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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第6章 第7話:測られる銀環


 小講義室の中は、中庭より少しだけ静かだった。


 壁一枚の向こうでは、学園祭が続いている。


 笑い声。


 足音。


 舞台の案内。


 遠くで鳴る楽器の調整音。


 焼き菓子を買いに来た誰かが、小さな灯の焼き菓子店の前で「今はお休みみたい」と言っている声も、かすかに聞こえた。


 店は閉まっている。


 一時販売停止中。


 布をかけられた見届けクッキー。


 再封待ちの物資。


 結び直されていた淡橙色のリボン。


 そして、成分表示札の裏に見つかった、薄い白い線。


 反応測定印。


 その言葉が、アルト・レインフォードの胸の奥に残っていた。


 強制共鳴札ではない。


 傷つけるためのものではない。


 だが、測るためのもの。


 近づいた者、特に銀環反応を持つ者が、どの距離で、どの程度反応するかを拾うための印。


 クラウス・ヴァイゼルはそう言った。


 傷つけるものではない。


 だから安全、ではない。


 むしろ、その方が嫌だった。


 痛みそのものではなく、痛み方を見ようとされている。


 怖がらせるのではなく、どれくらい怖がるかを見ようとされている。


 銀環がどう熱を持つか。


 どんな紙に、どんな音に、どんな言葉に反応するか。


 自分の内側を、外から線で測られる。


 アルトは左手首を押さえた。


 熱は中より少し弱い。


 痛みはない。


 声もない。


 だが、気持ち悪さは消えていない。


「状態」


 リゼ・グレイスが静かに尋ねた。


 彼女は小講義室の扉側に立っている。


 灰銀の髪を結び、記録帳を手にしているが、今は書くよりもアルトの呼吸を見ていた。


「痛みなし。熱、中より少し弱い。声なし。現在地は小講義室。小さな灯の焼き菓子店の近く。リゼさん、ミリアさん、カイといます」


「感情は」


「怖いです。怒っています。気持ち悪いです」


「身体症状は」


「少し胸が重いです。でも、水は飲めます。吐き気は強くありません」


「良好です。休憩継続可能」


 リゼは記録した。


 ミリア・ファルネーゼは隣の椅子に座っている。


 膝の上には、ほどかれたリボン封の写しがあった。


 現物は生徒会が保全している。


 ミリアはその写しを見つめていた。


 自分の結び方ではない結び目。


 それを見続けることは、きっと辛い。


 でも、彼女は目を逸らさなかった。


 カイ・ロックハートは壁際に立っている。


 腕を組みかけて、組まない。


 拳を握りかけて、開く。


 怒りを、どこにもぶつけられずに、でも逃がさないように抱えている。


 彼の口元は硬い。


「測るってさ」


 カイが低く言った。


「何なんだよ」


 誰もすぐには答えなかった。


 カイは続ける。


「殴るとか、壊すとかなら、まだわかる。いや、わかりたくはねえけど、敵ってそういうことするだろ。でも、測るって何だよ。人を物みたいに」


 アルトの左手首が少し熱くなる。


 痛みはない。


 声もない。


 リゼが記録しようとして、カイを見た。


 カイは顔をしかめる。


「書けよ。俺、怒ってる。測るって言葉が嫌だ」


「記録します」


 リゼは頷いた。


「カイさん、測定という表現への強い嫌悪。理由、人を物のように扱っていると感じるため」


