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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第6章 第8話:監察官、来店


 オルド・ハイマンが中庭に現れた瞬間、空気が少しだけ冷えた。


 実際には、学園祭のざわめきは続いている。


 舞台の方では次の演目を待つ来場者が笑い、近くの出店では子どもが飾り菓子を選んでいる。水場では案内班の生徒が手を洗い、花飾りの下では卒業生たちが記念のように校舎を眺めている。


 けれど、小さな灯の焼き菓子店の前だけ、薄い膜が張ったように感じられた。


 白い外套。


 整った歩調。


 冷えた礼儀。


 オルドの周囲には、王宮関係者らしき数名が付き従っている。


 学園長とユリウス・エインズワースが少し離れた位置で対応していたが、オルドの視線は中庭全体を一度なぞり、迷いなく小さな灯の焼き菓子店へ向いた。


 看板。


 台。


 焼き菓子。


 淡橙色の包装紙。


 そして、アルト・レインフォード。


 視線が触れた瞬間、アルトの左手首が熱を持った。


 痛みはない。


 声もない。


 だが、熱は中から少し強へ近づく。


 測定印が見つかった直後の胸の重さが、まだ完全には消えていない。


 その上に、王宮の視線が重なる。


「状態」


 リゼ・グレイスの声が、すぐ横から届いた。


 彼女は台の左側に立っている。


 剣には触れていない。


 けれど、立ち位置がわずかに変わっていた。


 アルトとオルドの間に、少しだけ身体を置く位置。


 護衛の位置。


 だが、同時に出店班の位置でもある。


 台を塞がない。


 客の導線を乱さない。


 武力対応ではない。


 報告優先。


 リゼはそのすべてを守ったまま、そこに立っていた。


「痛みなし。熱、中から強の手前。声なし」


 アルトは答えた。


「現在地は」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店。販売再開中です。オルド監察官が中庭に来ました」


