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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第1章 第6話:事故として処理された殺意


 第一校舎へ向かう新入生の列は、朝とはまるで違う生き物になっていた。


 入学式へ向かう時、彼らの足取りには期待があった。少しの緊張、少しの誇らしさ、少しの不安。それでも、門をくぐったばかりの生徒たちは皆、今日という日を特別な始まりとして受け止めていた。


 だが今は違う。


 石畳を踏む靴音は重く、笑い声はほとんど消えている。


 誰もが講堂を振り返りたがった。だが、振り返ればあの白い閃光を思い出す。床を抉った雷の音。焦げた匂い。倒れかけたアルトの姿。だから、彼らは前を向く。けれど、前を向いたところで不安は消えない。


 列のあちこちで、小さな囁きが漏れていた。


「本当に事故なのかな」


「祝福魔術って、あんなふうになるものなの?」


「レインフォード君、死にかけたよね」


「でも先生たちは不具合だって……」


「アークレインでこんなこと、聞いたことない」


 不安は、言葉にすると形を持つ。


 形を持った不安は、人から人へ移る。


 リゼはその広がりを横目で見ながら、列の中央を歩いていた。


 前方には一年C組の生徒たち。


 右にはミリア。


 左には知らない女子生徒。


 背後には数名の男子生徒。


 護衛対象アルト・レインフォードは、医務室へ移動済み。


 現在、視界外。


 それがリゼにはひどく不快だった。


 対象が見えない。


 状態が確認できない。


 医務室までの経路も、警備配置も、内部構造も、付き添っている教師の能力も不明。負傷が軽いことは確認したが、暗殺者が二撃目を用意していない保証はない。


 いや、むしろ一撃目を外した以上、次の行動があると考えるべきだった。


 問題は、いつ、どこで、どの方法で来るか。


 雷撃術式。


 祝福魔術への干渉。


 講堂内での実行。


 敵は学園の式典手順を知っていた。術式構造も理解していた。補助陣の制御タイミングも読んでいた。外部の素人ではない。内部協力者がいるか、あるいは内部の者そのもの。


 教師。


 上級生。


 職員。


 魔術科関係者。


 候補は多い。


 多すぎる。


「リゼさん」


 ミリアが小さく呼んだ。


「はい」


「また怖い顔になっているわ」


「状況を整理しています」


「それは見ればわかるけれど……周りが見ている」


 リゼは周囲の視線を確認した。


 確かに、近くの生徒数名がこちらをちらちら見ている。


 理由は二つ。


 一つは、リゼが事件直後にアルトの近くへいたこと。


 もう一つは、彼女が混乱の中で妙に冷静だったこと。


 目立っている。


 好ましくない。


「改善します」


 リゼは眉間の力を抜こうとした。


 できているかは不明だった。


 ミリアは少しだけ困った顔をしたが、それ以上は言わなかった。彼女自身も、完全に平静ではない。指先が時折、制服の袖を握っている。歩幅も普段よりわずかに狭い。


 それでも、彼女は背筋を伸ばして歩いていた。


 ファルネーゼ家の令嬢として。


 あるいは、周囲に不安を悟らせないために。


 第一校舎の正面玄関をくぐる。


 磨かれた石床に、生徒たちの足音が反響した。廊下は広く、両側には教室が並んでいる。壁には学園の歴史を描いた絵画や、卒業生の功績を記した銘板が掛けられていた。


 リゼはそれらを見ない。


 見るのは、窓、階段、非常口、廊下の幅、死角。


 一年C組の教室は二階の東側だった。


 引率の教師が扉を開け、生徒たちを中へ入れる。


「席は自由で構いません。静かに座って待機してください」


 自由。


 厄介な言葉だった。


 座席指定がないなら、自分で最適位置を選べる。入口と窓が見える席。壁際。背後を取られにくい位置。教卓と扉の両方へ動ける場所。


 リゼが教室内を見回していると、ミリアが先に窓際の中ほどの席へ向かった。


「ここにしましょう」


「入口が見えにくいです」


「黒板は見えるわ」


「入口の方が重要です」


「授業では黒板の方が重要なの」


「襲撃時には」


「今は授業の話」


 ミリアは椅子に座り、隣の席を軽く叩いた。


 リゼは数秒迷った。


 この場で席を変えようとすれば目立つ。


 ミリアと並ぶのは、同室者として自然。


 窓際は外部から狙われる可能性があるが、二階であり、窓の外には中庭が広がっている。狙撃地点は向かいの校舎上階か、樹上。現時点では脅威度中。


 妥協可能。


 リゼはミリアの隣に座った。


 教室には、まだ緊張した空気が漂っている。


 生徒たちはそれぞれ席に着くが、誰も落ち着いていない。椅子を引く音がやけに大きく響く。会話はあるが、低く、途切れがちだ。


 アルトの席だけが空いていた。


 リゼはそれを見た。


 窓際ではない。


 中央より少し前。


 名簿順なら、彼の席はおそらくそこになるだろう。


 空席。


 それだけで、教室の中に穴が空いたように見える。


「アルトさん、大丈夫かしら」


 ミリアが小声で言った。


「火傷は浅いです」


「でも、怖かったでしょうね」


「はい」


 リゼは少し遅れて頷いた。


 怖かったかどうかは、本人に聞かなければわからない。


 だが、普通は怖い。


 それを学習している。


「あなたは?」


 ミリアが尋ねた。


「私は負傷していません」


「怪我の話ではないわ」


「恐怖についてですか」


「そう」


 リゼは答えに詰まった。


 怖かったか。


 閃光の瞬間、恐怖はなかった。


 対象との距離、術式の角度、遮蔽物、金属片、周囲への影響。思考はそれだけだった。


 恐怖が入り込む余地はなかった。


「怖くはありませんでした」


 リゼは正直に答えた。


 ミリアは少しだけ目を伏せた。


「そう」


「不適切な返答でしたか」


「不適切ではないわ。ただ……少し、寂しいと思っただけ」


「寂しい」


「ええ」


 その意味は、リゼにはわからなかった。


 恐怖を感じないことと、寂しさ。


 どう繋がるのか。


 問い返そうとした時、教室の扉が開いた。


 入ってきたのは、先ほど講堂でリゼに事情を聞いた男性教師だった。濃紺の上着に、基礎教養科の教師章。年は三十代後半ほど。短く整えた茶色の髪と、疲れを隠しきれない目をしている。


