」
言葉にした瞬間、胸の奥の冷えが少し形を持った。
ミリア・ファルネーゼが台の前からすぐに戻ってくる。
カイ・ロックハートは焼き菓子の籠に布をかけた。
手つきは速い。
だが乱れていない。
「店、閉めるか」
カイの声は低かった。
以前なら、まず誰かを探そうとしたかもしれない。
どこだ、誰だ、何をした。
そう叫んで走り出していたかもしれない。
けれど今、カイは焼き菓子を覆い、台の前の札に手を伸ばしている。
閉める。
戻るために閉める。
第6章に入ってから、何度も繰り返してきた手順だった。
リゼは一瞬だけ中庭全体を見た。
オルド・ハイマンは、すでに少し離れた場所で学園長とユリウス・エインズワースに挟まれるように歩いている。
王宮関係者の白い外套が、人混みの中で淡く光る。
鐘楼は遠い。
旧倉庫側の札は、ここからは見えない。
小さな灯の店の周囲に、明らかな不審者はいない。
だが、アルトの銀環は強く熱を持っている。
「販売一時停止」
リゼが決めた。
「ミリアさん、来場者対応。カイさん、焼き菓子と台の保全。私はアルトさんを休憩所へ誘導します」
「了解」
カイが短く答える。
ミリアはすぐに客側へ向き直った。
並びかけていた来場者に、いつもの柔らかな声で告げる。
「申し訳ありません。物資と体調確認のため、少し販売を止めます。再開時はこちらに掲示いたします」
来場者の一人が心配そうにした。
「大丈夫ですか?」
ミリアは微笑む。
「はい。早めの確認です。ご心配ありがとうございます」
嘘ではない。
早めの確認。
それが必要だった。
カイが一時販売停止中の札を置く。
その手が少しだけ震えていた。
怒りではなく、緊張で。
けれど、札はまっすぐ置かれた。
リゼがアルトの横へ来る。
「移動します。歩けますか」
「歩けます」
「痛み」
「少し」
「熱」
「強」
「声」
「なし」
「現在地」
「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店。休憩所へ移動します」
「良好です」
リゼはアルトの腕を掴まなかった。
すぐ近くに立ち、進む方向を示すだけ。
ミリアがもう片側に入り、カイは店側に残る。
戻る場所を残すために。
アルトは一歩を踏み出した。
中庭の石畳の感触。
靴底に伝わる硬さ。
昼の空気。
焼き菓子の甘い匂いが、少しずつ背後へ遠ざかる。
それと同時に、左手首の低い震えがわずかに強くなった。
店から離れるからか。
それとも、近づいている何かがあるからか。
わからない。
「痛み、少し。熱、強。声なし。震えが続いています」
リゼがすぐに言う。
「現在地」
「中庭東側へ移動中。小講義室が見えます。リゼさんとミリアさんが近くにいます。カイは店にいます」
「感情」
「怖いです。店から離れるのも少し怖いです。でも、休憩が必要です」
「良好です」
小講義室前まで来ると、リゼが扉を確認した。
鍵は開いている。
エレオノーラが事前に手配していた通りだ。
中へ入る前に、アルトは一度振り返った。
小さな灯の焼き菓子店が見える。
カイが台の奥に立っている。
焼き菓子の籠は布で覆われている。
販売停止中の札。
看板。
その裏には、戻ってこい。
見えないけれど、そこにある。
アルトは小さく息を吸った。
「戻る場所、見えます」
ミリアが優しく頷いた。
「ええ。残っているわ」
小講義室の中に入ると、音が少し遠くなった。
壁一枚。
それだけで、中庭のざわめきが薄くなる。
だが、左手首の震えは消えなかった。
むしろ、周囲の音が減った分、内側の震えだけが際立つ。
アルトは椅子に座る。
ミリアが水を差し出す。
リゼは扉側に立ち、記録帳を開いた。
「状態」
「痛み少し。熱強。声なし。耳の遠さなし。でも、耳の奥に圧迫感があります」
