第1章 第9話:首席候補は退かない
翌朝、リゼはいつもより早く目を覚ました。
いや、正確には、目を覚ましたというより、浅い眠りから完全に意識を浮上させた。
窓の外はまだ薄暗い。夜と朝の境目のような青い光が、中庭の石畳をぼんやりと照らしている。遠くで鳥が一羽鳴き、寮のどこかで水を使う音が聞こえた。
女子第一寮は、まだ半分眠っている。
けれど、リゼの意識はすでに完全に起きていた。
窓。
異常なし。
扉。
施錠状態、維持。
机。
脅迫文、隠匿位置に変化なし。
ミリア。
呼吸、安定。
昨夜は交代制の見張りをした。
前半はミリア。
後半はリゼ。
ミリアは自分なりに真面目に見張りをしていた。途中で眠りかけながらも、見張り表に確認時刻を書き込んでいた。文字は後半になるほど少し乱れていたが、それでも任務を放棄しなかった。
任務。
リゼはその言葉を頭の中で修正する。
ミリアにとって、あれは任務ではない。
約束。
あるいは、協力。
もしくは、心配。
分類はまだ定まらない。
リゼはベッドから起き上がり、音を立てずに床へ足を下ろした。
今日は剣術基礎の授業がある。
問題の日だった。
魔術適性検査よりも、ある意味では厄介かもしれない。
魔術については、苦手であることを示せばよい。魔術回路の異常は危険だが、「過去の事故」としてある程度隠せる。
しかし剣術は違う。
リゼにとって剣は、隠すべき本質に近い。
立ち方。
視線。
呼吸。
間合い。
反射。
それらは訓練で身につけたものではなく、戦場で生き残るために体へ刻み込まれたものだ。
初心者のふりをするのは簡単ではない。
むしろ、下手に隠そうとすれば、余計に目立つ。
昨日、カイ・ロックハートはそれを見抜きかけていた。
あの少年は厄介だ。
真っ直ぐすぎる。
そして、剣に対する嗅覚が鋭い。
敵意ではない。
悪意でもない。
ただ、強いものを見つけると、そこへ向かって一直線に進む。
そういう人間は戦場では早死にする。
だが、学園では注目され、友人を作り、周囲を巻き込んでいくのだろう。
リゼにとっては、どちらにしても危険だった。
「……起きてるの?」
ベッドから声がした。
ミリアが薄く目を開けていた。
「おはようございます」
「おはよう……あなた、また私より先に起きてる」
「交代後、休息は取りました」
「それ、寝たとは言わないわ」
「定義によります」
「定義ではなく、生活習慣の問題よ」
ミリアは眠そうに体を起こし、髪を押さえた。
昨日より少しだけ寝不足の顔をしている。それでも、目の下に強い疲れが残っているわけではない。交代制は最低限機能したらしい。
彼女は机の上に置かれた見張り表を見て、少しだけ満足そうにした。
「異常なし?」
「はい」
「よかった」
ミリアは小さく息を吐く。
それから、リゼを見た。
「今日は剣術基礎ね」
「はい」
「顔が少し硬いわ」
「問題が予想されます」
「ロックハートさん?」
「はい」
ミリアはすぐに理解した。
「昨日から、あなたに興味津々だったものね」
「不利益です」
「でも、剣術科では避けられないでしょう」
「はい」
「あなた、どのくらい隠すつもり?」
リゼは少し考えた。
「標準よりやや上程度です」
「それ、あなたの基準で?」
「はい」
「駄目な予感がするわ」
「なぜですか」
「あなたの“標準”は信用できないから」
リゼは沈黙した。
否定しきれなかった。
彼女の標準は、戦場の標準だ。
敵の攻撃を避ける。
急所を守る。
一撃で無力化する。
死角を取る。
倒れた相手が再び立たないようにする。
それらは、学園の模擬戦では過剰なのだろう。
「では、どうすればいいですか」
リゼが尋ねると、ミリアは少し驚いた顔をした。
「私に聞くの?」
「あなたは学園での自然な振る舞いに詳しいです」
「剣術は詳しくないわよ」
「自然さについてです」
「そうね……」
ミリアは髪を手櫛で整えながら考え込む。
「まず、勝ちすぎないこと」
「はい」
「でも、わざと負けるのも不自然よね」
「はい」
「なら、苦戦して見せる?」
「苦戦」
「相手の攻撃に驚く。少し遅れて避ける。防御に回る。そうすれば強すぎるとは思われにくいのではなくて?」
