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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第6章 第6話:緩んだリボン封


 淡橙色のリボンは、ほんの少しだけ形が違っていた。


 誰かが見落としてもおかしくない程度の違い。


 輪の片方が、朝よりわずかに長い。


 結び目の中心が、少しだけ右へ寄っている。


 端の重なり方が、ミリア・ファルネーゼの手で結ばれた時より浅い。


 それだけだった。


 学園祭の中庭は、まだ賑わっている。


 近くの出店からは笑い声が聞こえ、舞台の方では次の演目を知らせる声が響き、来場者の足音が石畳を絶えず渡っている。


 小さな灯の焼き菓子店の前にも、さっきまで客が戻り始めていた。


 北の朝灯りは無事に終わった。


 戻れる歌になっていた。


 鐘楼の方角に違和感はあった。


 旧倉庫の記録には、確認済みの時刻不一致があった。


 それでも、少しなら店を再開できると思った。


 だが、今。


 物資箱B-十七のリボン封が、違っている。


「全員、触れないでください」


 リゼ・グレイスの声が、鋭く、しかし低く落ちた。


 大きく騒がない。


 周囲へ混乱を広げない。


 けれど、その場の全員に十分伝わる声。


 カイ・ロックハートは両手を少し上げたまま、台の奥で固まっている。


「触ってない」


「確認しました。良好です」


 カイの顔は険しい。


 怒っている。


 だが、手は出していない。


 突撃していない。


 アルト・レインフォードは左手首を押さえた。


 布の下の銀環は熱を持っている。


 痛みはない。


 声もない。


 だが、熱は中から強の手前。


 戻る場所の箱に、誰かが触れたかもしれない。


 その事実が、胸の奥を冷たくした。


「痛みなし。熱、中から強。声なし。現在地は学園中庭。小さな灯の焼き菓子店。物資箱B-十七のリボン封が、ミリアさんの結び方ではありません」


 ミリアは台の下に屈み、リボンを見つめている。


 手は出していない。


 淡い金髪の横顔から、いつもの柔らかさが消えていた。


 代わりに、静かな確信がある。


「私の結び方ではありません」


 彼女はもう一度、はっきり言った。


「朝、私が結んだ時は、左の輪と右の輪の長さをそろえました。端の向きも逆です。これは、結び直されています」


 リゼが記録帳を開く。


「ミリアさん証言。リボン封、結び直しの可能性。左右輪長、端の向き、結び目位置に相違」


 エレオノーラ・ヴィンスフェルトが記録板を構え、同時に書き取る。


 ユリウス・エインズワースはすぐに周囲へ視線を走らせた。


「小さな灯の焼き菓子店、販売停止継続。周辺を広げすぎず、人を離して」


 ミリアが立ち上がり、客側へ向き直る。


 表情は落ち着いている。


「申し訳ありません。物資確認のため、しばらく販売を止めます。再開時には掲示でお知らせします」


 来場者の何人かが残念そうにしたが、ミリアの声に不安を煽られることはなかった。


 カイは台の奥から小さく言う。


「俺、どうすればいい」


 リゼが答える。


「焼き菓子籠を保持。物資箱には接近しない。来場者が不用意に近づかないよう、台の内側から位置を保ってください」