「圧迫感」
「はい。耳の奥というより、頭の奥かもしれません。音が聞こえる前の……何かが近い感じです」
「現在地」
「小講義室。小さな灯の焼き菓子店の近く。リゼさんとミリアさんがいます。カイは店を見ています」
「感情」
「怖い。嫌です。測られている時より、近づかれている感じがします」
リゼのペンが動く。
「測定段階から接近段階への感覚変化。本人申告」
ミリアがアルトの前に屈んだ。
「呼吸は?」
「少し浅いです」
「一緒に数えましょう。四つ吸って、四つ止めずに吐く。止めなくていいわ」
「はい」
ミリアの声に合わせて、アルトは息を吸った。
一、二、三、四。
吐く。
一、二、三、四。
胸の奥の硬さはまだある。
だが、呼吸の数が現在地を支えてくれる。
リゼの声。
ミリアの声。
外の中庭。
ここは小講義室。
アルトは名前を言った。
「僕はアルト。小さな灯の焼き菓子店の店員です」
リゼが静かに頷く。
「良好です」
その時、扉が叩かれた。
リゼの手が、自然に扉側へ向く。
「誰ですか」
「ユリウスだ。セレナさんもいる」
リゼはアルトを見る。
アルトは少し迷ったが、頷いた。
「大丈夫です」
リゼが扉を開ける。
ユリウスと一緒に、セレナ・アイゼンベルグが入ってきた。
セレナは淡い灰色の髪を揺らし、いつも通り静かな表情をしている。
だが、その目は中庭の方ではなく、アルトの左手首あたりを見ていた。
見られている。
そう感じて、アルトの熱が少し上がりかける。
セレナはすぐに視線を外した。
「失礼。直接見すぎました」
ミリアが少し驚いたように彼女を見る。
セレナは続ける。
「観察の視線が負荷になるなら、控えます」
アルトは左手首を押さえた。
「痛み少し。熱強。声なし。でも、今のは大丈夫です。セレナさんは言ってくれました」
「そうですか」
セレナは一歩、距離を取った。
ユリウスが状況を説明する。
「アルト君の申告を受けて、中庭と鐘楼周辺の警備を再照合している。セレナさんが、魔力の流れに違和感を見たと言っている」
リゼが問う。
「詳細を」
セレナは頷いた。
「オルド監察官が小さな灯の焼き菓子店を離れた直後、中庭の魔力線が一瞬だけ細く引かれました」
「魔力線」
「はい。糸のようなものです。中庭中央から鐘楼方面へ、ではなく、鐘楼方面から中庭へ触れるような線でした」
アルトの左手首が熱を持つ。
「痛み少し。熱強。声なし。鐘楼という言葉で反応しました」
リゼがすぐに確認する。
「現在地」
「小講義室。リゼさん、ミリアさん、ユリウス先輩、セレナさんがいます」
「感情」
「怖い。でも、情報として聞いています」
「良好です」
セレナは言葉を選びながら続けた。
「線は長く続いていません。一瞬だけです。ただ、測定印のようなものがあったなら、そこへ向けて反応を探る、または拾うことは可能だと思います」
ミリアの顔が硬くなる。
「測定印は保全され、箱も替えました」
「はい。だから、同じ場所からではないかもしれません」
セレナの視線が窓の外へ向く。
「中庭のどこかに、別の受け皿がある可能性があります。あるいは、測定印で得た情報を使って、次の刺激を調整した可能性も」
アルトの胸が重くなる。
測られた。
その結果で、次が来る。
熱が上がる。
「痛み少し。熱強。耳の奥の圧迫感、少し増えました。声なし」
リゼが言う。
「必要なら情報共有を止めます」
アルトは水を一口飲んだ。
冷たさが喉を通る。
「まだ聞きます。僕のことだから」
ユリウスが静かに頷いた。
「わかった。ただし、無理はしない」
「はい」
リゼが記録する。
「本人、情報共有継続希望。中止条件維持」
ミリアはアルトの横にいる。
触れすぎず、離れすぎず。
いつもの距離。
それが、今はとてもありがたかった。
ユリウスが続ける。
