第1章 第7話:旧校舎の影
夜の学園に、三人分の足音だけが響いていた。
先頭を歩くロウ教師の背中は硬い。肩に力が入り、右手には魔術灯を握っている。灯りは青白く、石畳の上に三人の影を長く引き伸ばしていた。
その後ろを、リゼとミリアが並んで歩く。
ミリアは何度も何かを言いかけて、そのたびに口を閉じていた。靴を履き直す余裕もなく、片手に持ったまま歩いている。薄い靴下は夜露を吸って、つま先のあたりが濡れていた。
それでも、彼女は文句を言わなかった。
リゼはそのことを、少し意外に思っていた。
普通の貴族令嬢なら、夜中に靴下のまま外を歩くことにもっと動揺するのではないか。少なくとも、不満を口にするのではないか。ミリア・ファルネーゼは、怒る時は怒るし、呆れる時は呆れる。だが、本当に危険な時には黙って動ける。
それは、予想よりも有用な特性だった。
ロウ教師は一度だけ振り返った。
「二人とも、怪我はないな」
「はい」
ミリアが答える。
リゼも頷いた。
「ありません」
「……本当に、どうしてこんなことをした」
ロウ教師の声は、怒鳴る寸前で抑えられていた。
「寮内待機の指示は聞いていただろう。講堂は封鎖中だ。教師の許可なく近づくことも、まして入り込むことも許されない」
「申し訳ありません」
ミリアがすぐに頭を下げる。
「アルトさんの容体が気になって、医務室の場所を確認しようとして……」
「医務室と中央講堂は反対方向だ」
ロウ教師の指摘は鋭かった。
ミリアの呼吸が一瞬止まる。
リゼは横目で彼女を見た。
ミリアはすぐに言葉を繋いだ。
「夜の校内に不慣れで、道を間違えました。途中で講堂の方から物音が聞こえて、怖くなって様子を見に……」
「怖くなって、封鎖された講堂へ入ったのか」
「……申し訳ありません」
嘘は完全ではない。
だが、ミリアは堂々としていた。謝るべきところは謝り、言い訳しすぎない。自分の家名も使わない。こちらを巻き込まない形で、できるだけ自然に落とし込もうとしている。
リゼにはできない芸当だった。
ロウ教師は深いため息をついた。
「ファルネーゼさん。君は聡明な生徒だと聞いている。ならば、わかるはずだ。今日の学園は通常時ではない。生徒が勝手に動けば、こちらは守るべき対象を増やすことになる」
「はい」
「グレイスさん」
今度はリゼへ視線が向く。
「君はどうだ」
「はい」
「君は、黒い外套の人物を見たと言ったな」
「はい」
「講堂で?」
「はい」
「どこにいた」
「一階の焦げ跡付近です」
「何をしていた」
「床に何かを撒いていました。魔術式の残滓を消していた可能性があります」
ミリアが横で小さく息を吸った。
ロウ教師の目つきが変わる。
「なぜ、それがわかる」
失言。
リゼは一瞬で判断した。
ここで魔術式に詳しすぎる説明をすれば不自然。だが、完全に誤魔化すには遅い。
「焦げ跡が薄くなっていました」
リゼは答えた。
「撒かれた粉が光り、その後、床の痕が消えたように見えました」
事実。
分析ではなく、観察結果として言う。
ロウ教師は黙った。
魔術灯の光が彼の顔を照らしている。
疑念。
苛立ち。
そして、焦り。
それが混じっていた。
「君たちは、他に誰かを見たか」
「いいえ」
ミリアが答える。
リゼは一拍置いた。
旧校舎の闇の中で声を聞いた。
灰銀、と呼ばれた。
だが、それは言えない。
「姿は確認できませんでした」
リゼは言った。
嘘ではない。
声を聞いたとは言っていない。
ロウ教師はリゼをじっと見た。
何かを察している。
だが、確証はない。
「旧校舎の方へ逃げたのだな」
「はい」
「立入禁止区域だ」
「承知しています」
「承知していて追ったのか」
「不審者を見失う可能性がありました」
「君は教師でも警備員でもない」
「はい」
「なら、追うべきではなかった」
「はい」
リゼは素直に頷いた。
ロウ教師の眉がわずかに動く。
反論されると思っていたのだろう。
だが、彼の言うことは正しい。
学生としては、追うべきではなかった。
護衛任務としては、追う必要があった。
両方が同時に成立している。
問題は、どちらを表に出すかだけだった。
「君は……」
ロウ教師は何か言いかけた。
だが、その先を飲み込んだ。
「いや、今はいい。まず寮へ戻る」
女子第一寮が見えてきた。
夜の寮は、昼とは違う静けさをまとっている。窓の多くは暗く、寮母室の灯りだけが一階の端に残っていた。玄関の魔術灯が揺れ、低い柵の影が地面に細く伸びている。
正面玄関の前には、寮母が立っていた。
腕を組み、厳しい顔で。