「遅れて避けると、当たります」
「当たらない程度に」
「調整が難しいです」
「でしょうね……」
ミリアはため息をついた。
「あと、急所を狙わない」
「模擬戦では通常、急所を避けます」
「あなたの場合、確認しておきたいの」
「はい」
「相手を投げ飛ばさない」
「条件によります」
「条件なし」
「はい」
「関節を極めない」
「はい」
「意識を刈り取らない」
「はい」
「殺気を出さない」
リゼは一瞬止まった。
「出していません」
「時々出ているわ」
「いつですか」
「旧校舎の話をしている時とか、セレスティア先生を見た時とか、脅迫文を見た時とか」
「それは殺気ではなく警戒です」
「普通の人には区別がつかないの」
「そうですか」
ミリアは真剣な顔で言った。
「剣術の授業では、戦わないこと。競技をすること。訓練をすること。相手は敵ではなく同級生。いい?」
リゼはその言葉を頭の中で繰り返した。
相手は敵ではなく同級生。
競技。
訓練。
戦闘ではない。
「了解しました」
「返事は?」
「はい」
「よろしい」
ミリアは満足そうに頷いた。
朝食を終えた後、一年C組の生徒たちは剣術訓練場へ向かった。
空はよく晴れていた。
昨日の不穏な雲は消え、日差しが校舎の白い壁に反射している。中庭では上級生らしき者たちが魔術の準備運動をしており、食堂棟の前では新入生たちが授業の話で盛り上がっていた。
学園は、日常へ戻ろうとしている。
祝福魔術の事故も、旧校舎の不審者も、脅迫文も、表面上は存在しない。
けれど、リゼの意識から消えることはなかった。
アルト・レインフォードは列の少し前を歩いている。
右肩の包帯は制服の下に隠されているが、動きにはまだわずかなぎこちなさがある。痛みを庇っている。だが、彼は周囲に悟られないように自然な歩幅を保っていた。
リゼはそれを観察する。
痛みへの耐性。
隠す癖。
危険に慣れた態度。
やはり、普通の奨学生ではない。
アルトが振り返った。
目が合う。
彼は軽く笑った。
リゼは少しだけ頷く。
「また生存確認?」
隣でミリアが小声で言った。
「はい」
「せめて挨拶と言いなさい」
「挨拶です」
「よろしい」
その時、背後から明るい声が飛んできた。
「グレイス!」
カイだった。
彼は剣術科の生徒数人と一緒に歩いていた。背が高く、声が大きく、表情が明るいせいで、どこにいても目立つ。
リゼは振り返らないふりをしたかった。
だが、明らかに自分を呼んでいる。
「何ですか」
「今日、組み手やるらしいぞ!」
「知っています」
「楽しみだな!」
「楽しみではありません」
「またそれか」
カイはリゼの横に並んできた。
ミリアが少し距離を取る。
「昨日言ったよな。手合わせしようぜって」
「断りました」
「でも授業なら断れないだろ」
「組み合わせは教師が決めます」
「なら、先生に頼む」
「やめてください」
「なんでそこまで嫌がるんだ?」
「目立つからです」
「剣術科に入って目立ちたくないって、変なやつだな」
「本日一回目です」
「何が?」
「変なやつ、という評価です」
カイは一瞬ぽかんとして、それから笑った。
「数えてるのかよ」
「はい」
「なら今日中に十回くらい増やしてやる」
「不要です」
ミリアが小声で呟いた。
「相性が悪いのか良いのか、わからないわね」
「悪いです」
リゼは即答した。
カイは聞こえていたのか、さらに笑った。
「いいな、お前。ますます戦ってみたくなった」
「推奨しません」
「それも昨日聞いた」
「重要です」
「なら、なおさらだ」
会話が通じない。
リゼはそう判断した。
剣術訓練場は、学園の南西にある広い砂地だった。
周囲を低い石壁で囲み、一部には観覧席が設けられている。隣には武具庫があり、訓練用の木剣、革鎧、盾、槍、短棒などが整然と並んでいた。床の砂はよく均されている。転倒時の衝撃を和らげるためだろう。
リゼは訓練場へ足を踏み入れた瞬間、地面の感触を確認した。
柔らかい。
踏み込みが沈む。
滑りにくいが、足を取られやすい。
雨天時は泥になり、動きが鈍る可能性がある。
観覧席の影は死角。
武具庫は緊急時の武器供給地点。
出入口は二つ。
教師用の控え室が一つ。