「鐘楼側の記録を再照合した。さっきの旧倉庫記録と同じく、鐘楼周辺にもおかしな確認記録が追加されている」
リゼの目が鋭くなる。
「また確認済みですか」
「そうだ」
ユリウスの声が低くなる。
「鐘楼裏巡回、確認済み。記録時刻は、北の朝灯り終了後すぐ。しかし、その時間に担当者は中庭東側で群衆整理に回っていた。記入者の筆跡は警備補助班に似せているが、本人ではない」
ミリアが息を呑む。
「旧倉庫だけではなく、鐘楼側も」
「うん」
エレオノーラがいれば、今この場ですぐに紙面の差異を説明していただろう。
確認済み。
また、その言葉。
アルトは左手首を押さえた。
熱が強い。
痛みは少し。
声はない。
だが、耳の奥の圧迫感が増している。
「現在地」
リゼが先に促した。
「小講義室。小さな灯の焼き菓子店の近く。鐘楼周辺にも偽の確認済み記録が追加されていたと聞きました」
「感情」
「怖いです。記録の中に何度も入ってこられている感じがします」
「良好です」
カイがいない。
ふと、アルトはそう思った。
店を残すために、カイは外にいる。
それは手順通りだ。
でも、今の話を聞く時、カイの声がないのが少し寂しかった。
勝手に孤独になるな。
いつかそう叫ぶカイの声を、アルトはまだ知らない。
けれど、今のアルトは、その言葉が欲しい気がした。
「カイは」
思わず言うと、ミリアがすぐに答えた。
「店にいるわ。戻る場所を見てくれている」
「はい」
「必要なら呼ぶ?」
アルトは少し考えた。
呼びたい。
でも、店が完全に空くのも怖い。
「まだ大丈夫です。カイが店にいるとわかっていれば、大丈夫です」
リゼが記録する。
「カイさんの所在確認により安定補助あり」
セレナが静かに言った。
「人の配置も、術式に対抗する要素になるんですね」
リゼが答える。
「はい。アルトさんにとって、現在地と関係者の所在は安定要素です」
「面白い」
セレナは言ってから、少しだけ首を傾けた。
「失礼。興味深い、の方が適切ですね」
ミリアが小さく笑った。
「その訂正は良いと思うわ」
セレナは真面目に頷いた。
「学びます」
ほんの少しだけ、空気が緩む。
アルトの熱も、わずかに下がる。
その時、外からカイの声が聞こえた。
「おい、リゼ!」
扉の外。
焦っているが、叫びすぎてはいない。
リゼがすぐに扉を開ける。
カイがそこに立っていた。
息が少し上がっている。
だが、走ってきたというより、急ぎ足で来た程度だ。
彼の後ろでは、警備補助の生徒が小さな灯の店を見ている。
「店は?」
リゼが問う。
「警備補助とリリアが近くにいる。ミリアの一時停止札も出した。B……じゃなくてS-四は触ってない」
「良好です。何がありましたか」
カイは小講義室の中を見て、アルトの顔を確認した。
「大丈夫か」
「痛み少し。熱強から少し下がっています。声なし」
「よし」
カイは頷き、それから言った。
「店の前じゃなくて、少し離れた中庭の石柱の下に、紙片が落ちてた。触ってない。白い線みたいなのが入ってる気がしたから、警備補助に見張ってもらって、エレオノーラ先輩呼んだ」
室内の空気がまた硬くなる。
リゼが確認する。
「カイさんは触っていませんか」
「触ってない」
「誰が発見しましたか」
「俺。店から中庭見てたら、子どもが拾いそうになってた。声かけて止めた。触らず離した」
「非常に良好です」
カイの顔が一瞬だけ歪んだ。
褒められたことへの照れではない。
間に合ったことへの緊張だった。
「マジで、触らなくてよかった」
アルトの左手首が熱を持つ。
「痛み少し。熱強。声なし。紙片という言葉で反応しました」
ミリアがすぐに近づく。
「現在地は」
「小講義室」
「感情は」
「怖いです。でも、カイが触らなかったことに安心しました」
