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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第1章 第7話:旧校舎の影


 夜の学園に、三人分の足音だけが響いていた。


 先頭を歩くロウ教師の背中は硬い。肩に力が入り、右手には魔術灯を握っている。灯りは青白く、石畳の上に三人の影を長く引き伸ばしていた。


 その後ろを、リゼとミリアが並んで歩く。


 ミリアは何度も何かを言いかけて、そのたびに口を閉じていた。靴を履き直す余裕もなく、片手に持ったまま歩いている。薄い靴下は夜露を吸って、つま先のあたりが濡れていた。


 それでも、彼女は文句を言わなかった。


 リゼはそのことを、少し意外に思っていた。


 普通の貴族令嬢なら、夜中に靴下のまま外を歩くことにもっと動揺するのではないか。少なくとも、不満を口にするのではないか。ミリア・ファルネーゼは、怒る時は怒るし、呆れる時は呆れる。だが、本当に危険な時には黙って動ける。


 それは、予想よりも有用な特性だった。


 ロウ教師は一度だけ振り返った。


「二人とも、怪我はないな」


「はい」


 ミリアが答える。


 リゼも頷いた。


「ありません」


「……本当に、どうしてこんなことをした」


 ロウ教師の声は、怒鳴る寸前で抑えられていた。


「寮内待機の指示は聞いていただろう。講堂は封鎖中だ。教師の許可なく近づくことも、まして入り込むことも許されない」


「申し訳ありません」


 ミリアがすぐに頭を下げる。


「アルトさんの容体が気になって、医務室の場所を確認しようとして……」


「医務室と中央講堂は反対方向だ」


 ロウ教師の指摘は鋭かった。


 ミリアの呼吸が一瞬止まる。


 リゼは横目で彼女を見た。


 ミリアはすぐに言葉を繋いだ。


「夜の校内に不慣れで、道を間違えました。途中で講堂の方から物音が聞こえて、怖くなって様子を見に……」


「怖くなって、封鎖された講堂へ入ったのか」


「……申し訳ありません」


 嘘は完全ではない。


 だが、ミリアは堂々としていた。謝るべきところは謝り、言い訳しすぎない。自分の家名も使わない。こちらを巻き込まない形で、できるだけ自然に落とし込もうとしている。


 リゼにはできない芸当だった。


 ロウ教師は深いため息をついた。


「ファルネーゼさん。君は聡明な生徒だと聞いている。ならば、わかるはずだ。今日の学園は通常時ではない。生徒が勝手に動けば、こちらは守るべき対象を増やすことになる」


「はい」


「グレイスさん」


 今度はリゼへ視線が向く。


「君はどうだ」


「はい」


「君は、黒い外套の人物を見たと言ったな」


「はい」


「講堂で?」


「はい」


「どこにいた」


「一階の焦げ跡付近です」


「何をしていた」


「床に何かを撒いていました。魔術式の残滓を消していた可能性があります」


 ミリアが横で小さく息を吸った。


 ロウ教師の目つきが変わる。


「なぜ、それがわかる」


 失言。


 リゼは一瞬で判断した。


 ここで魔術式に詳しすぎる説明をすれば不自然。だが、完全に誤魔化すには遅い。


「焦げ跡が薄くなっていました」


 リゼは答えた。


「撒かれた粉が光り、その後、床の痕が消えたように見えました」


 事実。


 分析ではなく、観察結果として言う。


 ロウ教師は黙った。


 魔術灯の光が彼の顔を照らしている。


 疑念。


 苛立ち。


 そして、焦り。


 それが混じっていた。


「君たちは、他に誰かを見たか」


「いいえ」


 ミリアが答える。


 リゼは一拍置いた。


 旧校舎の闇の中で声を聞いた。


 灰銀、と呼ばれた。


 だが、それは言えない。


「姿は確認できませんでした」


 リゼは言った。


 嘘ではない。


 声を聞いたとは言っていない。


 ロウ教師はリゼをじっと見た。


 何かを察している。


 だが、確証はない。


「旧校舎の方へ逃げたのだな」


「はい」


「立入禁止区域だ」


「承知しています」


「承知していて追ったのか」


「不審者を見失う可能性がありました」


「君は教師でも警備員でもない」


「はい」


「なら、追うべきではなかった」


「はい」


 リゼは素直に頷いた。


 ロウ教師の眉がわずかに動く。


 反論されると思っていたのだろう。


 だが、彼の言うことは正しい。


 学生としては、追うべきではなかった。


 護衛任務としては、追う必要があった。


 両方が同時に成立している。


 問題は、どちらを表に出すかだけだった。


「君は……」


 ロウ教師は何か言いかけた。


 だが、その先を飲み込んだ。


