第1章 第4話:護衛対象の少年
中央講堂へ向かう道は、新入生たちで溢れていた。
朝の光を受けた石畳が、雨上がりの名残をわずかに残して輝いている。両脇の花壇には白と青の花が並び、魔術で整えられた噴水が柔らかな水音を立てていた。学園の空気は昨日よりも明るく、軽い。
今日から始まる。
そんな期待が、見えない熱のように道全体を包んでいた。
誰かが友人の名を呼ぶ。
誰かが制服の襟を気にする。
誰かが緊張で歩幅を狭め、誰かが家族に向けて最後に手を振っている。
その中で、リゼは周囲の笑顔ではなく、別のものを見ていた。
人の密度。
移動速度。
集団の流れ。
視線の向き。
手荷物の大きさ。
袖の膨らみ。
足音の重さ。
新入生の中に紛れた不審者がいるとすれば、どこに立つか。
暗殺者がこの行列を狙うなら、どの瞬間を選ぶか。
群衆の中で護衛対象を見失わないためには、どの位置を取るべきか。
リゼはすべてを同時に考えながら歩いていた。
「リゼさん」
隣を歩くミリアが、少し低い声で呼ぶ。
「はい」
「眉間」
「眉間?」
「しわが寄っているわ」
リゼは自分の眉間に指を当てた。
確かに、少し力が入っていた。
「周囲を警戒している顔になっている」
「警戒しています」
「それを隠して」
「難度が高いです」
「普通の新入生は、入学式に向かう時、敵を探さないの」
「探さない方が危険です」
「だから、その考え方を顔に出さないでと言っているの」
ミリアはため息をついたが、声には昨日ほどの刺はなかった。
昨夜の靴跡を一緒に確認したせいだろう。
ミリアはもう、リゼの警戒をただの奇行として片づけてはいない。かといって完全に理解したわけでもない。その間で、彼女なりに折り合いをつけようとしている。
リゼにとって、それは扱いの難しい変化だった。
疑われすぎれば困る。
しかし、信頼されすぎても危険だ。
ミリアはリゼの正体を知らない。護衛任務のことも、アルト・レインフォードの危険も、戦争の英雄としての名も知らない。
知らないままの方がいい。
少なくとも、今は。
「入学式では、まず学園長の挨拶があるはずよ」
ミリアが前を向いたまま言う。
「その後、教師紹介。在校生代表の祝辞。新入生代表の宣誓。それから、祝福魔術」
「祝福魔術」
「新入生に光の花弁を降らせる儀式よ。アークレインの伝統なの」
「魔術の規模は」
「講堂全体を包む程度でしょうね。兄たちの時は、天井いっぱいに光が広がったと聞いたわ」
「発動者は」
「式典担当の教師と、高等部の魔術科生徒。たぶん、補助に何人か入ると思う」
「術式への外部干渉対策は」
「……あなた、祝福魔術を何だと思っているの?」
「講堂全体に作用する大規模魔術です。発動中に術式を書き換えられれば、被害が拡大します」
ミリアは口を開きかけ、閉じた。
言い返そうとしたが、昨日の靴跡を思い出したのかもしれない。
「普通は、そんなこと起きないわ」
「普通でない事態への備えが必要です」
「でも、式典でそんな事件が起きるなんて……」
ミリアの声が少し弱くなる。
リゼは彼女を見た。
不安を煽るべきではなかった。
ミリアは護衛対象ではないが、同室者であり、今後の学園生活における重要接触者だ。過度な不安は行動を不自然にする。リゼ自身の正体露見にもつながる。
「可能性の確認です」
リゼは言い直した。
「発生するとは限りません」
「……そうね」
ミリアは軽く息を吐く。
「あなたと話していると、平和な入学式まで戦場に見えてくるわ」
「見方の問題です」
「その見方を変える努力をしましょう」
「はい」
中央講堂が近づいてきた。
白い円柱が並ぶ巨大な建物。昨日、遠くから見た時よりもはるかに大きい。正面の階段には赤い絨毯が敷かれ、入口の上には王立アークレイン学園の紋章が掲げられている。鐘楼の上では、銀色の鐘が朝日を受けて輝いていた。
講堂の周囲には、教師らしき大人たちと上級生の案内役が配置されている。
入口は三つ。
中央の大扉は新入生用。
左右の小扉は教師と来賓用。
