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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第1章 第5話:祝福の雷


 白い閃光が、講堂を裂いた。


 それは祝福の光ではなかった。


 花弁の形をしていた魔力が、一瞬で鋭い牙へ変わる。淡い金色は白熱し、空気を焼き、耳の奥を刺すような高い音を立てながら落下した。


 標的は、アルト・レインフォード。


 リゼはすでに動いていた。


 ただし、全力ではない。


 椅子を蹴って飛べば、アルトの前へ滑り込める。二列分の生徒を押しのけ、肩を掴み、床へ伏せさせることもできる。戦場ならそうした。最短、最速、最も確実な方法を選んだ。


 けれど、ここは戦場ではない。


 彼女はリゼット・ヴァルグレイではない。


 灰銀の戦乙女ではない。


 リゼ・グレイス。


 地方騎士家の遠縁。


 剣術科の新入生。


 だから、彼女は“偶然”に見える動きを選んだ。


 落としたものを拾おうとして身を屈めた体勢から、膝を支点に重心をずらす。左足の爪先で、自分の前列に置かれていた鞄の端を軽く押した。


 鞄が倒れる。


 中から教本が数冊、床へ滑り出した。


 隣の生徒が驚いて身をよじる。


 その膝が、さらに前の椅子の脚に当たる。


 椅子がわずかにずれた。


 連鎖は小さい。


 誰かを突き飛ばしたわけではない。


 誰かを制圧したわけでもない。


 ただ、混乱の前触れとしては十分だった。


「えっ?」


 前列の生徒が振り返る。


 その動きに押されるように、アルトの隣に座っていた少年が体を傾けた。


 アルトは反射的に、その少年を支えようと手を伸ばす。


 上体がずれる。


 半歩にも満たない。


 だが、その半歩が生死を分けた。


 雷撃が落ちる。


 轟音。


 床の石板が砕け、白い火花が散った。


 焦げた匂いが、講堂中へ一気に広がる。


 一拍遅れて、悲鳴が上がった。


「きゃああああっ!」


「何だ!?」


「魔術が――!」


「伏せろ!」


「先生!」


 祝福の花弁は途中で崩れ、淡い光の粒となって降り注いだ。だが、その美しさを見ている者はいなかった。新入生たちは総立ちになり、椅子が床を鳴らし、誰かが泣き出し、誰かが出口へ向かおうとした。