「いや、今はいい。まず寮へ戻る」


 女子第一寮が見えてきた。


 夜の寮は、昼とは違う静けさをまとっている。窓の多くは暗く、寮母室の灯りだけが一階の端に残っていた。玄関の魔術灯が揺れ、低い柵の影が地面に細く伸びている。


 正面玄関の前には、寮母が立っていた。


 腕を組み、厳しい顔で。


 リゼはその姿を見た瞬間、ミリアの歩幅がわずかに乱れるのを感じた。


 ロウ教師も足を止めそうになったが、そのまま進んだ。


「夜分に失礼します、マルタ寮母」


 寮母の名はマルタというらしい。


 彼女はロウ教師を一瞥し、それからリゼとミリアを見た。


「事情は?」


「講堂付近で二人を見つけました」


 寮母の眉が深く寄る。


「寮内待機を命じたはずですが」


「はい」


 ミリアが頭を下げる。


「申し訳ありません」


 リゼも続く。


「申し訳ありません」


 寮母はしばらく二人を見ていた。


 特に、リゼを長く見た。


 その目は、単に規則違反を責めるものではなかった。


 もっと別の何か。


 警戒。


 あるいは確認。


「ロウ先生」


 寮母が言う。


「二人は私が預かります。詳細は明朝、学年主任へ報告を」


「お願いします。ただ……」


 ロウ教師は声を落とした。


「黒い外套の不審者がいた可能性があります。講堂内で証拠を消していたかもしれない」


 寮母の表情が、ほんのわずかに変わった。


 リゼは見逃さない。


 今朝、黒い繊維のついた枝を見せた時と同じ反応。


 知っている。


 この寮母は、黒い外套か、それに関わる何かを知っている。


「承知しました」


 寮母は短く答えた。


「学園警備へ共有します」


「お願いします」


 ロウ教師はリゼとミリアへ向き直った。


「今日は部屋に戻れ。明朝、改めて話を聞く。二度と勝手な行動はしないように」


「はい」


 ミリアが答える。


 リゼも頷いた。


 ロウ教師は一度だけ旧校舎の方角を見た。


 それから、足早に去っていった。


 残された二人の前に、寮母が立つ。


 空気がさらに重くなった。


「中へ」


 寮母の声は低かった。


 二人は寮内へ入った。


 玄関の扉が閉じる。


 夜の冷たい空気が遮断され、代わりに寮の中の石鹸と木材の匂いが戻ってきた。だが、安心感はなかった。


 寮母は二人をその場に立たせたまま、静かに言った。


「消灯後の外出は禁止です。校舎への移動も禁止。講堂への接近も禁止。旧校舎方面は、特に厳重な立入禁止区域です」


「はい」


「理由はわかりますね」


 ミリアが答える。


「危険だからです」


「そうです」


 寮母の視線がリゼへ移る。


「グレイスさん。あなたはどう考えますか」


「危険区域には、危険要因があります」


「それを確認するのは、生徒の役目ではありません」


「はい」


「わかっていて行ったのですね」


「はい」


 ミリアが横で少し慌てた。


 リゼの返答は正直すぎる。


 だが、寮母には小細工より正直な方が通る可能性がある。少なくとも、彼女は表面的な言い訳に騙される相手ではない。


 寮母は深く息を吐いた。


「あなたは、何を見たのですか」


 リゼは答えを選ぶ。


「黒い外套の人物です」


「それだけですか」


「講堂の焦げ跡を消していました」


「他には」


 寮母の目が鋭い。


 旧校舎で聞いた声。


 灰銀。


 それを聞き出そうとしているのか。


 それとも、黒い繊維の件と繋げようとしているのか。


「旧校舎付近で姿を見失いました」


「声は?」


 リゼの内側で警戒が跳ねた。


 なぜ、声について聞く。


 見たか、追ったかではなく、声。


 寮母は知っている。


 黒外套の人物が、接触時に何かを言う可能性を。


 ミリアもその違和感に気づいたらしく、寮母を見た。


 リゼは短く答えた。


「聞こえました」


「何と」


 沈黙。


 リゼは寮母の目を見た。


 この人間は信用できるか。


 寮の管理者。


 生徒の安全を守る立場。


 だが、学園側の人間でもある。


 事件は事故として処理されようとしている。


 なら、彼女も情報を隠す側かもしれない。


「追ってくるな、と」


 リゼは言った。


 灰銀のことは伏せた。


 寮母の目がわずかに細くなる。


「それだけですか」


「はい」


 寮母はしばらくリゼを見つめた。


 嘘に気づいているかもしれない。


 だが、追及はしなかった。


「部屋へ戻りなさい。今夜は扉を内側から施錠し、窓を開けないこと」


「はい」


 ミリアが答える。


「グレイスさん」


「はい」


「あなたは、特にです」


「承知しました」


「いいえ、承知ではなく、従いなさい」


