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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第1章 第8話:初めての授業と魔術適性検査


 その夜、リゼは眠らなかった。


 正確には、眠れなかったのではない。


 眠らないことを選んだ。


 窓際の椅子に腰を下ろし、膝の上には学園案内、机の上には折り畳んだ脅迫文。灯りは消している。部屋の中にある光は、窓から差し込む月明かりだけだった。


 机の上の紙には、短い文字が残されている。


 護衛対象から目を離すな。


 次は外さない。


 その一文だけで、十分だった。


 敵は、リゼの任務を知っている。


 少なくとも、アルト・レインフォードが“護衛対象”であることを知っている。


 それが偶然である可能性は低い。


 学園に入ってからのリゼの行動だけで、そこまで正確に推測するのは難しい。入学式でアルトを助けたこと、医務室に関心を示したこと、夜の講堂に忍び込んだこと。それらから「アルトを気にしている」と判断することはできる。


 だが、“護衛対象”という言葉は違う。


 軍や警備任務で使われる言葉だ。


 つまり、敵はリゼの任務内容を知る立場に近い。


 あるいは、リゼを学園へ送り込んだ側に近い。


 リゼは、窓の外を見た。


 女子第一寮の中庭は静かだった。


 昨夜の靴跡は、もう残っていない。朝のうちに寮母か職員が手を入れたのか、あるいはただ人の通行で崩れただけなのか。花壇の土は整えられ、何事もなかったように花が揺れている。


 何事もなかったように。


 学園はそれが得意な場所らしい。


 祝福魔術が雷に変わっても、翌日には授業再開の連絡が出る。


 同級生が殺されかけても、事故として処理される。


 講堂に黒い外套の人物が現れても、生徒には待機と沈黙が命じられる。


 そして、リゼの机に脅迫文が置かれても、部屋は変わらず穏やかなままだった。


 隣のベッドで、ミリアが寝返りを打つ。


 リゼはそちらへ視線を向けた。


 ミリアは眠っている。


 交代で起きると言い張ったが、最初の見張りの途中で眠ってしまった。正確には、眠気に耐えながら椅子に座っていたところを、リゼがベッドへ戻した。


 起きたら怒るかもしれない。


 だが、ミリアには睡眠が必要だった。


 彼女は戦場の人間ではない。


 昨日だけで、祝福魔術の雷撃、夜間の講堂潜入、旧校舎の追跡、教師への事情聴取、脅迫文の発見まで経験している。精神的疲労は限界に近い。眠らせなければ判断力が落ちる。


 リゼも眠るべきだった。


 それはわかっている。


 だが、敵が寮の中へ入れるとわかった以上、完全に眠る選択はできなかった。


 部屋の扉。


 窓。


 床下。


 机。


 衣装棚。


 隣室との壁。


 天井。


 侵入経路になりそうな場所はすべて確認した。


 異常なし。


 それでも、心の中に張り詰めた糸は緩まない。


 月が西へ傾き、空が少しずつ白み始めた頃、ミリアが目を覚ました。


「……リゼさん?」


 眠気を含んだ声。


 リゼは窓際から振り返る。


「おはようございます」


 ミリアはしばらく天井を見つめ、それから勢いよく起き上がった。


「交代は!?」


「不要と判断しました」


「不要じゃないわ!」


「あなたは疲労していました」


「あなたもでしょう!」


「私は問題ありません」


「それが一番問題なのよ!」


 ミリアはベッドの上で怒った。


 声を抑えているが、目は完全に覚めている。金色の髪が寝乱れ、いつもの整った令嬢らしさは少し崩れていた。それでも怒る姿には妙な迫力がある。


「約束したでしょう。交代で起きるって」


「はい」


「では、なぜ起こさなかったの?」


「あなたの睡眠を優先しました」


「それは優しさではなく、勝手な判断よ」


「……すみません」


 リゼは素直に謝った。


 ミリアはさらに何か言おうとしたが、リゼが即座に謝ったせいで勢いを削がれたらしい。口を開いたまま数秒止まり、それから深く息を吐いた。


「もう」


 彼女は額に手を当てる。


「あなた、謝るのは早くなったわね」


「改善しています」


「そこは改善しなくていいわけではないけれど……次からは起こして」


「あなたの状態によります」


「そこは、はい、と言うところ」


「はい」


「本当に?」


「可能な限り」


「リゼさん」


「はい」


「今日の授業が終わったら、交代制の見張り表を作ります」


 リゼは少し考えた。


 見張り表。


 軍の夜間警戒なら、交代時間、担当範囲、確認項目を明確にする。ミリアがそれに参加するのは危険だが、彼女自身の納得と行動制御には有効かもしれない。


「わかりました」


「よろしい」


 ミリアはベッドから降り、窓の外を見た。


 朝の学園は美しかった。


 夜の不穏さをすべて洗い流したかのように、淡い光が校舎の屋根を照らしている。中庭の花は夜露をまとい、遠くの食堂棟からはパンの焼ける匂いが流れてくる。鳥が鳴き、寮のどこかで誰かが笑った。