 彼は教卓の前に立ち、生徒たちを見回した。


「一年C組を担当する、エドガー・ロウだ。本来なら、入学式の後にもう少し明るい形で自己紹介をする予定だったが……まずは、先ほどの件について話す」


 教室が静まり返る。


 誰かが息を呑んだ。


「祝福魔術の一部に異常が発生し、同じ組のアルト・レインフォード君が負傷した。現在、医務室で処置を受けている。命に別状はない。火傷も、医務担当の見立てでは軽度から中等度だ」


 安堵の空気が広がる。


 リゼは表情を変えなかった。


 命に別状なし。


 それはよい情報。


 だが、医務室で処置中。


 まだ対象確認不可。


 ロウ教師は続けた。


「学園側で原因を調査している。現時点では、式典用術式の不具合と見られている」


 現時点では。


 不具合。


 生徒たちはその言葉を受け入れようとしている。


 そうでなければ、この教室に座っていられないからだ。


 リゼはロウ教師の顔を見た。


 彼自身は納得していない。


 声のわずかな硬さ。


 視線が一瞬だけ窓の外へ逃げたこと。


 “見られている”ではなく、“見られていることにしたい”という言い方。


 教師もまた、何かを隠している。


 隠しているというより、言えないのかもしれない。


「皆も不安だろうが、学園は安全確保を最優先に対応している。今日の授業は中止。今後の予定は追って連絡する。寮へ戻るまでは、各自勝手に行動しないように」


 勝手に行動しない。


 それはリゼに向けられた言葉ではないはずだった。


 だが、ロウ教師の視線が一瞬こちらを向いた気がした。


 気のせいではないだろう。


「先生」


 生徒の一人が手を上げた。


 緊張した声だった。


「あの、祝福魔術って、安全なものなんですよね?」


「本来はな」


「じゃあ、どうして……」


「それを調べている」


 ロウ教師の答えは短かった。


 生徒はそれ以上聞けず、手を下ろす。


 別の女子生徒が震えた声で言った。


「また、同じことが起きる可能性はありますか?」


 教室の空気が張り詰めた。


 ロウ教師は数秒黙った。


 教師として、安心させるべきか。


 事実を言うべきか。


 迷っているように見えた。


「同じ式典魔術は、原因が確認されるまで使用されない」


 彼は慎重に言った。


「講堂も一時封鎖される。だから、同じ状況で同じことが起きる可能性は低い」


 上手い言い方だった。


 同じ状況で同じこと。


 それ以外の可能性には触れていない。


 リゼは、その隙間を聞き取った。


 敵が別の手段を使えば、また起きる。


 講堂が封鎖されても、学園内には他の場所がある。


 アルトは生きている。


 なら、敵は再び狙う。


「レインフォード君への見舞いは」


 別の男子生徒が尋ねた。


 ロウ教師は首を横に振る。


「今日は医務担当と教師以外の面会は控えるように。本人も疲れているだろう」


 リゼの内側で、判断が走る。


 面会不可。


 公式には。


 だが、状態確認は必要。


 医務室への経路を確認し、外からでも対象の位置を把握する必要がある。


 今すぐ動くのは危険。


 ロウ教師の目がある。


 ミリアもいる。


 教室内の生徒の視線も、事件直後のリゼに向きやすい。


 待つ。


 ただし、待ちすぎない。


 ロウ教師はその後、簡単な自己紹介と今後の連絡事項を告げた。


 教科書の受け取り、組別説明会の延期、魔術適性検査の日程未定、寮での待機、外出禁止。


 外出禁止。


 生徒たちの不安がさらに強まる。


 しかし、リゼにとって問題は別だった。


 外出禁止になれば、敵も動きにくい。


 だが、同時にリゼも動きにくい。


 学園側の管理下に置かれる。


 自由な調査が難しくなる。


 説明が終わると、生徒たちはしばらく教室で待機させられた。


 教師が順番に組ごとに寮へ誘導するためらしい。


 リゼは座ったまま、窓の外を見た。


 第一校舎二階からは、中央講堂の一部が見える。講堂周辺には教師や上級生が集まり、入口には簡易封鎖の札が掛けられていた。魔術障壁の薄い光も見える。


 証拠保全。


 表向きは。


 その奥、講堂の二階に通じる外階段の近くで、黒い影が動いた。


 リゼの目が細くなる。


 一瞬。


 教師のローブか。


 職員か。


 それとも、先ほどの黒い袖の人物か。


 距離がある。


 確認できない。


「また何か見つけたの?」


 ミリアが小声で尋ねた。


「確定できません」


「つまり、何かは見たのね」


「はい」


 ミリアは小さく息を吐く。


「あなたといると、普通の学園生活がどんどん遠ざかっていく気がするわ」


「すみません」


「責めているわけではないの。ただ……」


 ミリアは窓の外を見た。


 封鎖された講堂。


 行き交う教師たち。


 不安そうな新入生。


「昨日までは、アークレインはもっと安全な場所だと思っていたの」


「安全な場所はありません」


 リゼは言った。


 ミリアがこちらを見る。


 少しだけ悲しそうな顔だった。


「あなたは、本当にそう思っているのね」


「はい」


「では、安心できる場所は?」


 リゼは答えられなかった。


 安心できる場所。


 そんなものを、彼女は知らない。


 戦場の陣地は安全ではない。


 傭兵部隊の宿営地も安全ではない。


 王都の軍施設も、安全に見えるだけで、命令ひとつで死地へ送られる場所だった。


 今いる学園も、安全ではない。


 では、どこなら安心できるのか。


 答えがない。


「わかりません」


 リゼは言った。


 ミリアは、それ以上聞かなかった。


 待機時間は長かった。


 生徒たちは少しずつ緊張に疲れ、沈黙が増えていく。泣いていた女子生徒を友人が慰め、男子生徒たちは不安を隠すように小声で冗談を言っていた。


 やがて、寮へ戻る許可が出た。


 一年C組はロウ教師に引率され、第一校舎を出る。


 リゼは歩きながら、医務室の方向を確認した。