 リゼは一拍置いて答えた。


「はい」


 寮母は二人を解放した。


 三階へ上がる間、ミリアは黙っていた。


 廊下は暗く、魔術灯の光だけが足元を照らしている。寝静まった部屋の向こうから、かすかな寝息や寝返りの音が聞こえた。新入生たちは眠っている。


 今日、同じ講堂で雷を見たはずなのに。


 恐怖に震えたはずなのに。


 眠れる者は眠れる。


 リゼには、それが少し不思議だった。


 三〇七号室へ戻ると、ミリアは扉を閉め、鍵をかけた。


 リゼが確認しようとすると、彼女は先に言った。


「一回だけ」


「はい」


 リゼは鍵を一度だけ確認した。


 窓も一度だけ確認する。


 異常なし。


 ミリアは靴を置き、ベッドに腰を下ろした。


 靴下は泥で汚れている。彼女はそれを見て、小さくため息をついた。


「初日から、こんなことになるなんて思わなかったわ」


「正確には二日目です」


「今はそういう返しを求めていないわ」


「すみません」


 ミリアは額に手を当てた。


 疲れている。


 精神的にも、身体的にも。


 それでも彼女の目は眠気だけではなく、強い問いを含んでいた。


「さっき、嘘をついたわね」


 リゼは黙った。


「寮母様に。声の内容、全部は言わなかった」


「はい」


 否定しなかった。


 ミリアは唇を引き結ぶ。


「何と言われたの?」


 答えられない。


 そう言えば済む。


 だが、ミリアはもう巻き込まれている。黒い外套を見た。旧校舎の痕跡も見た。寮母やセレスティアへの疑念も共有している。


 それでも、灰銀の名だけは別だ。


 それを告げれば、リゼ・グレイスという偽名が揺らぐ。


 ミリアは賢い。


 灰銀という呼び名を知らなくても、そこから何かを探ろうとするだろう。


「私に関わることです」


 リゼは言った。


「だから言えないの?」


「はい」


「危険なこと?」


「はい」


 ミリアはしばらく黙っていた。


 怒るかと思った。


 だが、彼女は怒鳴らなかった。


 代わりに、ひどく静かな声で言った。


「あなたは、私を守ろうとして隠しているの?」


 リゼは少し考えた。


 守る。


 そうなのかもしれない。


 だが、それだけではない。


 自分の正体を隠すためでもある。


 任務のため。


 アルトを守るため。


 そして、自分が何者なのかを知られたくないため。


「複数の理由があります」


「その中に、私のためは含まれる?」


「はい」


 ミリアの表情が少しだけ緩んだ。


 しかし、すぐに真剣な顔へ戻る。


「なら、今は聞かないわ」


 意外な返答だった。


 リゼはミリアを見る。


「よいのですか」


「よくはないわ。でも、あなたが言えないことを無理に聞いても、きっと余計に遠ざかるでしょう?」


「遠ざかる」


「ええ」


 ミリアは汚れた靴下を脱ぎ、替えのものを取り出した。


 その動作はいつもより少し乱れている。


「ただし、これだけは約束して」


「内容によります」


「あなたが一人でいなくなる時は、せめて置き手紙を残すこと」


 リゼは瞬きをした。


「置き手紙」


「そう。あなた、何も言わずに消えそうだから」


「任務上、必要な場合は」


「その任務という言葉、時々出るわね」


 しまった。


 リゼは口を閉じた。


 ミリアは見逃さなかったが、追及しなかった。


「とにかく、消えるなら何か残して。そうしたら、私はどこを探せばいいか考えられる」


「あなたが探す必要はありません」


「私が探したいの」


「危険です」


「知っているわ」


 何度も繰り返した会話。


 危険。


 知っている。


 それでも。


 ミリアはその先に進もうとする。


 リゼには、それが理解しきれない。


 だが、もう否定するだけでは止まらないこともわかっていた。


「努力します」


「努力ではなく約束」


「……可能な限り、約束します」


「今はそれで妥協するわ」


 ミリアは疲れたように笑った。


 その後、二人は眠る準備をした。


 と言っても、リゼは眠るつもりがなかった。


 旧校舎の声。


 灰銀。


 黒外套の人物。


 講堂の焦げ跡を消していた粉。


 二階席の黒い繊維。


 女子寮の靴跡。


 寮母の反応。


 セレスティアの言葉。


 情報が多い。


 整理が必要。


 ミリアがベッドに入った後、リゼは机に向かった。


 小さな灯りを最小限に絞り、紙を広げる。


 記録。


 証拠。


 可能性。


 まず、二階席で拾った黒い繊維を紙の上に置いた。細く、乾いた布片。色は黒。昨夜、女子寮の花壇の枝に絡んでいたものと似ているが、完全一致かは不明。明るい場所で確認が必要。