カイは少しだけ息を吐いた。
「触らねえよ。もう覚えた」
リゼが短く頷く。
「学習成果、明確です」
「今それ言うと変だけど、まあいい」
ユリウスがカイに問う。
「紙片の位置は?」
「中庭中央寄り。小さな灯から直接手が届く場所じゃない。でも、見える場所。石柱の影」
セレナが目を細める。
「中庭中央から鐘楼方面へ線が引かれた地点と近いかもしれません」
ユリウスはすぐに判断した。
「エレオノーラと警備班に任せる。僕も行く。アルト君はここで待機」
アルトは頷く。
「はい」
リゼが一瞬、ユリウスを見る。
行きたい。
それがまたわかった。
だが、リゼは言った。
「私はアルトさんのそばで待機します」
ユリウスが頷く。
「頼む」
セレナは少し迷ったようにアルトを見た。
「私も紙片の反応を見に行きます。ただ、戻って報告する時は、直接的すぎる表現を避けます」
「ありがとうございます」
セレナは頷き、ユリウスとともに出ていった。
カイは小講義室の中へ入った。
ミリアが扉を閉める。
四人がそろった。
アルトの左手首の熱が、少しだけ下がった。
痛みは弱い。
声はない。
カイが壁際ではなく、少し近くに立つ。
「勝手に一人で怖がるなよ」
ぶっきらぼうな声。
アルトは少し目を見開いた。
今、欲しかった言葉に近かった。
「はい」
「俺、店にいた。今はここにいる。店は警備補助とリリアが見てる。ミリアもリゼもいる」
「はい」
「だから、現在地言え」
リゼが少しだけカイを見る。
ミリアが柔らかく笑う。
アルトは左手首を押さえた。
「小講義室。小さな灯の焼き菓子店の近く。リゼさん、ミリアさん、カイがいます。ユリウス先輩とセレナさんは中庭の紙片確認へ行きました。店は警備補助の人とリリアさんが見ています」
「よし」
カイは頷いた。
「痛みは」
「少し。弱くなっています」
「熱は」
「中から強の間」
「声は」
「なし」
カイは少し得意げにリゼを見る。
「合ってるか」
「はい。非常に良好です」
「よし」
そのやり取りで、アルトは少し笑った。
笑える。
まだ笑える。
それを自覚すると、銀環の熱が少しだけ下がる。
ミリアが水をもう一度渡した。
「少し飲みましょう」
「はい」
冷たい水。
手の中の杯。
床の感触。
仲間の声。
声ではない震えは、まだ消えていない。
だが、遠ざかっているようにも感じる。
あるいは、四人がそろったことで、届きにくくなったのかもしれない。
しばらくして、エレオノーラが扉の外から声をかけた。
「入室してもよろしいですか」
リゼがアルトを見て、アルトは頷く。
「はい」
エレオノーラが入ってくる。
手には封入袋。
紙片そのものは透明な保護袋の中に入れられており、アルトからは見えないよう裏返されている。
その配慮だけで、少し安心した。
「紙片は保全しました。アルトさんからは見えない角度で保持します」
「ありがとうございます」
エレオノーラは淡々と報告する。
「中庭石柱下に白色紙片一枚。大きさは指二本程度。表面に薄い白線状の加工。成分表示札に見つかった測定印と類似の可能性があります。ただし、詳細はクラウス卿の確認待ちです」
アルトの左手首が熱を持つ。
しかし、痛みは強くならなかった。
「痛み少し。熱中から強。声なし。紙片の報告を聞いています」
リゼが確認する。
「現在地」
「小講義室。みんながいます」
「感情」
「怖いです。でも、見えないようにしてくれているので聞けます」
エレオノーラが頷く。
「以後も視覚情報は制限します」
ミリアが尋ねる。
「その紙片は、落ちていたの? 置かれていたの?」
「現時点では断定できません。ただ、石柱の影に滑り込ませたような位置でした。風で移動した可能性もありますが、中庭の風向きと一致しない点があります」
カイが顔をしかめる。