 学園案内によれば、医務室は第一校舎の西側、薬学棟と渡り廊下で繋がる建物にある。ここからは遠くない。今の経路から少し外れれば近づける。


 だが、ロウ教師が先頭、補助の上級生が最後尾。


 列から離れればすぐに気づかれる。


 リゼは無理をしなかった。


 女子第一寮に戻ると、寮母が玄関前で待っていた。


 その顔は普段通り厳しい。


 だが、目元にはわずかな疲労がある。


 昨夜の枝を渡した時と同じく、何かを知っている者の顔。


「皆さん、部屋へ戻りなさい。今日は不要な外出を控えること。食事は寮内で用意します。何かあれば必ず寮母室へ」


 新入生たちは素直に従った。


 ミリアとリゼも三階へ上がる。


 部屋に戻った瞬間、ミリアは扉を閉め、深く息を吐いた。


「……やっと少し息ができるわ」


 リゼは扉の鍵を確認した。


「リゼさん」


「一回だけです」


「そういう問題では……まあ、今日はいいわ」


 ミリアはベッドに腰を下ろした。


 入学式のために整えた制服のリボンが、少しだけ歪んでいる。彼女はそれを直そうとして、途中で手を止めた。


「本当に、何だったのかしら」


「祝福魔術に雷属性の干渉が発生しました」


 リゼは言った。


 ミリアが顔を上げる。


「わかるの?」


 まずい。


 言いすぎた。


 だが、もう言葉を戻せない。


「光の色と音からの推測です」


「推測」


「はい」


「でも、あなたは講堂でも、事故ではないと言いかけたわ」


 リゼは黙った。


 ミリアは立ち上がり、リゼの前に来る。


「私を巻き込みたくないの?」


 その問いは鋭かった。


 リゼは正直に答えるべきか迷った。


 ミリアは賢い。


 曖昧な嘘はかえって疑念を増す。


「はい」


 リゼは言った。


 ミリアの表情が変わる。


「やっぱり、何か知っているのね」


「確定情報はありません」


「でも、危険だとは思っている」


「はい」


「アルトさんが狙われたと?」


 リゼはミリアを見た。


 ここで否定しても、おそらく信じない。


 だが、肯定すれば彼女は当事者になる。


 いや、もうなっている。


 同じ講堂にいた。


 同じ組にいる。


 リゼと同室である。


 事件を目撃し、昨夜の靴跡も見ている。


 完全に無関係ではいられない。


「可能性はあります」


 リゼは慎重に言った。


 ミリアは目を閉じた。


 深く息を吸い、ゆっくり吐く。


「そう」


「ただし、誰かには話さないでください」


「理由は?」


「混乱が広がります。証拠も不十分です。犯人が学園内にいる場合、警戒されます」


「犯人」


 ミリアの顔色が少し白くなる。


 それでも、彼女は逃げなかった。


「事故ではなく、誰かがやったと思っているのね」


「はい」


「どうしてそこまで……」


 ミリアは言いかけて、止まった。


 リゼを見つめる。


 手の傷。


 夜中の警戒。


 非常口への執着。


 戦場という失言。


 応急処置の冷静さ。


 そして、雷撃直後の判断。


 彼女の中で、何かが繋がりかけている。


 リゼはそれを感じた。


 だが、ミリアは言葉にしなかった。


「わかったわ」


 彼女は静かに言った。


「誰にも言わない。ただし、あなたも一人で抱え込まないで」


「状況によります」


「またそれ」


「絶対とは言えません」


「では、昨日と同じ。可能な限り」


「はい」


 ミリアは不満そうだったが、受け入れた。


 その時、部屋の扉が叩かれた。


 二人とも動きを止める。


 軽いノック。


 三回。


 寮母ではない。


 リゼは扉へ向かい、ミリアを手で制した。


 扉の向こうから、穏やかな女性の声がした。


「リゼ・グレイスさんはいらっしゃるかしら」


 リゼの背筋に、冷たいものが走った。


 聞き覚えのある声。


 壇上で聞いた、柔らかい声。


 魔術史担当教師。


 セレスティア・ノクス。


 ミリアの顔がこわばる。


 リゼは一拍置き、扉を開けた。


 廊下に立っていたのは、やはりセレスティアだった。


 薄紫のローブではなく、教師用の落ち着いた上着に着替えている。黒髪は後ろでまとめられ、表情は柔らかい。生徒を気遣う教師そのものに見える。


 だが、その立ち位置が気に入らなかった。


 扉から一歩半。


 近すぎず、遠すぎず。


 中の様子を覗ける角度ではない。


 しかし、リゼが扉を閉めようとした場合、足を一歩出せば阻止できる位置。


「突然ごめんなさい」


 セレスティアは微笑んだ。


「先ほどの件で、少し様子を見に来たの。あなた、とても冷静だったでしょう?」


「教師の巡回ですか」


「ええ。新入生たちは皆、不安でしょうから」


 セレスティアの視線が、室内のミリアへ移る。


「ミリア・ファルネーゼさんも同室だったのね。具合はどう?」


 ミリアは立ち上がり、礼儀正しく答えた。


「お気遣いありがとうございます。少し驚きましたが、大丈夫です」


「それはよかったわ」


 セレスティアは再びリゼを見る。


「あなたは?」


「問題ありません」


「そうでしょうね」


 その言い方に、わずかな違和感があった。


 そうでしょうね。


 まるで、最初からリゼが動揺しないと知っているような。


「なぜそう思うのですか」


 リゼが尋ねる。


 ミリアが背後で小さく息を呑む。


 教師に対して、やや鋭すぎる問い。


 しかし、セレスティアは気を悪くした様子もなかった。


「あなた、あの混乱の中で一度も悲鳴を上げなかったもの」


「悲鳴で状況は改善しません」


「戦場帰りの兵士みたいなことを言うのね」


 空気が止まった。


 リゼは表情を変えない。


 ミリアの視線がリゼへ向く。


 セレスティアは微笑んだままだった。


「例え話よ」


 彼女は柔らかく続ける。


「でも、十五歳の女の子が言うには、少し珍しい言葉だと思って」


「地方騎士家で育ちました」