 次に、靴跡。


 女子寮花壇。


 二階席右奥。


 旧校舎裏手。


 斜め格子状の靴底。


 軍用に近いが王国軍標準ではない。


 魔術師用の外靴か、警備用か、特殊部隊用か。


 そして、声。


 灰銀。


 リゼはその文字を書かなかった。


 紙に残すのは危険。


 頭の中にだけ置く。


 灰銀の戦乙女。


 王都の広場で語られる英雄。


 実物の顔は広く知られていない。情報操作により、彼女の姿は曖昧な伝説として処理されている。


 しかし、軍関係者なら知っている者もいる。


 戦場で直接見た者なら、灰銀の髪と年齢から推測できる可能性がある。


 元傭兵部隊の関係者。


 王国軍上層部。


 敵国残党。


 戦場で彼女と交戦した者。


 あるいは、彼女を学園へ送り込んだ側の誰か。


 リゼはペンを止めた。


 学園へ送り込んだ側。


 王都のクラウス。


 大佐。


 軍上層部。


 彼らは味方か。


 少なくとも、任務を与えた側ではある。


 だが、味方とは限らない。


 護衛対象アルト・レインフォードの正体も知らされていない。敵勢力も不明。任務の全体像も開示されていない。


 情報が足りない。


 それは、敵に対してだけではなかった。


「リゼさん」


 ベッドから声がした。


 ミリアはまだ起きていた。


「はい」


「寝ないの?」


「もう少し」


「それは、朝までという意味?」


「可能性はあります」


「駄目」


「睡眠は不要ではありませんが、今は情報整理が」


「駄目」


 ミリアは半身を起こした。


 髪が少し乱れている。


 顔には疲れがあるのに、目だけはしっかりしていた。


「あなた、今日ずっと動いていたでしょう。入学式であの雷を見て、夜に講堂まで行って、旧校舎の方まで走って。普通なら倒れてもおかしくないわ」


「普通ではありません」


「そこを誇らない」


「誇ってはいません」


「なら寝る」


「しかし」


「情報整理は明日の朝でもできるわ」


「証拠の劣化が」


「その布片は逃げないわ」


 ミリアはベッドから降り、リゼの机の前に来た。


 紙を覗き込む。


 黒い繊維には触れない。


 そのあたりの慎重さは、もう身についてきている。


「あなたが倒れたら、誰が調べるの?」


「倒れません」


「そう言う人ほど倒れるのよ」


「経験則ですか」


「兄がそうだったわ。徹夜で魔術研究をして、翌朝、階段から落ちたの」


「それは警戒不足です」


「違う。寝不足よ」


 ミリアはリゼのペンを取り上げた。


 リゼは反射的に手を伸ばしかけ、止めた。


 ミリアはそれを見て、少しだけ微笑む。


「今、奪い返そうとしたでしょう」


「はい」


「我慢したのね」


「はい」


「偉いわ」


 偉い。


 その評価も扱いに困る。


 戦場では、我慢したことを褒められることはなかった。できて当然か、できなければ死ぬだけだった。


「寝ましょう」


 ミリアは言った。


「少なくとも、横になりなさい。目を閉じるだけでもいいわ」


「あなたも眠れていません」


「ええ。だから一緒に寝るの」


「同時に眠ると、警戒が」


「ここは女子寮」


「昨夜、靴跡がありました」


「窓の鍵は閉めた。扉も閉めた。寮母様も起きている。何かあれば呼び鈴もある」


「寮母が信用できるとは」


「完全にはできない。でも、今は休むことも必要」


 ミリアの声は、いつもより柔らかかった。


「リゼさん。これは命令ではなく、お願い」


 お願い。


 命令ではない。


 なら、拒否もできる。


 だが、ミリアの目を見ていると、拒否が難しかった。


 任務上の合理性を考える。


 睡眠不足は判断力を低下させる。


 明日は教師から事情聴取がある可能性が高い。


 アルトの容体確認も必要。


 黒外套の痕跡も整理しなければならない。


 つまり、休息は必要。


「わかりました」


 リゼはペンを置いた。


 ミリアは安心したように笑った。


「よろしい」


 二人はそれぞれベッドに入った。


 灯りが落ちる。


 部屋は月明かりだけになる。


 リゼは横になり、天井を見た。


 今日も静かだった。


 だが、昨日ほどではない。


 隣のベッドにミリアがいる。


 ミリアの呼吸が聞こえる。


 完全な安心ではない。


 けれど、無音ではない。


 それが少しだけ、奇妙に感じられた。


 リゼは目を閉じる。


 旧校舎の声が蘇る。


 追ってくるな。


 学園で英雄ごっこはやめておけ。


 灰銀。


 灰銀。


 灰銀。


 その呼び名は、雨と血と灰の匂いを連れてくる。


 王都の者たちは、その名を美しいもののように語る。


 灰銀の戦乙女。


 戦場を駆ける少女英雄。


 味方を救い、敵を斬り、王国に勝利をもたらした剣。


 けれど、リゼが覚えているのは違う。


 泥に沈む軍靴。


 焼けた髪。


 腹を裂かれて泣いていた敵兵。


 仲間の名前を呼んでも返事がなかった夜。


 命令だから斬った。


 生きるために斬った。


 斬らなければ死んでいた。


 それだけだった。