「わかった」


 カイは焼き菓子の籠の前に立った。


 守るように。


 だが、動かない。


 それが今の役割だと理解している。


 アルトは看板の裏を見た。


 戻ってこい。


 その文字が、今日は何度も必要になる。


 でも、今は少しだけ苦しかった。


 戻る場所の中に、また誰かが入ってきた。


 包装紙。


 木箱。


 記録。


 歌詞。


 そして今度は、小さな灯のリボン封。


 アルトは息を吸った。


「感情は、怖いです。怒りもあります」


 自分から言うと、ミリアがこちらを見る。


「怒り」


「はい。僕たちの箱だから」


 言った瞬間、胸の奥にあったものが少しはっきりした。


 怖いだけではない。


 嫌だ。


 入ってこないでほしい。


 勝手に触らないでほしい。


 これは、自分たちの店の箱だ。


 ミリアが静かに頷いた。


「怒っていいわ」


 ユリウスも言った。


「その感情は妥当だ」


 リゼが記録する。


「アルトさん、恐怖および怒りを申告。理由、私たちの箱だから」


 カイが台の奥で低く言った。


「俺も怒ってる」


「記録します」


 リゼが即答する。


「カイさん、怒りあり。ただし接触なし、突撃なし」


「それはちゃんと書け」


「はい」


 カイは少しだけ息を吐いた。


 怒っているが、触らなかった。


 それは、昨日までの準備が働いた証拠だった。


 リボン封は、ただ飾りではなかった。


 ミリアの結び方は、境界線だった。


 その境界線が、侵入を知らせてくれた。


 ユリウスが言う。


「開封は教師立会いで行う。ロウ先生とクラウス卿へ連絡。物資管理班も呼ぶ。現時点で箱には触れない」


 エレオノーラが記録する。


「B-十七、リボン封異常。開封保留。立会い者待機」


 リゼがアルトへ向き直る。


「状態確認を継続します」


「はい」


「痛み」


「なし」


「熱」


「中から強の手前」


「声」


「なし」


「現在地」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店。販売停止中。B-十七には触れていません」


「感情」


「怖い。怒り。あと、少し気持ち悪いです」


「気持ち悪い、とは身体症状ですか、感情ですか」


 アルトは少し考えた。


「感情です。自分たちの箱を勝手に開けられたかもしれないのが、嫌です」


「了解しました。身体症状なし、嫌悪感あり」


 ミリアが小さく言った。


「とても自然な反応よ」


 自然。


 その言葉が、少しだけ助けになった。


 やがて、ロウ教師とクラウス・ヴァイゼルが到着した。


 ロウ教師はいつもの黒い教師用外套を揺らしながら、周囲を一目で確認した。


 クラウスは王宮側の人間でありながら、今は明らかに学園側の確認者として動いている。


 彼の顔には、苦々しい緊張が浮かんでいた。


「状況」


 ロウ教師が短く問う。


 リゼが答える。


「小さな灯の焼き菓子店物資箱B-十七。ミリアさん独自リボン封が、朝の結び方と異なる状態で発見されました。接触者なし。カイさんが視認、アルトさんも確認。ミリアさんが結び直しの可能性を証言。箱は未開封。販売停止中」