「そう、それだ」


 カイは吐き捨てるように言った。


「アルトは物じゃねえ」


 ミリアが静かに頷く。


「ええ。反応を持っている人であって、反応そのものではないわ」


 アルトはその言葉を聞いた。


 反応を持っている人。


 反応そのものではない。


 銀環が熱くなる。


 声が聞こえる。


 白鐘に反応する。


 音に反応する。


 紙に反応する。


 それらは事実だ。


 でも、それが自分のすべてではない。


 アルト。


 看板係。


 記録係。


 小さな灯の焼き菓子店の一員。


 友人。


 店員。


 測定対象ではない。


「僕は」


 アルトはゆっくり言った。


「僕は、測られるためにここにいたんじゃありません」


 リゼが頷く。


「はい」


「小さな灯の焼き菓子店にいたのは、ここが僕たちの店だからです。怖いけど、ここにいたかったからです」


「はい」


「成分表示札は、お客様に安心してもらうためのものです。僕の反応を見るためのものじゃありません」


「はい」


 ミリアの目が柔らかく揺れた。


 カイは黙って頷く。


 アルトは左手首を押さえた。


「それを勝手に変えられたのが、嫌です」


 リゼは静かに言った。


「あなたの境界線と、店の目的が侵害されました」


 境界線。


 店の目的。


 その二つの言葉が、胸の中でぴたりとはまった。


 だから嫌なのだ。


 自分だけではない。


 小さな灯の焼き菓子店も、侵害された。


 戻る場所を、観測場所に変えようとされた。


 ミリアが紙を伏せた。


「リボンは、飾りでもあったけれど、境界線でもあったのね」


「はい」


 リゼが答える。


「リボン封は侵入検知として機能しました」


「私、ただ少し綺麗にしたかっただけなのだけれど」


 ミリアは少し笑った。


 でも、笑いきれない声だった。


「でも、綺麗に整えることも、守ることになるのね」


「はい」


 アルトは頷いた。


「ミリアさんの結び方だったから、わかりました」


 ミリアは小さく息を吸った。


「なら、よかった」


 その時、扉が控えめに叩かれた。


 リゼがすぐに反応する。


「誰ですか」


「ユリウスだ。クラウス卿もいる」


 リゼはアルトを見る。


 アルトは頷いた。


「大丈夫です」


 扉が開く。


 ユリウスとクラウスが入ってきた。


 エレオノーラは外で記録対応を続けているらしく、姿はない。


 ユリウスはまずアルトの顔色を確認した。


「話せる?」


「はい」


「無理なら後にする」


「聞きたいです」


 アルトは答えた。


「僕のことなので」


 ユリウスは短く頷いた。


「わかった」


 クラウスは少し距離を取って立った。


 以前なら、その距離も警戒のためだけに見えただろう。


 だが今は、アルトへの負荷を増やさないための距離でもあるとわかる。


「測定印について、現時点の説明をする」


 クラウスの声は低い。


 慎重だった。


「見つかった白い線は、強制共鳴札ではない。黒い札のように、名前や記憶を直接引き出すものではない。だが、同じ系統の知識を使っている可能性がある」


 アルトの左手首が少し熱を持つ。


「痛みなし。熱、中。声なし」


 リゼが記録する。


 クラウスは続けた。


「目的は、おそらく反応の観測だ。どの物品に近づいた時、銀環がどれだけ熱を持つか。痛みが出るか。声が出るか。距離はどの程度か。測定印は、その反応を微弱に拾う目印として使われる」