 英雄ではない。


 戦乙女でもない。


 ただ、生き残った子供だった。


 目を閉じたまま、リゼは拳を握った。


 灰銀と呼ばれても、振り返るな。


 大佐の声。


 だが、今の自分はどうだった。


 旧校舎の闇で、その名を聞いた瞬間、足を止めた。


 反応した。


 敵に、それを見せた。


 失態。


 次は反応しない。


 そう決める。


 だが、心は命令ほど簡単には従わなかった。


 眠りは浅かった。


 何度も目が覚めた。


 そのたびに、リゼは部屋を確認した。


 窓。


 扉。


 ミリア。


 机。


 黒い繊維を包んだ紙。


 異常なし。


 夜明け前、ほんの短い時間だけ深く落ちた。


 夢を見た。


 雨の戦場。


 灰色の空。


 誰かが叫んでいる。


 リゼット。


 リゼット。


 灰銀。


 振り返るな。


 だが、夢の中の彼女は振り返ってしまう。


 そこにいたのは、顔のない兵士だった。


 味方か敵かもわからない。


 その兵士は黒い外套を着ていて、手の中に学園の入学証を握っていた。


 目が覚めた。


 朝だった。


 鳥の声。


 鐘の音。


 遠くの食堂から漂うパンの匂い。


 リゼはすぐに起き上がる。


 隣のベッドで、ミリアも目を開けた。


 彼女はまだ眠そうだったが、リゼを見るなり眉を寄せた。


「また、あまり寝ていない顔ね」


「睡眠は取りました」


「量の問題よ」


「短時間でも休息は可能です」


「そのうち、ちゃんと寝る方法を教えるわ」


「訓練ですか」


「生活です」


 ミリアは欠伸を噛み殺しながら起き上がった。


 二人は支度を始める。


 リゼは制服に着替え、首元のリボンで止まった。


 ミリアが黙って近づき、手早く結ぶ。


 昨日と同じ。


 ただし、今日のミリアは何も言わなかった。


 リゼも礼を言った。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 そのやり取りが、わずかに自然になっている。


 リゼはそれに気づいたが、言葉にはしなかった。


 朝食前、扉が叩かれた。


 リゼとミリアは同時に動きを止める。


「グレイスさん、ファルネーゼさん。起きていますか」


 寮母の声だった。


 ミリアが扉を開ける。


 寮母が立っていた。


 昨日と同じ厳しい顔。


 だが、その手には一枚の紙があった。


「朝食後、学年主任室へ来るように。ロウ先生と学年主任がお話を聞きます」


「はい」


 ミリアが答える。


 寮母はリゼを見た。


「グレイスさん」


「はい」


「昨夜の件で、あなたの言動には確認すべき点が多くあります」


「はい」


「ですが、その前に一つだけ」


 寮母は声を落とした。


「旧校舎には近づいてはいけません。どんな理由があっても」


 リゼは寮母を見る。


 それは規則としての警告ではなかった。


 もっと切実なもの。


 まるで、過去に何かを失った者の声だった。


「理由を聞いても?」


「今は答えられません」


「危険要因は何ですか」


「答えられません」


「では、判断できません」


 寮母の目が厳しくなる。


「判断するのはあなたではありません」


「自分の安全に関わります」


「だからこそ、近づくなと言っています」


 沈黙。


 ミリアが不安そうに二人を見ている。


 寮母は小さく息を吐いた。


「あなたが何を背負っているのか、私は知りません」


 リゼの指先がわずかに動く。


「ですが、生徒である以上、この寮にいる限り、私はあなたを守る責任があります」


 守る。


 その言葉が、思いのほか重く響いた。


 寮母の目には嘘がない。


 少なくとも、その言葉に限っては。


「旧校舎には、近づかないこと。いいですね」


 リゼは少しだけ間を置いた。


「はい」


 寮母は頷き、去っていった。


 扉が閉まる。


 ミリアが小声で言った。


「今の、信じる?」


「一部は」


「一部?」


「寮母様が旧校舎を危険と判断していること。私たちを守る意思があること」


「それ以外は?」


「情報を隠しています」


「そうね」


 ミリアは深く息を吐く。


「大人たちは皆、何かを隠しているのね」


「はい」


「嫌な学園ね」


「入学二日目です」


「それでも嫌になるには十分だわ」


 二人は朝食へ向かった。


 食堂では、昨日よりもさらに噂が広がっていた。


 講堂の床が修復されたらしい。


 祝福魔術の担当教師が取り調べを受けているらしい。


 アルトはもう目を覚ましたらしい。


 魔術適性検査は延期らしい。


 セレスティア先生が負傷者の様子を見に行ったらしい。


 どれが事実で、どれが噂か。


 リゼは黙って聞き分ける。


 重要なのは、アルトが目を覚ましたという情報。


 確認が必要。


 朝食後、リゼとミリアは学年主任室へ向かった。


 女子寮から第一校舎へ向かう道には、昨日より明らかに教師の姿が多かった。警備強化。だが、配置に偏りがある。講堂と魔術棟周辺には厚いが、旧校舎方面は表向き人がいない。