リゼはその姿を見た瞬間、ミリアの歩幅がわずかに乱れるのを感じた。
ロウ教師も足を止めそうになったが、そのまま進んだ。
「夜分に失礼します、マルタ寮母」
寮母の名はマルタというらしい。
彼女はロウ教師を一瞥し、それからリゼとミリアを見た。
「事情は?」
「講堂付近で二人を見つけました」
寮母の眉が深く寄る。
「寮内待機を命じたはずですが」
「はい」
ミリアが頭を下げる。
「申し訳ありません」
リゼも続く。
「申し訳ありません」
寮母はしばらく二人を見ていた。
特に、リゼを長く見た。
その目は、単に規則違反を責めるものではなかった。
もっと別の何か。
警戒。
あるいは確認。
「ロウ先生」
寮母が言う。
「二人は私が預かります。詳細は明朝、学年主任へ報告を」
「お願いします。ただ……」
ロウ教師は声を落とした。
「黒い外套の不審者がいた可能性があります。講堂内で証拠を消していたかもしれない」
寮母の表情が、ほんのわずかに変わった。
リゼは見逃さない。
今朝、黒い繊維のついた枝を見せた時と同じ反応。
知っている。
この寮母は、黒い外套か、それに関わる何かを知っている。
「承知しました」
寮母は短く答えた。
「学園警備へ共有します」
「お願いします」
ロウ教師はリゼとミリアへ向き直った。
「今日は部屋に戻れ。明朝、改めて話を聞く。二度と勝手な行動はしないように」
「はい」
ミリアが答える。
リゼも頷いた。
ロウ教師は一度だけ旧校舎の方角を見た。
それから、足早に去っていった。
残された二人の前に、寮母が立つ。
空気がさらに重くなった。
「中へ」
寮母の声は低かった。
二人は寮内へ入った。
玄関の扉が閉じる。
夜の冷たい空気が遮断され、代わりに寮の中の石鹸と木材の匂いが戻ってきた。だが、安心感はなかった。
寮母は二人をその場に立たせたまま、静かに言った。
「消灯後の外出は禁止です。校舎への移動も禁止。講堂への接近も禁止。旧校舎方面は、特に厳重な立入禁止区域です」
「はい」
「理由はわかりますね」
ミリアが答える。
「危険だからです」
「そうです」
寮母の視線がリゼへ移る。
「グレイスさん。あなたはどう考えますか」
「危険区域には、危険要因があります」
「それを確認するのは、生徒の役目ではありません」
「はい」
「わかっていて行ったのですね」
「はい」
ミリアが横で少し慌てた。
リゼの返答は正直すぎる。
だが、寮母には小細工より正直な方が通る可能性がある。少なくとも、彼女は表面的な言い訳に騙される相手ではない。
寮母は深く息を吐いた。
「あなたは、何を見たのですか」
リゼは答えを選ぶ。
「黒い外套の人物です」
「それだけですか」
「講堂の焦げ跡を消していました」
「他には」
寮母の目が鋭い。
旧校舎で聞いた声。
灰銀。
それを聞き出そうとしているのか。
それとも、黒い繊維の件と繋げようとしているのか。
「旧校舎付近で姿を見失いました」
「声は?」
リゼの内側で警戒が跳ねた。
なぜ、声について聞く。
見たか、追ったかではなく、声。
寮母は知っている。
黒外套の人物が、接触時に何かを言う可能性を。
ミリアもその違和感に気づいたらしく、寮母を見た。
リゼは短く答えた。
「聞こえました」
「何と」
沈黙。
リゼは寮母の目を見た。
この人間は信用できるか。
寮の管理者。
生徒の安全を守る立場。
だが、学園側の人間でもある。
事件は事故として処理されようとしている。
なら、彼女も情報を隠す側かもしれない。
「追ってくるな、と」
リゼは言った。
灰銀のことは伏せた。
寮母の目がわずかに細くなる。
「それだけですか」
「はい」
寮母はしばらくリゼを見つめた。
嘘に気づいているかもしれない。
だが、追及はしなかった。
「部屋へ戻りなさい。今夜は扉を内側から施錠し、窓を開けないこと」
「はい」
ミリアが答える。
「グレイスさん」
「はい」
「あなたは、特にです」
「承知しました」
「いいえ、承知ではなく、従いなさい」
リゼは一拍置いて答えた。
「はい」
寮母は二人を解放した。
三階へ上がる間、ミリアは黙っていた。
廊下は暗く、魔術灯の光だけが足元を照らしている。寝静まった部屋の向こうから、かすかな寝息や寝返りの音が聞こえた。新入生たちは眠っている。
今日、同じ講堂で雷を見たはずなのに。
恐怖に震えたはずなのに。
眠れる者は眠れる。
リゼには、それが少し不思議だった。
三〇七号室へ戻ると、ミリアは扉を閉め、鍵をかけた。
リゼが確認しようとすると、彼女は先に言った。
「一回だけ」
「はい」