「感情は」


「怖いです。嫌です。でも、僕は店にいます」


「良好です」


 ミリア・ファルネーゼが台の前に出た。


 彼女の表情は穏やかだった。


 だが、いつもの柔らかさの奥に、薄い壁がある。


 社交の壁。


 相手を拒絶しすぎず、しかし踏み込ませすぎない境界線。


 カイ・ロックハートは台の奥で焼き菓子の籠を持ったまま、動かなかった。


 顔は硬い。


 拳は握られていない。


 手袋をした手は、焼き菓子を包む位置にある。


 突撃ではなく、店を守る姿勢。


 オルドは学園長と短く言葉を交わした後、ユリウスを伴ってゆっくり近づいてきた。


 白い外套の裾が、中庭の風にほとんど揺れない。


 この人は、祭りに来た人の歩き方ではない。


 見るために来ている。


 測るために来ている。


 アルトはそう感じて、左手首を押さえた。


 また、測る。


 その言葉が胸に刺さる。


「痛みなし。熱、強に近い。声なし」


 リゼが小さく確認する。


「現在地」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店。オルド監察官が近づいています」


「感情」


「測られている気がして、嫌です」


「良好です。必要なら休憩へ移動します」


「まだ、います」


「了解しました」


 オルドは店の前で足を止めた。


 看板を見上げる。


「小さな灯の焼き菓子店」


 彼は丁寧に読み上げた。


 声は穏やかだ。


 だが、温度がない。


「良い名前ですね。学園祭らしい」


 ミリアが一歩前へ出る。


「ありがとうございます。見届けクッキーを販売しております」


 オルドの視線がミリアへ向く。


「ファルネーゼ嬢。あなたが接客を?」


「はい。本日は出店班として参加しております」


「なるほど。貴族家の令嬢が菓子を売るとは、学園らしい試みです」


 言葉だけなら褒めている。


 しかし、そこには少しだけ分類するような響きがあった。


 ミリアは微笑みを崩さなかった。


「本日は学園祭ですので」


「ええ。学園祭」


 オルドは次にカイを見る。


「ロックハート君でしたか。焼き菓子担当と聞いています」


 カイの肩がわずかに強張る。


「はい」


 返事は短い。


 ミリアがすぐに補う。


「見届けクッキーは、カイさんが調理担当教師の確認のもとで焼いています。成分表示もこちらにございます」


 オルドは成分表示札へ視線を落とした。


 アルトの胸が冷える。


 成分表示札。


 つい先ほど、その裏に測定印が見つかった。


 今並んでいる札は、新しいものだ。


 全員で確認した。


 線なし。


 透かしなし。


 鐘なし。


 蔦なし。


 それでも、成分表示札を見るだけで、左手首が熱を持つ。


「痛みなし。熱、強手前。声なし。成分表示札をオルド監察官が見ています」


 リゼがすぐに言う。


「現在地」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店」


「感情」


「嫌です。でも、札は新しいものです。確認済みです」


「良好です」


 オルドの視線が、わずかにアルトへ流れた。


「状態確認が徹底されていますね」


 ユリウスがオルドの横で静かに言う。


「学園内で本人が安全に過ごすための手順です」


「安全に」


 オルドはその言葉を繰り返した。


「今日の状況を見る限り、その手順が十分かどうかは疑問ですが」


 カイの手が焼き菓子の包みを少し強く押さえた。


 リゼが一瞬だけ目を向ける。


 カイは気づき、力を抜いた。


 包装紙は破れていない。


 ミリアが穏やかに言う。


「当店では、必要に応じて販売を停止し、安全確認後に短時間再開しております」


「ええ。報告は受けています」


 オルドは台の上へ視線を移した。


「物資箱に異常があったそうですね」


 その一言で、アルトの左手首に痛みが走りかけた。


 ほんの少し。


 鋭いというより、針で突かれるような感覚。


「痛み、少し。熱、強。声なし」


 リゼが即座に言う。


「休憩しますか」


 アルトは息を吸った。


 看板の裏を見る。


 戻ってこい。


 今は逃げてもいい。


 休んでもいい。


 でも、オルドの言葉でこの場を奪われるのは嫌だった。


「まだ、ここにいます」


 ミリアが小さく頷く。


「無理ならすぐ言ってね」


「はい」


 ユリウスがオルドへ向けて言った。


「詳細は安全上の理由により非公開です。学園側で対応中です」


 オルドはわずかに目を細めた。