 カイが低く言う。


「誰が見るんだよ」


「近くに受信側の印や術具があれば、そちらへ伝わる可能性がある」


 クラウスは答えた。


「または、後で回収して残留反応を見る」


 ミリアの表情が硬くなる。


「つまり、誰かが近くで見ていた可能性も、後で回収するつもりだった可能性もある」


「そうだ」


「店の中に入れたのは、アルトさんが必ず近づくと知っていたから?」


 クラウスは少し目を伏せた。


「その可能性は高い。小さな灯の焼き菓子店が、アルト君にとって戻る場所になっていることを知っている者、あるいは観察していた者が、そこを利用した」


 戻る場所を利用した。


 その言葉に、アルトの胸が痛む。


 銀環ではない。


 心の痛みだった。


 リゼがすぐに言う。


「あなたがここにいたことは、悪ではありません」


 アルトは顔を上げる。


 リゼの声ははっきりしていた。


「小さな灯の焼き菓子店が戻る場所になったことも、悪ではありません。悪いのは、それを利用して測定印を混入した者です」


 カイも言う。


「そうだ。店が悪いんじゃねえ」


 ミリアが続ける。


「戻る場所があるから狙われたとしても、戻る場所を作ったことが間違いになるわけじゃないわ」


 アルトは三人を見る。


 自分がここにいたから。


 自分が店を好きになったから。


 自分が戻る場所だと思ったから。


 だから狙われたのではないか。


 そう思いかけていた。


 でも、三人はすぐに否定した。


 ここにいたことは、悪ではない。


 戻る場所を作ったことは、間違いではない。


 アルトは少しだけ息を吐いた。


「はい」


 クラウスは苦い顔で頷いた。


「その通りだ。反応を持つ者が日常を持つことは、危険を招く理由にはならない。危険を仕掛けた者が悪い」


 その言葉は、クラウス自身にも向けられているようだった。


 かつて王宮側としてアルトを移送しようとした彼が、今はそう言っている。


 アルトは左手首に触れる。


 熱は中。


 痛みなし。


 声なし。


「測定されたら、どうなるんですか」


 アルトは尋ねた。


 怖い質問だった。


 でも、知りたかった。


 クラウスは少しだけ間を置く。


「反応の傾向が分かれば、次により効率よく揺さぶることができる。どの音で熱が上がるか。どの言葉で痛みが出るか。どの距離なら声を引き出せるか。そうした条件を絞れる」


 ミリアが唇を引き結ぶ。


 カイが歯を食いしばる。


 リゼの灰銀の瞳が冷える。


「孤独な鍵ほど、よく響く」


 アルトが呟いた。


 室内が静かになった。


「測って、僕を孤独にして、響かせるためですか」


 クラウスはすぐには答えなかった。


 それが答えのようだった。


 ユリウスが静かに言う。


「その可能性がある。だから、僕たちは君を孤独にしないことが重要になる」


 カイが即座に言った。


「絶対しねえ」


 ミリアも頷く。


「ええ」


 リゼは一歩、アルトの方へ近づいた。


「孤独化は敵の条件です。私たちは、その条件を成立させません」


 その言い方は、リゼらしかった。


 敵の条件。


 成立させない。


 アルトの胸に、小さく力が戻る。


「僕は、孤独ではありません」


 言うと、左手首が淡く温かくなった。


 痛みはない。


 声もない。


 リゼが記録する。


「アルトさん、私は孤独ではありませんと発言。反応、痛みなし、熱穏やか」


 ユリウスは少しだけ表情を和らげた。


「今後の対応だ。小さな灯の物資はすべて再確認済みのものだけを使う。B-十七は証拠保全のため一時使用停止。代替箱を生徒会管理で用意する。再開する場合は、出店班全員の確認と教師立会いで行う」