リゼは鍵を一度だけ確認した。
窓も一度だけ確認する。
異常なし。
ミリアは靴を置き、ベッドに腰を下ろした。
靴下は泥で汚れている。彼女はそれを見て、小さくため息をついた。
「初日から、こんなことになるなんて思わなかったわ」
「正確には二日目です」
「今はそういう返しを求めていないわ」
「すみません」
ミリアは額に手を当てた。
疲れている。
精神的にも、身体的にも。
それでも彼女の目は眠気だけではなく、強い問いを含んでいた。
「さっき、嘘をついたわね」
リゼは黙った。
「寮母様に。声の内容、全部は言わなかった」
「はい」
否定しなかった。
ミリアは唇を引き結ぶ。
「何と言われたの?」
答えられない。
そう言えば済む。
だが、ミリアはもう巻き込まれている。黒い外套を見た。旧校舎の痕跡も見た。寮母やセレスティアへの疑念も共有している。
それでも、灰銀の名だけは別だ。
それを告げれば、リゼ・グレイスという偽名が揺らぐ。
ミリアは賢い。
灰銀という呼び名を知らなくても、そこから何かを探ろうとするだろう。
「私に関わることです」
リゼは言った。
「だから言えないの?」
「はい」
「危険なこと?」
「はい」
ミリアはしばらく黙っていた。
怒るかと思った。
だが、彼女は怒鳴らなかった。
代わりに、ひどく静かな声で言った。
「あなたは、私を守ろうとして隠しているの?」
リゼは少し考えた。
守る。
そうなのかもしれない。
だが、それだけではない。
自分の正体を隠すためでもある。
任務のため。
アルトを守るため。
そして、自分が何者なのかを知られたくないため。
「複数の理由があります」
「その中に、私のためは含まれる?」
「はい」
ミリアの表情が少しだけ緩んだ。
しかし、すぐに真剣な顔へ戻る。
「なら、今は聞かないわ」
意外な返答だった。
リゼはミリアを見る。
「よいのですか」
「よくはないわ。でも、あなたが言えないことを無理に聞いても、きっと余計に遠ざかるでしょう?」
「遠ざかる」
「ええ」
ミリアは汚れた靴下を脱ぎ、替えのものを取り出した。
その動作はいつもより少し乱れている。
「ただし、これだけは約束して」
「内容によります」
「あなたが一人でいなくなる時は、せめて置き手紙を残すこと」
リゼは瞬きをした。
「置き手紙」
「そう。あなた、何も言わずに消えそうだから」
「任務上、必要な場合は」
「その任務という言葉、時々出るわね」
しまった。
リゼは口を閉じた。
ミリアは見逃さなかったが、追及しなかった。
「とにかく、消えるなら何か残して。そうしたら、私はどこを探せばいいか考えられる」
「あなたが探す必要はありません」
「私が探したいの」
「危険です」
「知っているわ」
何度も繰り返した会話。
危険。
知っている。
それでも。
ミリアはその先に進もうとする。
リゼには、それが理解しきれない。
だが、もう否定するだけでは止まらないこともわかっていた。
「努力します」
「努力ではなく約束」
「……可能な限り、約束します」
「今はそれで妥協するわ」
ミリアは疲れたように笑った。
その後、二人は眠る準備をした。
と言っても、リゼは眠るつもりがなかった。
旧校舎の声。
灰銀。
黒外套の人物。
講堂の焦げ跡を消していた粉。
二階席の黒い繊維。
女子寮の靴跡。
寮母の反応。
セレスティアの言葉。
情報が多い。
整理が必要。
ミリアがベッドに入った後、リゼは机に向かった。
小さな灯りを最小限に絞り、紙を広げる。
記録。
証拠。
可能性。
まず、二階席で拾った黒い繊維を紙の上に置いた。細く、乾いた布片。色は黒。昨夜、女子寮の花壇の枝に絡んでいたものと似ているが、完全一致かは不明。明るい場所で確認が必要。
次に、靴跡。
女子寮花壇。
二階席右奥。
旧校舎裏手。
斜め格子状の靴底。
軍用に近いが王国軍標準ではない。
魔術師用の外靴か、警備用か、特殊部隊用か。
そして、声。
灰銀。
リゼはその文字を書かなかった。
紙に残すのは危険。
頭の中にだけ置く。
灰銀の戦乙女。
王都の広場で語られる英雄。
実物の顔は広く知られていない。情報操作により、彼女の姿は曖昧な伝説として処理されている。
しかし、軍関係者なら知っている者もいる。
戦場で直接見た者なら、灰銀の髪と年齢から推測できる可能性がある。
元傭兵部隊の関係者。
王国軍上層部。
敵国残党。
戦場で彼女と交戦した者。
あるいは、彼女を学園へ送り込んだ側の誰か。
リゼはペンを止めた。
学園へ送り込んだ側。
王都のクラウス。
大佐。
軍上層部。
彼らは味方か。