窓は高い位置にあり、外部からの侵入は容易ではない。ただし、内部の二階席からは一階を見下ろせる構造になっている。警備上は有利だが、攻撃者にとっても有利な高所となる。
リゼは講堂の上部を見た。
二階の窓。
尖塔へ続く細い階段。
屋根の張り出し。
鐘楼。
狙撃地点、複数。
魔術なら遮蔽物を無視できる場合もある。
「リゼさん」
ミリアがまた呼ぶ。
「はい」
「今度は屋根を見ていたわ」
「構造確認です」
「入学式の前に屋根を確認する新入生は少ないと思うの」
「少ないだけで、いないとは限りません」
「あなたくらいよ」
そう言われた直後、近くで明るい声がした。
「あ、ミリア様!」
数人の女子生徒がこちらへ駆け寄ってきた。
昨日の食堂で挨拶してきた新入生たちだ。制服はきちんと整えられているが、緊張で頬が少し赤い。
「おはようございます、ミリア様」
「おはよう。昨日も言ったけれど、同じ新入生なのだから、様はなくていいわ」
「で、でも」
「では、少しずつ慣れていきましょう」
ミリアは柔らかく微笑む。
相手の緊張がほどける。
リゼはその横で、周囲の警戒を続けた。
会話の輪に入る必要はない。
むしろ、黙っていた方が目立たない。
そう判断した。
だが、女子生徒の一人がおずおずとリゼへ視線を向ける。
「グレイスさんも、おはようございます」
リゼは一瞬遅れて答えた。
「おはようございます」
昨日ミリアから学んだ、正しい返答。
女子生徒は少し安心したように笑った。
「今日は緊張しますね」
「はい」
「グレイスさんは、緊張していますか?」
「していません」
即答。
場がわずかに止まった。
リゼは失敗を悟る。
普通は、こういう時、相手に合わせて「少し」と言うべきだったのかもしれない。
ミリアがすかさず補う。
「リゼさんは、とても落ち着いているの。剣術科だからかしら」
「そうなんですね。すごいです」
女子生徒は無理やり納得したように頷いた。
リゼはミリアを見る。
ミリアは小声で言った。
「こういう時は、“少し緊張しています”でいいの」
「虚偽になります」
「社交よ」
「難しいです」
「でしょうね」
そんなやり取りをしている間にも、新入生たちは次々と講堂へ吸い込まれていく。
案内役の上級生が声を張った。
「一年C組の皆さんは、講堂内右側の区画へお進みください。席は名簿順です。荷物は膝元へ置き、私語はお控えください」
一年C組。
リゼの所属。
そして、護衛対象アルト・レインフォードの所属。
リゼの意識が鋭くなる。
講堂へ入る前に、対象を発見できれば有利だ。
彼女は人波の中から、資料で見た少年の特徴を探した。
栗色の髪。
十五歳。
身長は平均よりやや低め。
体格は細い。
顔立ちは穏やか。
奨学生。
目立たない。
目立たない人物を群衆から探すのは難しい。
だが、不可能ではない。
目立たない者には、目立たないなりの癖がある。人の流れに逆らわない。視線を集めない位置を取る。騒がしい集団から半歩離れる。誰かの邪魔にならない場所に立つ。
リゼは視線を流す。
貴族の少年たち。
従者を伴った少女。
緊張で書類を握りしめる生徒。
友人同士で笑う一団。
入口横で、案内板を確認している少年。
違う。
そのさらに奥。
中央講堂の柱の影。
人混みの端。
一人の少年が立っていた。
栗色の髪。
柔らかな表情。
手には入学式の案内票。
周囲と距離を取りすぎてはいない。孤立しているようには見えない。しかし、誰かにぶつかられる位置でもない。柱を背にし、右側は壁、左側には人の流れ。前方は開けている。
無防備に見える。
だが、完全には無防備ではない。
リゼの視線が止まった。
アルト・レインフォード。
護衛対象。
資料の絵姿より、実物の方が印象が薄い。
それは容姿が劣るという意味ではない。むしろ整っている。優しげな目元、穏やかな口元、柔らかそうな髪。だが、見る者の記憶に強く残らないような、淡い雰囲気をまとっていた。
危険なほど、目立たない。
暗殺対象としては、守りにくい。
リゼはすぐに周囲を確認した。
アルトの近くに不審者。
なし。
だが、接近可能な人物は多い。