「ええ、書類にはそうあったわ」


 書類には。


 その言葉は、薄い刃だった。


 リゼの内側で警戒が一段上がる。


 セレスティアは一歩も動かない。


 敵意も見せない。


 だが、こちらの反応を見ている。


 試している。


「応急処置も手慣れていたそうね」


「基礎的な処置です」


「アルト・レインフォード君は、あなたが近くにいて幸運だったわ」


 アルトの名。


 セレスティアが自然に出した。


 当然だ。負傷した生徒の名を教師が知っているのは不自然ではない。


 しかし、リゼは聞き逃さない。


 あなたが近くにいて幸運だった。


 偶然を強調しているのか。


 あるいは、偶然ではないと知って言っているのか。


「私は何もしていません」


 リゼは答えた。


「そう?」


「はい」


「でも、彼は助かった」


「隣の生徒が動いたためです」


「そういうことにしておきましょう」


 セレスティアは小さく笑った。


 ミリアの表情が険しくなる。


 この教師の言い方に、彼女も違和感を覚えたのだろう。


「先生」


 ミリアが口を開いた。


「今回の件は、本当に事故なのですか?」


 セレスティアの視線がミリアへ移る。


 穏やかな目。


 だが、その奥には深い井戸のような暗さがある。


「学園はそう発表しているわ」


「学園は、ですか」


「ええ」


 ミリアは一歩も引かなかった。


「先生個人は、どうお考えですか?」


 リゼは内心でミリアを止めたかった。


 だが遅い。


 セレスティアは少しだけ目を細め、それから微笑んだ。


「魔術には、時に人の想定を超えることが起こるの。だからこそ、私たちは歴史から学ばなければならない。過去に何が起きたのか。どんな失敗があり、どんな愚かさが繰り返されたのか」


 答えになっていない。


 ミリアもそれを察したのか、唇を引き結んだ。


 セレスティアは再びリゼを見る。


「リゼさん」


「はい」


「あなたの手、少し見せてもらえる?」


 ミリアが反応する。


 リゼは一瞬だけ迷った。


 拒否すれば不自然。


 見せれば、剣だこと古傷を確認される。


 だが、それはすでにアルトにも見られている。


 剣術科の新入生として、完全には隠せない。


 リゼは右手を差し出した。


 セレスティアはその手を取らなかった。


 触れずに、少し離れた位置から見る。


「剣を握り慣れている手ね」


「剣術科です」


「それだけでは、こうはならないわ」


「訓練量によります」


「そう。とてもよく訓練してきたのね」


 セレスティアの声は優しい。


 優しすぎる。


 その優しさが、リゼには気味悪かった。


「傷も多い」


「訓練で」


「全部?」


 問いが鋭い。


 リゼは無言で手を引いた。


「失礼したわ」


 セレスティアは微笑む。


「詮索するつもりはないの。ただ、無理をしていないか心配で」


 心配。


 またその言葉。


 ミリアの心配とは違う。


 セレスティアの心配は、温度がない。


 標本の状態を確認する研究者のような、整いすぎた心配だった。


「無理はしていません」


「そう。ならよかった」


 セレスティアは扉から少し下がる。


「今日は寮で休みなさい。講堂には近づかないこと。事故現場は封鎖されているから」


「はい」


「それから」


 彼女は去り際に、わずかに声を低くした。


「学園では、剣よりも秘密の方が人を傷つけることがあるわ」


 リゼは動かない。


 セレスティアは微笑む。


「覚えておいてね」


 そして、廊下を歩いて去っていった。


 足音は静かだった。


 一定で、乱れがない。


 リゼは扉を閉め、鍵をかけた。


 一回だけ。


 ミリアはしばらく黙っていた。


 やがて、小さく言う。


「今の、何?」


「教師の巡回です」


「そういう意味ではないわ」


「危険人物の可能性があります」


 リゼが言うと、ミリアは目を見開いた。


 だが、驚きよりも納得が勝っている顔だった。


「あなたも、そう思うのね」


「はい」


「あの先生、優しそうなのに」


「優しさと危険性は両立します」


「……そうね」


 ミリアはベッドに座り直した。


 顔色は悪い。


 無理もない。


 入学二日目にして、祝福魔術の事故、同級生の負傷、そして教師への不信を突きつけられた。


 普通の新入生には重すぎる。


「ミリアさん」


 リゼは言った。


「はい」


「これ以上関わらない方がいいです」


 ミリアは顔を上げる。


「あなたは関わるつもりでしょう?」


「必要があります」


「なぜ?」


 リゼは答えられない。


 護衛任務だから。


 それは言えない。


 アルトが狙われているから。


 それを言えば、なぜそこまでアルトに拘るのか問われる。


「危険を放置できません」


 リゼは言った。


 ミリアはじっと彼女を見た。


「それは、リゼさん自身の言葉?」


「はい」


 少なくとも、完全な嘘ではない。


 アルトを守るのは任務。


 だが、祝福の雷撃が落ちる瞬間、リゼが動いたのは命令だけではなかった。


 目の前で誰かが殺されるのを、放置できなかった。


 その相手が護衛対象だったからか。


 それとも、あの少年の目に、死に慣れた諦めを見たからか。


 まだ判断はつかない。


 ミリアは静かに息を吐く。


「なら、私も関わるわ」


「推奨しません」


「でしょうね」


「危険です」


「それもわかっているわ」


「では、なぜ」


 ミリアは少し怒ったように立ち上がった。


「同室者だからよ」


「それは理由になりますか」


「なるわ」


「命の危険があります」


「あなたは、危険なら一人で背負えばいいと思っているの?」


 リゼは沈黙した。


「私は、あなたほど強くない。雷が落ちた時、本当に怖かった。足も震えたわ。アルトさんが倒れた時、何もできなかった。でも、だから何も知らないふりをして部屋に閉じこもるなんて、もっと嫌」