少なくとも、任務を与えた側ではある。
だが、味方とは限らない。
護衛対象アルト・レインフォードの正体も知らされていない。敵勢力も不明。任務の全体像も開示されていない。
情報が足りない。
それは、敵に対してだけではなかった。
「リゼさん」
ベッドから声がした。
ミリアはまだ起きていた。
「はい」
「寝ないの?」
「もう少し」
「それは、朝までという意味?」
「可能性はあります」
「駄目」
「睡眠は不要ではありませんが、今は情報整理が」
「駄目」
ミリアは半身を起こした。
髪が少し乱れている。
顔には疲れがあるのに、目だけはしっかりしていた。
「あなた、今日ずっと動いていたでしょう。入学式であの雷を見て、夜に講堂まで行って、旧校舎の方まで走って。普通なら倒れてもおかしくないわ」
「普通ではありません」
「そこを誇らない」
「誇ってはいません」
「なら寝る」
「しかし」
「情報整理は明日の朝でもできるわ」
「証拠の劣化が」
「その布片は逃げないわ」
ミリアはベッドから降り、リゼの机の前に来た。
紙を覗き込む。
黒い繊維には触れない。
そのあたりの慎重さは、もう身についてきている。
「あなたが倒れたら、誰が調べるの?」
「倒れません」
「そう言う人ほど倒れるのよ」
「経験則ですか」
「兄がそうだったわ。徹夜で魔術研究をして、翌朝、階段から落ちたの」
「それは警戒不足です」
「違う。寝不足よ」
ミリアはリゼのペンを取り上げた。
リゼは反射的に手を伸ばしかけ、止めた。
ミリアはそれを見て、少しだけ微笑む。
「今、奪い返そうとしたでしょう」
「はい」
「我慢したのね」
「はい」
「偉いわ」
偉い。
その評価も扱いに困る。
戦場では、我慢したことを褒められることはなかった。できて当然か、できなければ死ぬだけだった。
「寝ましょう」
ミリアは言った。
「少なくとも、横になりなさい。目を閉じるだけでもいいわ」
「あなたも眠れていません」
「ええ。だから一緒に寝るの」
「同時に眠ると、警戒が」
「ここは女子寮」
「昨夜、靴跡がありました」
「窓の鍵は閉めた。扉も閉めた。寮母様も起きている。何かあれば呼び鈴もある」
「寮母が信用できるとは」
「完全にはできない。でも、今は休むことも必要」
ミリアの声は、いつもより柔らかかった。
「リゼさん。これは命令ではなく、お願い」
お願い。
命令ではない。
なら、拒否もできる。
だが、ミリアの目を見ていると、拒否が難しかった。
任務上の合理性を考える。
睡眠不足は判断力を低下させる。
明日は教師から事情聴取がある可能性が高い。
アルトの容体確認も必要。
黒外套の痕跡も整理しなければならない。
つまり、休息は必要。
「わかりました」
リゼはペンを置いた。
ミリアは安心したように笑った。
「よろしい」
二人はそれぞれベッドに入った。
灯りが落ちる。
部屋は月明かりだけになる。
リゼは横になり、天井を見た。
今日も静かだった。
だが、昨日ほどではない。
隣のベッドにミリアがいる。
ミリアの呼吸が聞こえる。
完全な安心ではない。
けれど、無音ではない。
それが少しだけ、奇妙に感じられた。
リゼは目を閉じる。
旧校舎の声が蘇る。
追ってくるな。
学園で英雄ごっこはやめておけ。
灰銀。
灰銀。
灰銀。
その呼び名は、雨と血と灰の匂いを連れてくる。
王都の者たちは、その名を美しいもののように語る。
灰銀の戦乙女。
戦場を駆ける少女英雄。
味方を救い、敵を斬り、王国に勝利をもたらした剣。
けれど、リゼが覚えているのは違う。
泥に沈む軍靴。
焼けた髪。
腹を裂かれて泣いていた敵兵。
仲間の名前を呼んでも返事がなかった夜。
命令だから斬った。
生きるために斬った。
斬らなければ死んでいた。
それだけだった。
英雄ではない。
戦乙女でもない。
ただ、生き残った子供だった。
目を閉じたまま、リゼは拳を握った。
灰銀と呼ばれても、振り返るな。
大佐の声。
だが、今の自分はどうだった。
旧校舎の闇で、その名を聞いた瞬間、足を止めた。
反応した。
敵に、それを見せた。
失態。
次は反応しない。
そう決める。
だが、心は命令ほど簡単には従わなかった。
眠りは浅かった。
何度も目が覚めた。
そのたびに、リゼは部屋を確認した。
窓。
扉。
ミリア。
机。
黒い繊維を包んだ紙。
異常なし。
夜明け前、ほんの短い時間だけ深く落ちた。
夢を見た。
雨の戦場。
灰色の空。
誰かが叫んでいる。
リゼット。
リゼット。
灰銀。
振り返るな。
だが、夢の中の彼女は振り返ってしまう。