通行人を装えば、三歩以内まで近づける。
魔術具を使えば、視線を集めず攻撃できる。
警備は講堂入口に集中しており、柱の影は死角になりやすい。
危険。
「リゼさん?」
ミリアが呼ぶ。
リゼは返事をしなかった。
意識はすでにアルトへ向いていた。
任務上、接触は必要。
ただし、護衛であると悟られてはならない。
自然な接触。
同じ一年C組の新入生として、挨拶をする。
それだけなら不自然ではない。
問題は、リゼに自然な挨拶ができるかどうかだった。
ミリアがリゼの視線の先を追う。
「知り合い?」
「いいえ」
「では、なぜそんなに見ているの?」
「一年C組の生徒です」
「あなたもでしょう?」
「はい」
「話しかけたいの?」
リゼは少しだけ考えた。
話しかけたい。
その表現は正確ではない。
任務上、接触が必要。
だが、それを言うわけにはいかない。
「同じ組の生徒と、関係構築を行います」
ミリアは一瞬黙った。
「友達作りのこと?」
「はい」
「それなら、もう少し柔らかく言いなさい」
「努力します」
ミリアはアルトの方を見た。
「あの子、確か名簿にあったわね。アルト・レインフォードさんだったかしら」
リゼの内側で警戒が跳ねた。
ミリアはアルトの名を知っている。
だが、名簿を見れば誰でもわかることだ。
過剰反応は不要。
「知っているのですか」
「いいえ。ただ、奨学生枠の入学生だと聞いたわ。基礎教養科で成績がとても良いそうよ」
「奨学生」
「王立学園の奨学生は、貴族の推薦がなくても入れる代わりに、とても厳しい選抜を通るの。優秀なのでしょうね」
優秀。
資料にも、魔術理論に高い適性とあった。
ただし、身体能力は標準以下。
リゼはアルトの立ち姿を見る。
標準以下。
そう書かれていた。
だが、今の立ち方は、完全な素人のものではない。
戦闘訓練を受けた者の立ち方ではない。反撃を前提とした構えでもない。けれど、自分がどこに立てば安全かを、本能的に知っている。
危険に慣れている。
そんな立ち方だった。
「話しかけるなら、今のうちよ」
ミリアが言った。
「式が始まったら席に着いてしまうもの」
「はい」
リゼは歩き出した。
ミリアも自然に横についてくる。
「同行しますか」
「ええ。あなた一人だと、また“接近目的は何ですか”みたいな挨拶をしかねないから」
「改善します」
「私が見ていてあげる」
監視。
いや、心配。
リゼはそう分類し直した。
人波を抜ける。
アルトとの距離、二十歩。
十五歩。
十歩。
アルトはまだこちらに気づいていないように見える。
だが、リゼにはわかった。
彼の視線が一度、案内票から外れた。
こちらを直接見るのではなく、周囲の反射を見るような動き。
気づいている。
接近者に気づいているのに、気づいていないふりをしている。
なぜ。
護衛対象についての評価を修正する必要がある。
五歩。
リゼは声をかける位置を考える。
正面から接近すれば自然。
だが、人の流れの関係で、やや背後気味になる。
背後から声をかけるのは不適切か。
リゼは判断に迷い、結果として少し近づきすぎた。
アルトの背後、二歩。
相手の反応を見るには近い。
攻撃距離としても近い。
アルトの肩が、ほんのわずかに揺れた。
彼は振り返る。
柔らかな栗色の髪が揺れ、淡い茶色の目がリゼを捉えた。
その目は、驚いていた。
だが、恐怖はなかった。
「……えっと」
アルトは一瞬困ったように笑う。
「僕に何か用かな?」
リゼは言葉を選んだ。
対象確認。
そう言ってはいけない。
護衛対象。
論外。
接触開始。
不自然。
同級生らしい挨拶。
ミリアから学んだ内容を検索する。
おはようございます。
名前を名乗る。
よろしくお願いします。
「おはようございます」
リゼは言った。
「リゼ・グレイス。剣術科所属予定。一年C組です。よろしくお願いします」
声は硬かった。
上官への報告のようだった。
アルトは目を瞬かせた。
それから、少し笑った。
「ずいぶん丁寧な自己紹介だね」
「不備がありましたか」
「いや、そういう意味じゃなくて」
彼は柔らかく首を振った。
