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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第1章 第4話:護衛対象の少年


 中央講堂へ向かう道は、新入生たちで溢れていた。


 朝の光を受けた石畳が、雨上がりの名残をわずかに残して輝いている。両脇の花壇には白と青の花が並び、魔術で整えられた噴水が柔らかな水音を立てていた。学園の空気は昨日よりも明るく、軽い。


 今日から始まる。


 そんな期待が、見えない熱のように道全体を包んでいた。


 誰かが友人の名を呼ぶ。


 誰かが制服の襟を気にする。


 誰かが緊張で歩幅を狭め、誰かが家族に向けて最後に手を振っている。


 その中で、リゼは周囲の笑顔ではなく、別のものを見ていた。


 人の密度。


 移動速度。


 集団の流れ。


 視線の向き。


 手荷物の大きさ。


 袖の膨らみ。


 足音の重さ。


 新入生の中に紛れた不審者がいるとすれば、どこに立つか。


 暗殺者がこの行列を狙うなら、どの瞬間を選ぶか。


 群衆の中で護衛対象を見失わないためには、どの位置を取るべきか。


 リゼはすべてを同時に考えながら歩いていた。


「リゼさん」


 隣を歩くミリアが、少し低い声で呼ぶ。


「はい」


「眉間」


「眉間?」


「しわが寄っているわ」


 リゼは自分の眉間に指を当てた。


 確かに、少し力が入っていた。


「周囲を警戒している顔になっている」


「警戒しています」


「それを隠して」


「難度が高いです」


「普通の新入生は、入学式に向かう時、敵を探さないの」


「探さない方が危険です」


「だから、その考え方を顔に出さないでと言っているの」


 ミリアはため息をついたが、声には昨日ほどの刺はなかった。


 昨夜の靴跡を一緒に確認したせいだろう。


 ミリアはもう、リゼの警戒をただの奇行として片づけてはいない。かといって完全に理解したわけでもない。その間で、彼女なりに折り合いをつけようとしている。


 リゼにとって、それは扱いの難しい変化だった。


 疑われすぎれば困る。


 しかし、信頼されすぎても危険だ。


 ミリアはリゼの正体を知らない。護衛任務のことも、アルト・レインフォードの危険も、戦争の英雄としての名も知らない。


 知らないままの方がいい。


 少なくとも、今は。


「入学式では、まず学園長の挨拶があるはずよ」


 ミリアが前を向いたまま言う。


「その後、教師紹介。在校生代表の祝辞。新入生代表の宣誓。それから、祝福魔術」


「祝福魔術」


「新入生に光の花弁を降らせる儀式よ。アークレインの伝統なの」


「魔術の規模は」


「講堂全体を包む程度でしょうね。兄たちの時は、天井いっぱいに光が広がったと聞いたわ」


「発動者は」


「式典担当の教師と、高等部の魔術科生徒。たぶん、補助に何人か入ると思う」


「術式への外部干渉対策は」


「……あなた、祝福魔術を何だと思っているの?」


「講堂全体に作用する大規模魔術です。発動中に術式を書き換えられれば、被害が拡大します」


 ミリアは口を開きかけ、閉じた。


 言い返そうとしたが、昨日の靴跡を思い出したのかもしれない。


「普通は、そんなこと起きないわ」


「普通でない事態への備えが必要です」


「でも、式典でそんな事件が起きるなんて……」


 ミリアの声が少し弱くなる。


 リゼは彼女を見た。


 不安を煽るべきではなかった。


 ミリアは護衛対象ではないが、同室者であり、今後の学園生活における重要接触者だ。過度な不安は行動を不自然にする。リゼ自身の正体露見にもつながる。


「可能性の確認です」


 リゼは言い直した。


「発生するとは限りません」


「……そうね」


 ミリアは軽く息を吐く。


「あなたと話していると、平和な入学式まで戦場に見えてくるわ」


「見方の問題です」


「その見方を変える努力をしましょう」


「はい」


 中央講堂が近づいてきた。


 白い円柱が並ぶ巨大な建物。昨日、遠くから見た時よりもはるかに大きい。正面の階段には赤い絨毯が敷かれ、入口の上には王立アークレイン学園の紋章が掲げられている。鐘楼の上では、銀色の鐘が朝日を受けて輝いていた。


 講堂の周囲には、教師らしき大人たちと上級生の案内役が配置されている。


 入口は三つ。


 中央の大扉は新入生用。


 左右の小扉は教師と来賓用。


 窓は高い位置にあり、外部からの侵入は容易ではない。ただし、内部の二階席からは一階を見下ろせる構造になっている。警備上は有利だが、攻撃者にとっても有利な高所となる。