高所からの狙撃地点は少ないが、魔術なら別。
「リゼさん」
ミリアが隣で言う。
「今、授業ではなく戦場として見たでしょう」
「訓練場です」
「顔が違うわ」
「改善します」
「本当にお願いね」
訓練場には、すでに剣術科の教師が待っていた。
年配の男性で、がっしりした体つき。短く刈った灰色の髪に、鋭い目。左頬に古い傷がある。腰には刃引きされた訓練剣。立ち方からして、実戦経験がある。
教師は生徒たちが並ぶのを待ち、低い声で言った。
「剣術基礎を担当する、ガルド・ハインツだ」
声に無駄がない。
リゼはすぐに姿勢を正した。
軍の教官に近い空気。
ただし、殺気はない。
ガルド教師は生徒たちを見回す。
「ここでは、剣の振り方だけを教えるつもりはない。剣を持つ者が、何をしてはいけないかも教える」
生徒たちの表情が引き締まる。
カイだけが期待に満ちた目をしている。
「剣は道具だ。守るためにも、殺すためにも使える。貴族の飾りにも、騎士の誇りにも、兵士の仕事道具にもなる。だが、ここは学園だ。お前たちが今日持つのは訓練用の木剣であり、相手は敵ではない。同級生だ」
リゼはミリアに朝言われた言葉を思い出した。
相手は敵ではなく同級生。
同じ。
重要事項らしい。
「初回の今日は、基本姿勢と簡単な打ち込み、そして力量確認のための軽い組み手を行う。勝敗を競うものではない。相手の力を知り、自分の力を知るためのものだ。勘違いするな」
ガルド教師の視線が、一瞬カイへ向いた。
カイは胸を張った。
勘違いする可能性が高いと見られている。
リゼはそう判断した。
生徒たちは武具庫から木剣を受け取った。
リゼも一本取る。
重さ。
軽い。
長さ。
標準的。
重心はやや先寄り。
品質は悪くない。だが、実戦用ではない。打撃用。急所に入れば十分危険だが、刃はない。
刃がない。
そのことが、少しだけ手に違和感を残した。
彼女は無意識に柄を握り直す。
その瞬間、ガルド教師の視線がこちらへ向いた。
見られた。
リゼはすぐに力を抜く。
遅い。
教師の目には、今の握りが届いている。
戦場で剣を握る者の手。
ガルド教師は何も言わなかったが、リゼを記憶したようだった。
まずは基本姿勢。
教師の指示に従って、生徒たちは足を開き、木剣を構える。
初心者の多くは肩に力が入り、剣先がぶれる。剣術経験者はそれなりに整っているが、家ごとの癖がある。貴族の剣、騎士家の剣、兵士家系の剣、競技剣術。それぞれ違う。
リゼは迷った。
どの程度崩すか。
完全な初心者の構えは不自然。剣術科で入学した以上、最低限はできるはず。
かといって、普段の構えを取れば目立つ。
彼女は自分の構えから、いくつかの要素を抜いた。
重心を少し高く。
剣先をわずかに甘く。
右足への荷重を強める。
左手の締めを緩める。
これで、地方騎士家で基礎を習った程度に見えるはずだった。
はずだった。
「グレイス」
ガルド教師の声が飛んだ。
リゼは内心で失敗を悟る。
「はい」
「構えを作りすぎだ。肩の力を抜け」
「はい」
作りすぎ。
見抜かれた。
周囲の生徒がちらりとリゼを見る。
カイは嬉しそうに笑っている。
ミリアは観覧側から心配そうに見ていた。魔術科や基礎教養科の生徒も、初回は見学を兼ねて参加している。ミリアは剣術の実技には加わらないが、授業の記録と基本護身術説明のために訓練場にいる。
リゼは肩の力を抜いた。
抜きすぎると、今度は本来の自然な構えに近づいてしまう。
調整が難しい。
打ち込み練習では、さらに問題が出た。
ガルド教師が号令をかけ、生徒たちは一斉に木剣を振る。
「一!」
振り下ろす。
「二!」
戻す。
「三!」
踏み込む。
周囲の生徒たちは、力加減や足運びにばらつきがある。
リゼは遅れて振ろうとした。
だが、号令に反応して体が先に動く。
振り下ろしが速すぎる。
音が違う。
空気を切る音が、周囲よりも鋭くなった。
リゼは次の動作でわざと速度を落とした。
すると今度は、不自然な間ができる。
ガルド教師がまたこちらを見る。
カイも見る。
アルトは観覧側で、静かにリゼを見ていた。
痛む肩を庇いながらも、その視線は逃さない。
見られている。