 新しい一日の始まり。


 普通の学生なら、そう感じるのだろう。


 リゼは、脅迫文を机の引き出しの奥へしまった。


 紙は二重に包み、便箋の束の下に隠してある。ミリアにもらった便箋が、初めて実用的な役割を持った。


「今日は、授業があるのよね」


 ミリアが言う。


「掲示では、一部再開とありました」


「初授業がこの状況なんて、忘れられないわ」


「記憶には残ります」


「そういう意味ではないけれど、否定はできないわね」


 二人は身支度を始めた。


 リゼは制服に着替え、首元のリボンでまた少し手を止める。昨日よりはましになっている。形も大きく崩れていない。だが、ミリアが見れば不完全なのだろう。


 彼女は何も言わず、リゼの前に立った。


「じっとして」


「はい」


 ミリアの指がリボンを整える。


 その動きは自然で、速い。


 リゼは首元へ触れる手に、もう反射的な警戒を起こさなくなっていることに気づいた。


 完全ではない。


 だが、初日よりは明らかに反応が遅くなっている。


 これは良いことか。


 それとも、警戒が鈍っているのか。


 判断に迷う。


「できたわ」


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 ミリアは自分の髪を整えながら言った。


「今日は魔術適性検査もあるのかしら」


「延期の掲示は、二日後とありました」


「正式な検査は二日後。でも、今日は簡易説明と基礎測定だけ行うらしいわ。朝食の時、上級生が話していたの」


「簡易測定」


 リゼの意識がそちらへ向いた。


 魔術適性検査。


 問題だった。


 偽装書類には、魔術適性は平均以下と記載されている。実際、リゼは魔術を得意としていない。魔力量そのものは極端に低いわけではないが、魔術回路に乱れがある。術式の安定性が悪く、出力にムラが出る。


 戦場で受けた魔力干渉。


 爆炎。


 白い光。


 左腕から背中にかけて走った焼けるような痛み。


 あの時から、魔力の流れはどこか歪んでいる。


 軍医は「日常生活に支障なし」と記録した。


 軍にとって必要なのは、リゼが剣を振れるかどうかだったからだ。


 魔術が不得手でも、彼女は戦えた。


 むしろ、魔術に頼らず戦えるからこそ重宝された。


 だが、学園では違う。


 王立アークレイン学園において、魔術適性は生徒の評価に大きく関わる。特にこの国の上層部では、魔術の才能は血筋や教養と結びつけられる。魔術が苦手なこと自体は珍しくないが、魔術回路の異常まで測定されれば、過去の損傷に気づかれる可能性がある。