 リゼは講堂の上部を見た。


 二階の窓。


 尖塔へ続く細い階段。


 屋根の張り出し。


 鐘楼。


 狙撃地点、複数。


 魔術なら遮蔽物を無視できる場合もある。


「リゼさん」


 ミリアがまた呼ぶ。


「はい」


「今度は屋根を見ていたわ」


「構造確認です」


「入学式の前に屋根を確認する新入生は少ないと思うの」


「少ないだけで、いないとは限りません」


「あなたくらいよ」


 そう言われた直後、近くで明るい声がした。


「あ、ミリア様!」


 数人の女子生徒がこちらへ駆け寄ってきた。


 昨日の食堂で挨拶してきた新入生たちだ。制服はきちんと整えられているが、緊張で頬が少し赤い。


「おはようございます、ミリア様」


「おはよう。昨日も言ったけれど、同じ新入生なのだから、様はなくていいわ」


「で、でも」


「では、少しずつ慣れていきましょう」


 ミリアは柔らかく微笑む。


 相手の緊張がほどける。


 リゼはその横で、周囲の警戒を続けた。


 会話の輪に入る必要はない。


 むしろ、黙っていた方が目立たない。


 そう判断した。


 だが、女子生徒の一人がおずおずとリゼへ視線を向ける。


「グレイスさんも、おはようございます」


 リゼは一瞬遅れて答えた。


「おはようございます」


 昨日ミリアから学んだ、正しい返答。


 女子生徒は少し安心したように笑った。


「今日は緊張しますね」


「はい」


「グレイスさんは、緊張していますか?」


「していません」


 即答。


 場がわずかに止まった。


 リゼは失敗を悟る。


 普通は、こういう時、相手に合わせて「少し」と言うべきだったのかもしれない。


 ミリアがすかさず補う。


「リゼさんは、とても落ち着いているの。剣術科だからかしら」


「そうなんですね。すごいです」


 女子生徒は無理やり納得したように頷いた。


 リゼはミリアを見る。


 ミリアは小声で言った。


「こういう時は、“少し緊張しています”でいいの」


「虚偽になります」


「社交よ」


「難しいです」


「でしょうね」


 そんなやり取りをしている間にも、新入生たちは次々と講堂へ吸い込まれていく。


 案内役の上級生が声を張った。


「一年C組の皆さんは、講堂内右側の区画へお進みください。席は名簿順です。荷物は膝元へ置き、私語はお控えください」


 一年C組。


 リゼの所属。


 そして、護衛対象アルト・レインフォードの所属。


 リゼの意識が鋭くなる。


 講堂へ入る前に、対象を発見できれば有利だ。


 彼女は人波の中から、資料で見た少年の特徴を探した。


 栗色の髪。


 十五歳。


 身長は平均よりやや低め。


 体格は細い。


 顔立ちは穏やか。


 奨学生。


 目立たない。


 目立たない人物を群衆から探すのは難しい。


 だが、不可能ではない。


 目立たない者には、目立たないなりの癖がある。人の流れに逆らわない。視線を集めない位置を取る。騒がしい集団から半歩離れる。誰かの邪魔にならない場所に立つ。


 リゼは視線を流す。


 貴族の少年たち。


 従者を伴った少女。


 緊張で書類を握りしめる生徒。


 友人同士で笑う一団。


 入口横で、案内板を確認している少年。


 違う。


 そのさらに奥。


 中央講堂の柱の影。


 人混みの端。


 一人の少年が立っていた。


 栗色の髪。


 柔らかな表情。


 手には入学式の案内票。


 周囲と距離を取りすぎてはいない。孤立しているようには見えない。しかし、誰かにぶつかられる位置でもない。柱を背にし、右側は壁、左側には人の流れ。前方は開けている。


 無防備に見える。


 だが、完全には無防備ではない。


 リゼの視線が止まった。


 アルト・レインフォード。


 護衛対象。


 資料の絵姿より、実物の方が印象が薄い。


 それは容姿が劣るという意味ではない。むしろ整っている。優しげな目元、穏やかな口元、柔らかそうな髪。だが、見る者の記憶に強く残らないような、淡い雰囲気をまとっていた。