 混乱。


 最悪の状態に近い。


 だが、リゼはその中で周囲の音を切り分けていた。


 アルト。


 生存確認。


 彼は椅子から半ば転げ落ちるように床へ膝をついていた。直撃は避けた。雷撃は彼の右肩を掠め、制服の肩口を焦がしている。皮膚に浅い火傷。致命傷ではない。


 呼吸あり。


 意識あり。


 出血なし。


 右腕の動き、やや鈍い。


 護衛対象、生存。


 リゼは胸の奥で短く息を吐いた。


 安堵ではない。


 まだ早い。


 雷撃は一発で終わった。


 続撃の気配はない。


 術式は乱され、制御を失って崩壊したらしい。天井の魔術陣はまだ淡く光っているが、主術式は教師側が強制停止に入っている。


 壇上右手の教師たちが慌ただしく動く。


 講堂の左右に控えていた上級生たちが、新入生を落ち着かせようと声を張った。


「座ってください!」


「出口に殺到しないで!」


「教師の指示を待ってください!」


 だが、声は悲鳴にかき消される。


 リゼは椅子の背に手を置き、周囲を見る。


 出口へ走ろうとする生徒。


 泣いて動けない生徒。


 床に落ちた荷物。


 割れた石板。


 焦げ跡。


 倒れかけた椅子。


 そして、二階席。


 雷撃が落ちた瞬間、二階席の右奥で一人だけ動きが早すぎた者がいた。


 立ち上がったのではない。


 逃げたのでもない。


 すでに移動を始めていた。


 黒い袖。


 細い手。


 顔は見えない。


 二階席の柱の影へ消える。


 追うべきか。


 リゼの体は一瞬、そちらへ向きかけた。


 だが、床に膝をついたアルトが視界の端で揺れた。


 彼の顔から血の気が引いている。


 右肩を押さえ、奥歯を噛みしめている。痛みはある。だが声を上げない。普通の新入生なら泣いてもおかしくない。少なくとも、周囲の生徒の方が大きく騒いでいる。


 リゼは判断した。


 追跡より護衛対象の安定。


 彼女は前列の生徒を避けるように、できるだけ自然な動きでアルトへ近づいた。


 走らない。


 跳ばない。


 誰も突き飛ばさない。


 ただし、最短距離で。


 近くの生徒が混乱して椅子に足を引っかける。リゼは片手でその背を支え、倒れる方向を変えた。動きは一瞬だった。


「え、あ、ありがとう……」


 礼を言われたが、返事はしなかった。


 アルトの前に膝をつく。


「負傷部位は」


 言いかけて、リゼは言葉を飲み込んだ。


 軍の医療確認ではない。


 学園の同級生として話す必要がある。


「大丈夫ですか」


 言い直した。


 アルトは顔を上げる。


 額に薄く汗が浮いていた。


「……うん。たぶん」


「右肩を見せてください」


「え?」


「火傷しています」


 アルトは少し戸惑ったが、制服の焦げた肩口を見て、小さく息を呑んだ。


 布が黒く焼け、皮膚が赤くなっている。浅いが、痛みは強いはずだ。


 リゼは自分のハンカチを取り出した。


 止血ではない。


 冷却が必要。


 水はない。


 周囲を見回すと、近くの生徒が式典用に持っていた小瓶の水を落としていた。封は割れていない。


「借ります」


 返答を待たず、小瓶を拾う。


 ハンカチを濡らし、アルトの肩に当てる。


 アルトが小さく呻いた。


「痛む?」


 リゼが尋ねる。


「少し」


「嘘です。かなり痛いはずです」


 アルトは苦笑した。


「そういうところ、正直なんだね」


「痛覚の過小申告は処置を誤らせます」


「……医者みたいなことを言うんだ」


「応急処置の範囲です」


 リゼは彼の肩にハンカチを当てたまま、周囲を確認した。


 教師がこちらへ来る。


 その前に、アルトへの直撃が避けられた理由を説明できる状態にしなければならない。


 彼がリゼの動きを見ていたか。


 わからない。


 落とした金属片。


 椅子の連鎖。


 アルト自身の移動。


 すべては偶然に見えるよう調整した。


 だが、アルトは鈍くない。


 彼は痛みに顔をしかめながらも、リゼを見ていた。


「今」


 アルトが言った。


「君が、助けてくれた?」


 周囲の騒音の中、その声だけが奇妙にはっきり聞こえた。


 リゼは即答した。


「偶然です」


「偶然?」


「あなたの隣の生徒が動いたため、直撃を避けました」


「でも、その前に君が……」


「私は落とし物を拾おうとしただけです」


 嘘。


 だが、完全な嘘ではない。


 金属片を拾った。


 それを弾いたことは言わない。


 アルトはリゼを見つめた。


 疑っている。


 しかし、それを口に出すか迷っている。


 その時、ミリアが駆け寄ってきた。


「アルトさん! リゼさん!」


 彼女の顔は青ざめていた。


 けれど、取り乱してはいない。周囲の生徒よりもずっと冷静だった。


「怪我は?」


「アルトさんの右肩に火傷。軽度から中等度。医務室で処置が必要です」


「あなたは?」


「負傷なし」


「本当に?」


「はい」


 ミリアは一瞬リゼの顔を見て、それからアルトの肩へ視線を移した。


「魔術事故……なの?」


 その声は震えていた。


 事故。


 リゼは床の焦げ跡を見た。


 直径は小さい。


 しかし、中心部の石板は深く抉れている。落雷点は正確。祝福魔術の暴発にしては方向性がありすぎる。アルトの頭上からわずかに外れたのは、リゼが術式の経路をずらしたからだ。