 それは困る。


「リゼさん?」


 ミリアがこちらを見た。


「顔色が少し悪いわ」


「問題ありません」


「あなたの“問題ありません”は信用しないことにしたの」


「では、軽度の懸念があります」


「魔術検査?」


「はい」


 ミリアの表情が少し和らぐ。


「苦手なの?」


「得意ではありません」


「剣術科なら、魔術が苦手な人も珍しくないわ。基礎測定くらいなら大丈夫よ」


「魔術回路の確認もありますか」


「簡易測定なら、魔力量と属性反応を見る程度だと思うけれど……正式検査では回路の安定性も見るはずよ」


「そうですか」


 リゼは短く答えた。


 ミリアはその反応を見て、少し真面目な顔になる。


「何か、知られたくないことがあるの?」


 また鋭い。


 リゼはミリアを見た。


 彼女は踏み込みすぎたと気づいたのか、すぐに言葉を足す。


「言えないならいいわ。でも、検査で困ることがあるなら、事前に考えた方がいいと思って」


「魔術が不安定です」


 リゼは言った。


「昔、強い魔力干渉を受けました」


 ミリアの目がわずかに見開かれる。


「事故?」


「はい」


 事故。


 それで処理する。


 戦場での爆発とは言わない。


「それ以来、魔術回路に乱れがあります」


「医務室には?」


「治療済みです。生活に支障はありません」


「それ、昨日も聞いたわ」


「事実です」


「生活に支障がないことと、痛まないことは違うでしょう」


 リゼは答えなかった。


 ミリアはそれ以上、追及しなかった。


 代わりに言う。


「検査で何か言われたら、“過去の事故で治療済みです”と答えればいいわ。詳しく聞かれたら、後見人を通してください、と言うの」


「後見人」


「あなたの場合、入学書類に保護者か後見人が登録されているでしょう?」


「はい。クラウス遠縁保護者です」


 ミリアが一瞬止まった。


「何その呼び方」


「本人にそう呼びました」


「やめなさい。クラウス様、または後見人でいいわ」


「はい」


「とにかく、詳しい事情を生徒がその場で全部説明する必要はないの。医療情報は個人情報よ」


「個人情報」


「そう。便利な盾になるわ」


 リゼは記憶した。


 個人情報。


 詳しい事情を聞かれた場合、後見人を通す。


 有用。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 朝食の食堂は、少しだけ日常を取り戻していた。


 事件の衝撃は残っている。だが、人はいつまでも緊張してはいられない。昨日よりも会話が増え、皿の音も明るくなっている。


 それでも、アルトの話題になると声は潜められた。


「レインフォード君、今日から授業に出るのかな」


「肩、痛そうだったね」


「でも笑ってたよ」


「強いよね」


「怖くなかったのかな」


 リゼは食事をしながら、その声を聞いていた。


 アルトは強いのか。


 痛みに耐え、周囲を安心させ、笑っていた。


 そう見れば強い。


 だが、リゼには別のものに見えた。


 慣れ。


 危険に慣れ、心配されることに慣れ、何かを隠すことに慣れている。


 それは強さに似ているが、違う。


 放置すれば、死に近づく。


 リゼはそう判断していた。


 朝食後、一年C組の生徒たちは第一校舎へ向かった。


 教師の巡回はまだ増えている。講堂への道には封鎖札が貼られ、立ち入り禁止の魔術結界が張られていた。新入生たちはそこを遠巻きに見ながら、足早に通り過ぎる。


 中央講堂の白い壁は、朝日に照らされて美しかった。


 だがリゼには、その内側に焼き付いた焦げ跡が見えている気がした。


 一年C組の教室に入ると、アルトはすでに席についていた。


 右肩にはまだ包帯がある。制服の上着は片袖だけ通し、右側は羽織る形にしていた。顔色は昨日より少し良いが、唇の色はまだ薄い。


 彼の周囲には数人の生徒が集まっている。


 アルトは一人一人に穏やかに答えていた。


「大丈夫。ありがとう」


「医務室の先生が、ちゃんと処置してくれたよ」


「少し痛むけど、授業は受けられるって」


 その声を聞きながら、リゼは自分の席へ向かった。


 アルトがこちらを見る。


 目が合う。


 短い沈黙。


 リゼは少しだけ頷いた。


 アルトも頷き返した。


 それだけ。


 だが、昨日までよりも明確なやり取りだった。


 ミリアが隣で小さく言う。


「今の、何?」


「生存確認です」


「普通は挨拶と言うの」


「挨拶です」


「よろしい」


 リゼが席につくと、少し離れたところで大きな声がした。


「おい、昨日の雷を避けたって本当か?」


 教室の入口。


 赤茶色の髪をした少年が立っていた。


 背は高い。肩幅もある。制服の着方は少し雑だが、体幹がしっかりしている。足運びに迷いがなく、視線がまっすぐすぎる。腰に剣はないが、剣を持つ者の姿勢をしていた。


 カイ・ロックハート。


 名簿で確認していた名前。


 軍人家系の少年。


 剣術科首席候補。


 彼は一直線にアルトの席へ向かい、周囲の生徒たちが道を開けた。