 逆に怪しい。


 第一校舎二階、学年主任室。


 扉の前で、ミリアが小さく息を吸った。


「行きましょう」


「はい」


 中にはロウ教師と、学年主任の女性教師がいた。学年主任は四十代ほどで、鋭い目をした人物だった。机の上には書類が並び、昨夜の件に関する記録らしき紙も見える。


 事情聴取は長かった。


 なぜ外出したのか。


 どうやって寮を出たのか。


 なぜ講堂に入ったのか。


 黒外套の人物をどこで見たのか。


 何をしていたのか。


 旧校舎では何を見たのか。


 ミリアは一貫して、アルトを心配して医務室へ向かおうとした、道に迷った、物音に気づいた、と説明した。


 リゼは、可能な限り事実だけを話した。


 管理扉の鍵を開けた方法については、「扉が完全には閉まっていませんでした」とした。


 これは嘘だった。


 ミリアが一瞬こちらを見たが、何も言わなかった。


 黒外套の人物が証拠を消していたこと。


 旧校舎方面へ逃げたこと。


 姿を見失ったこと。


 それは話した。


 灰銀の名は話さない。


 学年主任は厳しい顔で聞いていた。


「あなたたちの行動は、重大な規則違反です」


「はい」


「ただし、不審者の存在については学園側でも確認が必要です。今回に限り、処分は訓告とします。ですが、次はありません」


「承知しました」


 ミリアが答える。


 リゼも頷く。


 学年主任はリゼを見た。


「グレイスさん。あなたは特に、単独行動を慎むように」


「はい」


「その返事を信用してよいのですね」


 リゼは一瞬黙った。


 ミリアが隣で緊張する。


「可能な限り」


 リゼは言った。


 学年主任の眉が上がる。


 ミリアが頭を抱えそうな気配を見せる。


 ロウ教師は額を押さえた。


「グレイスさん」


 学年主任の声が低くなる。


「はい、と答えなさい」


「はい」


「よろしい」


 事情聴取が終わる頃には、昼近くになっていた。


 部屋を出る直前、ロウ教師がリゼたちを呼び止めた。


「レインフォード君は、今日の午後には寮へ戻る予定だ」


 リゼの意識が鋭くなる。


「容体は」


「火傷の処置は済んだ。しばらく右肩に痛みは残るだろうが、命に別状はない」


「面会は可能ですか」


 言ってから、リゼは少し早すぎたと気づいた。


 ロウ教師がこちらを見る。


 ミリアがすぐに補う。


「同じ組ですし、昨日近くにいましたので……心配で」


 ロウ教師は数秒考えた。


「短時間なら許可する。ただし医務室ではなく、午後に彼が教室へ来た時だ。医務担当から外出許可が出れば、一年C組に顔を出すことになっている」


「ありがとうございます」


 ミリアが礼を言う。


 リゼも軽く頭を下げた。


 教室へ向かう廊下で、ミリアが小声で言った。


「会えるわね」


「はい」


「今度は何を聞くつもり?」


「彼が何を見たか。何を知っているか。自分が狙われた自覚があるか」


「直球は禁止」


「では、どう聞けば」


「まずは体調を心配する。怪我の痛みを聞く。昨日怖かったか聞く。それから、少しずつ」


「少しずつ」


「そう。尋問ではなく会話」


「難しいです」


「わかっているわ。だから私も一緒にいる」


「助かります」


 ミリアは少し驚いたようにリゼを見た。


「今、素直に言ったわね」


「事実です」


「……そう」


 彼女は少し嬉しそうに笑った。


 一年C組の教室には、すでに数名の生徒がいた。


 昨日の事件のせいで授業はまだ再開されていないが、担任からの連絡を待つため、生徒たちは昼前から集まり始めていた。


 リゼとミリアが入ると、視線が集まる。


 昨夜の件がもう噂になっているのかもしれない。


「ファルネーゼさん、昨日先生に呼ばれてたって本当?」


「グレイスさんも?」


「講堂で何かあったの?」


 質問が飛ぶ。


 ミリアが前に出た。


「少し先生からお話を聞かれただけよ。私たちも詳しいことは知らないの」


「でも、夜に外に出たって……」


「アルトさんのことが心配だったの。軽率だったわ。先生にも叱られたから、真似しないでね」


 自然だった。


 自分の失敗として処理し、相手の追及を柔らかく止める。


 リゼは横で学習する。


 真似できるかは不明。


 教室内はまだ不安定だった。


 アルトの席は空いている。


 リゼはそれを見る。


 午後に来る。


 そこで接触。


 彼が何を知っているか確認する。


 それまで、待つ。


 待機は苦手だった。


 だが、必要だった。


 昼過ぎ。


 廊下が少しざわめいた。


 教室の扉が開く。


 医務担当の教師に付き添われて、アルト・レインフォードが入ってきた。


 右肩には包帯が巻かれ、制服の上着は羽織っていない。顔色はまだ少し悪い。だが、自分の足で歩いている。


 教室中の視線が彼へ向いた。


「レインフォード君!」


「大丈夫?」


「痛くない?」


「昨日、怖かったよね」


 生徒たちが一斉に声をかける。


 アルトは少し驚いたように立ち止まり、それから柔らかく笑った。


「ありがとう。大丈夫だよ。少し痛むけど、先生がちゃんと処置してくれたから」


 その声は穏やかだった。


 周囲を安心させるための声。


 自分が傷ついたのに、先に相手を安心させる。


 リゼはその様子を観察する。