 ロウ教師は頷いた。


「よし。触らなかったことを記録しろ」


「記録済みです」


「もう一度記録しろ。こういう時、触らなかった事実は強い」


 エレオノーラが頷き、追加記録する。


 カイが少しだけ目を伏せた。


 触らなかった事実。


 それは、カイにとっても大きかったのだろう。


 クラウスは箱を見た。


 直接触れず、少し距離を取ったまま目を細める。


「外側から見える術式反応は弱い。だが、封が結び直されているなら、中を確認する必要がある」


 ロウ教師が言う。


「開封理由」


 エレオノーラが読み上げる。


「物資箱B-十七、独自封異常。侵入または開封痕の可能性確認。出店物資安全確認のため」


「立会人」


「ロウ教師、クラウス卿、ユリウス先輩、エレオノーラ、物資管理班、出店班四名」


「開封者」


 ユリウスが言う。


「物資管理班が行う。クラウス卿は術式確認。出店班は距離を保つ」


 ロウ教師がアルトを見る。


「アルト、現物を見るか」


 アルトの胸が詰まった。


 見たくない。


 でも、完全に見ないのも怖い。


 自分たちの箱だから。


 けれど、危険があるなら近づきすぎてはいけない。


「距離を取って見ます。無理なら下がります」


 リゼがすぐに言う。


「本人意思、距離を取って確認。中止条件は通常通り」


 ロウ教師は頷いた。


「よし。自分で中止と言え。言えなければ周囲が止める」


「はい」


 アルトは小さく頷いた。


 配置が整えられた。


 物資箱B-十七は台の下から動かさず、まず外観撮影用の記録板に写される。


 リボンの状態。


 結び目。


 左右の輪。


 端の向き。


 リゼとエレオノーラが並行して記録する。


 ミリアは距離を取りながら、自分の結び方との差を説明した。


「朝は、右端を上にして結びました。今は左端が上です。輪の大きさも違います。結び目をほどいて、急いで戻した可能性があります」


 カイが低く言う。


「急いで」


「ええ。丁寧に真似る時間がなかったか、私の結び方を完全には知らなかったのだと思うわ」


 リゼが記録する。


「模倣不完全。時間不足、または結び方詳細未把握の可能性」


 アルトはその言葉を聞いて、少しだけ呼吸を整えた。


 完全には真似られていない。


 だから、わかった。


 ミリアの結び方があったから、わかった。


 境界線は、破られたかもしれない。


 でも、破られたことを知らせてくれた。


 ロウ教師が言う。


「外側の封を解除する」


 物資管理班の上級生が手袋をつけ、リボンに触れた。


 アルトの左手首が熱くなる。


「痛みなし。熱、強に近い。声なし」


 リゼがすぐに言う。


「現在地」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店。B-十七のリボン封を、物資管理班の先輩が解除しています」


「感情」


「怖い。怒り。見ています」


「中止しますか」


「まだ見ます」


「了解しました」


 リボンがほどかれる。


 ミリアはその様子をじっと見ていた。


 自分の結んだものが、誰かにほどかれた可能性。


 それを見るのは、きっと気分のいいものではない。


 だが、彼女は目を逸らさなかった。


 リボンは証拠布として別の袋に入れられる。


 次に、箱の蓋へ貼られた小さな灯の札が確認される。


 札そのものに破れはない。


 しかし、蓋の隙間にほんのわずかな紙粉が付いていた。


 リゼが言う。


「紙粉確認。色、白に近い。位置、蓋右前隙間」


 クラウスの表情が険しくなる。


「触れるな。保全」


 紙粉も採取される。


 箱の蓋がゆっくり開けられた。


 アルトは息を止める。


 中には、包装紙、成分表示札、予備の小さな灯札、台拭き用の布、記録用の予備紙が入っていた。


 見た目には、大きな異常はない。


 白い鐘飾りはない。


 黒い紙片もない。


 蔦模様も見えない。


 アルトの胸が少しだけ緩みかけた。


 だが、クラウスはまだ顔を緩めなかった。


「一つずつ確認する。出店班は触れない」


 まず包装紙。


 淡橙色の紙。


 小さな灯の印。


 番号。


 透かし確認。


 異常なし。


 アルトの熱は少し下がる。


「痛みなし。熱、中。声なし」


 次に予備札。


 店名。


 小さな灯。


 番号。


 異常なし。


 次に台拭き用の布。


 異常なし。


 記録用予備紙。


 異常なし。


 そして、成分表示札の束。


 小麦、卵、乳、林檎、杏。


 見届けクッキーの説明。


 大切な一日を見届ける時に。


 その札を一枚ずつ確認していく。


 一枚目。


 異常なし。


 二枚目。


 異常なし。


 三枚目。


 物資管理班の上級生が手を止めた。


 裏面。


 ほんの薄い白い線。


 紙の繊維の影にも見えるほど細い。


 だが、真っ直ぐすぎる。


 アルトの左手首が一気に熱を持った。


 痛みは、少し。


 声はない。


 耳は遠くならない。


 だが、胸の奥が冷える。


「痛み、少し。熱、強。声なし」


 リゼが即座に言う。


「後退しますか」


 アルトは一歩下がった。


「一歩下がります。まだ現在地は言えます」


「現在地」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店。B-十七の成分表示札の裏に、薄い白い線が見つかりました」


