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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第6章 第4話:鳴らなかったはずの音


 鐘楼は、鳴っていなかった。


 少なくとも、中庭にいるほとんどの人間には、そうだった。


 青い空の下で、鐘楼はいつも通り校舎の上に立っている。


 大鐘は沈黙している。


 朝鐘の余韻も、北の朝灯りの旋律も、もう中庭には残っていない。


 小さな灯の焼き菓子店の前には、また来場者の流れが戻り始めている。


 見届けクッキーを買おうと、親子連れが看板の前で足を止めている。


 ティナたちが遠くで誰かに手を振っている。


 舞台の方では、次の演目の準備で布を運ぶ生徒たちが笑っている。


 何も起きていない。


 そう見える。


 だが、アルト・レインフォードの左手首は、まだ細く熱を持っていた。


 音にはならなかった。


 声にもならなかった。


 けれど、確かに何かが震えた。


 北の朝灯りではない。


 あの歌は、戻れる形へ変わっていた。


 怖さは少しあったが、痛みはなく、声もなかった。


 歌詞はもう、孤独な鍵ではない。


 小さな灯ほど、帰る道を照らす。


 それは安心を連れてきた。


 なのに、演奏が終わった後。


 別の場所で。


 何かが、鳴りかけた。


「現在地」


 リゼ・グレイスの声が落ち着いていた。


 だから、アルトはその声へ戻ることができた。


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店の前」


「痛み」


「なし」


「熱」


「中」


「声」


「なし」


「感情」


「違和感。怖いです」


「対象方角」


「鐘楼の方角だと思います」


 リゼは記録帳へそのまま書いた。


 手は速いが、乱れはない。


 灰銀の瞳が一瞬だけ鐘楼へ向いた。


 その一瞬で、アルトにはわかった。


 リゼは行きたい。


 確認したい。


 すぐに鐘楼へ向かって、何があったのか、誰が何をしたのか、危険を排除したい。


 でも、彼女は動かなかった。


 剣にも触れなかった。


 小さな灯の焼き菓子店の台の横に立ったまま、記録帳を閉じた。


「報告します」


 その一言だけだった。


 カイ・ロックハートが台の奥で拳を握った。


「俺、行くか」


「行きません」


 リゼが即答した。


「まだ何も確認できていません。単独確認不可。出店班継続。報告優先です」


「でも、鐘楼だろ」


「鐘楼かどうかも未確定です」


 カイは唇を噛んだ。


 だが、動かなかった。


「……わかった。突撃しない」


「良好です」


 ミリア・ファルネーゼは、列に並びかけていた親子へ柔らかく頭を下げた。


「申し訳ありません。少しだけ確認が入ります。すぐに再開できると思いますので、こちらでお待ちいただくか、後ほどお越しください」


 親子は少し不思議そうにしたが、ミリアの落ち着いた声に頷いた。


 周囲に大きな混乱はまだない。


 だからこそ、今のうちに静かに動く必要がある。


 ミリアは札を出した。


 一時販売確認中。


 リゼが短く言う。


「販売一時停止。理由、アルトさん銀環反応による未確認違和感。中庭混乱なし。店内物資異常未確認」


 カイが台の下を覗く。


「B-十七、外観異常なし」


「記録します」


 アルトは看板の裏を見た。


 戻ってこい。


 文字は動かない。


 それが、ありがたかった。


 リゼがエレオノーラへ連絡するため、近くの準備委員連絡員へ短く内容を伝える。


「小さな灯の焼き菓子店より生徒会へ報告。北の朝灯り演奏後、アルトさんが鐘楼方角に未確認反応。痛みなし、熱中、声なし。違和感あり。至急、ユリウス先輩またはエレオノーラ先輩へ共有をお願いします」


 連絡員の生徒は表情を引き締め、すぐに走り出した。


 その走る背中を見ながら、カイが小声で言う。


「あいつは走っていいのか」


「連絡員です。走行許可範囲内です」


「なるほど」


「カイさんは出店班です」


「わかってる」


 カイは少し悔しそうだったが、焼き菓子の籠へ布をかけ直した。


 ミリアはアルトの隣に立つ。


「今の熱は?」


「中のままです。上がってはいません」


「痛みは?」


「なし」


「声は?」


「なし」


「現在地は?」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店。販売一時停止中です」


「感情は?」


「怖いです。でも、報告できました」


「良好です」


 ミリアの声は柔らかい。


 周囲の音は続いている。


 学園祭は止まっていない。


 だから、アルトの違和感だけが、世界の中で小さく浮いているように感じられた。


 誰にも聞こえない音。


 誰にも見えない震え。


 自分だけが感じたのなら、気のせいかもしれない。


 そう思いそうになる。


 だが、リゼは記録した。


 ミリアは確認した。


 カイは店を止めた。


 気のせいだと押し込めずに済む。


 それだけで、少し呼吸ができた。


 ほどなくして、ユリウス・エインズワースとエレオノーラが中庭へ現れた。


 二人とも白い制服姿で、足取りは速いが、周囲へ不安を広げない程度に抑えられている。


 ユリウスは小さな灯の焼き菓子店の横へ来ると、すぐに問いかけた。


「状況は」


 リゼが答える。


「北の朝灯り演奏終了後、アルトさんが鐘楼方角に未確認反応。痛みなし、熱中、声なし。対象は音ではなく、音になる前の震えに近いとの本人申告。中庭混乱なし。出店は一時停止中」