 危険なほど、目立たない。


 暗殺対象としては、守りにくい。


 リゼはすぐに周囲を確認した。


 アルトの近くに不審者。


 なし。


 だが、接近可能な人物は多い。


 通行人を装えば、三歩以内まで近づける。


 魔術具を使えば、視線を集めず攻撃できる。


 警備は講堂入口に集中しており、柱の影は死角になりやすい。


 危険。


「リゼさん?」


 ミリアが呼ぶ。


 リゼは返事をしなかった。


 意識はすでにアルトへ向いていた。


 任務上、接触は必要。


 ただし、護衛であると悟られてはならない。


 自然な接触。


 同じ一年C組の新入生として、挨拶をする。


 それだけなら不自然ではない。


 問題は、リゼに自然な挨拶ができるかどうかだった。


 ミリアがリゼの視線の先を追う。


「知り合い?」


「いいえ」


「では、なぜそんなに見ているの?」


「一年C組の生徒です」


「あなたもでしょう?」


「はい」


「話しかけたいの?」


 リゼは少しだけ考えた。


 話しかけたい。


 その表現は正確ではない。


 任務上、接触が必要。


 だが、それを言うわけにはいかない。


「同じ組の生徒と、関係構築を行います」


 ミリアは一瞬黙った。


「友達作りのこと?」


「はい」


「それなら、もう少し柔らかく言いなさい」


「努力します」


 ミリアはアルトの方を見た。


「あの子、確か名簿にあったわね。アルト・レインフォードさんだったかしら」


 リゼの内側で警戒が跳ねた。


 ミリアはアルトの名を知っている。


 だが、名簿を見れば誰でもわかることだ。


 過剰反応は不要。


「知っているのですか」


「いいえ。ただ、奨学生枠の入学生だと聞いたわ。基礎教養科で成績がとても良いそうよ」


「奨学生」


「王立学園の奨学生は、貴族の推薦がなくても入れる代わりに、とても厳しい選抜を通るの。優秀なのでしょうね」


 優秀。


 資料にも、魔術理論に高い適性とあった。


 ただし、身体能力は標準以下。


 リゼはアルトの立ち姿を見る。


 標準以下。


 そう書かれていた。


 だが、今の立ち方は、完全な素人のものではない。


 戦闘訓練を受けた者の立ち方ではない。反撃を前提とした構えでもない。けれど、自分がどこに立てば安全かを、本能的に知っている。


 危険に慣れている。


 そんな立ち方だった。


「話しかけるなら、今のうちよ」


 ミリアが言った。


「式が始まったら席に着いてしまうもの」


「はい」


 リゼは歩き出した。


 ミリアも自然に横についてくる。


「同行しますか」


「ええ。あなた一人だと、また“接近目的は何ですか”みたいな挨拶をしかねないから」


「改善します」


「私が見ていてあげる」


 監視。


 いや、心配。


 リゼはそう分類し直した。


 人波を抜ける。


 アルトとの距離、二十歩。


 十五歩。


 十歩。


 アルトはまだこちらに気づいていないように見える。


 だが、リゼにはわかった。


 彼の視線が一度、案内票から外れた。


 こちらを直接見るのではなく、周囲の反射を見るような動き。


 気づいている。


 接近者に気づいているのに、気づいていないふりをしている。


 なぜ。


 護衛対象についての評価を修正する必要がある。


 五歩。


 リゼは声をかける位置を考える。


 正面から接近すれば自然。


 だが、人の流れの関係で、やや背後気味になる。


 背後から声をかけるのは不適切か。


 リゼは判断に迷い、結果として少し近づきすぎた。


 アルトの背後、二歩。


 相手の反応を見るには近い。


 攻撃距離としても近い。


 アルトの肩が、ほんのわずかに揺れた。


 彼は振り返る。


 柔らかな栗色の髪が揺れ、淡い茶色の目がリゼを捉えた。


 その目は、驚いていた。


 だが、恐怖はなかった。


「……えっと」


 アルトは一瞬困ったように笑う。


「僕に何か用かな?」


 リゼは言葉を選んだ。


 対象確認。


 そう言ってはいけない。


 護衛対象。


 論外。


 接触開始。


 不自然。


 同級生らしい挨拶。


 ミリアから学んだ内容を検索する。


 おはようございます。


 名前を名乗る。


 よろしくお願いします。


「おはようございます」


 リゼは言った。


「リゼ・グレイス。剣術科所属予定。一年C組です。よろしくお願いします」


 声は硬かった。


 上官への報告のようだった。


 アルトは目を瞬かせた。


 それから、少し笑った。


「ずいぶん丁寧な自己紹介だね」


「不備がありましたか」


「いや、そういう意味じゃなくて」


 彼は柔らかく首を振った。


「僕はアルト・レインフォード。同じ一年C組だよ。よろしく、リゼさん」


 アルトが手を差し出した。


 握手。


 友好のしるし。


 リゼはその手を見た。


 細い指。


 剣を握り慣れた手ではない。


 だが、完全に柔らかいだけでもない。指先に薄いインクの跡。紙を扱う者の手。右手の親指と人差し指に、ペンだこがある。掌の中央には古い擦り傷。転倒時についたものか、何かを強く握った痕か。