 アルトの目は、昨日と同じだった。


 穏やか。


 優しい。


 そして、その奥に薄い諦めがある。


 彼はリゼに気づいた。


 目が合う。


 ほんの一瞬。


 アルトは小さく微笑んだ。


 その微笑みは、教室の皆に向けるものとは少し違った。


 感謝。


 疑念。


 そして、何かを確かめたいという意思。


 リゼは席を立ちかけた。


 だが、ミリアがそっと袖を引いた。


「ゆっくり」


 小声で言う。


 リゼは頷いた。


 生徒たちの輪が少し落ち着くのを待つ。


 医務担当の教師が注意する。


「レインフォード君はまだ安静が必要です。長く話し込まないように」


 生徒たちは名残惜しそうに離れた。


 アルトは自分の席へ向かう。


 その途中で、リゼとミリアの方へ歩いてきた。


「リゼさん。ミリアさん」


 彼は立ち止まる。


「昨日は、ありがとう」


 ミリアが先に答えた。


「無事でよかったわ。肩は痛む?」


「少し。でも、大丈夫」


 アルトはリゼを見る。


「君が手当てしてくれたんだよね」


「応急処置です」


「それでも、助かったよ」


「医務担当が適切に処置しました」


「君、感謝を受け取るのが下手だね」


 アルトは少し笑った。


 リゼは返答に困る。


 ミリアが横から言う。


「そうなの。今、練習中よ」


「練習」


 アルトが楽しそうに目を細める。


「じゃあ、もう一度言うね。ありがとう、リゼさん」


 リゼは一拍置いた。


 ミリアが横で小さく頷く。


 正しい返答。


「どういたしまして」


 リゼは言った。


 アルトは満足そうに笑った。


 だが、その笑みはすぐに少しだけ薄くなる。


「昨日の光」


 彼は声を落とした。


「ただの事故じゃなかったよね」


 ミリアが表情を固くする。


 リゼはアルトを見た。


 周囲には生徒がいる。


 大声では話せない。


「なぜそう思うのですか」


 リゼが尋ねる。


 ミリアが小さく眉を動かした。


 直球。


 だが、アルトは逃げなかった。


「祝福魔術の光は、落ちる直前に形を変えた。花弁じゃなくて、針みたいに一点へ集まっていた。魔術理論の本で読んだことがある。指向性を与えた術式の動きに似ていた」


 リゼは内心で評価を修正した。


 アルトは、想定以上に魔術理論を理解している。


 ただの被害者ではない。


「それに」


 アルトは右肩に触れた。


「僕の方へ来た」


 その声は静かだった。


「偶然じゃない気がする」


「以前にも、似たことが?」


 リゼは聞いた。


 アルトの目が一瞬だけ揺れる。


 当たり。


 ミリアも気づいた。


 アルトはすぐには答えなかった。


 やがて、少し困ったように笑う。


「どうしてそう思うの?」


「あなたは、昨日、驚き方が普通ではありませんでした」


「普通じゃない?」


「恐怖より、納得が先にありました」


 アルトの表情から、笑みが消えた。


 ミリアがリゼを見る。


 踏み込みすぎ。


 だが、もう遅い。


 アルトは周囲を見回し、小さく言った。


「ここでは話しにくいね」


「場所を変えますか」


 リゼが即座に言う。


 ミリアが今度こそ袖を強く引いた。


「今は駄目。先生に見られているわ」


 確かに、教室の前方でロウ教師がこちらを見ていた。


 アルトも気づいている。


「放課後……は、今日はまだ外出制限があるんだっけ」


「はい」


 ミリアが言う。


「無理に動くと、また叱られる人が増えるわ」


 その言い方に、アルトが少し笑った。


「また?」


 ミリアは視線を逸らす。


「少しね」


 アルトは二人を見比べた。


「二人とも、何かあった?」


「何もありません」


 リゼが即答した。


 アルトはミリアを見る。


 ミリアは微笑んだ。


「少しだけ、先生に叱られたの」


「そっか」


 アルトはそれ以上追及しなかった。


 だが、わかっている顔だった。


「じゃあ、また今度。僕も、少し聞きたいことがある」


 彼はリゼを見る。


「君は、あの時、何を見ていたの?」


 リゼは答えない。


 アルトも答えを急がなかった。


「いつか、教えて」


 そう言って、自分の席へ向かった。


 リゼはその背中を見つめた。


 護衛対象。


 狙われる少年。


 死に慣れた目をした同級生。


 そして、自分に疑問を向ける者。


 守るだけでは済まない。


 彼は、隠されたものに気づく。


 その知性が、彼自身をさらに危険にする可能性がある。


 教室の窓から、午後の光が差し込んでいた。


 穏やかな光。


 昨日の雷とは違う。


 だが、リゼの中の警戒は消えない。


 その日の授業は結局、本格的には始まらなかった。


 担任からの連絡と今後の予定確認だけで終わり、生徒たちは寮へ戻るよう指示された。


 アルトは医務担当の教師に連れられ、男子寮方面へ向かう。


 リゼはその背中を追いたかった。


 だが、できない。


 今はまだ。


 女子寮に戻る途中、ミリアが隣で言った。


「アルトさん、何か知っているわね」


「はい」


「でも、全部ではない」


「はい」


「あなたと同じね」


 リゼはミリアを見る。


「私は」


「あなたも、全部は知らないのでしょう?」


 ミリアの言葉は静かだった。