 もし何もしなければ、雷撃はアルトの頭部か首筋へ直撃していた。


 即死の可能性が高い。


「事故ではありません」


 言いかけて、リゼは口を閉じた。


 ミリアがこちらを見る。


 アルトも。


 周囲にも生徒がいる。


 ここで断定すれば、リゼがなぜわかるのかを問われる。


「……事故にしては、危険でした」


 そう言い換えた。


 ミリアは眉を寄せる。


 アルトは何も言わない。


 ただ、右手で左袖の端を握っていた。


 震えを隠すように。


 教師たちが到着した。


 先頭にいたのは、年配の男性教師だった。魔術科の教師らしく、濃紺のローブを着ている。後ろには医務担当と思われる女性教師と、補助の上級生が数名。


「負傷者は?」


 男性教師が声を張る。


 リゼは一歩引いた。


 目立たない位置へ。


 だが、アルトがこちらを見た。


 まるで、離れるなと言いたげに。


 リゼはその視線を無視しきれなかった。


「右肩に火傷です」


 彼女は教師へ告げた。


「意識は明瞭。呼吸正常。出血なし。雷撃は直撃していません」


 男性教師がリゼを見た。


 しまった。


 説明が軍医への報告になっている。


「君は?」


「リゼ・グレイス。一年C組です」


「なぜそこまでわかる?」


「見ればわかります」


 さらに失敗。


 教師の視線が鋭くなる。


 ミリアがすかさず口を挟んだ。


「先生、この子は剣術科で、応急処置にも詳しいんです。アルトさんを助けようとしてくれて」


「そうか」


 男性教師は完全には納得していない様子だったが、今は負傷者対応が優先と判断したらしい。


 医務担当の女性教師がアルトの肩を確認する。


「火傷ね。すぐ医務室へ運びます。立てる?」


「はい」


 アルトは立ち上がろうとした。


 だが、膝に力が入らなかったのか、体が傾く。


 リゼは反射的に支えた。


 腕を取り、体重を受ける。


 軽い。


 細い。


 戦場で担いだ負傷兵とはまったく違う。鎧も武器も背負っていない少年の体は、驚くほど軽かった。


「ごめん」


 アルトが小さく言った。


「問題ありません」


「君、力あるんだね」


「剣術科です」


「便利な説明だ」


 アルトは痛みの中でも笑った。


 その笑みが、リゼには少し不可解だった。


 なぜ笑うのか。


 死にかけた直後に。


 それとも、この程度の危険には慣れているのか。


 医務担当の教師がアルトを支えようとする。


 リゼは手を離した。


 だがその瞬間、アルトがかすかに言った。


「リゼさん」


 周囲には聞こえないほど小さな声。


「さっきの光、普通じゃなかったよね」


 リゼは答えなかった。


 アルトは続ける。


「君も、見えてた?」


 彼は知っている。


 少なくとも、ただの事故ではないと気づいている。


 リゼは彼の目を見た。


 怯えはある。


 痛みもある。


 だが、それ以上に、諦めに似た納得があった。


 またか。


 そう言いたげな目。


 リゼの胸の奥で、何かが冷たく沈んだ。


「医務室で処置を受けてください」


 彼女はそう言った。


 答えにはなっていない。


 だが、今はそれ以上言えなかった。


 アルトは少しだけ寂しそうに笑った。


「うん」


 彼は教師と上級生に付き添われ、講堂の側面扉へ向かう。


 リゼはその背中を目で追った。


 追従すべきか。


 護衛対象が移動する。


 だが、新入生の自分が勝手についていけば不自然だ。医務室には教師が同行している。今すぐ二度目の襲撃がある可能性は低い。むしろ、この場に残り、術式の痕跡を確認するべき。