 アルトは少し困ったように笑う。


「避けたというか、偶然外れたんだよ」


「偶然で雷が外れるか?」


「外れたから、こうして生きているよ」


「なるほど。運がいいな!」


 カイは大きく笑った。


 悪意はない。


 だが、声が大きい。


 周囲の生徒が少し驚いている。


 リゼはカイを観察した。


 立ち姿。


 重心。


 腕の筋肉。


 手の皮膚。


 間違いなく剣を振り込んでいる。


 ただし、戦場経験はない。


 動きに澱みはないが、死角への警戒が甘い。敵意ある群衆を知らない立ち方。正面からの勝負を前提とした体。


 強い。


 だが、まだ若い。


 そして目立つ。


 非常に目立つ。


 護衛任務においては厄介な相手になり得る。


「で、そっちがグレイスか?」


 カイが突然こちらを見た。


 リゼは表情を変えない。


「はい」


「剣術科だろ?」


「はい」


「噂で聞いた。昨日、レインフォードに手当てしたんだってな」


「応急処置です」


「すげえ落ち着いてたって皆言ってたぞ」


「必要なことをしただけです」


「へえ」


 カイはリゼの方へ歩いてくる。


 ミリアがわずかに身構える。


 カイはリゼの机の前で立ち止まり、じっと彼女を見た。


 遠慮がない。


 視線がまっすぐすぎる。


「お前、剣をやってるな」


「剣術科です」


「いや、そういう意味じゃない」


 カイは楽しそうに目を細めた。


「立ち方が違う。椅子に座っているのに、すぐ動ける姿勢をしてる。普通の新入生はそんな座り方しない」


 リゼは内心で警戒を上げた。


 観察力がある。


 直感型だが、侮れない。


「癖です」


「いい癖だな」


「評価は不要です」


「はっきり言うな!」


 カイはまた笑った。


「俺はカイ・ロックハート。剣術科だ。よろしくな」


「リゼ・グレイスです」


「知ってる。なあ、今度手合わせしようぜ」


「断ります」


 即答だった。


 カイの笑顔が一瞬固まる。


 ミリアが横で小さく息を吐いた。


 アルトが少し楽しそうにこちらを見ている。


「即答かよ」


「はい」


「理由は?」


「必要がありません」


「剣術科同士なら、互いの実力を見るのも必要だろ」


「授業で機会があります」


「その前に」


「断ります」


「なんでだよ」


「目立ちます」


 言ってから、リゼは少し失敗したと思った。


 カイの目が輝いた。


「目立ちたくないのか?」


「はい」


「強いやつほど、そう言うんだよな」


「私は強くありません」


 教室の空気が少し変わった。


 カイがリゼを見下ろす。


 リゼは座ったまま見上げる。


 敵意はない。


 だが、勝負を求める圧がある。


 戦場の殺意とは違う。


 もっと明るく、熱く、真っ直ぐなもの。


 それがかえって厄介だった。


「強くないやつは、自分からそう言わない」


 カイが言った。


「強いやつか、本当に何も考えてないやつだけだ」


「では、後者です」


「嘘だな」


 リゼの目がわずかに細くなる。


 カイはそれに気づいたのか、嬉しそうに笑った。


「やっぱり、いい目をしてる」


「何の話ですか」


「剣を持った時にわかる」


「持ちません」


「持たせる」


「推奨しません」


「面白いな、お前」


 リゼは内心でため息をついた。


 また面白い。


 この評価は危険信号として扱うべきかもしれない。


 ロウ教師が教室に入ってきたことで、会話はそこで終わった。


「席につけ。今日は予定を変更して、午前は基礎教養、午後は魔術適性の簡易説明と測定を行う」


 生徒たちがざわめく。


 カイはリゼへ向かって指を立てた。


「後でな」


「不要です」


「後でな」


 彼は自分の席へ戻っていった。


 リゼはその背中を見た。


 距離を取るべき相手。


 だが、同じ剣術科である以上、避け続けるのは難しい。


 午前の基礎教養は、学園の規則と王国史の基礎だった。


 ロウ教師は黒板に要点を書きながら、生徒たちへ説明する。


 授業中の態度。


 課題提出。


 単位。


 寮生活。


 学園内の禁止区域。


 教師への報告義務。


 そして、王立アークレイン学園の成り立ち。


 リゼはすべて記憶する。


 授業を受けるのは初めてだったが、情報を整理する作業としては難しくない。問題は、どこが重要なのかの基準が他の生徒と違うことだった。


 ロウ教師が「旧校舎は老朽化のため立入禁止」と言った時、リゼはすぐに地図へ印をつけた。


 ミリアが隣で小声で言う。


「今、絶対に別の意味で印をつけたでしょう」


「確認事項です」


「駄目よ」


「まだ何も」


「考えた時点で駄目」


 ロウ教師の説明では、旧校舎は三十年前まで使われていた旧魔術棟であり、現在は老朽化と安全上の問題から閉鎖されているという。


 だが、その説明は薄い。


 三十年前まで使われていたなら、完全に放置されているとは考えにくい。旧魔術棟なら、内部に術式や資料が残っている可能性がある。危険だから封鎖されたのか、何かを隠すために封鎖されたのか。