「僕はアルト・レインフォード。同じ一年C組だよ。よろしく、リゼさん」
アルトが手を差し出した。
握手。
友好のしるし。
リゼはその手を見た。
細い指。
剣を握り慣れた手ではない。
だが、完全に柔らかいだけでもない。指先に薄いインクの跡。紙を扱う者の手。右手の親指と人差し指に、ペンだこがある。掌の中央には古い擦り傷。転倒時についたものか、何かを強く握った痕か。
手首は細い。
拘束すれば容易に制圧できる。
だが、制圧してはいけない。
握手だ。
リゼは慎重に手を伸ばした。
その瞬間、アルトの視線がリゼの手に落ちた。
ほんの一瞬。
リゼの手には、剣だこがある。小さな傷も多い。十五歳の少女の手としては、明らかに硬すぎる。
アルトは気づいた。
だが、何も言わなかった。
リゼの手を、普通に握った。
温かい。
力は弱い。
しかし、触れた瞬間に少しだけ指が固くなった。
警戒。
アルトは警戒している。
それを隠している。
リゼは握手を終え、手を離した。
ミリアが横から入る。
「私はミリア・ファルネーゼ。同じ一年C組よ。よろしく、アルトさん」
「ファルネーゼ……」
アルトは少しだけ目を見開いた。
名門家の名に反応した。
だが、萎縮はしない。
「こちらこそ、よろしくお願いします。ミリアさん」
「敬語でなくてもいいわ。同じ新入生ですもの」
「それなら、僕にも敬語はいらないよ。リゼさんも」
アルトがリゼを見る。
リゼはすぐには答えなかった。
敬語を外す。
どの程度まで崩せばいいのか不明。
「努力します」
「努力するものなの?」
アルトは小さく笑った。
その笑顔は、柔らかかった。
リゼは一瞬、反応に困った。
敵意がない。
警戒はある。
けれど、こちらを拒絶していない。
奇妙だった。
護衛対象が護衛に対して好意的であることは、任務上有利だ。接近しやすくなる。移動経路も把握しやすい。危機時にも指示を通しやすい。
だが、近づきすぎれば護衛と悟られる。
距離の調整が必要。
「二人は、もともと知り合い?」
アルトが尋ねた。
ミリアが答える。
「昨日、寮で同室になったの」
「同室なんだ。もう仲がいいんだね」
リゼは即座に言う。
「判断には早いです」
ミリアが肘で軽くつついた。
「痛くはありません」
「そういう意味ではないわ」
アルトは楽しそうに二人を見ていた。
「なんだか、面白い組み合わせだね」
「本日二回目の面白いです」
リゼが言う。
アルトは首を傾げた。
「二回目?」
「昨日から複数回、変わっている、面白い、と評価されています」
「それを数えているんだ」
「はい」
アルトは声を立てずに笑った。
からかいではない。
純粋に、可笑しそうだった。
リゼはその笑顔を見つめた。
資料には、温厚、知的、争いを嫌う傾向とあった。
だが、目の奥にあるものは、それだけではない。
諦めに近い静けさ。
何かを受け入れすぎている目。
十五歳の少年が持つには、少し古い光だった。
リゼはその目を知っていた。
戦場で何度も見た。
死が近くにあることに慣れた者の目。
ただし、アルトのそれは兵士の目ではない。
逃げ場のない小動物が、長い時間をかけて怯えることに疲れたような目だった。
護衛対象の心理状態、要注意。
「アルトさんは」
リゼは口を開く。
ミリアが隣で小さく身構えた。
変なことを言うな、という気配。
リゼは言葉を選ぶ。
「一人でいたのですか」
ミリアがほっとしたように息を吐いた。
質問としては普通だったらしい。
アルトは少しだけ肩をすくめる。
「知り合いがいなくて。奨学生は少ないし、僕は王都でもあまり人付き合いがなかったから」
「なぜ」
また直接聞きすぎた。
ミリアの視線が刺さる。
しかしアルトは気を悪くした様子もなく、淡く笑った。
「家の事情、かな」
家の事情。
詳細不明。
資料にも家族構成不明とあった。
ここで踏み込むべきか。
否。
周囲に人が多い。会話を聞かれる可能性がある。初対面で深く追及するのは不自然。
リゼは頷くだけにした。
「そうですか」
「うん」
アルトは案内票を軽く持ち上げる。