「感情」


「怖い。嫌です。これは、僕たちの札です」


「良好です」


 クラウスが札を保護板越しに確認する。


 顔色が変わった。


「強制共鳴札ではない」


 その言葉に、ほんの少しだけ空気が緩む。


 しかし、クラウスは続けた。


「だが、測定印に近い。微弱な反応を拾うための目印だ」


 測定印。


 アルトの左手首がさらに熱を帯びる。


 痛みは少し。


 声はない。


 だが、胃の奥が冷たくなる。


「測るため、ですか」


 アルトの声は、自分でも少し硬かった。


 クラウスは慎重に言葉を選ぶ。


「おそらく、これ自体で強制共鳴を起こすものではない。近づいた者、特に銀環反応を持つ者が、どの距離で、どの程度反応するかを拾うための印だと思われる」


 カイの顔が赤くなる。


「ふざけんな」


 低い声だった。


 ミリアの手も、静かに握られている。


 リゼの灰銀の瞳は冷えていた。


「つまり、小さな灯の物資箱へ侵入し、アルトさんの反応を測定する印を混入した可能性があります」


「断定はまだ早い」


 クラウスが言う。


「だが、その可能性は高い」


 アルトは左手首を押さえた。


 痛い。


 少しだけ。


 でも、それ以上に嫌だった。


 怖いものを入れられたのではない。


 壊すものを入れられたのでもない。


 測るもの。


 自分の反応を見るためのもの。


 小さな灯の成分表示札。


 焼き菓子を買う人に安心してもらうための札。


 そこに、自分を測る線が入っていた。


 吐き気に近い嫌悪が胸に上がる。


「僕は」


 声が少し震えた。


 ミリアがすぐに隣へ来る。


 触れすぎず、でも近くに。


「アルトさん」


 アルトは息を吸った。


「僕は、測られるためにここにいるんじゃありません」


 中庭の音が遠くなった気がした。


 でも、声は聞こえていない。


 これは自分の言葉だ。


 リゼが静かに答えた。


「はい。あなたは測定対象ではありません」


 その言葉は、まっすぐ届いた。


 アルトの左手首の熱が、強のまま少しだけ形を変える。


 怖さだけではない。


 怒り。


 嫌悪。


 そして、ここにいるという意思。


 ミリアが続ける。


「成分表示札は、お客様に安心してもらうためのものです。そこに勝手な意図を混ぜるのは、店への侵入でもあります」


 カイが言う。


「俺の焼き菓子の札だぞ」


 彼の声は低い。


「アルトを測るための紙じゃない」


 リゼが記録する。


「出店班全員、測定印混入に対し強い拒否感。理由、成分表示札の目的侵害、店への侵入、アルトさんの測定対象化」


 ロウ教師が静かに頷いた。


「その怒りは、記録しておけ。怒りで燃やすな。だが、怒りを消すな。何を侵害されたかを知るために必要だ」


 クラウスは測定印付きの札を封入しながら言った。


「印は保全する。詳細解析はアルト君の近くでは行わない。残りの札も全確認。小さな灯の物資は、すべて再確認だ」


 エレオノーラが記録する。


「成分表示札一枚に白色微細線。クラウス卿見解、強制共鳴札ではなく反応測定印の可能性。保全。残り物資全確認」


 アルトは一歩下がったまま、看板を見た。


 表の文字。


 小さな灯の焼き菓子店。


 裏には、戻ってこい。


 ここを怖い場所にしたいのかもしれない。


 自分の戻る場所を、測定場所にしたいのかもしれない。


 そう思うと、胸が苦しくなる。


 リゼが確認する。


「状態」


「痛み少し。熱強。声なし。耳の遠さなし」


「現在地」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店。測定印らしいものが見つかりました」


「感情」


「怖い。怒り。嫌悪。ここを、勝手にそういう場所にされたくないです」


「良好です。休憩します」


「はい」


 ミリアが小講義室を指す。


「少し中に入りましょう。店は一時停止のまま」


 カイがすぐに言った。


「俺、店見る」


 リゼが答える。


「カイさん一人では不可です」