 後者の可能性が上がる。


 王国史に入ると、教室の空気は少し重くなった。


 先の戦争について触れられたからだ。


「皆も知っている通り、三年前から続いた西方戦争は、昨年のヴァルム要塞陥落をもって事実上終結した」


 ロウ教師の声が教室に響く。


 リゼはペンを止めた。


 ヴァルム要塞。


 第1話の戦場。


 雨。


 灰。


 折れた剣。


 大佐。


 制服。


 彼女は呼吸を整える。


 隣でミリアが気づいたように視線を向けた。


 リゼは黒板を見続ける。


「王国は大きな犠牲を払いながらも、西方諸国連合の侵攻を退けた。その過程で、多くの兵士、騎士、魔術師、そして名もなき者たちが戦った」


 名もなき者たち。


 傭兵。


 孤児兵。


 補給部隊。


 焼けた村の生き残り。


 王都の記録には残らない者たち。


「戦争には英雄譚もある。だが、この学園で学ぶ者は、英雄譚だけを鵜呑みにしてはならない。戦争とは政治であり、歴史であり、人の命が失われる現実だ」


 ロウ教師の声は静かだった。


 彼は戦場経験があるのか。


 少なくとも、戦争を美談だけで語ろうとしていない。


 その点は評価できる。


 生徒の一人が小さく手を上げた。


「先生、灰銀の戦乙女の話は本当ですか?」


 教室の空気が変わった。


 リゼの指が、机の下でわずかに動いた。


 ミリアがこちらを見る。


 カイも反応した。


 彼は明らかに目を輝かせている。


 ロウ教師は少し困ったように眉を下げた。


「その名は、広報部や吟遊詩人によって広く語られているな」


「一人で敵の要塞門を開いたって」


「魔獣部隊を斬り伏せたとも聞きました」


「銀の鎧を着た女騎士なんですよね?」


「いや、白い馬に乗っていたって父が」


 生徒たちが次々に話し始める。


 リゼは黙っていた。


 銀の鎧など着ていない。


 白馬にも乗っていない。


 要塞門を開いたのは一人ではない。


 魔獣部隊を斬ったのは事実だが、半数は罠と火薬で処理した。


 敵の指揮官を討ったのも、正面からの一騎打ちではなく、夜間潜入による奇襲だった。


 英雄譚は、真実より美しく作られる。


 ロウ教師は手を上げ、生徒たちを静めた。


「灰銀の戦乙女については、公式記録にも多くの不明点がある。彼女が実在したこと、戦場で大きな戦果を上げたことは確かだろう。しかし、民間に流れている話のすべてが事実とは限らない」


「でも、英雄なんですよね?」


 カイが言った。


 その声には熱があった。


「王国を救った英雄だって、父が言っていました」


 ロウ教師は少しだけ間を置いた。


「英雄という言葉は、使う者によって意味が変わる」


「どういうことですか」


「ある者にとっての英雄は、別の者にとっての仇かもしれない。勝者の物語に名を残す者が、常に正しいとは限らない」


 教室が少し静かになる。


 カイは納得しきれない顔だった。


 だが、反論はしなかった。


 リゼはロウ教師を見た。


 この教師は、少なくとも英雄譚に酔ってはいない。


 それは少しだけ救いだった。


 ミリアが机の下で、そっと紙片を寄越してきた。


 そこには小さく書かれている。


 大丈夫?