「実は、席の場所を確認していたんだけど、講堂が広すぎて少し不安だったんだ。君たちも一年C組なら、一緒に行ってもいい?」
リゼにとっては好都合だった。
護衛対象の近くに自然に位置取れる。
ただし、即答すると不自然かもしれない。
ミリアが先に微笑んだ。
「もちろんよ。ね、リゼさん」
「はい」
リゼは頷く。
「同行しましょう」
「同行」
アルトがまた笑う。
「リゼさんは、言葉が少し軍人さんみたいだね」
リゼの心臓が、ほんのわずかに強く鳴った。
表情には出さない。
ミリアも一瞬こちらを見る。
リゼは平静に答えた。
「地方騎士家で育ちました」
「そっか。だから姿勢が綺麗なんだ」
アルトはそう言った。
追及しない。
助かった。
しかし、気づいていないわけではない。
アルトは見ている。
リゼの言葉、姿勢、手、視線。
そのうえで、あえて流している。
護衛対象は、想定よりも厄介かもしれない。
三人は講堂の入口へ向かった。
中央扉をくぐると、内部の広さに圧倒される新入生たちの声があちこちで上がった。
高い天井。
巨大なステンドグラス。
壁に並ぶ歴代学園長の肖像画。
正面壇上には学園長席と教師席があり、その背後には王国旗と学園旗が掲げられている。天井中央には、祝福魔術用と思われる巨大な魔術陣が刻まれていた。光を通す透明な魔導硝子で構成され、細い銀の線が蜘蛛の巣のように広がっている。
リゼの視線は、即座にそこへ吸い寄せられた。
大規模術式。
複数の補助陣。
制御核はおそらく壇上右手。
二階席にも補助術者用の位置がある。
講堂全体に作用する構造。
正常に使えば美しい儀式になる。
だが、術式をほんの一部書き換えれば、光は刃にも火にも雷にもなる。
リゼは喉の奥に、小さな違和感を覚えた。
魔力の残り香。
古い。
だが、祝福用にしては少し鋭い。
「すごい……」
アルトが小さく呟いた。
その声には、純粋な感嘆があった。
彼の目が天井の魔術陣を追う。
魔術理論に適性があるという資料通り、ただ綺麗だから見ているわけではない。構造を読み取ろうとしている視線だった。
「アルトさんは、魔術が得意なの?」
ミリアが尋ねる。
「実技はあまり。でも、理論は好きなんだ」
「魔術理論が好きなのね。私は実技寄りだから、理論が得意な人は尊敬するわ」
「ファルネーゼ家の人にそう言われると、恐縮するな」
「家名ではなく、私個人の感想よ」
ミリアがさらりと言う。
アルトは少し驚き、それから微笑んだ。
「ありがとう」
リゼは二人の会話を聞きながら、周囲を確認した。
一年C組の席は、講堂右側の中ほど。
座席は縦に並んでおり、名簿順に指定されている。
リゼ・グレイス。
席は右列、中央付近。
ミリア・ファルネーゼは同じ列の少し前。
アルト・レインフォードは、リゼの二列斜め前。
距離は近い。
護衛可能範囲。
ただし、席順の都合で直接隣には座れない。式典中に異常が起きた場合、リゼが動けるまでに二列分の障害がある。椅子の間隔は狭く、立ち上がる生徒が多ければ移動困難。
天井からの攻撃には、位置的に不利。
正面壇上からの攻撃にも、射線が通る。
二階席からなら、アルトは狙いやすい。
リゼは講堂二階へ視線を向けた。
上級生、来賓、教師補助。
誰が敵でもおかしくない。
その中で、ひときわ静かな女性が目に留まった。
長い黒髪を後ろでまとめた教師。
白に近い薄紫のローブ。
穏やかな微笑。
年齢は二十代後半から三十代前半。
彼女は二階席の手すり近くに立ち、講堂全体を眺めていた。
目が合った。
いや、正確には、合ったような気がした。
次の瞬間、女性教師は別の生徒へ視線を移した。
リゼは記憶する。
教師。
魔術師。
冷静。
要確認。
「リゼさん、席はこっちよ」
ミリアに呼ばれ、リゼは視線を戻した。
アルトは自分の席を見つけたらしく、案内票を確認している。
「僕はここみたいだ」
彼の席は通路側ではない。
内側。
つまり、緊急時に動きにくい。
リゼは一瞬、席を替わる方法を考えた。
だが、不自然。
入学式の席順は名簿通り。勝手に変えれば記録に残る。教師の注意を引く。