そこにいたのは、顔のない兵士だった。
味方か敵かもわからない。
その兵士は黒い外套を着ていて、手の中に学園の入学証を握っていた。
目が覚めた。
朝だった。
鳥の声。
鐘の音。
遠くの食堂から漂うパンの匂い。
リゼはすぐに起き上がる。
隣のベッドで、ミリアも目を開けた。
彼女はまだ眠そうだったが、リゼを見るなり眉を寄せた。
「また、あまり寝ていない顔ね」
「睡眠は取りました」
「量の問題よ」
「短時間でも休息は可能です」
「そのうち、ちゃんと寝る方法を教えるわ」
「訓練ですか」
「生活です」
ミリアは欠伸を噛み殺しながら起き上がった。
二人は支度を始める。
リゼは制服に着替え、首元のリボンで止まった。
ミリアが黙って近づき、手早く結ぶ。
昨日と同じ。
ただし、今日のミリアは何も言わなかった。
リゼも礼を言った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
そのやり取りが、わずかに自然になっている。
リゼはそれに気づいたが、言葉にはしなかった。
朝食前、扉が叩かれた。
リゼとミリアは同時に動きを止める。
「グレイスさん、ファルネーゼさん。起きていますか」
寮母の声だった。
ミリアが扉を開ける。
寮母が立っていた。
昨日と同じ厳しい顔。
だが、その手には一枚の紙があった。
「朝食後、学年主任室へ来るように。ロウ先生と学年主任がお話を聞きます」
「はい」
ミリアが答える。
寮母はリゼを見た。
「グレイスさん」
「はい」
「昨夜の件で、あなたの言動には確認すべき点が多くあります」
「はい」
「ですが、その前に一つだけ」
寮母は声を落とした。
「旧校舎には近づいてはいけません。どんな理由があっても」
リゼは寮母を見る。
それは規則としての警告ではなかった。
もっと切実なもの。
まるで、過去に何かを失った者の声だった。
「理由を聞いても?」
「今は答えられません」
「危険要因は何ですか」
「答えられません」
「では、判断できません」
寮母の目が厳しくなる。
「判断するのはあなたではありません」
「自分の安全に関わります」
「だからこそ、近づくなと言っています」
沈黙。
ミリアが不安そうに二人を見ている。
寮母は小さく息を吐いた。
「あなたが何を背負っているのか、私は知りません」
リゼの指先がわずかに動く。
「ですが、生徒である以上、この寮にいる限り、私はあなたを守る責任があります」
守る。
その言葉が、思いのほか重く響いた。
寮母の目には嘘がない。
少なくとも、その言葉に限っては。
「旧校舎には、近づかないこと。いいですね」
リゼは少しだけ間を置いた。
「はい」
寮母は頷き、去っていった。
扉が閉まる。
ミリアが小声で言った。
「今の、信じる?」
「一部は」
「一部?」
「寮母様が旧校舎を危険と判断していること。私たちを守る意思があること」
「それ以外は?」
「情報を隠しています」
「そうね」
ミリアは深く息を吐く。
「大人たちは皆、何かを隠しているのね」
「はい」
「嫌な学園ね」
「入学二日目です」
「それでも嫌になるには十分だわ」
二人は朝食へ向かった。
食堂では、昨日よりもさらに噂が広がっていた。
講堂の床が修復されたらしい。
祝福魔術の担当教師が取り調べを受けているらしい。
アルトはもう目を覚ましたらしい。
魔術適性検査は延期らしい。
セレスティア先生が負傷者の様子を見に行ったらしい。
どれが事実で、どれが噂か。
リゼは黙って聞き分ける。
重要なのは、アルトが目を覚ましたという情報。
確認が必要。
朝食後、リゼとミリアは学年主任室へ向かった。
女子寮から第一校舎へ向かう道には、昨日より明らかに教師の姿が多かった。警備強化。だが、配置に偏りがある。講堂と魔術棟周辺には厚いが、旧校舎方面は表向き人がいない。
逆に怪しい。
第一校舎二階、学年主任室。
扉の前で、ミリアが小さく息を吸った。
「行きましょう」
「はい」
中にはロウ教師と、学年主任の女性教師がいた。学年主任は四十代ほどで、鋭い目をした人物だった。机の上には書類が並び、昨夜の件に関する記録らしき紙も見える。
事情聴取は長かった。
なぜ外出したのか。
どうやって寮を出たのか。
なぜ講堂に入ったのか。
黒外套の人物をどこで見たのか。
何をしていたのか。
旧校舎では何を見たのか。
ミリアは一貫して、アルトを心配して医務室へ向かおうとした、道に迷った、物音に気づいた、と説明した。
リゼは、可能な限り事実だけを話した。