 リゼは紙を見た。


 どう返せばいいのかわからない。


 しばらく考えて、短く書いた。


 問題ありません。


 紙を返すと、ミリアはそれを見て眉を寄せた。


 そして、さらに書き加えて返してきた。


 それは信用していません。


 リゼはその文字を見て、少しだけ困った。


 授業は続いた。


 王国史の概略。


 戦争の原因。


 国境紛争。


 魔術資源の争奪。


 敗戦国との条約。


 戦後復興。


 政治的には重要な内容だったが、リゼにとっては多くが後付けの説明に見えた。


 戦場にいた者は、戦争の理由を毎日考えたりしない。


 命令が下る。


 移動する。


 戦う。


 生き残る。


 その繰り返しだ。


 昼食を挟み、午後は第二魔術棟へ移動することになった。


 魔術適性の簡易説明と基礎測定。


 生徒たちの空気は少し明るくなった。


 魔術は、多くの者にとって憧れだ。


 自分の属性が何か、魔力量がどれほどか、どの分野に向いているのか。皆、期待と不安を抱えている。


 リゼにとっては、検査だった。


 隠すべきものを暴かれる可能性のある場。


 第二魔術棟は、第一校舎よりも新しい建物だった。


 白い石壁に青い魔術紋が刻まれ、窓には魔力遮断用の薄い膜が張られている。入口の両側には水晶柱が立ち、近づく生徒の魔力に反応して淡く光った。


 リゼが通ると、水晶の光が一瞬だけ乱れた。


 ほんのわずか。


 普通の生徒なら気づかない。


 だが、ミリアは気づいた。


 アルトも、少し離れた場所で振り返った。


 リゼは表情を変えずに通り過ぎる。


 測定室は広い円形の部屋だった。


 中央に大きな魔術陣が描かれ、その周囲に測定用の水晶が並んでいる。教師たちが数名待機し、記録係の上級生が生徒名簿を持っている。


 その中に、セレスティア・ノクスの姿はなかった。


 リゼは少しだけ意外に思った。


 魔術史担当だから、適性検査には関わらないのか。


 あるいは、意図的に姿を見せていないのか。


 説明を担当したのは、魔術基礎担当の女性教師だった。


「今日は正式検査ではなく、簡易測定です。魔力量、属性反応、魔力の流し方を確認します。危険はありません。緊張しなくて大丈夫ですよ」


 危険はありません。


 教師はそう言った。


 リゼは信用しなかった。


 測定は名簿順に行われた。


 一人ずつ中央の魔術陣に立ち、水晶に手をかざす。教師の指示で微量の魔力を流すと、水晶の色が変化し、属性や魔力量が記録される。


 火属性が強い生徒の時は赤く。


 水属性なら青く。


 風なら緑。


 土なら黄。


 光や雷、氷などの派生属性が出ると、生徒たちは小さくざわめいた。


 ミリアの番になると、測定室の空気が少し変わった。


 ファルネーゼ家の令嬢。


 魔術名門の血筋。


 期待されている。


 ミリアは中央へ進み、静かに水晶へ手をかざした。


 魔力が流れる。


 水晶が淡い金色に輝いた。


 次いで、青と白が混じり、花のような光を作る。


 教師が目を見開いた。


「光属性適性、高。水属性補助適性あり。魔力量、同年代平均を大きく上回っています。制御も安定していますね」


 周囲から感嘆の声が上がる。


「すごい」


「さすがファルネーゼ家」


「綺麗……」


 ミリアは少しだけ頬を赤くし、それでも誇らしげに礼をした。


 リゼはそれを見ていた。


 美しい魔力だった。


 安定していて、無駄がない。


 戦場の破壊魔術とは違う。


 人を傷つけるためではなく、何かを照らし、癒やし、包むための光。


 リゼには扱えない種類の力だった。


 次にアルトの番が来た。


 教室よりもさらに空気が静かになる。


 昨日負傷したばかりの少年。


 医務担当の教師が心配そうに見ている。


「無理はしないように。少しでも痛むなら中止します」


「大丈夫です」


 アルトは左手を水晶へかざした。


 右肩を庇っている。


 彼が魔力を流すと、水晶は最初、ほとんど色を変えなかった。


 周囲が少しざわめく。


 だが、次の瞬間。


 水晶の内側に、細い銀色の線が走った。


 光ではない。


 雷でもない。


 もっと古い、文字のような線。


 魔術陣の外周がわずかに反応する。


 教師たちが顔を見合わせた。


「これは……」


 測定担当の教師が水晶を覗き込む。


「属性反応は弱いですが、理論干渉適性が非常に高い。魔力そのものより、術式構造への感応が強いタイプですね」


 アルトは少し困ったように笑う。


「実技は苦手なので」


「実技の問題ではありませんよ。これは珍しい適性です。高度な術式解析や補助制御に向いています」


 周囲の生徒たちが感心したように声を上げる。


 リゼはアルトを見ていた。


 術式構造への感応。


 だから、祝福魔術の変質に気づいた。


 彼は自分を狙った術式を、被害者でありながら見ていた。


 危険だ。


 その才能は、敵にとっても価値がある可能性が高い。


 アルトが席へ戻る途中、リゼと視線が合った。


 彼は少しだけ肩をすくめるように笑った。


 自分でも困っているような表情。


 リゼは頷かなかった。


 警戒が強まったからだ。


 そして、リゼの番が来た。


「リゼ・グレイスさん」


 呼ばれる。


 ミリアが小声で言った。


「大丈夫。落ち着いて」


「はい」


 リゼは中央へ進んだ。


 測定陣の中心に立つ。


 足元から、魔術陣の冷たい感触が伝わる。床に刻まれた線が微かに光り、彼女の魔力を読み取ろうとしている。


 気持ち悪い。


 自分の内側へ、細い糸を差し込まれるような感覚。


 戦場で受けた魔力干渉を思い出す。


 白い光。


 焼けた空気。


 耳鳴り。


 背中に走る熱。


 仲間の叫び。


 リゼは呼吸を整えた。


 今は学園。