 リゼは少しだけ黙り、答えた。


「はい」


「なら、探すしかないわね」


「危険です」


「知っているわ」


「また叱られます」


「それは避けたいわね」


 ミリアは小さく笑った。


「でも、今度はもう少し上手くやりましょう」


 リゼは、その言葉に返答しなかった。


 上手くやる。


 潜入任務において重要。


 だが、ミリアの言う“上手く”は、リゼのそれとは少し違うのだろう。


 女子寮へ戻ると、廊下の掲示板に新しい連絡が貼られていた。


 講堂封鎖は継続。


 魔術適性検査は二日後に延期。


 明日から一部授業再開。


 生徒は単独行動を避けること。


 リゼは最後の一文を見た。


 単独行動を避けること。


 これまでなら、面倒な制限として処理しただろう。


 だが今は、隣にミリアがいる。


 そして、少し離れた場所にはアルトがいる。


 守るべき対象。


 巻き込まれた同室者。


 疑念を抱く少年。


 敵は学園の中にいる。


 自分の名を知っている。


 そして、次の機会を狙っている。


 部屋へ戻った後、リゼは机の中を確認しようとして、動きを止めた。


 引き出しが、わずかに開いている。


 朝、出る前には閉めた。


 ミリアが開けた可能性。


 低い。


 彼女は勝手にリゼの机を触らない。


 寮母の点検。


 可能性あり。


 だが、点検なら部屋全体に痕跡が出る。


 これは違う。


 リゼはミリアへ手で合図した。


 動くな。


 ミリアはすぐに表情を変え、入口付近で止まる。


 リゼはゆっくり机へ近づいた。


 罠の可能性。


 引き出しの隙間。


 糸なし。


 魔力反応、微弱。


 爆発物の気配なし。


 毒針、なし。


 慎重に引き出しを開ける。


 中に、一枚の紙が入っていた。


 白い紙。


 学園で支給されたものではない。


 薄く、上質で、何の匂いもしない。


 そこには、短く文字が書かれていた。


 護衛対象から目を離すな。


 次は外さない。


 ミリアが後ろから息を呑んだ。


「それ……」


 リゼは紙を見つめた。


 護衛対象。


 その言葉を知っている。


 つまり、敵はリゼがアルトの護衛であることを知っている。


 あるいは、そう推測している。


 どちらにせよ、最悪に近い。


 リゼは紙を握り潰さなかった。


 証拠だ。


 怒りで壊してはいけない。


 彼女は静かに紙を机の上へ置き、文字の筆跡を見た。


 癖がない。


 意図的に整えられている。


 性別も年齢も推測しにくい。


 インクは黒。


 魔術反応はほとんどない。


 だが、紙の端に、ごく小さな黒い繊維が付着していた。


 リゼはそれを見た。


 旧校舎。


 講堂二階席。


 女子寮の花壇。


 そして今、自分の机。


 繋がった。


 敵は、寮の中へ入れる。


 この部屋に入れる。


 ミリアが震える声で言った。


「リゼさん……護衛対象って、何?」


 リゼは答えられなかった。


 部屋の中に、夕方の光が差し込んでいる。


 穏やかな学園の一室。


 二つのベッド。


 二つの机。


 友達になる条件を書いた紙。


 ミリアにもらった便箋。


 そして、机の上の脅迫文。


 リゼはその紙を見下ろしたまま、静かに言った。


「今は、言えません」


 ミリアは黙った。


 怒るかもしれない。


 問い詰めるかもしれない。


 だが、彼女はそうしなかった。


 代わりに、扉へ歩き、鍵を確認した。


 一回。


 それから、窓の鍵も確認した。


 一回。


 リゼが彼女を見る。


 ミリアは振り返った。


 顔は青ざめている。


 それでも、声は震えていなかった。


「今は言えないのね」


「はい」


「でも、アルトさんが危ないのね」


「はい」


「そして、あなたも危ない」


 リゼは少しだけ間を置いた。


「はい」


 ミリアは深く息を吸った。


「わかったわ」


 彼女は机の上の脅迫文を見た。


「なら、まずはこれを隠しましょう。誰かに見られたら困るのでしょう?」


「はい」


「それから、今夜は交代で起きる」


「あなたには睡眠が必要です」


「あなたにも必要よ」


「私は」


「交代で」


 ミリアの声には、有無を言わせない強さがあった。


 リゼは少しだけ沈黙し、頷いた。


「わかりました」


 ミリアは小さく息を吐いた。


「リゼさん」


「はい」


「私はまだ、あなたが何者なのか知らない。でも、一つだけわかるわ」


「何ですか」


「あなたは、誰かを守ろうとしている」


 リゼは答えなかった。


 ミリアは続ける。


「なら、私もできることをする」


 夕暮れの光が、ゆっくりと部屋から消えていく。


 学園の鐘が鳴った。


 穏やかな一日の終わりを告げる音。


 だが、リゼにはそれが戦場の合図に聞こえた。


 敵は近い。


 対象は狙われている。


 自分の正体は知られている。


 そして、もう一人、何も知らなかったはずの少女が、その戦場の入口に立っている。


 リゼは机の上の脅迫文を、丁寧に折り畳んだ。


 次は外さない。


 ならば、こちらも外さない。


 守るべきものを。


 見失わない。


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