管理扉の鍵を開けた方法については、「扉が完全には閉まっていませんでした」とした。
これは嘘だった。
ミリアが一瞬こちらを見たが、何も言わなかった。
黒外套の人物が証拠を消していたこと。
旧校舎方面へ逃げたこと。
姿を見失ったこと。
それは話した。
灰銀の名は話さない。
学年主任は厳しい顔で聞いていた。
「あなたたちの行動は、重大な規則違反です」
「はい」
「ただし、不審者の存在については学園側でも確認が必要です。今回に限り、処分は訓告とします。ですが、次はありません」
「承知しました」
ミリアが答える。
リゼも頷く。
学年主任はリゼを見た。
「グレイスさん。あなたは特に、単独行動を慎むように」
「はい」
「その返事を信用してよいのですね」
リゼは一瞬黙った。
ミリアが隣で緊張する。
「可能な限り」
リゼは言った。
学年主任の眉が上がる。
ミリアが頭を抱えそうな気配を見せる。
ロウ教師は額を押さえた。
「グレイスさん」
学年主任の声が低くなる。
「はい、と答えなさい」
「はい」
「よろしい」
事情聴取が終わる頃には、昼近くになっていた。
部屋を出る直前、ロウ教師がリゼたちを呼び止めた。
「レインフォード君は、今日の午後には寮へ戻る予定だ」
リゼの意識が鋭くなる。
「容体は」
「火傷の処置は済んだ。しばらく右肩に痛みは残るだろうが、命に別状はない」
「面会は可能ですか」
言ってから、リゼは少し早すぎたと気づいた。
ロウ教師がこちらを見る。
ミリアがすぐに補う。
「同じ組ですし、昨日近くにいましたので……心配で」
ロウ教師は数秒考えた。
「短時間なら許可する。ただし医務室ではなく、午後に彼が教室へ来た時だ。医務担当から外出許可が出れば、一年C組に顔を出すことになっている」
「ありがとうございます」
ミリアが礼を言う。
リゼも軽く頭を下げた。
教室へ向かう廊下で、ミリアが小声で言った。
「会えるわね」
「はい」
「今度は何を聞くつもり?」
「彼が何を見たか。何を知っているか。自分が狙われた自覚があるか」
「直球は禁止」
「では、どう聞けば」
「まずは体調を心配する。怪我の痛みを聞く。昨日怖かったか聞く。それから、少しずつ」
「少しずつ」
「そう。尋問ではなく会話」
「難しいです」
「わかっているわ。だから私も一緒にいる」
「助かります」
ミリアは少し驚いたようにリゼを見た。
「今、素直に言ったわね」
「事実です」
「……そう」
彼女は少し嬉しそうに笑った。
一年C組の教室には、すでに数名の生徒がいた。
昨日の事件のせいで授業はまだ再開されていないが、担任からの連絡を待つため、生徒たちは昼前から集まり始めていた。
リゼとミリアが入ると、視線が集まる。
昨夜の件がもう噂になっているのかもしれない。
「ファルネーゼさん、昨日先生に呼ばれてたって本当?」
「グレイスさんも?」
「講堂で何かあったの?」
質問が飛ぶ。
ミリアが前に出た。
「少し先生からお話を聞かれただけよ。私たちも詳しいことは知らないの」
「でも、夜に外に出たって……」
「アルトさんのことが心配だったの。軽率だったわ。先生にも叱られたから、真似しないでね」
自然だった。
自分の失敗として処理し、相手の追及を柔らかく止める。
リゼは横で学習する。
真似できるかは不明。
教室内はまだ不安定だった。
アルトの席は空いている。
リゼはそれを見る。
午後に来る。
そこで接触。
彼が何を知っているか確認する。
それまで、待つ。
待機は苦手だった。
だが、必要だった。
昼過ぎ。
廊下が少しざわめいた。
教室の扉が開く。
医務担当の教師に付き添われて、アルト・レインフォードが入ってきた。
右肩には包帯が巻かれ、制服の上着は羽織っていない。顔色はまだ少し悪い。だが、自分の足で歩いている。
教室中の視線が彼へ向いた。
「レインフォード君!」
「大丈夫?」
「痛くない?」
「昨日、怖かったよね」
生徒たちが一斉に声をかける。
アルトは少し驚いたように立ち止まり、それから柔らかく笑った。
「ありがとう。大丈夫だよ。少し痛むけど、先生がちゃんと処置してくれたから」
その声は穏やかだった。
周囲を安心させるための声。
自分が傷ついたのに、先に相手を安心させる。
リゼはその様子を観察する。
アルトの目は、昨日と同じだった。
穏やか。
優しい。
そして、その奥に薄い諦めがある。
彼はリゼに気づいた。
目が合う。
ほんの一瞬。
アルトは小さく微笑んだ。
その微笑みは、教室の皆に向けるものとは少し違った。
感謝。
疑念。
そして、何かを確かめたいという意思。