 ミリアの声は震えていた。


 恐怖で。


 怒りで。


 それでも、はっきりしていた。


「私はファルネーゼ家の娘よ。誰かが学園で生徒を殺そうとしたなら、見なかったことにはできない」


 リゼはミリアを見た。


 この少女は、無防備だ。


 戦場を知らない。


 殺意の中で眠ったこともない。


 だが、弱くはない。


 少なくとも、自分が怖いと認めたうえで、それでも前を見る強さを持っている。


「わかりました」


 リゼは言った。


 ミリアが少し驚く。


「止めないの?」


「止めても、あなたは動く可能性があります」


「ええ」


「なら、情報共有した方が生存率が上がります」


「またそういう言い方を……でも、今はそれでいいわ」


 ミリアは少しだけ笑った。


 その笑みは、疲れていたが、折れてはいなかった。


 昼食は寮の食堂で簡単に出された。


 普段なら新入生たちの会話で賑わうはずの食堂は、重苦しい空気に包まれていた。誰もが声を潜め、教師や寮母の目を気にしている。事件について話したがる者もいれば、話題に出すだけで泣きそうになる者もいた。


 リゼは食事をしながら、寮母の動きを観察した。


 寮母は普段通り厳しく生徒たちを見守っている。


 だが、何度か廊下の方へ視線を向けた。誰かを待っているような、あるいは誰かを警戒しているような。


 昨夜の枝。


 今朝の反応。


 今回の雷撃。


 寮母がどこまで知っているのか、まだ不明。


 食後、部屋へ戻る途中で、寮の掲示板に新しい紙が貼られていた。


 生徒外出制限について。


 本日午後より、全新入生は寮内待機。


 校舎、講堂、訓練場、図書館塔への移動禁止。


 医務室への面会は教師の許可制。


 夕食後の外出禁止。


 警備強化のため、学園内巡回を増員。


 リゼはそれを読んだ。


 明らかに封じに来ている。


 生徒の安全確保としては正しい。


 同時に、事件現場へ近づく者を制限できる。


 証拠に触れられるのは教師と職員だけ。


 つまり、内部犯なら証拠隠滅が容易になる。


「どうするの?」


 ミリアが小声で尋ねた。


「夜に動きます」


 リゼは即答した。


 ミリアが固まる。


「……今、何て?」


「夜に講堂を確認します」


「外出禁止よ」


「はい」


「寮母様にも怒られるわ」


「はい」


「見つかったら、入学早々問題児よ」


「はい」


「わかっていて行くの?」


「証拠が消える前に確認が必要です」


 ミリアは頭を抱えた。


「あなた、可能な限り一人で動かないと言ったわよね」


「はい」


「では、私も行く」


「推奨しません」


「却下」


「危険です」


「知っているわ」


「移動速度が落ちます」


「失礼ね」


「戦闘時の選択肢が減ります」


「もっと失礼ね」


「事実です」


「なお悪いわ」


 ミリアは小声ながら、はっきり怒っていた。


「でも、あなたを一人で行かせたら、戻ってこない可能性があるでしょう」


「戻ります」


「信用できないわ」


「なぜですか」


「あなたは、危険だと思ったら自分だけで処理しようとするから」


 リゼは黙った。


 否定できなかった。


 ミリアは少し声を落とす。


「私は戦えないかもしれない。でも、魔術は使える。礼法も学んでいる。誰かに見つかった時の言い訳も、あなたよりは上手いと思うわ」


 それは事実だった。


 夜間外出が発覚した場合、リゼ一人では説明が難しい。


 ミリアがいれば、ある程度の社交的言い訳が可能になる。


 さらに、ミリアは魔術の才能が高い。戦闘向きではなくとも、補助や感知に役立つ可能性がある。


 危険は増える。


 だが、利点もある。


「わかりました」


 リゼは言った。


「同行を許可します」


「許可される立場ではないと思うけれど、今はそれでいいわ」


「ただし、指示には従ってください」


「危険な時は、でしょう?」


「常時です」


「相談しましょう」


「指示系統が曖昧になります」


「あなた、やっぱり軍人みたいね」


 ミリアは呆れたように言った。


 リゼは答えなかった。


 午後は長かった。


 部屋に戻っても、やるべきことは限られている。外出は禁止。授業はない。教科書を読むか、荷物を整理するか、事件について考えるしかない。


 ミリアは落ち着くためか、教科書を開いていた。


 だが、ページはほとんど進んでいない。


 リゼは机に向かい、紙に簡易図を描いていた。


 中央講堂の内部構造。


 アルトの席。


 自分の席。


 天井魔術陣の位置。


 雷撃の落下地点。


 二階席の柱。


 黒い袖の人物が消えた方向。


 セレスティアがいた壇上右側。


 医務室の位置。


 可能な逃走経路。


 ミリアが後ろから覗き込む。


「上手ね」


「記憶図です」


「一度見ただけで、ここまで覚えているの?」