 リゼは視線を床の焦げ跡へ戻した。


 雷撃の中心。


 そこに、ごく薄く魔術式の残滓が残っている。


 石板に焼き付いた痕は、一見ただの焦げに見える。しかし、線の一部が規則的だ。祝福魔術の術式ではない。雷属性変換。指向性付与。標的固定。


 暗殺用。


 戦場で見たものに似ている。


 いや、似ているどころではない。


 基礎構造が同じだ。


 ただし、より洗練されている。


 誰が。


 リゼは二階席を見上げた。


 先ほど黒い袖が消えた柱の影。


 今は誰もいない。


 教師や上級生たちは混乱の収拾に追われている。二階席から出ていった人物を気にしている者はいない。


 追えない。


 遅い。


 リゼは舌打ちしそうになり、寸前で抑えた。


 普通の生徒は舌打ちしない。


 少なくとも、入学式の最中には。


「皆さん、落ち着いてください」


 壇上から声が響いた。


 学園長だった。


 彼は杖を掲げ、講堂全体に静穏の魔術を広げる。ざわめきが少しずつ収まっていった。泣いていた生徒の呼吸も落ち着き、出口へ向かおうとしていた者たちも足を止める。


 強い。


 老齢だが、制御は正確。


 学園長の魔術で講堂の混乱は一応収束した。


「先ほどの祝福魔術において、術式の一部に不具合が生じました。負傷した生徒には、ただちに医務室で処置を行っています。皆さんに不安を与えたことを、学園を代表して深くお詫びします」