 エレオノーラが記録板を構える。


「アルトさん、本人確認をお願いします」


 アルトは左手首を押さえながら言った。


「北の朝灯りは聞けました。怖くないわけではありませんでしたが、痛みも声もありませんでした。歌が終わった後、鐘楼の方角で、何かが鳴りかけたように感じました。でも、実際には音は聞こえていません。痛みなし、熱中、声なしです」


 エレオノーラが書く。


「音として聞こえたのではなく、銀環反応としての違和感。鐘楼方角。演奏終了後」


「はい」


 ユリウスは鐘楼の方を見た。


「鐘楼の大鐘は鳴っていない。管理記録上も、次の鐘は閉会時まで予定なしだ」


 大鐘は鳴っていない。


 それでも、アルトの胸には違和感が残る。


「大鐘ではないかもしれません」


 自分でも思いがけず、その言葉が出た。


 全員がアルトを見る。


 アルトは続けた。


「音は聞こえませんでした。でも、何か小さいものが鳴りかけたような……大きな鐘じゃなくて、もっと小さいものです」


 白い鐘飾り。


 旧倉庫。


 記録にないもの。


 それらの記憶が、手首の奥で重なる。


 リゼが記録を追加する。


「大鐘ではなく、小型鐘様の反応可能性」


 ユリウスの表情が硬くなる。


「鐘楼裏を確認する。ロウ先生と警備班へ連絡。君たちはここで待機を」


 リゼが一歩前に出かけた。


 ほんの一歩。


 だが、その足はすぐに止まった。


 アルトはその足元を見ていた。


 リゼの体は、鐘楼へ向かおうとしている。


 だが、リゼの言葉は違った。


「私は出店班として、アルトさんの近くで待機します。鐘楼確認は警備班へ依頼します」


 ユリウスが頷いた。


「それでいい」


 リゼは小さく息を吸った。


「了解しました」


 カイが少しだけ目を見開いていた。


 それから、低く言う。


「リゼ、行かないんだな」


「はい」


「行きたいんだろ」


「はい」


「でも行かないんだな」


「はい。今の私の主担当は出店班です」


 カイは、何かを飲み込むように頷いた。


「わかった。俺も行かない」


「良好です」


 ミリアが二人を見て、静かに微笑んだ。


「二人とも、とても良好ね」


「俺も?」


「ええ」


 カイは少し照れたように視線を逸らした。


 ユリウスは連絡を飛ばすために離れ、エレオノーラはその場に残って記録を続けた。


「小さな灯の焼き菓子店は、当面販売停止を継続しますか」


 ミリアがリゼを見る。


 リゼはアルトを見た。


「アルトさんの状態次第です」


 アルトは左手首に触れた。


 熱は中。


 痛みなし。


 声なし。


 怖い。


 でも、店に戻りたい。


 ただし、今すぐ笑って接客できるほど落ち着いてはいない。


「少しだけ休みたいです。でも、店を完全に閉めたいわけではありません」


 ミリアが頷く。


「では、短い休憩にしましょう。店は一時停止。カイさんと私で来場者に説明。リゼさんはアルトさんの状態確認」


「はい」


 カイが台の奥から包みを一つ取り出した。


「北の朝灯り後、変な違和感あった用」


 ミリアが小さく目を丸くする。


「ずいぶん長いわね」


「今決めた」


 リゼが言う。


「用途は有効です」


「だろ」


 アルトは少し笑った。


 その笑いで、胸の奥の冷えが少しだけ和らいだ。


 焼き菓子を一口食べる。


 甘さが舌に広がる。


 北の朝灯りの余韻と、鐘楼方角の違和感。


 その二つが混ざりそうになるのを、甘さが少し分けてくれる。


 歌は戻るものだった。


 違和感は別のものだった。


 分類する。


 今はそれが大事だ。


 しばらくして、セレナ・アイゼンベルグが静かに現れた。


 彼女は人混みを縫うように歩き、店の横で足を止めた。


「鐘楼側の件ですか」


 リゼの目が鋭くなる。


「何か見えましたか」


 セレナは頷いた。


「北の朝灯りの演奏中は、安定していました。少なくとも、曲そのものから強い乱れは見えませんでした」


 アルトは少し息を吐いた。


 やはり、あの歌ではない。


 セレナは続ける。


「ただ、演奏の最後の拍手が起きた直後、鐘楼側からごく細い魔力の揺れがありました。音ではありません。音になる直前の、金属を指で弾く前のような緊張」


 アルトの胸が少し冷えた。


「それです」


 思わず言った。


「たぶん、それです。僕が感じたのは」


 セレナはアルトを見る。


「銀環は、音になる前の揺れにも反応するのかもしれません」


 エレオノーラが記録する。


「セレナ・アイゼンベルグ証言。北の朝灯り演奏中は安定。演奏後、鐘楼側から微細魔力揺れ。音化前の金属振動に類似」


 リゼが尋ねる。


「発生源は鐘楼内部ですか」


「断定はできません。鐘楼そのものというより、鐘楼裏か、その周辺。大鐘ではないと思います」


 ユリウスが戻ってきた。


 ちょうどその言葉を聞き、表情を引き締める。


「鐘楼裏は柵で封鎖している。警備班を向かわせた。ロウ先生も合流する」


 セレナは静かに言う。


「柵が動いていなくても、揺れは起こせます。小さい金属片や魔術具なら」


 小さい金属片。


 白い小鐘飾り。


 アルトは左手首に触れた。


「痛みなし。熱、中。声なし。白い鐘飾りを思い出しました」


 ミリアがすぐに聞く。


「現在地は」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店。セレナさん、ユリウス先輩、エレオノーラ先輩がいます」