「非公開。そうですか。ですが、王宮監察官として、保護対象に関わる危険情報を伏せられるのは困りますね」


 リゼの声が静かに入った。


「アルトさん本人への負荷を考慮した共有範囲です」


 オルドの視線がリゼへ向く。


「グレイス嬢。あなたが判断を?」


「いいえ。学園側と本人意思確認に基づく対応です」


「本人意思」


 その言葉を、オルドは少し冷ややかに言った。


「危険下にある未成年の意思は、慎重に扱うべきです。恐怖によって判断が歪むこともある」


 アルトの胸が締めつけられる。


 まただ。


 王宮は、いつもそう言う。


 怖いから、混乱している。


 未成年だから、判断できない。


 保護対象だから、決められない。


 アルトは左手首を押さえた。


 熱は強。


 痛みは少し。


 声はない。


 今なら、まだ言える。


 ミリアが視線だけで問いかける。


 話しますか。


 話さなくてもいい。


 そういう目だった。


 アルトは小さく頷いた。


「僕は」


 声が少し震えた。


 オルドの視線がこちらへ向く。


 冷たい。


 観察する視線。


 でも、アルトは看板の表を見た。


 小さな灯の焼き菓子店。


 ここは、自分たちの店だ。


「怖いです」


 まず、そう言った。


「今日も怖いことがありました。物資も、音も、記録も、全部怖いです」


 オルドは黙っている。


 アルトは続けた。


「でも、怖いものを全部隠されるより、ここで確認できる方がいいです」


 左手首が熱を持つ。


 だが、痛みは強くならない。


「僕は、ここで確認しながら過ごしています。怖い時は休みます。無理なら中止と言います。今日は、店を少しだけ再開したいと自分で言いました」


 ミリアの表情が柔らかくなる。


 カイが台の奥で小さく頷く。


 リゼは記録帳を開いたまま、アルトを見ている。


「僕は、測られるためにここにいるんじゃありません」


 その言葉に、オルドの眉がわずかに動いた。


 アルトはそれを見た。


 言いすぎたかもしれない。


 でも、止めなかった。


「僕は、小さな灯の焼き菓子店の店員としてここにいます」


 中庭のざわめきの中で、その言葉だけが自分の足元に落ちた。


 店員。


 看板係。


 記録係。


 友達。


 鍵だけではない。


 保護対象だけではない。


 測定対象ではない。


 リゼが静かに言った。


「本人意思、確認しました」


 オルドはリゼを見る。


「グレイス嬢、あなたは常に彼の意思を優先するのですか」


「本人意思は重要判断材料です」


「重要判断材料。ですが、危険は明白です。学園祭という開かれた環境は、保護対象には刺激が多すぎるのではありませんか」


 ユリウスが答える。


「学園長の管理下で警備と手順を強化しています」


「それでも異常は発生した」


「発生した異常に対して、学園側は検知、停止、保全、再確認を行いました」


「発生させないことが保護では?」


 オルドの声は穏やかだ。


 しかし、言葉は鋭い。


「王宮管理下であれば、危険物も音も来場者も制限できます。旧倉庫、鐘楼、出店物資、楽曲。そうした不確定要素を排除できる」


 アルトの左手首が強く熱を持つ。


 王宮管理下。


 制限。


 排除。


 安全。


 その言葉は、アルトを守るためのものに聞こえる。


 けれど、同時に、閉じ込めるためのものにも聞こえる。


 ミリアが一歩、ほんの少しだけ前へ出た。


「監察官殿」


 声は柔らかい。


 だが、芯がある。


「当店では、購入前に成分表示をご確認いただいております。ご購入なさいますか」


 唐突に聞こえる言葉だった。


 しかし、オルドの視線が一瞬止まった。


 ミリアは続ける。


「ここは現在、小さな灯の焼き菓子店です。保護対象に関する協議は、学園長および生徒会の管理する場でお願いいたします」


 社交の言葉で、場を切り替えた。


 ここでアルトを問い詰めるな。


 ここは店だ。


 そう言っていた。


 オルドは少しだけ笑った。


 笑みというより、口元を整えただけの表情。


「では、一ついただきましょう」


 カイの顔が硬くなる。


 だが、すぐに焼き菓子へ手を伸ばした。


 リゼが状態確認の視線をアルトへ向ける。


「痛み少し。熱強。声なし」


 アルトは自分で言った。


「現在地は」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店。オルド監察官が見届けクッキーを一つ買おうとしています」


