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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第6章 第5話:確認済みの時刻


 確認済み。


 その四文字が、急に怖いものになった。


 学園祭の中庭では、まだ笑い声が続いている。


 舞台側では、北の朝灯りの次の演目が始まる準備をしているらしく、布を運ぶ生徒たちが軽い足音を響かせている。


 出店の列は少しずつ動き、子どもたちは飾りつけを指差し、卒業生らしい大人たちは懐かしそうに校舎を見上げている。


 誰も、旧倉庫の記録にある「確認済み」の時刻がずれていることなど知らない。


 誰も、エレオノーラ・ヴィンスフェルトの確認印に似せたものが押されていることなど知らない。


 鐘楼は、鳴っていない。


 旧倉庫は、閉じているように見える。


 小さな灯の焼き菓子店の看板も、昼の光の中で穏やかに立っている。


 なのに、アルト・レインフォードの左手首は、細く熱を持ったままだった。


 痛みはない。


 声もない。


 けれど、熱が引かない。


 北の朝灯りを聞いた時の温かさとは違う。


 あの歌は、戻れる形になっていた。


 この熱は、もっと硬い。


 記録にないもの。


 似せられたもの。


 合っているように見えて、実際には違うもの。


 そういうものに触れた時の熱だった。


 エレオノーラは、旧倉庫周辺確認記録の写しを手にしたまま、しばらく黙っていた。


 白い制服の袖口が風にわずかに揺れる。


 いつも整っている彼女の表情が、今日は少しだけ硬い。


「これは、私の記録ではありません」


 もう一度、彼女は言った。


 その声は大きくない。


 だが、はっきりしていた。


 ユリウス・エインズワースは記録紙を受け取り、確認印の部分を見た。


「印影は?」


「私の確認印に似せています。ただ、線の圧が違います。右下の角がわずかに潰れている。私の印は、昨日の再確認後に調整していますから、この形にはなりません」


 エレオノーラは淡々と説明した。


 淡々としている分、怒りが見えた。


 リゼ・グレイスが記録帳を開く。


「確認印偽造、または旧印影の模倣」


「その可能性が高いです」


 エレオノーラは頷いた。


「加えて、記入時刻も不一致です。ここには北の朝灯り演奏前の確認済みとありますが、その時刻、担当の警備補助班は正門の来場者誘導に回っていました」


 ミリア・ファルネーゼが静かに言う。


「つまり、確認していないのに確認済みになっている」


「はい」


「そして、エレオノーラ先輩の確認印に似せたものがある」


「はい」


 カイ・ロックハートが低く言った。


「記録まで真似るのかよ」


 その声には、焼き菓子を焼く時の明るさはなかった。


 怒りが混じっている。


 だが、拳を振り上げるわけではない。


 カイは小さな灯の焼き菓子店の台の奥に立ち、布をかけた焼き菓子の籠と物資箱B-十七の位置を確認しながら怒っていた。


 それが、少しだけ救いだった。


 怒っていても、突撃していない。


 役割の中にいる。


 リゼが静かに答える。


「透かし、紹介状、封、記録。類似の行為が継続しています」


 ミリアが頷いた。


「誰かが“似せる”ことを繰り返しているわ」


 アルトの左手首が強くなりかけた。


「痛みなし。熱、中から強。声なし」


 すぐに言う。


 ミリアが振り向く。


「現在地は」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店。エレオノーラ先輩の確認印に似せた記録が見つかりました」