非常にやりにくい。
「次、二人組で打ち込みを受ける」
ガルド教師が言った。
「経験者は初心者に合わせろ。力を見せびらかす場ではない。木剣でも当たり所が悪ければ骨が折れる。いいな」
生徒たちは二人組を作り始めた。
リゼは、できれば目立たない相手と組みたかった。
だが。
「グレイス!」
カイが当然のように近づいてくる。
「組もうぜ」
「断ります」
「授業だぞ」
「教師が組を決める可能性があります」
「先生!」
カイが手を上げた。
リゼは止める暇がなかった。
「俺、グレイスと組んでもいいですか!」
ガルド教師がこちらを見る。
リゼは無表情を保つ。
内心では、非常に好ましくない。
ガルド教師は数秒考えた。
そして言った。
「最初は別だ。ロックハート、お前はダリルと組め。グレイスは……セイン、相手をしろ」
助かった。
リゼはそう思った。
セインと呼ばれた少年は、細身の剣術科生徒だった。地方騎士家の三男らしい。基礎はできているが、まだ実戦的ではない。性格も大人しそうで、リゼにとっては調整しやすい相手だった。
「よろしく、グレイスさん」
「よろしくお願いします」
まずは防御側。
セインが木剣を振り下ろし、リゼが受ける。
力は弱くないが、素直すぎる。
軌道が見えすぎる。
リゼは普通に受ければよかった。
だが、体が勝手に最適な角度で受け流そうとする。
木剣が触れた瞬間、セインの剣の力を逃がし、相手の重心を崩す位置へ自分の剣が滑る。
まずい。
リゼは寸前で止めた。
結果、動きが半端になった。
セインの木剣がリゼの肩に軽く当たる。
「あっ、ごめん!」
「問題ありません」
痛みはない。
だが、周囲から見れば、リゼが受け損ねたように見える。
成功。
そう思った。
しかし、ガルド教師の目は細くなっていた。
カイもこちらを見ている。
なぜ。
理由はすぐにわかった。
受け損ねる直前、リゼの剣は完全にセインの重心を崩せる位置に入っていた。
見える者には、見えた。
失敗。
次は攻撃側。
リゼは木剣を振る。
ゆっくり。
浅く。
威力を殺す。
だが、遅くしすぎると初心者の動きになる。
剣術科として不自然。
少しだけ速度を上げる。
セインが受ける。
彼の木剣に衝撃が伝わる。
リゼは手加減した。
かなり。
それでも、セインの腕が少し沈んだ。
「重っ……」
セインが小さく呟いた。
リゼはすぐに剣を引く。
「すみません」
「いや、大丈夫。グレイスさん、力あるね」
「剣の重さです」
「いや、同じ木剣だけど」
周囲の数人がこちらを見る。
また目立った。
リゼは心の中で修正する。
さらに威力を落とす。
だが、威力を落とすと軌道が不自然になる。
自然な弱さ。
難易度が高い。
何度か組み手を繰り返すうち、リゼはわざと反応を遅らせ、わざと力を逃がしすぎ、わざと踏み込みを浅くした。
その結果、初心者よりも不自然になった。
ガルド教師が歩いてくる。
「グレイス」
「はい」
「お前は何をしている」
訓練場が少し静かになる。
リゼは答えを探した。
「基礎練習です」
「違う」
ガルド教師の声は低い。
「お前は自分の動きを殺している。なぜだ」
周囲の視線が集まる。
カイの目が輝く。
アルトは真剣な顔になる。
ミリアは少し青ざめる。
リゼは答えた。
「相手に合わせています」
「合わせることと、殺すことは違う」
「はい」
「本来の動きを見せろ」
最悪に近い指示だった。
「授業の目的は基礎確認です」
「だからだ」
ガルド教師はリゼを見据える。
「お前の基礎がわからん。隠すな」
リゼは黙った。
隠すな。
それはできない。
任務上、正体を隠す必要がある。
だが、ここで拒否すればさらに目立つ。
ガルド教師は木剣を一本取った。
「俺が相手をする。軽く打ってこい」
訓練場に緊張が走った。
教師相手。
リゼは内心で判断する。
相手は実戦経験者。
力量は高い。
この相手なら多少本来の動きを出しても、教師の技量として受け流してくれる可能性がある。
ただし、出しすぎれば終わる。
「はい」
リゼは木剣を構えた。
ガルド教師も構える。
周囲の生徒たちは下がる。
ミリアが胸元で手を握っている。
アルトはリゼの足元を見ている。