「必要なので」


「必要の基準が高すぎるわ」


 ミリアは紙の一点を指す。


「この印は?」


「黒い袖の人物が消えた場所です」


「見たの?」


「はい」


「どうして早く言わないの」


「確定情報ではありません」


「それでも重要でしょう」


「はい」


 ミリアはため息をつく。


「情報共有すると言ったばかりよね」


「改善します」


「今すぐ改善して」


「はい」


 リゼは新たに書き込んだ。


 二階席右奥、柱影、黒い袖、雷撃直後に移動。


 ミリアはそれを見て、少し考える。


「黒い袖……教師のローブかしら」


「可能性はあります」


「セレスティア先生の服は薄紫だったわよね」


「式典時は薄紫。移動時に黒い外套を着用していた可能性はあります」


「でも、教師なら二階席から移動しても不自然ではないわ」


「はい」


「上級生は?」


「魔術補助に入っていた可能性があります」


「職員は?」


「可能性あり」


「結局、誰でもあり得るのね」


「はい」


 ミリアは椅子に座り、腕を組んだ。


「証拠が必要、というわけね」


「はい」


 夕方になると、空が赤く染まり始めた。


 食堂で夕食が配られたが、昼と同じく空気は重い。リゼとミリアは最低限の会話だけで食事を終えた。


 寮母は夕食後、全生徒に告げた。


「本日は特別警戒中です。消灯後の外出は厳禁。廊下をうろつくことも認めません。何かあれば部屋の呼び鈴を使いなさい」


 リゼは寮母の声を聞きながら、呼び鈴の位置を確認した。


 部屋ごとに小さな魔術具が設置されている。押せば寮母室に通知が行く仕組み。逆に言えば、寮母室側から各部屋の異常を把握できる可能性もある。


 監視機能があるか。


 確認が必要。


 部屋に戻ると、ミリアはすぐに扉を閉めた。


「本当に行くの?」


「はい」


「いつ?」


「消灯後、見回りが一巡した後です」


「見回りの間隔、わかるの?」


「今日確認します」


「あなた、午後ずっと部屋にいたのに?」


「廊下の足音、階段の軋み、寮母室の扉の開閉音でおおよそ」


 ミリアは半ば呆れ、半ば感心したようにリゼを見た。


「本当に、何者なの」


「同室者です」


「その答え、便利に使い始めたわね」


 リゼは返答しなかった。


 夜が来た。


 寮の廊下から少しずつ声が消えていく。部屋ごとの灯りが落ち、窓の外の中庭が暗く沈む。遠くの講堂は封鎖され、周囲に魔術灯が増やされていた。


 消灯の鐘。


 寮母の足音。


 一階廊下。


 二階。


 三階。


 リゼとミリアの部屋の前で、足音が一度止まる。


 リゼはベッドの上で目を閉じたまま、呼吸を一定に保つ。


 ミリアも反対側のベッドで寝たふりをしていた。


 寮母の足音が遠ざかる。


 階段を下りる。


 寮母室の扉が閉まる。


 そこから、さらに待つ。


 すぐには動かない。


 見回り直後に出る者を警戒して、二度目の確認がある可能性がある。


 五分。


 十分。


 十五分。


 廊下に別の足音。


 上級寮生か、補助職員。


 軽い足取り。三階廊下を一往復し、下りていく。


 さらに待つ。


 寮全体が完全に静まった頃、リゼは目を開けた。


 ミリアも同時に起き上がる。


 月明かりの中、二人は声を出さずに動いた。


 リゼは制服ではなく、動きやすい簡素な服に着替えている。学園指定の上着は持たない。目立つからだ。ミリアも濃い色の外套を羽織ったが、足元は学園の革靴のまま。


 音が出やすい。


 リゼは指で示す。


 靴を脱ぐ。


 ミリアは驚いた顔をしたが、すぐに従った。靴を手に持ち、靴下のまま床へ立つ。


 リゼは扉に耳を当てる。


 廊下、無音。


 鍵を開ける。


 音を立てないよう、ゆっくり。


 扉を細く開ける。


 廊下に誰もいない。


 二人は外へ出た。


 リゼが先行。


 ミリアが後方。


 階段の軋む段を避けて下りる。昼間に確認した段数と位置が役立った。ミリアは途中で一度足を滑らせかけたが、リゼが手首を掴んで支える。


 ミリアは声を上げなかった。


 優秀。


 一階廊下。


 寮母室の扉の下から、薄い灯りが漏れている。


 寮母は起きている。


 正面玄関は避ける。


 リゼは昼間確認した通用口へ向かった。


 鍵。


 簡易。


 内側からは開閉可能。ただし、開けると小さな鈴が鳴る仕組みになっている。


 リゼは鈴の位置を確認し、紐を指で押さえる。


 ゆっくり開ける。


 音は鳴らない。


 外の冷たい空気が流れ込んだ。


 ミリアが小さく息を呑む。


 二人は女子寮の外へ出た。


 夜の学園は、昼とは別物だった。


 石畳は月光を受けて青白く光り、校舎の窓は黒く沈んでいる。魔術灯が等間隔に灯っているが、その光は届かない影も多い。風が木々を揺らし、遠くの鐘楼が暗い空を切り取っていた。