アルトを守るには、自分の位置から動くしかない。
「リゼさん?」
アルトが声をかける。
リゼが彼を見た。
「どうかした?」
「いえ」
リゼは一瞬迷い、言葉を足した。
「足元に荷物を置く場合、通路側に寄せない方がいいです」
「え?」
「緊急時の移動を妨げます」
アルトは瞬きした。
ミリアが後ろで頭を抱える気配がした。
だがアルトは、怒らなかった。
むしろ、少しだけ真面目な顔になった。
「……わかった。ありがとう」
彼は素直に荷物を椅子の下へ収めた。
理解が早い。
それに、リゼの助言を奇妙だと思いながらも受け入れた。
やはり、危険に対する感度がある。
リゼは自分の席へ向かった。
椅子に座る。
背もたれが邪魔だ。
視界が制限される。
前方にアルトの後頭部が見える。
護衛対象確認。
距離、およそ四歩半。
障害物、椅子二列、生徒二名。
攻撃方向、天井、壇上、二階席、左右通路、背後。
緊急時、最短経路は右通路から斜め前。椅子の背を踏んで越えれば一呼吸短縮可能。ただし目立つ。
式典中は正体秘匿。
しかし対象の生命が優先。
リゼは呼吸を整える。
周囲の生徒たちは、期待に満ちた顔で壇上を見ている。
ミリアは前方で姿勢よく座っている。時折、周囲の生徒と小さく挨拶を交わす。
アルトは静かに席についていた。
手元の案内票を畳み、膝の上に置いている。背筋は伸びているが、肩にはわずかな力が入っている。
緊張。
それは普通の入学式への緊張か。
それとも、自分が狙われるかもしれないという緊張か。
判断不能。
講堂の扉が閉じられる。
重い音が響いた。
その瞬間、リゼは反射的に扉の構造を確認した。
内側から開閉可能。
ただし混乱時には押し合いになる可能性が高い。
閉鎖空間。
敵にとっても味方にとっても、逃げ場は限られる。
鐘が鳴った。
一つ。
二つ。
三つ。
講堂内のざわめきが静まっていく。
壇上の奥から、学園長と思われる老人が現れた。白髪を後ろへ撫でつけ、深い青のローブを纏っている。歩みは遅いが、魔力は強い。老齢による衰えはあるが、並の魔術師ではない。
教師たちが席につく。
その中に、先ほど二階席で見た黒髪の女性教師もいた。
彼女は壇上右側、魔術系教師の席に座る。
リゼの視線が一瞬だけ止まる。
女性教師は、こちらを見ていない。
だが、見られていないとは限らない。
「新入生諸君」
学園長の声が、魔術で講堂全体に広がった。
低く、穏やかで、よく通る声だった。
「王立アークレイン学園へ、ようこそ」
講堂の空気が変わる。
新入生たちは一斉に姿勢を正した。
リゼも周囲に合わせて背筋を伸ばす。
学園長の挨拶が始まった。
歴史。
誇り。
学び。
未来。
王国に仕える者としての責務。
自らの道を見つけること。
仲間と共に成長すること。
聞きながら、リゼは言葉の意味を分解していた。
責務。
道。
仲間。
成長。
戦場でも似た言葉は使われた。
だが、そこではもっと短く、もっと冷たかった。
命令。
進軍。
部隊。
生存。
同じように聞こえて、まったく違う。
「君たちは今日、この学園の門をくぐった。三年後、この場所を去る時、君たちは今とは違う自分になっているだろう」
三年後。
リゼの視線が、前方のアルトへ向く。
任務期間。
卒業まで。
三年後、この少年は生きているのか。
生かさなければならない。
それが任務。
だが、彼自身は三年後の自分を想像しているのだろうか。
アルトは静かに学園長を見ていた。
その横顔は穏やかで、少し遠い。
やはり、どこか諦めているように見える。
学園長の挨拶が終わり、教師紹介へ移った。
剣術科、魔術科、基礎教養科、薬学、歴史、礼法、戦術学。
名前が読み上げられる。
リゼは特に、魔術系教師の名前を記憶した。
「魔術史担当、セレスティア・ノクス」
黒髪の女性教師が立ち上がった。
講堂内の視線が集まる。
セレスティア・ノクス。
彼女は穏やかに微笑み、優雅に一礼した。
その動作には無駄がない。
貴族的な洗練とは少し違う。
刃物を布で包んだような静けさ。