リゼは席を立ちかけた。
だが、ミリアがそっと袖を引いた。
「ゆっくり」
小声で言う。
リゼは頷いた。
生徒たちの輪が少し落ち着くのを待つ。
医務担当の教師が注意する。
「レインフォード君はまだ安静が必要です。長く話し込まないように」
生徒たちは名残惜しそうに離れた。
アルトは自分の席へ向かう。
その途中で、リゼとミリアの方へ歩いてきた。
「リゼさん。ミリアさん」
彼は立ち止まる。
「昨日は、ありがとう」
ミリアが先に答えた。
「無事でよかったわ。肩は痛む?」
「少し。でも、大丈夫」
アルトはリゼを見る。
「君が手当てしてくれたんだよね」
「応急処置です」
「それでも、助かったよ」
「医務担当が適切に処置しました」
「君、感謝を受け取るのが下手だね」
アルトは少し笑った。
リゼは返答に困る。
ミリアが横から言う。
「そうなの。今、練習中よ」
「練習」
アルトが楽しそうに目を細める。
「じゃあ、もう一度言うね。ありがとう、リゼさん」
リゼは一拍置いた。
ミリアが横で小さく頷く。
正しい返答。
「どういたしまして」
リゼは言った。
アルトは満足そうに笑った。
だが、その笑みはすぐに少しだけ薄くなる。
「昨日の光」
彼は声を落とした。
「ただの事故じゃなかったよね」
ミリアが表情を固くする。
リゼはアルトを見た。
周囲には生徒がいる。
大声では話せない。
「なぜそう思うのですか」
リゼが尋ねる。
ミリアが小さく眉を動かした。
直球。
だが、アルトは逃げなかった。
「祝福魔術の光は、落ちる直前に形を変えた。花弁じゃなくて、針みたいに一点へ集まっていた。魔術理論の本で読んだことがある。指向性を与えた術式の動きに似ていた」
リゼは内心で評価を修正した。
アルトは、想定以上に魔術理論を理解している。
ただの被害者ではない。
「それに」
アルトは右肩に触れた。
「僕の方へ来た」
その声は静かだった。
「偶然じゃない気がする」
「以前にも、似たことが?」
リゼは聞いた。
アルトの目が一瞬だけ揺れる。
当たり。
ミリアも気づいた。
アルトはすぐには答えなかった。
やがて、少し困ったように笑う。
「どうしてそう思うの?」
「あなたは、昨日、驚き方が普通ではありませんでした」
「普通じゃない?」
「恐怖より、納得が先にありました」
アルトの表情から、笑みが消えた。
ミリアがリゼを見る。
踏み込みすぎ。
だが、もう遅い。
アルトは周囲を見回し、小さく言った。
「ここでは話しにくいね」
「場所を変えますか」
リゼが即座に言う。
ミリアが今度こそ袖を強く引いた。
「今は駄目。先生に見られているわ」
確かに、教室の前方でロウ教師がこちらを見ていた。
アルトも気づいている。
「放課後……は、今日はまだ外出制限があるんだっけ」
「はい」
ミリアが言う。
「無理に動くと、また叱られる人が増えるわ」
その言い方に、アルトが少し笑った。
「また?」
ミリアは視線を逸らす。
「少しね」
アルトは二人を見比べた。
「二人とも、何かあった?」
「何もありません」
リゼが即答した。
アルトはミリアを見る。
ミリアは微笑んだ。
「少しだけ、先生に叱られたの」
「そっか」
アルトはそれ以上追及しなかった。
だが、わかっている顔だった。
「じゃあ、また今度。僕も、少し聞きたいことがある」
彼はリゼを見る。
「君は、あの時、何を見ていたの?」
リゼは答えない。
アルトも答えを急がなかった。
「いつか、教えて」
そう言って、自分の席へ向かった。
リゼはその背中を見つめた。
護衛対象。
狙われる少年。
死に慣れた目をした同級生。
そして、自分に疑問を向ける者。
守るだけでは済まない。
彼は、隠されたものに気づく。
その知性が、彼自身をさらに危険にする可能性がある。
教室の窓から、午後の光が差し込んでいた。
穏やかな光。
昨日の雷とは違う。
だが、リゼの中の警戒は消えない。
その日の授業は結局、本格的には始まらなかった。
担任からの連絡と今後の予定確認だけで終わり、生徒たちは寮へ戻るよう指示された。
アルトは医務担当の教師に連れられ、男子寮方面へ向かう。
リゼはその背中を追いたかった。
だが、できない。
今はまだ。
女子寮に戻る途中、ミリアが隣で言った。
「アルトさん、何か知っているわね」
「はい」
「でも、全部ではない」
「はい」
「あなたと同じね」
リゼはミリアを見る。
「私は」
「あなたも、全部は知らないのでしょう?」
ミリアの言葉は静かだった。
リゼは少しだけ黙り、答えた。
「はい」
「なら、探すしかないわね」