「感情」


「怖いです。嫌です。でも、店の手順をします」


「無理なら交代します」


「説明だけ、します」


「了解しました」


 アルトは成分表示札を示した。


 指先は少し震えている。


 でも、札には触れない。


 台の上の確認済みの札。


「小麦、卵、乳、林檎、杏を使っています。こちらに表示があります」


 声は小さかった。


 しかし、届いた。


 オルドは成分表示を見た。


「確認しました」


 その言い方に、何の感情もない。


 ミリアが代金を受け取る。


 カイが焼き菓子を包む。


 彼の手つきは、少し硬いが乱れていない。


 包装紙を折り、小さな灯の印が正面に出るよう整える。


 リゼがその動きを確認する。


 異常なし。


 カイは焼き菓子を台の上に置いた。


 直接オルドの手へ押しつけない。


 店の手順通り。


「見届けクッキー、一つです」


 声は低い。


 オルドはそれを受け取った。


 淡橙色の包装紙を見る。


 小さな灯の印。


 手書きの店名。


 確認番号。


 彼の指が包装紙の端を軽く撫でる。


 アルトの左手首が熱くなる。


「痛み少し。熱強。声なし。包装紙を見られています」


 リゼがすぐに言う。


「現在地」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店」


「感情」


「嫌です。測られている気がします」


「良好です」


 オルドは顔を上げた。


「よく整えられた店ですね」


 ミリアが答える。


「ありがとうございます」


「戻る場所、という印象を受けます」


 その言葉に、アルトの胸が冷えた。


 戻る場所。


 オルドがそれを言うと、なぜこんなに嫌なのか。


 カイが台の奥で奥歯を噛んでいる。


 リゼの瞳が鋭くなる。


 ミリアだけが、微笑みを保っていた。


「学園祭では、休める場所も大切ですので」


「ええ。ですが、戻る場所は弱点にもなる」


 オルドは静かに言った。


「特に、危険な反応を抱える者にとっては」


 アルトの左手首に痛みが走った。


 少し。


 しかし、さっきより鋭い。


「痛み、少し。熱強。声なし」


 リゼが一歩前へ出た。


 まだ剣には触れていない。


「その表現は、アルトさん本人への負荷が高いです」


 オルドはリゼを見た。


「負荷を避けるだけで、危険はなくなりません」


「負荷を不用意に与えることも、危険管理ではありません」


 リゼの声は冷静だった。


「本人意思の確認をお願いします」


「グレイス嬢は、ずいぶん本人意思に重きを置くようになりましたね」


「はい」


 リゼは即答した。


「必要です」


「戦場では、本人意思を確認する時間はなかったでしょう」


 その言葉に、空気が切れた。


 アルトは思わずリゼを見た。


 リゼの表情は変わらない。


 しかし、灰銀の瞳の奥で、何かが冷たく動いた。


 カイが今にも声を上げそうになり、ミリアが視線だけで止める。


 リゼは静かに言った。


「ここは戦場ではありません」


 オルドは少し目を細める。


「ですが、戦場になる可能性はあります」


「その可能性を理由に、現在をすべて戦場として扱うことはできません」


 リゼの声は、低く、明瞭だった。


「私は現在、小さな灯の焼き菓子店の出店班です」


 アルトの左手首が淡く温かくなる。


 痛みは少し残っている。


 でも、熱の質が少し変わった。


 リゼが自分で選んだ場所を言葉にした。


 オルドは、今度はリゼ自身を測るように見た。


「灰銀の戦乙女を、焼き菓子店の出店班に置く。実に学園らしい」


 その言葉には、明らかに軽い侮りがあった。


 リゼは揺れなかった。


「はい」


 短い返事。


 肯定。


 それ以上、説明しない。


 ミリアがすかさず言葉を差し込む。


「監察官殿、見届けクッキーは本日分に限りがございます。お持ち歩きの際は、包装紙のまま保管してください」


「丁寧な案内、感謝します」


 オルドは焼き菓子を手にしたまま、ユリウスの方を見た。


「学園長との協議を続けましょう。今日の状況は、王宮へ詳細に報告する必要があります」


 ユリウスが静かに頷く。


「学園側からも、発生事実と対応記録を提出します。ただし、本人の身体反応詳細は、本人同意の範囲で扱います」


「王宮監察に必要な情報です」


「本人の同意なく、詳細な身体反応記録を外部共有することはできません」


 オルドの目が一瞬だけ冷えた。


 しかし、彼はその場で争わなかった。


「後ほど確認しましょう」


 そう言って、彼は小さな灯の焼き菓子店から離れた。


 白い外套の一団が、再び中庭の人波の中を進んでいく。