「じゃあ、ミリアも?」


 ミリアはアルトを見た。


 アルトは首を横に振った。


「ミリアさんも、少し一緒にいてほしいです」


「もちろん」


 カイが一瞬だけ迷う。


 それから、焼き菓子の籠を見た。


「じゃあ、店は閉める」


 その言い方は、負けではなかった。


 決めた声だった。


「戻るために閉める。焼き菓子は布かける。B-十七には触らない。客には確認中って言う」


 リゼが静かに頷いた。


「非常に良好です」


 カイは少しだけ苦い顔で笑った。


「褒めるなら今じゃなくてもいいけど、今でいい」


 ミリアが一時停止札を改めて置く。


 ユリウスが警備補助の生徒を一人近くへ配置し、来場者が近づきすぎないようにした。


 アルトたちは、小講義室へ入った。


 扉を閉めると、中庭の音が少し遠くなる。


 完全には消えない。


 でも、壁一枚で音の層が薄くなった。


 アルトは椅子に座り、左手首を押さえた。


 リゼは入口側に立つ。


 ミリアは隣の椅子に座り、カイは少し離れた壁際に立った。


 カイの手はまだ握られている。


 でも、何かを殴るためではない。


 怒りをこぼさないように握っている手だった。


 ミリアが水を差し出す。


「少し飲んで」


「はい」


 水は冷たかった。


 喉を通る感覚で、現実が少し戻る。


 リゼが状態確認を続ける。


「痛み」


「少し。さっきより弱いです」


「熱」


「強から中へ下がっています」


「声」


「なし」


「現在地」


「小講義室。小さな灯の焼き菓子店の近く。リゼさん、ミリアさん、カイといます」


「感情」


「怖い。怒り。嫌です。測られるのが嫌です。店の札を使われたのも嫌です」


「良好です」


 カイが低く言った。


「俺も嫌だ」


 ミリアも頷いた。


「私もよ」


 リゼが静かに言う。


「私もです」


 アルトは三人を見た。


 測定対象ではない。


 そう言ってくれた。


 でも、敵は測ろうとしている。


 自分の反応を。


 銀環を。


 怖がり方を。


 痛みの出方を。


 どの言葉に反応するか。


 どの音に反応するか。


 どの紙に反応するか。


 どの距離で揺れるか。


 考えるほど気持ち悪かった。


「僕は、ここにいたいと思ったから店にいたのに」


 アルトは言った。


「誰かに測られるためじゃなくて」


 ミリアが静かに頷く。


「ええ」


「見届けクッキーの札は、買う人が安心するためのものです」


「ええ」


「なのに、僕の反応を見るために使われたかもしれない」


「その可能性があるわ」


「嫌です」


「嫌でいいの」


 ミリアの声は優しかった。


「嫌だと言うことは、とても大事よ」


 リゼが言う。


「拒否反応は重要です。あなたの境界線が侵害されたことを示しています」


 カイが壁際で言った。


「難しいけど、つまり嫌なことは嫌ってことだろ」


「はい」


 リゼが頷く。


「カイさんの表現も有効です」


 カイは少しだけ鼻を鳴らした。


「じゃあ、嫌だ。めちゃくちゃ嫌だ」


 アルトは、少しだけ笑った。


 嫌だ。


 その言葉を、こんなに強く言ってもいいのだと知る。


 測られるのが嫌だ。


 店に入られるのが嫌だ。


 自分たちの札を利用されるのが嫌だ。


 そして、その嫌だを三人も一緒に持ってくれている。


 孤独ではない。


 左手首の熱が、少しずつ下がっていく。


 ノックがあった。


 リゼが扉に近づく。


「誰ですか」


「ユリウスだ」


 リゼが扉を少し開ける。


 ユリウスとエレオノーラが立っていた。


 室内のアルトの状態を確認してから、ユリウスが言った。


「共有していいか」


 アルトは頷く。


「はい」


「B-十七内の残り物資は全確認中。現時点で、測定印らしきものは成分表示札一枚のみ。他に明確な異常は見つかっていない。箱自体にも強い術式はなし。ただし、リボン封の結び直しと紙粉があるため、誰かが箱を開けた可能性は高い」