カイは期待で今にも前へ出そうな顔をしている。
リゼは呼吸を整えた。
相手は敵ではない。
教師。
訓練。
殺さない。
急所を狙わない。
意識を刈らない。
競技。
リゼは踏み込んだ。
速度は抑えた。
だが、遅すぎない。
木剣を右上から振る。
ガルド教師が受ける。
木剣同士がぶつかった瞬間、リゼは力を逃がし、角度を変え、二撃目へ移ろうとした。
体が勝手に動く。
肩。
脇腹。
膝。
喉。
狙える場所が、一瞬でいくつも見えた。
見えてしまう。
リゼはそのすべてを殺した。
代わりに、剣を引いて距離を取る。
ガルド教師の目が鋭くなる。
「続けろ」
二撃目。
今度は突き。
ただし、喉ではなく胸元の中心を外す。
ガルド教師が半歩下がり、剣を払う。
払いに合わせて、相手の手首を取れる。
取らない。
足を払える。
払わない。
懐へ入れる。
入らない。
リゼは選択肢をすべて捨て続けた。
それが逆に、不自然な空白を生む。
ガルド教師は数合受けた後、剣を止めた。
「十分だ」
リゼも剣を下げる。
訓練場は静かだった。
生徒たちは、何を見たのか判断できない顔をしている。
派手な打ち合いではなかった。
リゼは教師を圧倒したわけでも、華麗な技を見せたわけでもない。
ただ、何かをしなかった。
見える者には、その“しなかった何か”が見えたはずだ。
カイには見えた。
彼の顔から笑みが消えている。
興奮ではなく、真剣な表情。
アルトも見ていた。
彼は剣術家ではないはずだが、リゼの不自然な停止に気づいたらしい。
ミリアは、リゼの目を見ていた。
心配そうに。
ガルド教師は低く言った。
「グレイス。お前は剣を習ったというより、剣で生き残った者の動きをする」
リゼの内側で、警戒が跳ねる。
ガルド教師は続ける。
「だが、ここではそのままでは駄目だ。相手を倒すための剣と、相手を育てるための剣は違う」
「はい」
「お前はまず、力を隠すのではなく、制御することを覚えろ」
制御。
それは、手加減とは違うのだろう。
リゼは頷いた。
「はい」
「今後、俺の指示なしに組み手で不用意な動きをするな」
「はい」
「それから」
ガルド教師の目が少しだけ柔らかくなった。
「ここでは、誰もお前を殺しに来ない。少なくとも、訓練場ではな」
その言葉は、リゼの胸の奥に微かに引っかかった。
訓練場では。
教師は何をどこまで知っているのか。
リゼは答えた。
「承知しました」
「返事は、はい、だ」
「はい」
ガルド教師は授業を再開した。
だが、空気は明らかに変わっていた。
リゼに向けられる視線が増えた。
興味。
警戒。
困惑。
そして、カイの視線。
彼は完全にリゼを捉えていた。
逃がさない、と言いたげな目だった。
その後の練習は、教師の管理下で行われた。
リゼはセインとの組み手を続けたが、ガルド教師が時折見ていたため、むしろ動きやすかった。教師の求める範囲内で、力を抑える。手加減ではなく、制御。相手の攻撃を受け、崩しすぎず、痛めず、学びになる程度に返す。
難しい。
敵を倒すより難しい。
セインは何度か首を傾げた。
「グレイスさん、さっきからすごくやりやすい……というか、やりにくいというか」
「どちらですか」
「わからない。打ち込めるんだけど、全部見られてる感じがする」
「気のせいです」
「そうかなあ」
気のせいではない。
だが、言えない。
授業の終盤、ガルド教師は希望者による短い模擬組み手を行うと言った。
「勝敗ではなく、現時点の力量を見る。無理はするな」
数名が手を上げた。
当然、カイも手を上げる。
「先生! 俺、グレイスと」
「駄目だ」
ガルド教師が即答した。
カイが目を丸くする。
「なんでですか!」
「お前は今、勝負をしたがっている。力量確認ではない」
「でも」
「駄目だ」
カイは不満そうだったが、教師の圧に押されて引いた。
代わりに、カイは別の剣術科生徒と組むことになった。
その模擬戦は、カイの強さを示す場になった。
彼は速い。
力もある。
何より、迷いがない。
真正面から踏み込み、相手の防御を崩し、木剣を寸前で止める。荒いが、勢いと基礎がある。戦場では危ういが、競技や訓練では非常に強い。
周囲から歓声が上がる。