 測定室。


 敵襲ではない。


 少なくとも、今は。


「水晶に手をかざしてください」


 教師が言う。


 リゼは右手を出した。


 手の傷が見える。


 教師の視線がそこに一瞬止まったが、何も言わなかった。


「少しだけ魔力を流してください。無理に出そうとしなくて大丈夫です」


 少しだけ。


 リゼは魔力を動かそうとした。


 だが、体内の魔力は滑らかには流れない。


 途中で引っかかる。


 背中から左腕にかけて、古い傷の奥が熱を持つ。


 水晶が鈍く光った。


 色は灰色。


 次に、青とも白ともつかない濁った光が揺れる。


 測定陣が一瞬、不規則に明滅した。


 教師の表情が変わる。


「少し止めてください」


 リゼはすぐに魔力を止めた。


 水晶の光が消える。


 部屋の中が静かになった。


 ミリアが不安そうにこちらを見る。


 アルトも立ち上がりかけていた。


 カイは興味深そうに目を細めている。


 測定担当の教師は記録係と何かを確認し、それからリゼへ向き直った。


「グレイスさん。過去に、大きな魔力干渉を受けたことがありますか?」


 来た。


 リゼはミリアに教えられた言葉を思い出す。


 個人情報。


 後見人。


 治療済み。


「幼少期の事故で、治療済みです」


 リゼは答えた。


 教師は眉を寄せる。


「魔術回路に焼けたような乱れがあります。簡易測定なので詳細はわかりませんが、通常の訓練で生じるものではありません」


「生活に支障はありません」


「痛みは?」


「ありません」


 嘘。


 今、少し痛む。


 だが、言う必要はない。


 ミリアが遠くで眉を寄せた。


 信用していない顔だ。


「正式検査の前に、医務担当へ記録を確認してもらいましょう。無理に魔術を使うと負担が出る可能性があります」


「はい」


「属性適性は……灰色反応。珍しいですね。魔力制御は不安定。剣術科であれば、まず身体強化の基礎から慎重に行うのがよいでしょう」


「はい」


 教師はそれ以上追及しなかった。


 ミリアの助言通り、過去の事故、治療済み、で一応処理されたらしい。


 リゼは測定陣から出る。


 歩き方は変えない。


 痛みは背中に残っていたが、表情には出さない。


 席へ戻ると、ミリアが小声で言った。


「痛むのね」


「軽度です」


「やっぱり」


「観察力が上がっています」


「あなたのせいよ」


 ミリアは怒っているようで、心配している。


 その区別が、リゼには少しずつわかるようになってきていた。


 アルトがこちらを見ている。


 彼は声をかけなかった。


 だが、その目はリゼの反応を見逃していなかった。


 リゼの魔術回路の異常。


 それを彼はどう解釈するか。


 注意が必要だった。


 測定は続き、最後にカイの番になった。


 彼が水晶に手をかざすと、赤と金が強く輝いた。


「火属性適性、高。身体強化との相性が良いですね。魔力量も十分。剣術科としては非常に優秀です」


 カイは嬉しそうに拳を握った。


「よし!」


 周囲が笑う。


 彼の明るさは、教室の空気を少し軽くした。


 リゼはそれを見て、少しだけ評価を変えた。


 目立つ。


 厄介。


 だが、周囲を前向きにする力がある。


 戦場で言えば、士気を上げる兵だ。


 ただし、そういう者ほど先頭で死にやすい。


 測定が終わると、教師から今後の注意が説明された。


 魔術適性は才能の一部でしかないこと。


 制御訓練が重要であること。


 他人の結果を笑わないこと。


 測定結果は個人情報であり、無闇に広めないこと。


 リゼは最後の一文を強く記憶した。


 個人情報。


 便利な盾。


 第二魔術棟を出る頃には、空は夕方に近づいていた。


 生徒たちは測定結果の話で盛り上がっている。


「ミリアさん、すごかったね」


「アルト君の適性も珍しいって」


「カイ君、火属性似合いすぎ」


「グレイスさんの灰色反応って何だろう」


 最後の声に、リゼは反応しなかった。


 ミリアが代わりに穏やかに言う。


「測定結果は個人情報よ」


 声をかけた女子生徒は慌てて謝った。


「ご、ごめんなさい」


「いえ」


 リゼは短く答える。


 ミリアの使い方は見事だった。


 個人情報。


 有効。


 帰り道、カイがまた近づいてきた。


「グレイス!」


「何ですか」


「灰色反応って初めて見たぞ」


「個人情報です」


「お、おう。そうか。悪い」


 カイは意外にも素直に引いた。


 だが、すぐに別の話題に移る。


「それより、お前、やっぱり剣の方が得意なんだろ?」


「回答義務はありません」


「明日の剣術基礎、楽しみだな」


「私は楽しみではありません」


「そうか? 俺は楽しみだ」


 カイは笑う。


「お前と同じ授業だろ。絶対面白くなる」


「面白くしないでください」


「無理だな」


「なぜ」


「俺が面白がってるからだ」


 理屈になっていない。


 リゼはミリアを見る。


 ミリアは肩をすくめた。


「ロックハートさんは、あなたとは別の意味で話が通じないのかもしれないわ」


「同意します」


 カイはそれを聞いて笑った。


「なんだ、もう仲いいな、お前ら」


「同室者です」


 リゼが答える。


「友達ではなく?」


 カイの言葉に、リゼは少し止まった。


 友達。


 ミリアを見る。


 ミリアは驚いたようにリゼを見返し、それから少しだけ視線を逸らした。


 リゼは答えに迷った。


 同室者。


 監視。


 心配。


 協力者。


 情報共有相手。


 友達。


 どれが正しいのか、まだわからない。


「現在、判定中です」


 リゼは言った。


 カイが噴き出した。


 ミリアは顔を赤くして、リゼの腕を軽く叩いた。