 不具合。


 その言葉に、リゼの目が細くなる。


 違う。


 あれは不具合ではない。


 意図的な干渉。


 殺意を持った術式の改変。


 だが、学園長はそう言わない。


 言えないのか。


 それとも、言うつもりがないのか。


 壇上右側の教師席では、何人かの教師が顔を強ばらせている。魔術科教師たちは青ざめ、補助の上級生たちは震えていた。


 その中で、一人だけ妙に落ち着いている者がいた。


 セレスティア・ノクス。


 魔術史担当の教師。


 彼女は椅子に座ったまま、穏やかな表情で講堂を見渡していた。焦りも、恐怖も、怒りも見えない。


 そして、ほんの一瞬。


 リゼの方を見た。


 目が合う。


 セレスティアは微笑んだ。


 優しい教師の笑み。


 だが、リゼはそれを見て、背中の奥が冷えるのを感じた。


 知っている。


 この女は何かを知っている。


 確証はない。


 だが、直感が告げていた。


「リゼさん」


 ミリアが小声で呼んだ。


 彼女はまだ顔色が悪い。


「今の、本当に事故だと思う?」


 リゼは答えなかった。


 答えれば、ミリアを巻き込む。


 答えなければ、不信を招く。


「わかりません」


 そう言った。


 ミリアはリゼを見つめる。


「あなたが“わからない”って言う時、本当は何かわかっている気がするわ」


「過大評価です」


「そうかしら」


 ミリアは壇上へ視線を戻した。


 手が震えている。


 リゼはそれに気づいた。


 ミリアは強い。


 少なくとも、周囲の新入生より冷静に動ける。名門家の令嬢として、突発事態への教育も受けているのだろう。


 それでも、目の前で雷撃が落ちれば震える。


 それが普通なのだ。


 リゼは自分の手を見た。


 震えていない。


 それは強さなのか。


 それとも、どこかが壊れているだけなのか。


 判断する術はなかった。


 式典は中断された。


 学園長は入学式の残りを簡略化し、新入生を順次退場させると告げた。祝福魔術は当然中止。教師たちが各組ごとに生徒を誘導する。


 一年C組の生徒たちは、動揺したまま立ち上がった。


 誰もが焦げ跡を見ていた。


 アルトが座っていた席。


 そのすぐ近くの床。


 もし直撃していれば、どうなっていたのか。


 想像しない者はいなかった。


「レインフォード君、大丈夫かな」


「偶然外れたんだよね?」


「怖かった……」


「魔術ってあんなことになるの?」


「アークレインで事故なんて……」


 声が飛び交う。


 事故。


 偶然。


 怖かった。


 リゼは焦げ跡から目を離さない。


 教師が近づいてきて、生徒たちを遠ざけ始めた。焦げた床には簡易結界が張られ、上級生が周囲を囲む。


 証拠保全。


 それ自体は正しい。


 だが、結界を張ったのは魔術科教師だ。


 犯人が教師側にいれば、証拠はすぐに消せる。


 リゼは床の痕跡を記憶した。


 焦げ跡の形。


 中心点。


 魔術式の残滓。


 雷属性変換の線。


 わずかに混じった黒い魔力の流れ。


 戦場で見た暗殺術式との一致点。


 記憶する。


 記録は後で取る。


 今は目に焼き付ける。


「グレイスさん」


 背後から声がした。


 リゼは振り返る。


 そこにいたのは、先ほどの男性教師だった。魔術科ではなく、基礎教養科の担当らしい。名は式の途中で紹介されていたが、リゼはまだ整理しきれていない。


「少し話を聞きたい」


 まずい。


 目立ったか。


 だが、拒否は不自然。


「はい」


 リゼは静かに答えた。


 ミリアが心配そうにこちらを見る。


 教師は周囲から少し離れた場所へリゼを促した。講堂の壁際。だが、完全な死角ではない。教師なりに配慮しているのだろう。


「君は、レインフォード君の近くにいたな」


「はい」


「何が起きたか、見ていたか」


「光が落ちました」


「それは皆が見ている。君は、何か異常に気づいたか」


 リゼは教師の目を見た。


 彼は本当に情報を集めようとしている。


 少なくとも、この教師自身は混乱しており、事故として処理したいというより、原因を知りたがっているように見える。


 どこまで話すべきか。


「祝福魔術の光が、一部だけ白くなりました」


「白く?」


「はい。落ちる直前です」


「他には」


「音がしました」


「音?」


「雷に似た音です」


 教師は眉を寄せた。


「雷属性への変質……いや、しかし、祝福術式にそのような構成は……」


 彼は小さく呟く。


 リゼは黙った。


 余計な知識を出せば怪しまれる。


「君は、その前に何かしていたか」


 教師の質問が鋭くなった。


「何か、とは」


「近くの生徒が、君が床に屈んだと言っていた」


「落とし物を拾おうとしました」


「何を」


 リゼは手の中に残していた金属片を出さなかった。


 それはすでに袖の内側へ隠してある。


 代わりに、床に落ちていた別の羽根ペンを示した。


「筆記具です」


「それは君のものか」


「いいえ。近くに落ちていました」


「なぜ拾おうと?」


「踏むと危険です」


 教師はリゼを見つめた。


 完全には納得していない。


 だが、矛盾はない。


 新入生が落ちた筆記具を拾おうとした。その直後に魔術事故が起きた。それだけなら不自然ではない。


「そうか」


 教師はゆっくり頷いた。


「レインフォード君への応急処置も、君が?」


「ハンカチを濡らして当てただけです」


「普通の新入生にしては落ち着いていた」


 リゼは答えた。


「地方の騎士家で、応急処置を学びました」


 この説明は便利だった。