「わざと置いたってことか」
「可能性があります」
エレオノーラは続ける。
「さらに、鐘楼周辺記録の再確認で、偽の確認済み記録が一件追加されていました。記入時刻は、アルトさんが声ではない震えを訴える少し前です」
室内が静かになる。
アルトの耳の奥で、また圧迫感が強まった。
「痛み少し。熱強。声なし。耳の奥の圧迫感、再上昇」
リゼがすぐに言う。
「情報停止しますか」
アルトは目を閉じそうになった。
でも、閉じない。
現在地を見失わないために、リゼを見る。
ミリアを見る。
カイを見る。
「あと少しだけ聞きます」
「了解しました」
エレオノーラは続ける。
「記録には、鐘楼裏確認済みとありました。しかし実際には、その時刻に鐘楼裏確認を行った者はいません。筆跡は警備補助班員に似せていますが、本人確認で否定されました」
確認済み。
また、確認済み。
確認していないのに、確認済み。
安全ではないのに、安全の形。
似せる。
通す。
測る。
近づく。
アルトは左手首を握りしめそうになり、力を抜いた。
「僕は」
声が少し掠れた。
ミリアが静かに待つ。
「誰かが、確認済みって書くたびに、近づいてきている感じがします」
リゼが記録する。
「確認済み偽装と接近感の連動、本人申告」
エレオノーラの表情がわずかに変わった。
彼女は自分の記録板を見た。
「確認済みという言葉を、しばらく別表現に切り替えます」
ミリアが頷く。
「良いと思います」
リゼも言う。
「アルトさんへの負荷軽減に有効です」
カイが言った。
「じゃあ、何て言うんだ?」
エレオノーラは少し考えた。
「照合完了、または目視完了。ただし、偽装された可能性のある語は避けます」
アルトは小さく頷いた。
「お願いします」
「記録します」
エレオノーラは自分の記録に、その場で書き加えた。
本人負荷軽減のため、「確認済み」の連呼を避ける。代替語使用。
その行為自体が、アルトを少し落ち着かせた。
記録は怖いものだけではない。
誰かを守るために変えられる。
北の朝灯りの歌詞のように。
エレオノーラが紙片を持って退出する。
ユリウスは外で対応を続けているらしい。
セレナも、クラウスのところへ向かったという。
小講義室にはまた四人が残った。
中庭の音が、少しだけ大きくなった気がした。
いや、実際に人が増えているのだろう。
昼の時間が近い。
来場者の流れはまだ止まらない。
学園祭は続いている。
アルトは左手首に触れた。
熱は中から強。
痛みは少し。
声はない。
声はない。
それだけは、まだ救いだった。
だが、震えは完全には消えていない。
「声はないです」
アルトは自分で言った。
「でも、声になる前のものが、近くにあります」
リゼが静かに問う。
「形容できますか」
「低いです。暗いというより、重い。音ではないけど、音になる準備をしている感じです」
「方向は」
アルトは目を閉じず、左手首の感覚を辿った。
鐘楼。
中庭。
石柱。
小さな灯。
どこだ。
方向ははっきりしない。
ただ、上からではなく、横から来る。
「鐘楼だけではないと思います。中庭との間に、細いものがあります」
リゼが記録する。
「鐘楼単独ではなく、中庭との間の線の感覚。セレナさん証言と一致傾向」
ミリアがアルトの手元を見る。
「熱は?」
「中から強。さっきより少し下がっています」
「痛みは」
「少し。でも弱い」
「声は」
「なし」
カイが言う。
「飯食えるか」
アルトは思わず瞬きをした。
「今ですか?」
「今だろ。昼近いし。ずっと怖がってたら腹減る前に倒れる」
ミリアが小さく笑った。
「正しいわ」
リゼも真面目に頷く。
「栄養補給は必要です」
「だろ」
カイは持ってきていた小袋を取り出した。
中には、小さな見届けクッキーの欠けが入っていた。