「すごい!」
「ロックハート君、強い!」
「さすが軍人家系」
カイは木剣を肩に担ぎ、照れくさそうに笑った。
リゼはそれを見ていた。
正面戦闘能力は高い。
しかし、横からの攻撃に弱い。踏み込みが大きすぎる。勝ち筋を急ぐ。相手が逃げると追いすぎる。罠に誘導しやすい。
戦場基準で欠点を数えてしまう。
だが、同級生として見れば、彼は優秀な剣術科生徒なのだろう。
カイは模擬戦を終えると、まっすぐリゼの方へ来た。
汗を額に浮かべ、息を弾ませている。
だが目は生き生きしていた。
「グレイス」
「何ですか」
「見てたか」
「はい」
「どうだった」
「強いです」
リゼは正直に言った。
カイの顔がぱっと明るくなる。
「本当か!」
「はい」
「お前に言われると嬉しいな」
「ただし、踏み込みが大きいです。追撃時に右側面が空きます。相手が誘導型の場合、三手目で崩されます」
カイの笑顔が止まった。
周囲で聞いていた数人も固まる。
ミリアが遠くで顔を覆った。
リゼは言いすぎたと気づいた。
だが、カイは怒らなかった。
むしろ、今までで一番真剣な顔になった。
「……今の、一回見ただけでわかったのか」
「はい」
「じゃあ、どう直せばいい」
リゼは少し戸惑った。
カイの声に、反発がない。
本気で聞いている。
「踏み込んだ後、右足に重心を残しすぎです。剣を振り切った後に肩が開きます。相手の受けを崩した時点で勝ったと判断する癖があります。そこで一呼吸置けば、次の攻撃に対応できます」
カイは黙って聞いていた。
「なるほど」
彼は自分の足元を見る。
その場で数回、踏み込みを試す。
「こうか?」
「近いですが、上体が先に動いています」
「こう?」
「今度は遅いです」
「難しいな」
「はい」
カイは顔を上げ、笑った。
「やっぱり、お前すごいな」
「私は」
「強くない、はもうなしだ」
カイの声には、先ほどまでの軽さがなかった。
「お前、剣を見る目がある。動きもある。さっき先生との打ち合いで、何度も何かを止めてた」
リゼは沈黙する。
「俺には全部はわからなかった。でも、わかったこともある」
カイが一歩近づく。
「今、お前は俺を倒せる」
周囲の空気が固まった。
リゼはカイを見る。
真っ直ぐな目。
挑発ではない。
確認でもない。
確信。
「買いかぶりです」
「違う」
「授業中です」
「関係ない」
「関係あります」
カイは木剣を握る手に力を込めた。
「俺は、灰銀の戦乙女に憧れてる」
リゼの呼吸が、一瞬止まりかけた。
ミリアがこちらを見る。
アルトも反応した。
カイは続ける。
「戦場で誰よりも速く、誰よりも強く、仲間を救った英雄だ。俺はそういう強さに憧れて剣を始めた。だから、強いやつを見つけたら、ちゃんと向き合いたい」
リゼは、表情を動かさなかった。
内側だけが冷えていく。
灰銀の戦乙女。
またその名。
カイの目には、憧れがある。
純粋で、眩しいほどの憧れ。
その憧れの対象が目の前にいるとも知らずに。
そして、その英雄譚がどれほど血と嘘で塗られているかも知らずに。
「だから、いつか俺と本気で戦ってくれ」
カイは言った。
リゼの手が、木剣の柄を握ったまま静止する。
本気。
本気で戦う。
それは、相手を殺すか、少なくとも再起不能にすることだ。
リゼにとって、本気とはそういう意味だった。
「推奨しません」
彼女は低く答えた。
「またそれか」
「本気を出せば、訓練では済みません」
カイの目が細くなる。
「それ、本気で言ってるのか」
「はい」
「なら、なおさら見てみたい」
「あなたは理解していません」
「何を」
リゼは言いかけて、止めた。
戦場を。
殺すことを。
英雄と呼ばれることの意味を。
人が壊れる音を。
剣が肉に入る感触を。
理解していない。
だが、それを言う資格が自分にあるのか。
カイはまだ知らない。
知らないからこそ、真っ直ぐでいられる。
それを壊す必要は、今はない。
「何でもありません」
リゼは言った。
カイは納得していない。
だが、ガルド教師の声が飛んだ。
「そこまでだ。ロックハート、グレイス。授業中に勝手に火花を散らすな」
「はい!」
カイは返事だけは元気だった。
リゼも答える。
「はい」