 ただし、使いすぎると怪しまれる。


 教師は少し考えた後、頷いた。


「わかった。今日のところは寮へ戻りなさい。もし他に思い出したことがあれば、担任か寮母へ報告するように」


「はい」


「それと」


 教師は声を少し柔らかくした。


「君も怖かっただろう。無理はしないように」


 リゼは一瞬、返答に困った。


 怖かった。


 怖かったのか。


 雷撃が落ちた瞬間、彼女が感じたのは恐怖ではなかった。


 判断。


 計算。


 選択。


 対象の生存確認。


 それだけ。


「はい」


 とだけ答えた。


 教師は去っていく。


 リゼは講堂の中央へ視線を戻した。


 焦げ跡の周囲では、魔術科教師たちが何かを話し合っている。学園長は壇上奥で、数人の教師と低い声で話していた。


 セレスティアの姿は、壇上から消えていた。


 いつの間に。


 リゼは周囲を見回した。


 いない。


 二階席にも、側面扉付近にも。


 消えた。


「リゼさん」


 ミリアが近づいてきた。


「大丈夫だった?」


「はい」


「先生に何を聞かれたの?」


「見たことを」


「何て答えたの?」


「光が白くなったと」


「それだけ?」


「はい」


 ミリアは納得していない顔だった。


 だが、ここで追及するのはやめたらしい。


「アルトさん、医務室よね」


「はい」


「お見舞いに行けるかしら」


 リゼはすぐに考えた。


 護衛対象に接触する好機。


 だが、事件直後にリゼが積極的に行けば目立つ。ミリアが一緒なら自然になる。クラスメイトとして心配して行く。それなら不自然ではない。


「行くべきです」


 リゼは言った。


 ミリアが少し驚く。


「あなたがそう言うのね」


「同じ組の生徒です」


「友達作り?」


「関係構築です」


「言い方」


「……心配です」


 リゼが言い直すと、ミリアは一瞬きょとんとした。


 それから、少しだけ笑った。


「今の方がいいわ」


 リゼには、何が良かったのかわからなかった。


 だが、ミリアの表情が少し緩んだので、正解に近かったのだろう。


 講堂からの退場が始まった。


 一年C組は教師の指示に従い、列を作って外へ出る。新入生たちは皆、朝とは別人のように口数が少ない。


 講堂の外に出ると、眩しいほどの青空が広がっていた。


 雨上がりの空気。


 花壇の匂い。


 遠くで鳴く鳥。


 まるで何事もなかったかのような学園の景色。


 その穏やかさが、かえって不気味だった。


 リゼは階段を下りる前に、もう一度だけ講堂を振り返った。


 二階席。


 柱の影。


 消えた黒い袖。


 壇上から消えたセレスティア。


 床に焼き付いた暗殺術式。


 すべてを記憶する。


 外へ出たところで、学園職員が新入生たちへ説明を始めた。


「本日の予定は変更となります。各組の生徒は一度教室へ移動し、担任から説明を受けてください。負傷者の容体については、確認が取れ次第お知らせします」


 教室。


 医務室ではない。


 リゼは内心で舌を打つ。


 すぐにアルトの状態を確認したい。


 だが、指示に逆らえば目立つ。


 ミリアが小声で言う。


「まず教室ね。その後、医務室に行けるか先生に聞きましょう」


「はい」


 二人は列に従って歩き出した。


 リゼは周囲を警戒しながら、同時に袖の内側に隠した小さな金属片を指で確認した。


 雷撃を逸らすために使ったもの。


 講堂の装飾に当たり、跳ね返り、混乱の中で彼女の近くに戻ってきた。運が良かった。いや、計算の範囲内だったと言うべきか。


 金属片には、微かな熱が残っている。


 そして、そこに付着した魔力の匂い。


 祝福魔術ではない。


 暗く、鋭く、細い殺意。


 戦場で嗅いだことのある匂い。


 リゼはそれを握りしめた。


 アルト・レインフォードは狙われている。


 それはもう疑いではない。


 事実だ。


 問題は、誰が、なぜ、どこまで知っているのか。


 そして、敵は自分の存在に気づいたのか。


 その時、背後から視線を感じた。


 リゼは振り返らない。


 正門の時と同じ。


 獲物を値踏みするような視線。


 だが、今度はもう少し近い。


 校舎の二階。


 開いた窓。


 薄紫のローブの袖。


 セレスティア・ノクスが、そこに立っていた。


 遠目にもわかるほど穏やかな微笑を浮かべて。


 彼女は何も言わない。


 ただ、リゼを見ていた。


 リゼもまた、歩きながら一瞬だけ視線を返す。


 次の瞬間には、セレスティアの姿は窓辺から消えていた。


 ミリアが気づく。


「どうしたの?」


「何でもありません」


「またそれ」


 リゼは答えず、前を向いた。


 石畳を歩く新入生たちの列は、ゆっくりと第一校舎へ向かっている。


 誰もが、今の事件を魔術事故だと思おうとしていた。


 そうでなければ、怖すぎるからだ。


 だが、リゼは違う。


 彼女は知っている。


 あれは事故ではない。


 祝福に紛れた殺意。


 光の花弁に隠された雷。


 そして、標的は間違いなくアルトだった。


 校舎へ入る直前、リゼは手の中の金属片をもう一度強く握った。


 薄い痛みが掌に走る。


 その痛みで、思考がさらに澄んでいく。


 護衛対象、生存。


 敵、不明。


 学園側、信用不可。


 セレスティア・ノクス、要監視。


 次に狙われた時、偶然だけでは足りない。


 リゼは小さく息を吸った。


 そして、誰にも聞こえないほど低く呟いた。


「次は、外させない」


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