 アルトは左手首を確認する。


 熱は中。


 痛みは弱い。


 声なし。


「誰が、というのは」


「まだわからない」


 ユリウスは正直に言った。


「中庭は人が多い。君たちが北の朝灯り確認で店から少し離れた時間、販売一時停止中だったとはいえ、近づける隙はあった。警備補助の配置と来場者記録を照合する」


 ミリアが静かに言う。


「北の朝灯りで店から離れた時間を使われた可能性」


「ある」


 リゼの表情が硬くなる。


「店を戻る場所として残した時間に、侵入された可能性があります」


 その言葉は痛かった。


 だが、ユリウスはすぐに言った。


「残したことが間違いだったわけではない。封があったから気づけた。箱を閉じ、リボンを結び、記録していたから異常がわかった」


 エレオノーラも頷く。


「リボン封は侵入検知として機能しました。非常に重要です」


 ミリアが少しだけ目を伏せた。


「私の結び方が、役に立ったのね」


「はい」


 エレオノーラは淡々と、しかしはっきり言った。


「結び方の差異がなければ、混入に気づくのが遅れた可能性があります」


 カイが言う。


「ミリア、すげえ」


 ミリアは少しだけ笑った。


「ありがとう」


 アルトも言った。


「ありがとうございます。ミリアさんのリボンが、教えてくれました」


 ミリアの目が少し潤んだように見えた。


 でも、彼女はいつものように微笑んだ。


「どういたしまして」


 ユリウスは続ける。


「今後、小さな灯の物資は生徒会管理で一度再封する。再開するかどうかは、アルト君の状態と出店班の意思次第だ。無理に再開する必要はない」


 カイがすぐに言いかけた。


「でも——」


 そこで止まる。


 そして、アルトを見る。


 リゼも、ミリアも、ユリウスも見る。


 今ここで決めるのは、カイ一人ではない。


 アルト一人でもない。


 出店班として決めること。


 アルトは左手首に触れた。


 熱は中より少し下がっている。


 痛みはほぼない。


 声なし。


 怖い。


 嫌だ。


 怒っている。


 でも、このまま店を閉めたら、小さな灯の焼き菓子店が測定印の記憶だけで終わってしまう気がした。


 それも嫌だった。


「少し休んでから、考えたいです」


 アルトは言った。


「今すぐは決められません」


 リゼが頷く。


「良好です。即時判断不要」


 ミリアも言う。


「ええ。少し休みましょう」


 カイは大きく息を吐いた。


「わかった。俺も、今すぐ焼き菓子で殴り返すって言いそうだから休む」


「焼き菓子で殴打は不可です」


 リゼが即座に言った。


「わかってる。言葉のやつだ」


「比喩としても、食品の目的から逸脱しています」


 カイは一瞬ぽかんとし、それから少し笑った。


「お前、こういう時でもリゼだな」


「はい」


 そのやり取りで、室内の空気が少しだけ緩んだ。


 怖さは消えない。


 怒りも消えない。


 だが、小さな灯の店の空気が、少しだけ戻った。


 ユリウスとエレオノーラが出ていき、室内には四人が残る。


 ミリアが包みを取り出した。


「本当は、北の朝灯りの後に食べるつもりだったのだけれど」


 淡い布に包まれた焼き菓子。


 カイが顔を上げる。


「それ、俺の?」


「ええ。朝、少し分けてもらったもの」


「用途は?」


 ミリアは少し考えた。


「リボンが教えてくれた用」


 カイが頷いた。


「いいな」


 リゼも真面目に言う。


「適切です」


 アルトは焼き菓子を受け取った。


 小さな丸。


 見届けクッキー。


 成分表示札は今、怖いものになりかけた。


 でも、この焼き菓子そのものは、まだカイの焼いたものだ。


 ミリアが包んだものだ。


 リゼが確認したものだ。


 自分たちで選んだものだ。


 アルトは一口食べた。


 甘さが、ゆっくり広がる。


 左手首の熱が少し下がる。


「痛みなし。熱、中から少し下がっています。声なし」


 リゼが尋ねる。


「現在地」


「小講義室。小さな灯の焼き菓子店の近く。リゼさん、ミリアさん、カイといます。リボンが教えてくれた用の焼き菓子を食べています」


「感情」


「まだ怖いです。怒っています。でも、少し戻りました」


 リゼは頷いた。


「良好です」


 中庭の向こうでは、学園祭が続いている。


 声も、音も、足音もある。


 小さな灯の焼き菓子店は、今は閉まっている。


 けれど、壊れてはいない。


 リボン封が、知らせた。


 触らなかった。


 記録した。


 開封した。


 見つけた。


 怒った。


 休んだ。


 まだ、戻れるかもしれない。


 アルトは左手首に触れた。


 銀環は、もう強くは熱くなかった。


 だが、その奥には、測られることへの嫌悪が確かに残っている。


 それは消さなくていい。


 境界線がある証拠だから。


 小講義室の扉の向こうで、看板が風に揺れる音がかすかにした。


 小さな灯の焼き菓子店。


 戻ってこい。


 その言葉は、まだ消えていなかった。


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