「感情は」


「怖いです。でも、現物は見ていません」


「良好です」


 ユリウスはエレオノーラに向かって言った。


「旧倉庫の立入禁止記録も照合しておいてくれ。鐘楼裏と旧倉庫は導線上近い」


「了解しました」


 エレオノーラのペンが動く。


 旧倉庫。


 その言葉に、カイが顔をしかめた。


「あそこ、閉めてあるんだよな」


「閉鎖中です」


 リゼが答える。


「でも、昨日の夜も完全じゃなかった」


 カイの声が少し低くなる。


 第5章の終わり。


 記録にない白い鐘飾り。


 誰も触れていないはずなのに、夜の中で震えていた。


 アルトはそのことを記録していない。


 あれは、アルト自身が見たわけではない。


 だが、手首の淡い光は覚えている。


 言うべきか。


 迷った時、リゼがこちらを見る。


「何か思い出しましたか」


「昨日の夜、寝る前に銀環が少し光りました」


 三人だけでなく、ユリウスとエレオノーラもアルトを見る。


 アルトは続けた。


「声はありませんでした。痛みもなかったです。でも、今日の違和感と少し似ています。記録しておけばよかったかもしれません」


 リゼはすぐに首を横に振った。


「今、記録できます」


 エレオノーラも頷く。


「昨夜の反応として記録します。時刻はおおよそで構いません」


「就寝前です。男子寮の自室。痛みなし、熱少し、声なし。理由はわかりませんでした」


 エレオノーラが記録する。


「昨夜就寝前、銀環微光。痛みなし、熱少、声なし。原因不明。本日鐘楼方角違和感と類似感あり」


 ユリウスの表情がさらに硬くなった。


「旧倉庫の記録も急いで見る」


 その時、店の前に並びかけていた来場者の一人が少し不安そうにこちらを見た。


 周囲はまだ大きな異常に気づいていない。


 だが、白い制服の生徒会、記録板、リゼの硬い表情。


 それらが揃えば、不安は広がる。


 ミリアがすぐに前へ出た。


「申し訳ありません。現在、物資確認のため少し販売を止めています。安全確認後に再開予定です。ご迷惑をおかけします」


 嘘ではない。


 ただし、すべては言わない。


 来場者の表情が少し和らぐ。


「そうなんですね。また後で来ます」


「ありがとうございます」


 ミリアの声が、場の温度を下げすぎないように支えている。


 リゼがその様子を見て、短く言った。


「ミリアさん、状況説明、良好です」


「ありがとう」


 ミリアは振り返って微笑んだが、その目には緊張があった。


 やがて、鐘楼へ向かった警備班から第一報が入った。


 ユリウスのもとへ、連絡員が走ってくる。


「鐘楼大鐘、異常なし! 大鐘は固定状態、使用痕跡なし! 鐘楼裏の柵、外見上異常なし!」


 カイが息を吐きかけた。


 だが、連絡員は続けた。


「ただし、旧倉庫側の立入禁止札が一枚、裏返っていました!」


 空気が止まった。


 旧倉庫側の立入禁止札。


 アルトは朝、風に揺れているのを見た。


 その時は、表向きだったのか、裏返っていたのか。


 わからない。


 でも、今は裏返っている。


 エレオノーラがすぐに記録する。


「旧倉庫側立入禁止札、一枚裏返り。時刻、北の朝灯り演奏後確認」


 リゼが問う。


「柵や鍵は」


 連絡員が答える。


「鐘楼裏柵は異常なし。旧倉庫扉は外見上施錠継続。ただし、詳細確認はロウ先生の到着待ちです」


 ユリウスが頷く。


「よし。追加確認は教師立会いで行う。君たちは戻って」


 連絡員は頷き、また走っていった。


 カイが低く言う。


「札だけ裏返るって何だよ」


 ミリアが静かに答える。


「風かもしれない。誰かが触ったのかもしれない。合図かもしれない」


「合図」


 アルトの左手首が少し熱くなる。


「痛みなし。熱、中。声なし」


 リゼが確認する。


「現在地」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店」


「感情」