「危険です」
「知っているわ」
「また叱られます」
「それは避けたいわね」
ミリアは小さく笑った。
「でも、今度はもう少し上手くやりましょう」
リゼは、その言葉に返答しなかった。
上手くやる。
潜入任務において重要。
だが、ミリアの言う“上手く”は、リゼのそれとは少し違うのだろう。
女子寮へ戻ると、廊下の掲示板に新しい連絡が貼られていた。
講堂封鎖は継続。
魔術適性検査は二日後に延期。
明日から一部授業再開。
生徒は単独行動を避けること。
リゼは最後の一文を見た。
単独行動を避けること。
これまでなら、面倒な制限として処理しただろう。
だが今は、隣にミリアがいる。
そして、少し離れた場所にはアルトがいる。
守るべき対象。
巻き込まれた同室者。
疑念を抱く少年。
敵は学園の中にいる。
自分の名を知っている。
そして、次の機会を狙っている。
部屋へ戻った後、リゼは机の中を確認しようとして、動きを止めた。
引き出しが、わずかに開いている。
朝、出る前には閉めた。
ミリアが開けた可能性。
低い。
彼女は勝手にリゼの机を触らない。
寮母の点検。
可能性あり。
だが、点検なら部屋全体に痕跡が出る。
これは違う。
リゼはミリアへ手で合図した。
動くな。
ミリアはすぐに表情を変え、入口付近で止まる。
リゼはゆっくり机へ近づいた。
罠の可能性。
引き出しの隙間。
糸なし。
魔力反応、微弱。
爆発物の気配なし。
毒針、なし。
慎重に引き出しを開ける。
中に、一枚の紙が入っていた。
白い紙。
学園で支給されたものではない。
薄く、上質で、何の匂いもしない。
そこには、短く文字が書かれていた。
護衛対象から目を離すな。
次は外さない。
ミリアが後ろから息を呑んだ。
「それ……」
リゼは紙を見つめた。
護衛対象。
その言葉を知っている。
つまり、敵はリゼがアルトの護衛であることを知っている。
あるいは、そう推測している。
どちらにせよ、最悪に近い。
リゼは紙を握り潰さなかった。
証拠だ。
怒りで壊してはいけない。
彼女は静かに紙を机の上へ置き、文字の筆跡を見た。
癖がない。
意図的に整えられている。
性別も年齢も推測しにくい。
インクは黒。
魔術反応はほとんどない。
だが、紙の端に、ごく小さな黒い繊維が付着していた。
リゼはそれを見た。
旧校舎。
講堂二階席。
女子寮の花壇。
そして今、自分の机。
繋がった。
敵は、寮の中へ入れる。
この部屋に入れる。
ミリアが震える声で言った。
「リゼさん……護衛対象って、何?」
リゼは答えられなかった。
部屋の中に、夕方の光が差し込んでいる。
穏やかな学園の一室。
二つのベッド。
二つの机。
友達になる条件を書いた紙。
ミリアにもらった便箋。
そして、机の上の脅迫文。
リゼはその紙を見下ろしたまま、静かに言った。
「今は、言えません」
ミリアは黙った。
怒るかもしれない。
問い詰めるかもしれない。
だが、彼女はそうしなかった。
代わりに、扉へ歩き、鍵を確認した。
一回。
それから、窓の鍵も確認した。
一回。
リゼが彼女を見る。
ミリアは振り返った。
顔は青ざめている。
それでも、声は震えていなかった。
「今は言えないのね」
「はい」
「でも、アルトさんが危ないのね」
「はい」
「そして、あなたも危ない」
リゼは少しだけ間を置いた。
「はい」
ミリアは深く息を吸った。
「わかったわ」
彼女は机の上の脅迫文を見た。
「なら、まずはこれを隠しましょう。誰かに見られたら困るのでしょう?」
「はい」
「それから、今夜は交代で起きる」
「あなたには睡眠が必要です」
「あなたにも必要よ」
「私は」
「交代で」
ミリアの声には、有無を言わせない強さがあった。
リゼは少しだけ沈黙し、頷いた。
「わかりました」
ミリアは小さく息を吐いた。
「リゼさん」
「はい」
「私はまだ、あなたが何者なのか知らない。でも、一つだけわかるわ」
「何ですか」
「あなたは、誰かを守ろうとしている」
リゼは答えなかった。
ミリアは続ける。
「なら、私もできることをする」
夕暮れの光が、ゆっくりと部屋から消えていく。
学園の鐘が鳴った。
穏やかな一日の終わりを告げる音。
だが、リゼにはそれが戦場の合図に聞こえた。
敵は近い。
対象は狙われている。
自分の正体は知られている。
そして、もう一人、何も知らなかったはずの少女が、その戦場の入口に立っている。
リゼは机の上の脅迫文を、丁寧に折り畳んだ。
次は外さない。
ならば、こちらも外さない。
守るべきものを。
見失わない。