 カイがすぐに顔を上げる。


「再開できるのか」


「可能ではある。ただし、無理に再開する必要はない」


 ユリウスはアルトを見る。


「閉めることも正当な選択だ。今日一日閉めても、誰も責めない」


 アルトは黙った。


 閉める。


 安全だ。


 今の自分は疲れている。


 測定印のことを考えるだけで、胸が重くなる。


 店に戻れば、B-十七の場所を見ることになる。


 成分表示札を見ることになる。


 あの白い線を思い出す。


 怖い。


 でも。


 小さな灯の焼き菓子店が、この記憶だけで止まってしまうのは嫌だった。


 測られるための場所にされたまま、終わるのが嫌だった。


 自分たちが作った店は、見届けクッキーを売る店だ。


 戻るための店だ。


 誰かに勝手に観測地点へ変えられて、そのまま閉じる。


 それは、安全かもしれない。


 でも、奪われた気がする。


「今すぐは無理です」


 アルトは言った。


「でも、少し休んだら、短時間だけ再開したいです」


 カイの目が少し大きくなる。


 ミリアは静かにアルトを見る。


 リゼは何も言わず、続きを待つ。


「ここを、勝手に怖い場所にされたくありません」


 自分の声が震えている。


 でも、止まらない。


「小さな灯の焼き菓子店は、僕たちの店です。測定印の場所じゃありません。見届けクッキーを売る店です」


 左手首が温かくなる。


 熱は中より少し下。


 痛みなし。


 声なし。


「長くは無理かもしれません。人が多かったら休みます。熱が上がったら止めます。でも、少しだけ、店に戻りたいです」


 室内は静かだった。


 最初に口を開いたのはカイだった。


「なら焼く」


 声はまっすぐだった。


「怖い場所じゃなくて、焼き菓子屋に戻す。残ってる分だけでも売る。足りなきゃ、確認取ってまた焼く」


 ミリアが微笑む。


「私は列を整えるわ。無理ならすぐ閉める。開けることも、閉めることも、こちらが選ぶの」


 リゼが頷く。


「本人意思、短時間再開希望。条件付き再開。中止条件維持。私は出店班として支援します」


 ユリウスは少しだけ目を伏せ、頷いた。


「わかった。学園側として、短時間再開を支援する。ただし、警備補助を近くへ置く。再開前に、物資と成分表示札をすべて再確認する」


 クラウスも言った。


「私は距離を取って周辺術式を確認する。アルト君の近くで解析はしない」


「ありがとうございます」


 アルトは答えた。


 怖い。


 でも、戻ると決めた。


 小講義室で少し休んだ後、四人は店へ戻った。


 小さな灯の焼き菓子店の台は、さっきのままそこにあった。


 一時販売停止中の札。


 布をかけられた籠。


 証拠保全のため脇に移されたB-十七。


 代わりに、生徒会管理の新しい小型箱が用意されていた。


 仮番号、S-四。


 箱には、生徒会封と準備委員会封、そしてミリアの新しい淡橙色のリボン封が結ばれることになった。


 ミリアはそのリボンを手に取った。


 少しだけ指が止まる。


 アルトは見ていた。


「ミリアさん」


「大丈夫」


 ミリアは微笑んだ。


「もう一度、結ぶわ。今度は、もっとわかりやすく」


 彼女は丁寧にリボンを結んだ。


 輪の大きさをそろえ、端の向きを決め、最後に小さく二重の折り目を作る。


 独自の印。


 今度は、朝よりさらに明確だった。


 リゼが記録する。


「新リボン封。二重折り目あり。左右輪均等。端向き右上。ミリアさん独自確認済み」


 カイが横から見て言う。


「それ、真似しにくそうだな」


 ミリアが少しだけ笑う。


「真似されても、違いが分かるようにね」


 アルトの左手首が淡く温かくなる。


「痛みなし。熱少し。声なし。新しいリボン封を見ています。怖くありません」


 ミリアの表情が柔らかくなった。


「よかった」


 成分表示札も新しいものに替えられた。


 エレオノーラ、物資管理班、リゼ、ミリア、カイ、アルトの全員で確認する。


 一枚ずつ。


 表。


 裏。


 光に透かす。


 線なし。


 透かしなし。


 白い鐘なし。


 蔦模様なし。


 小さな灯の印あり。


 アルトの左手首は、最初の数枚で少し熱を持ったが、痛みは出なかった。


 声もない。


「痛みなし。熱中より少し弱い。声なし。成分表示札を確認しています。怖さはありますが、異常はありません」


 リゼが記録する。


「確認継続可能」


 カイは焼き菓子の籠を開けた。


 見届けクッキーは、まだ残っている。


 午前中の甘い匂いが、少しだけ戻った。


 カイは焼き菓子を見つめ、低く言った。


「これは、俺が焼いたやつだ」


「はい」


 アルトは頷いた。


「測定印じゃありません」


「ああ」


 カイは一つ、包装紙に包む。


 丁寧に。


 ミリアが一時販売停止中の札へ手をかけた。


 リゼが最後の確認を行う。


「小さな灯の焼き菓子店、短時間再開条件。代替箱S-四使用。物資再確認済み。成分表示札再確認済み。警備補助近接配置。アルトさん、痛みなし、熱少しから中、声なし。本人再開希望あり。中止条件維持」