「怖いです。裏返った札が、誰かの合図かもしれないと思いました」


「良好です」


 ユリウスがエレオノーラへ言う。


「旧倉庫管理記録を持ってきてくれ。今日の午前中、誰が確認したかを見る」


「すでに写しがあります」


 エレオノーラは記録板の後ろから一枚の紙を取り出した。


 さすがだった。


 彼女は紙を広げ、目を走らせる。


「旧倉庫周辺確認。開門前、ロウ教師。異常なし。開門後一時間、警備補助班巡回。異常なし。北の朝灯り演奏前、確認済み」


 そこで、エレオノーラの声が止まった。


 ユリウスが問う。


「どうした」


 エレオノーラは紙を見つめたまま、表情を硬くする。


「北の朝灯り演奏前、確認済みとありますが、この時刻、担当の警備補助班は正門側の来場者誘導に回っていたはずです」


 ミリアの顔色が変わる。


「時刻が合わない?」


「はい」


 エレオノーラはさらに紙を見る。


「記入者欄には、警備補助班名と私の確認印があります」


 ユリウスの表情が一段冷えた。


「君の確認印?」


「私のものに見えます」


 エレオノーラは一拍置いて言った。


「ですが、私はその時刻、音響班の変更記録を取っていました。旧倉庫確認記録には署名していません」


 リゼが静かに言う。


「記録改ざんの可能性」


 アルトの左手首が熱を持った。


 記録。


 似せる。


 包装紙の透かし。


 紹介状。


 筆跡。


 二重封。


 今度は、確認済みの時刻。


「痛みなし。熱、中から強。声なし」


 ミリアがすぐに尋ねる。


「現在地は」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店。エレオノーラ先輩が、旧倉庫確認記録の時刻と確認印に不一致があると気づきました」


「感情は」


「怖いです。また記録が似せられているかもしれないから」


「良好です」


 エレオノーラは、自分の確認印に似せられた印をじっと見ていた。


 その横顔は、普段より少し硬い。


 怒っているのかもしれない。


 エレオノーラは静かな声で言った。


「これは、私の記録ではありません」


 その言葉は、中庭のざわめきの中で小さく聞こえた。


 だが、アルトたちには十分だった。


 北の朝灯りは、戻れる歌になった。


 それは成功した。


 だが、その歌が終わった直後、別の場所で何かが鳴りかけた。


 大鐘ではない。


 音になる前の揺れ。


 鐘楼側。


 旧倉庫側の立入禁止札。


 そして、記録にない確認済み。


 リゼは記録帳を閉じた。


「小さな灯の焼き菓子店は、販売停止を継続しますか」


 ユリウスが尋ねるより先に、アルトは看板を見た。


 店を閉めれば安全かもしれない。


 でも、まだ中庭全体に混乱はない。


 北の朝灯りの直後に、全部を止めるべきかはわからない。


 ただ、自分は今すぐ接客できる状態ではない。


「少し休憩したいです」


 アルトは言った。


「でも、ずっと閉めるかどうかは、確認結果を聞いてから決めたいです」


 ミリアが頷く。


「そうしましょう」


 カイが台の奥で焼き菓子の籠を見た。


「見届けクッキー、まだある」


「はい」


 リゼが言う。


「しかし、無理に販売継続はしません」


「わかってる。戻れるなら戻る。無理なら休む」


「良好です」


 ユリウスは頷いた。


「鐘楼と旧倉庫は、学園側で確認する。君たちはここで待機。販売再開は、アルト君の状態と現場確認を見て判断しよう」


「はい」


 アルトは答えた。


 中庭の風が、また看板を揺らした。


 表の小さな灯が光を受ける。


 裏の文字は見えない。


 だが、そこにある。


 戻ってこい。


 遠くで鐘楼は、まだ何も鳴らしていなかった。


 それなのに、アルトの手首の奥には、音になる前の細い震えが、まだかすかに残っていた。


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