「商品にできない形のやつ。食う用。測定印とかじゃない。俺が焼いて、さっきミリアが見て、リゼも見た」
リゼが補足する。
「安全確認済み……いえ、照合完了です」
言い直した。
アルトはそれを聞いて、少し笑った。
「ありがとうございます」
小さな欠けを一つ口に入れる。
甘い。
少し香ばしい。
干し果物の酸味が舌に触れる。
中庭の低い震えは、まだ遠くにある。
だが、焼き菓子の味は今ここにある。
アルトはゆっくり噛んだ。
「痛み少し。熱中。声なし。焼き菓子を食べています」
リゼが確認する。
「感情」
「少し落ち着いています。カイの言い方が普通で、助かりました」
カイは少し照れたように顔を逸らす。
「普通って何だよ」
「普通です」
「まあ、いいか」
ミリアが微笑む。
「普通が戻るのは、大事ね」
「はい」
アルトは頷いた。
普通。
学園祭の普通。
焼き菓子の普通。
友人が腹を心配する普通。
その普通が、銀環の震えより少しだけ強くなる。
その時、小講義室の外で、連絡員の足音が止まった。
軽いノック。
リゼが扉へ向かう。
「誰ですか」
「警備補助班です。ユリウス先輩から伝言です」
リゼが扉を少し開ける。
連絡員の生徒は、息を整えながら言った。
「鐘楼周辺と中庭石柱の件、照合継続中です。中庭の混乱はありません。ただし、鐘楼から本来予定のない時刻に、管理記録外の金属音が一度聞こえたという報告が入りました」
アルトの左手首が、一瞬で熱を持った。
痛みが走る。
中程度。
耳の奥の圧迫感が、ぐっと強くなる。
リゼが即座に振り向く。
「アルトさん」
その瞬間だった。
小講義室の壁の向こう。
遠くの鐘楼の方角から、かすかな金属音が響いた。
大鐘ではない。
朝鐘のような澄んだ響きでもない。
小さな飾り鐘を、爪先で一度だけ弾いたような音。
ちり、と。
中庭のざわめきに紛れれば、ほとんどの人は気づかないほど小さい。
だが、アルトの銀環には届いた。
左手首が熱く光る。
痛みは中。
声は、まだない。
だが、声の手前に何かが立った。
「痛み、中。熱、強。声、まだありません」
アルトは椅子の縁を握った。
現在地。
言わなければ。
ここはどこだ。
小講義室。
小さな灯の近く。
リゼ。
ミリア。
カイ。
中庭。
鐘楼。
音。
リゼの声が届く。
「現在地」
「小講義室。小さな灯の焼き菓子店の近く。リゼさん、ミリアさん、カイがいます」
「良好です。感情」
「怖いです。今、金属音がしました」
カイが息を呑む。
ミリアの手が、椅子の背にそっと置かれる。
リゼは扉の向こうの連絡員へ、低く命じた。
「ユリウス先輩へ伝達。アルトさん、予定外金属音に反応。痛み中、熱強、声なし。直ちに鐘楼音源の照合をお願いします」
「了解しました!」
連絡員が走り去る。
小講義室の中で、誰も動かなかった。
いや、動けなかったのではない。
動かないことを選んでいた。
アルトを孤独にしないために。
リゼが一歩、アルトの正面へ来る。
「現在地」
「小講義室」
「名前」
「アルト・レインフォード」
「役割」
「小さな灯の焼き菓子店の店員。今は休憩中」
「近くにいる人」
「リゼさん、ミリアさん、カイ」
「声は」
アルトは左手首を押さえた。
熱は強い。
痛みは中。
耳の奥で、さっきの小さな金属音がまだ揺れている。
だが、言葉にはなっていない。
「まだ、声ではありません」
そう言った瞬間。
遠くで、もう一度、金属が微かに震えた気がした。
音にはならない。
ただ、次の音を待つように。
リゼの灰銀の瞳が鋭くなる。
ミリアの声が、静かにアルトを繋ぎ止める。
「ここにいるわ」
カイが言う。
「勝手に行くなよ」
アルトは、震える息を吸った。
「はい」
左手首の熱の奥で、まだ言葉にならない何かが、ゆっくり近づいていた。