授業はそこで終了となった。
木剣を返却し、生徒たちは訓練場を出る準備をする。
周囲の視線はまだリゼに向いていた。
特に剣術科の生徒たち。
ガルド教師との短いやり取り。
カイへの助言。
本気を出せば訓練では済まないという言葉。
目立った。
大きく。
失敗。
リゼはそう判断した。
ミリアが近づいてくる。
「リゼさん」
「はい」
「今日の目標、覚えている?」
「目立たないことです」
「結果は?」
「失敗です」
「自己評価は正しいわね」
ミリアはため息をついた。
だが、怒ってはいなかった。
心配している顔だった。
「大丈夫?」
「はい」
「カイさんが灰銀の戦乙女の話をした時、少し顔が変わったわ」
リゼは黙った。
ミリアは声を落とす。
「それも、言えないこと?」
「はい」
「わかった」
彼女はそれ以上聞かなかった。
その代わり、少しだけリゼの前に立つ。
カイや周囲の視線から、リゼを遮るように。
それは護衛の動きとしては不十分だった。
位置も甘い。
相手との距離も近すぎる。
だが、意図はわかった。
ミリアは、リゼを隠そうとしている。
守ろうとしている。
リゼはそれを不思議に思った。
自分が誰かに守られる側に立つことに、まだ慣れなかった。
訓練場を出る前、ガルド教師がリゼを呼び止めた。
「グレイス」
「はい」
「お前は、放課後に少し残れ」
周囲がざわめく。
ミリアの表情が硬くなる。
リゼは頷いた。
「はい」
「叱るわけではない。今後の訓練方針を話すだけだ」
「承知しました」
「返事」
「はい」
ガルド教師はそれだけ言って、他の生徒への指示に戻った。
ミリアが小声で言う。
「私も待つわ」
「不要です」
「待つわ」
「危険は低いです」
「待つわ」
「……はい」
会話は短く終わった。
放課後、リゼは訓練場の端でガルド教師と向かい合った。
ミリアは少し離れた観覧席にいる。アルトも、なぜか残っていた。右肩の怪我があるため剣術授業には参加していなかったが、見学者として授業を見ていたらしい。
そしてカイも残ろうとしたが、ガルド教師に追い払われた。
「ロックハート、お前は走り込み三周してから寮に戻れ」
「なんで俺だけ!」
「余計な闘志を燃やした罰だ」
「はい!」
なぜか嬉しそうに走っていった。
リゼには理解できない。
ガルド教師は木剣を持たず、腕を組んでリゼを見た。
「単刀直入に聞く。お前、どこで剣を覚えた」
「地方の騎士家です」
「嘘ではないのだろうな。だが、それだけではない」
リゼは黙る。
「お前の動きには、試合の癖がない。道場剣術の癖も薄い。最初から相手の無力化を考えている」
「……」
「急所を見る。関節を見る。相手の足を見る。武器を落とさせるより、立てなくする位置を見ている」
ガルド教師の目は鋭い。
隠しきれない。
「ここは学園だ。俺はお前の過去を無理に暴くつもりはない。だが、授業中に相手を壊されては困る」
「壊しません」
「その自信が危ない」
リゼは目を上げた。
ガルド教師は静かに言う。
「自分は制御できると思っている者ほど、ふとした瞬間に本来の癖が出る。今日、お前は何度か止めた。よく止めたとも言える。だが、止めなければどうなっていた?」
答えは明確だった。
セインは転倒。
手首を痛める。
カイなら肩か膝を壊す。
ガルド教師相手でも、急所に入っていた可能性がある。
リゼは答えた。
「相手が負傷していました」
「わかっているならいい」
ガルド教師は少しだけ表情を緩めた。
「お前には別の基礎を教える」
「別の基礎」
「人を殺さないための剣だ」
リゼは言葉に詰まった。
人を殺さないための剣。
守るための剣とは聞いたことがある。
敵を倒すための剣。
生き残るための剣。
命令を果たすための剣。
だが、人を殺さないための剣。
それは、リゼの中にないものだった。
「必要ですか」
彼女は尋ねた。
ガルド教師は即答した。
「この学園で生きるなら必要だ」
この学園で生きる。
戦場で生きるのとは違う。
リゼは静かに頷いた。
「お願いします」
ガルド教師は少しだけ意外そうな顔をした。
そして、低く笑った。
「素直だな」
「必要と判断しました」
「そうか」
彼は訓練場の砂を足でならした。