「感情は」


「怖いです。記録の中に入ってこられた気がします」


 リゼのペンが止まった。


 そして、静かにその言葉を書き取る。


 記録の中に入ってこられた感覚。


 カイが顔をしかめた。


「記録の外からじゃなくて、中か」


 アルトは頷いた。


「はい。今までは、記録にない紙とか、記録にない封とかでした。でも、今度は確認済みって書いてあります」


「本当は確認してないのに」


「はい」


 ミリアがそっと言葉を整える。


「安全だと思わせるための偽装ね。外から異物を混ぜるだけではなく、安全確認そのものを似せている」


 ユリウスは表情を硬くしたまま言った。


「この件は準備委員会と警備班へ即時共有する。旧倉庫と鐘楼周辺の確認記録は、今後、確認者本人の口頭照合と二名以上の署名に切り替える」


 エレオノーラが頷く。


「確認印のみでの承認を停止します。記録写しも回収します」


「リーナにも連絡を」


「すでに向かわせています」


 ユリウスは一瞬だけ、感心したようにエレオノーラを見た。


 エレオノーラは記録板を持ち直す。


「現場確認はロウ先生到着後、教師立会いで行います。生徒の単独確認は禁止」


 その言葉に、リゼの肩がわずかに動いた。


 アルトは気づいた。


 リゼは、やはり行きたい。


 鐘楼へ。


 旧倉庫へ。


 裏返った立入禁止札を見て、似せられた記録を見て、原因を確認したい。


 戦場なら、彼女はもう動いているのだろう。


 危険の発生源を潰すために。


 だが、今は学園祭だ。


 リゼは出店班だ。


 アルトは、リゼの手が記録帳の端を少し強く押さえているのを見た。


「リゼさん」


 呼ぶと、リゼがこちらを見た。


「はい」


「リゼさんは、全部持たないでください」


 言ってから、アルトは少し息を吸った。


 怖い。


 でも、今言わないといけないと思った。


「僕たちの店も、今守る場所です」


 リゼの灰銀の瞳が、わずかに揺れた。


 カイも、ミリアも、ユリウスも、エレオノーラも、アルトを見る。


 アルトは左手首を押さえながら続けた。


「鐘楼も旧倉庫も怖いです。でも、小さな灯の焼き菓子店も、僕たちが戻る場所です。リゼさんが全部確認に行ってしまったら、ここが少し遠くなります」


 リゼは何も言わなかった。


 ただ、アルトの言葉を聞いていた。


「僕は、リゼさんに守ってほしいからここにいてほしいんじゃなくて」


 言葉が少し詰まる。


 ミリアが小さく頷いてくれる。


 それで続けられた。


「リゼさんも、この店の人だから、ここにいてほしいです」


 風が中庭を抜けた。


 看板が小さく揺れる。


 小さな灯の焼き菓子店。


 リゼはゆっくりと息を吐いた。


「了解しました」


 いつもの言葉。


 だが、声の奥が少し違った。


「私は、小さな灯の焼き菓子店へ戻ります」


 カイが小さく息を吐く。


 ミリアは静かに微笑む。


 ユリウスも頷いた。


「それでいい。現場確認は僕たちと教師側で行う」


 リゼは一度だけ鐘楼の方角を見た。


 それから、出店台の方へ向き直る。


 その動きは、戦場で敵を見据える動きではなく、店の位置へ帰る動きだった。


 アルトの左手首が少し温かくなる。


 痛みはない。


 声もない。


「痛みなし。熱、中から少し下がっています。声なし」


 ミリアが尋ねる。


「感情は」


「少し安心しました。リゼさんが戻ると言ってくれたから」


 リゼが記録帳を開こうとして、少し止まった。


 そして、自分で小さく言った。


「私も、戻ります」


 アルトは頷いた。


「はい」


 小さな灯の焼き菓子店は、まだ一時停止中だった。


 看板の前には「確認中」の札が置かれている。


 焼き菓子の籠には布がかけられ、包装紙は台の奥にまとめられている。


 物資箱B-十七は、台の下で淡橙色のリボン封を結ばれたまま置かれていた。


 アルトたちは一度、店の内側へ戻った。


 それだけで、胸の位置が少し変わる。


 さっきまで、鐘楼と旧倉庫の方へ意識が引かれていた。


 今は、看板と台と焼き菓子の匂いが近い。


 リゼが店の状態確認を始める。


「小さな灯の焼き菓子店、販売一時停止中。焼き菓子籠、布掛け継続。包装紙、台奥。成分表示札、台右側。看板固定、良好。物資箱B-十七、外観確認予定」


 カイがすぐに言う。


「B-十七、さっき見た時は外観異常なし」


「再確認します」


「わかった」


 ミリアは来場者へ再開未定を説明するため、台の前へ出る。


「申し訳ありません。安全確認のため、もう少し販売を止めています。再開時にはこちらの札を外します」


 何人かの来場者が少し残念そうにしたが、強く詰め寄る者はいなかった。


 小さな灯の焼き菓子店は、朝から穏やかな店として見られていた。


 それも、ミリアの接客と、カイの焼き菓子と、アルトの説明と、リゼの整えた導線のおかげだった。


 店そのものが、少し信頼を得ている。


 そのことに、アルトは気づいた。


 信頼も、記録のように積み上がるものなのかもしれない。


 そして、だからこそ、似せられたり、壊されたりすることが怖い。


 エレオノーラは店の横で、旧倉庫記録の写しをさらに確認していた。


「この筆跡」


 彼女が小さく呟く。


 ユリウスが問う。


「何かある?」


「私の文字に似せています。ただし、行間がわずかに広い。記入者は、私の記録板を遠目に見たことがあるか、写しを見たことがある人物だと思われます」


 ミリアが反応する。


「遠目、または写し」


「はい」


「つまり、エレオノーラ先輩の手元に直接触れなくても、似せることはできる」


「可能です」


 ミリアは少し考えた。


「紹介状の偽造も、完全な本物ではなく、古い形式を知っている人の模倣でした。包装紙の透かしも、白鐘紙工房に似ていて完全一致ではありませんでした。今回の印も、似ているけれど違う」