 彼が去ってからも、冷えた空気が少し残っていた。


 アルトは息を吐いた。


 吐いた息が震えていた。


 左手首は熱い。


 痛みは少し。


 声はない。


 リゼがすぐに確認する。


「現在地」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店。オルド監察官は離れました」


「痛み」


「少し」


「熱」


「強から中へ下がり始めています」


「声」


「なし」


「感情」


「怖かったです。嫌でした。疲れました。でも、言えました」


 ミリアが優しく言う。


「ええ。言えたわ」


 カイが台の奥で低く言った。


「よく言った」


 リゼも頷く。


「本人意思、明確に表明されました」


 アルトは少しだけ笑った。


「記録されますか」


「はい」


 リゼは真面目に答えた。


「重要発言です」


 カイが焼き菓子の包みを一つ取り出した。


「監察官来店後用」


 ミリアが少し眉を下げて笑った。


「今日は用途が重いわね」


「軽くできねえだろ」


「そうね」


 リゼが確認する。


「今、食べられますか」


 アルトは左手首を見た。


 熱は中へ下がりつつある。


 胃の気持ち悪さは少し残っている。


 でも、水を飲めば食べられそうだ。


「少しなら」


 ミリアが水を渡し、アルトは一口飲んでから焼き菓子を受け取った。


 見届けクッキー。


 カイが焼いたもの。


 オルドも一つ持っていった。


 それが少し嫌だった。


 けれど、焼き菓子そのものは悪くない。


 店も悪くない。


 アルトは一口食べた。


 甘さが広がる。


 左手首の熱が、少しだけ下がる。


「痛みなしに近い。熱中。声なし。焼き菓子を食べています」


 ミリアが尋ねる。


「感情は」


「少し戻っています。でも、オルド監察官が戻る場所は弱点にもなると言ったのが嫌でした」


 リゼが静かに言う。


「戻る場所は、弱点にも支点にもなります」


 アルトは顔を上げた。


 リゼは続けた。


「敵が弱点として扱おうとしても、私たちは支点として扱います」


 カイが頷く。


「そうだ。勝手に弱点にすんなって話だ」


 ミリアも言った。


「ここは、あなたを孤独にする場所ではなく、戻ってこられる場所よ」


 アルトは看板を見た。


 小さな灯の焼き菓子店。


 オルドに見られた。


 測られたように感じた。


 言葉で揺さぶられた。


 それでも、店はここにある。


 自分は、店員として立っていた。


 怖かった。


 でも、言えた。


 僕は、測られるためにここにいるんじゃありません。


 僕は、小さな灯の焼き菓子店の店員としてここにいます。


 リゼが販売記録の紙を見た。


「販売記録、オルド監察官分を記入しますか」


 アルトは少し迷った。


 オルドに売ったことを記録したくない気持ちがある。


 でも、売った。


 店の手順で。


 カイが焼き、ミリアが受け取り、アルトが説明し、リゼが確認した。


 それは事実だ。


「記入します」


 アルトはペンを取った。


 手はまだ少し震えている。


 でも、線は引ける。


 四十八。


 オルドの分。


 嫌な線ではある。


 でも、測定された線ではない。


 販売記録の線だ。


 小さな灯の焼き菓子店が、手順通りに売った証拠。


 アルトはペンを置いた。


 その時だった。


 左手首の奥で、熱がふいに揺れた。


 オルドが去った方角ではない。


 鐘楼の方角でもない。


 もっと近い。


 低い震え。


 声ではない。


 音でもない。


 ただ、銀環の内側を、遠くから爪でなぞられたような感覚。


 アルトは息を止めた。


 リゼが即座に反応する。


「状態」


「痛みなし……いえ、少し。熱、強。声なし」


「現在地」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店」


「何が起きましたか」


 アルトは左手首を押さえた。


 耳を澄ます。


 何も聞こえない。


 中庭は賑やかだ。


 舞台の音。


 人の声。


 焼き菓子の匂い。


 でも、その下で、何かが低く震えている。


「声ではありません」


 アルトは言った。


「でも、何かが近いです」


 ミリアの表情が変わる。


 カイが焼き菓子の籠から手を離す。


 リゼの灰銀の瞳が、鋭く中庭を走った。


 小さな灯の焼き菓子店の看板が、風もないのにわずかに揺れた気がした。


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