「皆さんと古き魔術の歴史を学べることを、心から楽しみにしています」
声は柔らかい。
聞く者を安心させる声。
だが、リゼの背筋には、ほんのわずかに冷たいものが走った。
この教師は危険だ。
理由は明確ではない。
魔力の質か。
視線か。
立ち方か。
それとも、戦場で何度も生死を分けてきた感覚か。
リゼはセレスティアの名を記憶した。
教師紹介が続く。
その間も、リゼはアルトを視界から外さない。
アルトは特定の教師に強い反応を示していない。
ただし、セレスティアが名乗った時、彼の指先が案内票の端を少しだけ強く握った。
偶然か。
要確認。
在校生代表の祝辞が終わり、新入生代表が宣誓を行う。
式は滞りなく進んでいる。
何も起きない。
普通の入学式。
そう見える。
だが、リゼの内側では警戒が薄まらない。
天井の魔術陣。
二階席。
壇上右側の制御核。
セレスティア。
アルトの指先。
すべてが細い糸でつながりそうで、まだつながらない。
やがて、学園長が再び前へ出た。
「それでは、アークレインの伝統に従い、新入生諸君へ祝福を」
講堂内に、わずかなざわめきが広がる。
新入生たちの顔が輝いた。
ミリアも前方で、少しだけ楽しそうに天井を見上げている。
アルトも顔を上げた。
リゼは顔を上げない。
視線だけで天井の魔術陣を見る。
壇上右手に、数名の教師が移動する。
二階席の補助術者たちも立ち上がった。
魔力が流れ始める。
祝福魔術。
光の花弁。
安全な儀式。
そのはずだった。
最初に灯った光は、美しかった。
天井の魔術陣に沿って銀の線が輝き、青白い光がゆっくりと広がっていく。やがて、それは淡い金色へ変わり、花びらの形を作り始めた。
講堂のあちこちから感嘆の声が漏れる。
「綺麗……」
「すごい」
「これがアークレインの祝福……」
ミリアも目を奪われている。
アルトもまた、静かにその光を見上げていた。
リゼは、光の美しさを見ていなかった。
魔力の流れを見ていた。
主術式は正常。
補助陣も安定。
だが、講堂右側上部。
アルトの頭上に近い領域。
ほんのわずかに、流れが歪んだ。
祝福用の光属性魔力に、細い別系統の魔力が混じっている。
色はほとんど変わらない。
一般の生徒にはわからない。
教師でも、儀式の全体制御に意識を向けていれば見逃すかもしれない。
だが、リゼは見逃さなかった。
戦場で一度、似たものを見た。
敵の司令官を暗殺するため、祝勝用の発光魔術に雷撃術式を混ぜた罠。
発動まで、数呼吸。
標的。
アルト・レインフォード。
リゼの全身から、余計な感覚が消えた。
音が遠くなる。
新入生たちの歓声も、衣擦れも、鐘の残響も消える。
残るのは、対象との距離、障害物、魔力の歪み、可能な対応。
全力で動けば間に合う。
だが、目立つ。
椅子を蹴り、前列を飛び越え、アルトを押し倒せば守れる。
しかし、それをすれば正体が露見する可能性が高い。
動かない。
対象死亡。
任務失敗。
別の方法。
リゼの視線が床へ落ちる。
隣の生徒が、緊張のせいか筆記具を落としていた。小さな金属製のペン先。床に転がり、椅子の脚の近くで止まっている。
利用可能。
雷撃はまだ形成途中。
術式は魔術陣から直接落ちるのではなく、光の花弁を媒介にして変質する。角度をずらせば、標的点を変えられる。
金属片。
反射。
誘導。
リゼは体をわずかに沈めた。
落とし物を拾うように。
周囲からはそう見える角度で。
指先がペン先を拾う。
親指と中指に挟む。
力加減。
角度。
目標は天井の装飾金具。
そこへ当てれば、揺れた装飾が光の経路を乱す。
完全には止められない。
だが、直撃は外せる。
発動まで、一呼吸。
リゼは金属片を弾いた。
音は小さい。
ほとんど誰にも聞こえない。
金属片は椅子の下を抜け、前列の脚の間を通り、斜め上へ跳ねた。講堂の装飾金具に当たり、澄んだ小さな音を立てる。
次の瞬間。
アルトの頭上に降りるはずだった光の花弁が、鋭く白く変質した。
雷。
祝福の光に紛れた殺意。
リゼは立ち上がりかける。
間に合え。
白い閃光が落ちた。