 リゼが続ける。


「敵の特徴。完全複製ではなく、十分に誤認させる模倣」


 カイが顔をしかめる。


「完全じゃなくても、ぱっと見で通ればいいってことか」


「はい」


 エレオノーラが頷いた。


「祭りの混雑中なら、特に」


 アルトは中庭を見た。


 人が多い。


 声が多い。


 確認する人も忙しい。


 その中で、少し似ているものが混じれば、見逃されるかもしれない。


 完全でなくてもいい。


 似ていれば、一瞬は通る。


 怖かった。


 リゼがアルトの方を見る。


「状態は」


「痛みなし。熱、中。声なし。模倣という話で少し怖くなりました」


「現在地」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店」


「感情」


「怖いです。でも、似ているだけなら、確認すれば違いがわかるとも思いました」


 リゼは少しだけ目を細めた。


「良好です」


 その時、リーナ・カルヴェル準備委員長が急ぎ足でやって来た。


 栗色の髪を肩で揺らし、いつもの明るさは抑えられているが、声は落ち着いている。


「ユリウス先輩、エレオノーラさん。旧倉庫と鐘楼周辺の記録写し、準備委員会分を回収します。各班へ、確認済みの扱いを一時停止するよう伝達中です」


「助かる」


 ユリウスが頷いた。


 リーナは小さな灯の焼き菓子店を見る。


「みんな、大丈夫?」


 ミリアが答える。


「販売は一時停止中です。アルトさんは休憩しながら状態確認しています」


 リーナはアルトを見る。


「無理しないでね」


「はい」


「再開するかどうかは、こちらから急がせないわ。出店班の判断と安全確認を優先して」


「ありがとうございます」


 カイが小声で言う。


「委員長、いい人だな」


 リゼが答える。


「はい」


 リーナはその声が聞こえたらしく、少しだけ笑った。


「いい人でいられるように、記録を集めてくるわ」


 そう言って、彼女は別の班へ向かった。


 学園祭は、いまも動いている。


 だが、その裏側で、記録の回収と再確認が始まっている。


 見える祭りと、見えない防衛。


 その両方が同時に進んでいる。


 しばらくして、鐘楼側から第二報が届いた。


 連絡員が息を整えながら報告する。


「ロウ先生到着。鐘楼裏柵、異常なし。大鐘使用痕跡なし。旧倉庫扉、外見上施錠継続。ただし、立入禁止札一枚が裏返り。札の紐に新しい擦れあり。詳細確認中」


「新しい擦れ」


 ユリウスが繰り返す。


「はい。自然な風だけでは断定できないとのことです」


 エレオノーラが記録する。


「旧倉庫側立入禁止札、紐に新しい擦れ。自然要因か人為か未確定」


 アルトの左手首が少し熱くなる。


「痛みなし。熱、中。声なし」


 ミリアが尋ねる。


「現在地は」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店」


「感情は」


「怖いです。でも、まだ断定ではありません」


「良好です」


 ロウ教師の言葉を思い出す。


 空白を怒りで埋めるな。


 記録にないことも重要。


 でも、わからないものを勝手に犯人へ繋げてはいけない。


 紐に擦れがある。


 だから人為とは限らない。


 だが、風とも限らない。


 記録する。


 確認する。


 その積み重ねが必要だった。


 ユリウスは連絡員に追加指示を出す。


「旧倉庫周辺の確認は続けて。現場の生徒は近づけない。教師と警備班だけで」