 中央講堂は、敷地の向こう側で静かに立っている。


 封鎖の魔術灯が周囲に置かれ、入口には警戒用の結界光が薄く揺れていた。


「本当に行くのね」


 ミリアが囁いた。


「戻るなら今です」


「行くわ」


 声は震えていた。


 だが、退く気はなかった。


 リゼは頷く。


「私の足跡を踏んでください。音を立てない。光の中に出ない。誰かを見ても声を出さない」


「わかったわ」


「危険を感じたら、私の後ろへ」


「ええ」


「走れと言ったら、理由を聞かずに走ってください」


「……わかった」


 二人は動き出した。


 正規の石畳は避ける。


 巡回者が見るのは道だ。


 花壇の影、低木の裏、校舎の壁沿いを使って進む。ミリアには厳しい経路だったが、彼女は文句を言わなかった。外套の裾を片手で押さえ、息を殺してついてくる。


 途中、巡回の教師が二人、魔術灯を持って通り過ぎた。


 リゼはミリアを壁の影へ引き込む。


 教師たちは会話していた。


「まったく、入学式初日からこんな騒ぎとは」


「原因は魔術科で調べているそうだ」


「本当に事故か?」


「余計なことを言うな。学園長からは、式典術式の不具合として扱うよう通達が出ている」


「だが、あの焦げ跡は……」


「聞かなかったことにしろ」


 二人の足音が遠ざかる。


 ミリアがリゼを見る。


 その顔には、恐怖と確信が混じっていた。


 事故ではない。


 教師たちも疑っている。


 リゼは無言で先へ進んだ。


 中央講堂へ近づくにつれ、空気が変わる。


 昼間の焦げた匂いが、まだ残っていた。


 封鎖結界は正面入口に集中している。側面扉にも簡易結界。窓は高い。二階へ続く外階段には、警戒札が貼られている。


 正面からは入れない。


 リゼは講堂の外壁を観察した。


 昼間見た構造。


 二階席右奥。


 黒い袖の人物が消えた方向。


 そこから外へ出るなら、講堂裏手の管理扉か、二階外階段。


 管理扉。


 小さい。


 鍵あり。


 封鎖結界、なし。


 内部関係者用だからだろう。


「ここから入るの?」


 ミリアが囁く。


「はい」


「鍵は?」


「開けます」


「開けるって……」


 リゼは髪留めを外した。


 細い銀の留め具。


 武器ではない。


 だが、道具にはなる。


 ミリアが目を丸くする。


「それ、大事なものでは?」


「壊しません」


 リゼは鍵穴に留め具の先を入れた。


 構造は簡易。


 学園内の管理扉だから、厳重ではない。


 数秒。


 小さな音。


 鍵が外れた。


 ミリアが小さく呟く。


「あなた、本当に何者なの」


「同室者です」


「今はその答え、少し怖いわ」


 扉を開ける。


 中は暗い。


 リゼが先に入った。


 埃と焦げの匂い。


 講堂裏手の細い通路。式典用具や掃除道具が置かれている。昼間は人の出入りがあったはずだが、今は静かだ。


 ミリアが続く。


 扉を閉める。


 完全には閉めない。


 退路確保。


 通路の先には、講堂内部へ続く扉と、二階席へ上がる階段があった。


 リゼはまず階段を見た。


 黒い袖の人物が移動した方向。


 追跡すべき痕跡がある可能性。


「上へ行きます」


 ミリアが頷く。


 階段を上がる。


 木ではなく石。足音は響きにくいが、完全には消せない。リゼは壁際を踏み、ミリアにも同じように指示する。


 二階席に出た。


 昼間とは違い、講堂内は闇に沈んでいる。


 天井の魔術陣は消灯しているが、中心部にごく薄い残光がある。封鎖結界の光が床の焦げ跡をぼんやり照らしていた。


 高い場所から見ると、雷撃の落ちた位置がよくわかる。


 アルトの席。


 焦げ跡。


 リゼの席。


 金属片を弾いた角度。


 すべてが一本の線で繋がる。


 ミリアもそれを見て、息を呑んだ。


「本当に、アルトさんの席のすぐ近く……」


「直撃を狙っています」


 リゼは小声で言った。


 今度は断定した。


 ミリアは何も言わなかった。


 二階席右奥へ向かう。


 柱の影。


 昼間、黒い袖の人物が消えた場所。


 床に痕跡。


 埃が少し乱れている。


 靴跡。


 薄い。


 だが残っている。


 リゼはしゃがみ込む。


 靴底の形。


 斜め格子。


 どこかで見た。


 女子寮の花壇に残っていた靴跡と似ている。


 同一人物か。


 少なくとも、同系統の靴。


「どうしたの?」


 ミリアが囁く。


「昨夜の靴跡と似ています」


 ミリアの顔色が変わる。


「女子寮の?」


「はい」


「じゃあ、あの人影は……」


「同一人物の可能性があります」


 リゼはさらに周囲を調べる。


 柱の裏。


 手すり。


 壁。


 そこに、ごく小さな黒い欠片が引っかかっていた。


 布の繊維。


 女子寮の枝に絡んでいたものと似ている。


 リゼは慎重に取り外し、紙に包んだ。


「証拠?」


「弱いですが」


「でも、繋がったのね」


「可能性が上がりました」


 その時だった。


 一階の講堂内部で、かすかな音がした。


 石を擦るような音。


 誰かがいる。


 リゼは即座にミリアを柱の影へ引き寄せた。


 ミリアは声を出さない。


 偉い。


 二人は息を潜める。


 一階の側面扉が、内側から開いた。


 黒い外套を着た人物が入ってくる。


 顔はフードで見えない。


 手には小さな魔術灯。


 その人物は迷わず、床の焦げ跡へ向かった。


 リゼの全身が戦闘態勢へ移る。


 証拠を消しに来た。


 黒外套の人物は焦げ跡の前に膝をつき、何かの粉を撒いた。


 魔術式が淡く光る。


 床に焼き付いた残滓を消している。


 リゼはミリアを見る。


 動くな。


 目だけで伝える。


 ミリアは青ざめながらも頷いた。


 黒外套の人物は作業を続ける。


 焦げ跡の一部が薄れていく。


 まずい。


 証拠が消える。


 リゼは二階席の手すりを見た。


 距離。


 高さ。


 降りるなら三秒。


 相手の退路は側面扉。


 捕まえることは可能。


 ただし、ミリアを残すことになる。


 敵が一人とは限らない。


 さらに、ここで動けばリゼの実力が露見する。


 でも、証拠を消される。


 リゼは判断した。


 捕縛ではなく、追跡。


 相手に自分の存在を悟らせず、退路を確認する。


 黒外套の人物が作業を終え、立ち上がる。


 その瞬間、講堂内に別の声が響いた。


「そこで何をしているのですか」


 リゼではない。


 ミリアでもない。


 声は一階の正面側からだった。


 ロウ教師。


 彼が魔術灯を手に立っていた。


 黒外套の人物が一瞬で振り返る。


 そして、逃げた。