「まず、相手の攻撃を受ける時に、次の無力化まで考えるな。受けて、終わる。それだけを覚えろ」
「受けて、終わる」
「そうだ。戦場では甘い考えだろうが、学園では必要だ」
「はい」
「明日から、授業後に少し残れ。俺が見る」
「よいのですか」
「放っておく方が危ない」
「はい」
ガルド教師はリゼを見た。
「それと、ロックハートには気をつけろ」
「危険人物ですか」
「別の意味でな」
ガルド教師は苦笑した。
「あいつは真っ直ぐだ。真っ直ぐすぎる。強いものに惹かれるし、自分もそこへ行けると信じている。悪いやつではないが、お前の事情を知らずに踏み込む」
「はい」
「突き放すだけでは、余計に追ってくるぞ」
すでにその兆候はある。
「どうすれば」
「適度に相手をして、適度に負かせ」
「負かすと目立ちます」
「負かし方を覚えろ。壊すのではなく、納得させる」
「難しいです」
「だから学ぶんだ」
学ぶ。
学園。
リゼは少しだけ、その言葉の意味を考えた。
自分はここへ護衛任務のために来た。
学生になるためではない。
だが、学園にいる以上、何かを学ばなければならないのかもしれない。
人を殺さない剣。
友達になる条件。
個人情報。
ありがとうの返し方。
普通の食事。
寝ること。
どれも、戦場では教わらなかった。
ガルド教師との話が終わる頃、カイは走り込みを終えて訓練場の端で倒れ込んでいた。
ミリアは呆れた顔でそれを見ている。
アルトは少し笑っていた。
リゼが戻ると、ミリアがすぐに立ち上がった。
「大丈夫だった?」
「はい」
「何を言われたの?」
「人を殺さないための剣を学ぶことになりました」
ミリアは一瞬、言葉を失った。
アルトも静かにリゼを見る。
「それは……」
ミリアは何かを言いかけて、やめた。
代わりに、穏やかに言う。
「良い先生なのね」
「はい」
リゼは短く答えた。
カイが地面に寝転がったまま叫ぶ。
「グレイス!」
「何ですか」
「いつか絶対、本気で戦ってくれ!」
「推奨しません」
「知ってる!」
「なら、なぜ」
「それでもだ!」
会話が通じない。
だが、リゼはもう少しだけ別の見方をしていた。
カイは危険だ。
目立つ。
踏み込んでくる。
英雄に憧れている。
だが、悪意はない。
そして、剣に対して真剣だ。
それは、無視するには少し難しいものだった。
夕方の訓練場には、柔らかな風が吹いていた。
砂の上に、いくつもの足跡が残っている。
生徒たちの練習の跡。
戦場の足跡とは違う。
逃げた跡でも、追った跡でも、血に濡れた跡でもない。
学ぶために踏んだ跡。
リゼはそれを見下ろした。
その時、観覧席の影から視線を感じた。
振り返る。
誰もいない。
だが、石段の上に、小さな黒い繊維が落ちていた。
風に揺れ、すぐに石の隙間へ滑り込む。
リゼの警戒が一瞬で戻る。
敵は見ていた。
訓練場での動きも。
カイとのやり取りも。
ガルド教師との会話も、どこまで聞かれていたかわからない。
リゼは周囲を確認する。
ミリア。
アルト。
カイ。
ガルド教師。
全員、まだ訓練場にいる。
敵は姿を見せない。
リゼは石段へ近づき、黒い繊維を拾った。
指先に挟む。
旧校舎。
講堂。
女子寮。
そして訓練場。
黒い外套の影は、学園のあちこちに広がっている。
ミリアが気づいて近づく。
「それ……」
「同じものです」
ミリアの顔色が変わる。
アルトもこちらへ歩いてきた。
「何かあったの?」
リゼはすぐには答えない。
彼の右肩。
まだ包帯。
狙われた少年。
護衛対象。
目を離すな。
次は外さない。
脅迫文の文字が、頭の中で蘇る。
カイが少し離れた場所から声を上げる。
「どうした?」
彼はまだ何も知らない。
灰銀の戦乙女に憧れ、強い相手を求め、訓練場の勝負に胸を躍らせている。
この学園に本物の殺意が入り込んでいることを、知らない。
リゼは黒い繊維を握り潰さないように、そっと紙に包んだ。
そして、静かに言った。
「監視されています」
ミリアの息が止まる。
アルトの目が細くなる。
カイの顔から笑みが消える。
風が吹き、訓練場の砂が小さく舞った。
夕陽は赤く、まるで遠い戦場の空のようだった。