「了解しました」


 連絡員が走り去る。


 カイがその背中を見送りながら言った。


「俺たちは、ここだな」


「はい」


 リゼが答える。


「ここも守る場所です」


 その言葉を聞いて、アルトの胸が少し温かくなる。


 自分が言ったことを、リゼが言い直してくれた。


 小さな灯の焼き菓子店。


 戻る場所。


 守る場所。


 カイが布の上から焼き菓子の籠を見た。


「再開、できるか?」


 ミリアがアルトを見る。


「どう?」


 アルトは左手首を確認した。


 熱は中から少し下がってきている。


 痛みはない。


 声もない。


 怖さは残っている。


 だが、今なら短い接客はできる気がする。


「少しなら、戻れます」


 リゼが確認する。


「再開条件。現場確認は継続中ですが、中庭に即時危険情報なし。アルトさん痛みなし、声なし、熱中以下。本人、少しなら戻れると発言」


 ミリアが頷く。


「では、短時間だけ再開しましょう。列が増えたら一時停止。アルトさんの熱が上がったらすぐ休憩」


 カイが嬉しそうに布を取った。


「よし」


 リゼが一時販売確認中の札を外そうとした。


 その時だった。


 アルトの目が、台の下へ向いた。


 物資箱B-十七。


 淡橙色のリボン封。


 朝、ミリアが結んだ時には、結び目の輪が左右ほぼ同じ大きさだった。


 ミリアの結び方は、いつも整っている。


 昨日も、前日も、ずっとそうだった。


 今、左の輪がほんの少しだけ長い。


 風で動いたのかもしれない。


 誰かの足が軽く当たったのかもしれない。


 自分の見間違いかもしれない。


 でも。


 違う気がした。


 アルトは息を止めた。


 カイがすぐに気づく。


「アルト?」


 アルトは指差さず、視線だけを台の下へ向けた。


「B-十七のリボン」


 リゼの動きが止まる。


 ミリアも振り向く。


 カイは台の奥から覗き込み、すぐに顔色を変えた。


 だが、手は出さなかった。


「触ってない」


 カイは低く言った。


「けど、これ、ちょっと違わないか」


 ミリアがゆっくり近づき、屈んだ。


 淡橙色のリボン封を、触れずに見る。


 彼女の表情が変わった。


 柔らかな顔から、静かな緊張へ。


「私の結び方ではありません」


 中庭の音が、一瞬遠くなった気がした。


 アルトの左手首が熱を持つ。


 痛みはない。


 声もない。


 けれど、熱は確かに強まった。


 リゼが即座に言う。


「全員、触れないでください」


 カイが両手を少し上げる。


「触ってない」


「良好です」


 ミリアは結び目を見つめたまま、静かに言った。


「朝、私が結んだ時と違います。ほどかれたのか、結び直されたのかは、まだわかりません」


 エレオノーラが記録板を構える。


 ユリウスの表情が険しくなる。


 アルトは左手首を押さえながら、看板の裏を見た。


 戻ってこい。


 その言葉は、そこにある。


 でも、今度は敵が、戻る場所そのものの封に触れたかもしれない。


「痛みなし。熱、中から強。声なし。現在地は学園中庭。小さな灯の焼き菓子店。物資箱B-十七のリボン封が、ミリアさんの結び方ではないとわかりました」


 リゼは静かに記録した。


 小さな灯の焼き菓子店。


 販売再開、中止。


 物資箱B-十七。


 リボン封異常。


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