 ユリウスが頷く。


「再開を許可する」


 アルトは看板の裏を見た。


 戻ってこい。


 それから、表を見る。


 小さな灯の焼き菓子店。


 自分たちの店。


 ミリアが札を外した。


 販売再開。


 すぐに客が押し寄せるわけではなかった。


 中庭には他にも多くの出店がある。


 小さな灯の焼き菓子店が一度閉まっていたことを知らない人もいる。


 それでも、少し離れたところにいたティナが気づいた。


「あ、再開してる!」


 彼女は駆け寄りかけ、途中で速度を落とした。


 ノエルとリリアも一緒だ。


「大丈夫?」


 ティナが小声で尋ねる。


 ミリアが微笑む。


「確認が終わったから、短時間だけ再開したの」


 ティナはそれ以上深く聞かなかった。


 ただ、看板を見て、焼き菓子を見て、にこっと笑った。


「じゃあ、もう一つ買う。さっきの、おいしかったから」


 カイの顔が少し変わった。


 怒りで硬くなっていた表情が、わずかにほどける。


「おう」


 アルトは成分表示札を示した。


 手は少し震えた。


 でも、声は出た。


「小麦、卵、乳、林檎、杏を使っています。こちらに表示があります」


 ティナは真剣に表示を見る。


「確認しました」


 わざと少し丁寧に言ってくれたのだと、アルトはわかった。


 カイが焼き菓子を渡す。


 ミリアが代金を受け取る。


 アルトが販売記録に線を引く。


 四十四。


 その線は、測定印の後に引いた最初の線だった。


 アルトの左手首が淡く温かくなる。


 痛みなし。


 声なし。


 怖さはある。


 でも、店は動いた。


 ノエルも一つ買った。


 リリアも、案内班の休憩用に追加で二つ買った。


 それから、さっき来てくれた卒業生の男性が戻ってきた。


「再開していたんだね。もう一ついただけるかな」


 アルトは成分表示を説明した。


 言えた。


 ミリアが列を整える。


 カイが焼き菓子を渡す。


 リゼが導線とアルトの状態を確認する。


 少しずつ、店が戻っていく。


 完全には戻らない。


 B-十七はもう台の下にはない。


 測定印の記憶も消えない。


 警備補助の生徒も近くにいる。


 ユリウスとエレオノーラも、少し離れた位置で見ている。


 クラウスは中庭の端で術式の流れを見ている。


 それでも、焼き菓子は売れている。


 見届けクッキーは、誰かの手に渡っている。


 小さな灯の焼き菓子店は、測定場所ではなく、焼き菓子屋に戻ろうとしている。


 アルトは販売記録へ、次の線を引いた。


 四十五。


 四十六。


 四十七。


 左手首の熱は少し。


 痛みはない。


 声もない。


 ミリアが尋ねる。


「状態は」


「痛みなし。熱少し。声なし。現在地は学園中庭。小さな灯の焼き菓子店。販売を再開しています」


「感情は」


「まだ怖いです。でも、ここを勝手に怖い場所にされたくないという気持ちがあります。あと、少し嬉しいです」


 リゼが記録する。


「アルトさん、恐怖継続。再開による安心と嬉しさあり」


 カイが小声で言った。


「測らせねえからな」


 アルトが見ると、カイは焼き菓子を包みながら言った。


「売る。測られるためじゃなくて、売るための店だから」


「はい」


 アルトは頷いた。


 その時だった。


 中庭の向こう側、正門から続く来場者導線のあたりが、わずかにざわついた。


 白い外套。


 整った歩調。


 王宮関係者の一団。


 その中心に、見覚えのある男がいた。


 オルド・ハイマン。


 王宮監察官。


 冷ややかな視線が、中庭をゆっくり見渡す。


 そして、小さな灯の焼き菓子店の看板で止まった。


 アルトの左手首が、すっと熱を持った。


 痛みはない。


 声もない。


 だが、熱は中へ上がる。


 リゼが即座に確認する。


「状態」


「痛みなし。熱中。声なし」


「現在地」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店。オルド監察官が中庭に現れました」


「感情」


「怖いです。嫌です。でも、僕は店にいます」


 オルドの視線が、看板からアルトへ移る。


 そして、わずかに口元を動かした。


 小さな灯の焼き菓子店は、再開したばかりの甘い匂いの中で、次の来客を迎えようとしていた。


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