 側面扉へ。


 ロウ教師が叫ぶ。


「待て!」


 黒外套は扉を抜ける。


 リゼは同時に動いた。


「ここにいてください」


 ミリアへ囁き、二階席から階段へ走る。


 足音を消す余裕はない。


 しかし、全速ではない。


 人間の範囲に抑える。


 階段を下り、裏通路へ出る。


 管理扉から外へ。


 夜風。


 黒外套の背中が、講堂裏から旧校舎方面へ向かっている。


 速い。


 学生ではない。


 ロウ教師は正面側から回り込もうとしているが、距離がある。


 リゼは追う。


 石畳ではなく、芝の上を走る。


 音を殺し、影を選び、距離を詰める。


 黒外套は振り返らない。


 自分が追われていることに気づいているのか、それともロウ教師だけを警戒しているのか。


 旧校舎が近づく。


 立入禁止区域。


 黒外套は迷わず、脇の細い通路へ入った。


 リゼはその手前で一瞬だけ足を止める。


 罠の可能性。


 高い。


 追うべきか。


 後方からミリアの気配。


 来るなと言ったのに。


 いや、彼女は講堂を出たわけではない。二階席からこちらを見ているだけか。


 確認する余裕はない。


 黒外套が闇に消える。


 リゼは追った。


 旧校舎の壁沿い。


 割れた窓。


 蔦。


 湿った土の匂い。


 黒外套は旧校舎の裏手で急に姿を消した。


 扉はない。


 窓も閉じている。


 隠し通路。


 リゼは地面を見た。


 草が踏まれている。


 壁の一部に、触れた跡。


 石壁に偽装された入口がある。


 彼女が手を伸ばした瞬間。


 背後で声がした。


「追ってくるな」


 リゼは振り返る。


 誰もいない。


 声は、旧校舎の闇の中から響いた。


 低い。


 性別は判別しにくい。


 魔術で歪めている。


「誰ですか」


 リゼは問う。


 返答はすぐにはなかった。


 風が蔦を揺らす。


 遠くで、ロウ教師の声が聞こえた。


「誰かいるのか!」


 近づいてくる。


 時間がない。


 闇の中の声が、再び言った。


「学園で英雄ごっこはやめておけ」


 リゼの心臓が、一瞬だけ強く鳴った。


 英雄。


 その言葉。


 偶然ではない。


 声は、さらに低く囁く。


「灰銀」


 リゼの足が止まった。


 灰銀。


 この学園で、その呼び名を知っている者がいるはずはない。


 少なくとも、ただの教師や生徒が知るはずはない。


 旧校舎の壁の向こうで、何かが閉じる微かな音がした。


 隠し通路が塞がれた。


 リゼは追わない。


 今追えば、正体に関わる罠へ飛び込むことになる。


 背後からロウ教師が駆けつけてきた。


「君は……グレイスさん!?」


 リゼは振り返る。


 息は乱れていない。


 だが、乱れていないこと自体が不自然だ。


 彼女は意識して肩を上下させ、呼吸を荒く見せた。


「黒い外套の人物を見ました」


「なぜ君がここにいる!」


「講堂内で不審者を見て、追いました」


 嘘ではない。


 ただし、許可なく外出した事実は隠せない。


 ロウ教師は厳しい顔をする。


「寮で待機しているよう指示されていたはずだ」


「はい」


「なら、なぜ講堂にいた」


 リゼは答えに詰まる。


 その時、別の足音が近づいた。


 ミリアだった。


 息を切らし、外套を握りしめながら、旧校舎の裏手へ駆けてくる。


「先生!」


 ロウ教師がさらに目を剥く。


「ファルネーゼさんまで!?」


 ミリアは一瞬だけリゼを見た。


 それから、貴族令嬢としての顔を作った。


「申し訳ありません、先生。私たち、どうしてもアルトさんのことが心配で……医務室へ行こうとして迷ってしまったんです。その途中で、講堂の方から物音がして」


 なめらかな嘘だった。


 リゼにはできない種類の嘘。


 完全に自然ではない。


 だが、動揺した新入生としてなら通る。


 ロウ教師は頭を抱えた。


「君たちは……」


「本当に申し訳ありません」


 ミリアは深く頭を下げる。


 リゼも少し遅れて頭を下げた。


 ロウ教師は怒りと困惑と疲労を混ぜた顔をしていた。


「寮へ戻る。今すぐだ。説教は後だ」


「はい」


 ミリアが答える。


 リゼも頷いた。


 旧校舎の闇を背に、三人は講堂方面へ戻る。


 リゼは歩きながら、背後の気配を探った。


 もう何も感じない。


 黒外套の人物は消えた。


 証拠の一部は消された。


 だが、完全ではない。


 二階席の黒い繊維。


 靴跡。


 そして、声。


 灰銀。


 リゼは拳を握った。


 敵は、アルトを狙っているだけではない。


 自分のことも知っている。


 リゼット・ヴァルグレイ。


 灰銀の戦乙女。


 戦場に置いてきたはずの名が、学園の夜に響いた。


 講堂前に戻ると、ミリアがそっとリゼの袖を引いた。


 小さな声で囁く。


「さっき、何を言われたの?」


 リゼはすぐには答えなかった。


 ロウ教師が前を歩いている。


 聞かれるわけにはいかない。


 ただ、ミリアの方を見ずに言った。


「私のことを、知っていました」


 ミリアの息が止まる。


「誰が?」


「不明です」


「でも、あなたの何を……」


 リゼは答えない。


 答えられない。


 夜の学園は静かだった。


 遠くの鐘楼が月を背負い、旧校舎の窓は黒く沈んでいる。


 その黒い窓の奥で、誰かがこちらを見ているような気がした。


 ロウ教師の背中を追いながら、リゼは心の中で情報を整理する。


 祝福魔術は暗殺に利用された。


 アルトは標的だった。


 学園側は事故として処理しようとしている。


 セレスティアはリゼに探りを入れている。


 黒外套の人物は証拠を消しに来た。


 女子寮の靴跡と二階席の痕跡は繋がる可能性が高い。


 そして、敵は“灰銀”を知っている。


 夜風が、制服ではない薄い服の袖を揺らした。


 学園は眠っている。


 生徒たちは、明日になれば今日の恐怖を少しずつ日常の中へ押し込めようとするだろう。


 教師たちは事故として書類を整え、講堂の床を修復し、祝福魔術の不具合として説明を終わらせるかもしれない。


 だが、リゼは忘れない。


 床に焼き付いた術式の残り香。


 アルトの痛みに耐える顔。


 セレスティアの冷たい微笑。


 旧校舎の闇から聞こえた、自分の呼び名。


 灰銀。


 リゼは唇を引き結んだ。


 その名で呼ばれても、振り返るな。


 大佐はそう言った。


 けれど、もう遅い。


 この学園には、リゼ・グレイスではなく、リゼット・ヴァルグレイを見ている者がいる。


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