「そういう言い方をしないの」


「不適切でしたか」


「不適切というか……もう」


 だが、ミリアは怒っていなかった。


 少し困って、少し照れている。


 カイは腹を抱えて笑っている。


 アルトは少し後ろで、その様子を見て柔らかく微笑んでいた。


 その瞬間だけ、リゼは周囲の空気が少し軽くなるのを感じた。


 戦場ではない。


 たしかに、ここは戦場ではないのかもしれない。


 だが、その直後。


 第二魔術棟の窓ガラスに、リゼは一瞬だけ映る影を見た。


 薄紫のローブ。


 黒い髪。


 セレスティア・ノクス。


 彼女は二階の窓から、こちらを見下ろしていた。


 その目は、ミリアでもカイでもアルトでもなく、リゼを見ていた。


 そして、リゼの背中に残る魔術回路の痛みを知っているかのように、ゆっくりと微笑んだ。


 リゼは歩みを止めなかった。


 振り返らない。


 反応しない。


 ただ、心の中で情報を追加する。


 セレスティア・ノクス。


 魔術適性測定に姿を見せなかった。


 しかし、結果を見ていた可能性がある。


 リゼの魔術回路異常に関心を持っている。


 要警戒。


 女子寮へ戻る頃には、夕陽が学園の屋根を赤く染めていた。


 授業初日。


 基礎教養。


 戦争史。


 灰銀の戦乙女の噂。


 魔術適性測定。


 ミリアの光属性。


 アルトの術式感応。


 リゼの魔術回路異常。


 カイの火属性と剣への執着。


 そして、セレスティアの視線。


 情報が増えた。


 同時に、危険も増えた。


 部屋に戻ると、リゼはまず机を確認した。


 引き出し。


 閉じている。


 脅迫文。


 隠した位置にある。


 新たな紙はない。


 窓。


 異常なし。


 扉。


 異常なし。


 ミリアはその確認を黙って見ていた。


 以前なら呆れていただろう。


 今は違う。


「何もない?」


「はい」


「よかった」


 ミリアは本当に安心したように言った。


 リゼはその声を聞きながら、机に座った。


 今日の記録を取る必要がある。


 だが、その前にミリアが紙を持ってきた。


「見張り表を作るわ」


「本当に作るのですか」


「作るわ」


 ミリアは真剣だった。


 紙の上に、時間を区切って線を引く。


「まず、夜を前半と後半に分けます。あなたが全部起きているのは禁止。私も見張る」


「見張りには訓練が必要です」


「教えて」


「今からですか」


「ええ」


 リゼは少し考えた。


 ミリアが見張る場合、最低限教えるべきこと。


 音の種類。


 足音の聞き分け。


 窓の影。


 魔術灯の揺れ。


 異常を感じた時の合図。


 無理に確認しないこと。


 敵を見つけても声を出さないこと。


 逃げ道の確保。


 呼び鈴の使用条件。


 教えることは多い。


 だが、ミリアは真剣にペンを構えている。


 リゼは言った。


「まず、異常を見つけても一人で動かないこと」


「はい」


「音がした場合、すぐに立ち上がらない。場所を特定します」


「はい」


「窓の外に人影を見ても、窓へ近づかない」


「はい」


「扉の向こうから声がしても、名乗らない相手には開けない」


「はい」


「私が寝ていても、異常があれば起こしてください」


 ミリアが顔を上げた。


「あなたも、私を起こすのよ」


「はい」


「本当に?」


「可能な限り」


「リゼさん」


「……はい」


 ミリアは満足そうに頷いた。


 その夜。


 二人は初めて、交代で見張りをした。


 正確には、前半をミリアが担当し、リゼは眠ったふりをしながら半分起きていた。後半はリゼが起き、ミリアを眠らせた。


 だが、ミリアは前半、本当に真面目に窓と扉を見ていた。


 時々、眠気で頭が傾く。


 それでも、彼女は頑張っていた。


 リゼは薄く目を開け、その姿を見た。


 金色の髪。


 小さな灯り。


 膝の上の見張り表。


 不慣れな夜警。


 戦場なら、危なっかしくて任せられない。


 だが、ここは学園の寮室だった。


 そして、リゼはその光景を見て、胸の奥にまた説明しにくい感覚を覚えた。


 安心ではない。


 警戒は解いていない。


 けれど、完全な孤独でもない。


 そのことが、少しだけ不思議だった。


 深夜。


 交代の時間になり、リゼは起き上がった。


「交代です」


 ミリアは眠そうに目をこすった。


「異常なし……だと思う」


「はい。確認しました」


「私、ちゃんとできていた?」


「初回としては十分です」


 ミリアは小さく笑った。


「褒められた、のかしら」


「はい」


「なら、ありがとう」


「どういたしまして」


 ミリアはベッドに入り、すぐに眠った。


 リゼは窓際へ移動する。


 夜の中庭。


 魔術灯。


 風に揺れる花。


 遠くの旧校舎。


 異常なし。


 だが、リゼの警戒は消えない。


 明日は剣術基礎。


 カイは手合わせを求めてくるだろう。


 リゼは実力を隠さなければならない。


 同時に、アルトから目を離せない。


 セレスティアも、敵も、こちらを見ている。


 戦場では、敵が前にいた。


 学園では、敵がどこにいるかわからない。


 教師の中か。


 生徒の中か。


 夜の旧校舎か。


 それとも、味方だと思っている者の中か。


 リゼは机の引き出しに隠した脅迫文を思い出す。


 護衛対象から目を離すな。


 次は外さない。


 彼女は窓の外を見たまま、静かに息を吐いた。


 目を離さない。


 アルトからも。


 敵からも。


 そして、自分の背後に近づいてきた過去からも。


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