 手首は細い。


 拘束すれば容易に制圧できる。


 だが、制圧してはいけない。


 握手だ。


 リゼは慎重に手を伸ばした。


 その瞬間、アルトの視線がリゼの手に落ちた。


 ほんの一瞬。


 リゼの手には、剣だこがある。小さな傷も多い。十五歳の少女の手としては、明らかに硬すぎる。


 アルトは気づいた。


 だが、何も言わなかった。


 リゼの手を、普通に握った。


 温かい。


 力は弱い。


 しかし、触れた瞬間に少しだけ指が固くなった。


 警戒。


 アルトは警戒している。


 それを隠している。


 リゼは握手を終え、手を離した。


 ミリアが横から入る。


「私はミリア・ファルネーゼ。同じ一年C組よ。よろしく、アルトさん」


「ファルネーゼ……」


 アルトは少しだけ目を見開いた。


 名門家の名に反応した。


 だが、萎縮はしない。


「こちらこそ、よろしくお願いします。ミリアさん」


「敬語でなくてもいいわ。同じ新入生ですもの」


「それなら、僕にも敬語はいらないよ。リゼさんも」


 アルトがリゼを見る。


 リゼはすぐには答えなかった。


 敬語を外す。


 どの程度まで崩せばいいのか不明。


「努力します」


「努力するものなの?」


 アルトは小さく笑った。


 その笑顔は、柔らかかった。


 リゼは一瞬、反応に困った。


 敵意がない。


 警戒はある。


 けれど、こちらを拒絶していない。


 奇妙だった。


 護衛対象が護衛に対して好意的であることは、任務上有利だ。接近しやすくなる。移動経路も把握しやすい。危機時にも指示を通しやすい。


 だが、近づきすぎれば護衛と悟られる。


 距離の調整が必要。


「二人は、もともと知り合い?」


 アルトが尋ねた。


 ミリアが答える。


「昨日、寮で同室になったの」


「同室なんだ。もう仲がいいんだね」


 リゼは即座に言う。


「判断には早いです」


 ミリアが肘で軽くつついた。


「痛くはありません」


「そういう意味ではないわ」


 アルトは楽しそうに二人を見ていた。


「なんだか、面白い組み合わせだね」


「本日二回目の面白いです」


 リゼが言う。


 アルトは首を傾げた。


「二回目?」


「昨日から複数回、変わっている、面白い、と評価されています」


「それを数えているんだ」


「はい」


 アルトは声を立てずに笑った。


 からかいではない。


 純粋に、可笑しそうだった。


 リゼはその笑顔を見つめた。


 資料には、温厚、知的、争いを嫌う傾向とあった。


 だが、目の奥にあるものは、それだけではない。


 諦めに近い静けさ。


 何かを受け入れすぎている目。


 十五歳の少年が持つには、少し古い光だった。


 リゼはその目を知っていた。


 戦場で何度も見た。


 死が近くにあることに慣れた者の目。


 ただし、アルトのそれは兵士の目ではない。


 逃げ場のない小動物が、長い時間をかけて怯えることに疲れたような目だった。


 護衛対象の心理状態、要注意。


「アルトさんは」


 リゼは口を開く。


 ミリアが隣で小さく身構えた。


 変なことを言うな、という気配。


 リゼは言葉を選ぶ。


「一人でいたのですか」


 ミリアがほっとしたように息を吐いた。


 質問としては普通だったらしい。


 アルトは少しだけ肩をすくめる。


「知り合いがいなくて。奨学生は少ないし、僕は王都でもあまり人付き合いがなかったから」


「なぜ」


 また直接聞きすぎた。


 ミリアの視線が刺さる。


 しかしアルトは気を悪くした様子もなく、淡く笑った。


「家の事情、かな」


 家の事情。


 詳細不明。


 資料にも家族構成不明とあった。


 ここで踏み込むべきか。


 否。


 周囲に人が多い。会話を聞かれる可能性がある。初対面で深く追及するのは不自然。


 リゼは頷くだけにした。


「そうですか」


「うん」


 アルトは案内票を軽く持ち上げる。


「実は、席の場所を確認していたんだけど、講堂が広すぎて少し不安だったんだ。君たちも一年C組なら、一緒に行ってもいい?」


 リゼにとっては好都合だった。


 護衛対象の近くに自然に位置取れる。


 ただし、即答すると不自然かもしれない。


 ミリアが先に微笑んだ。


「もちろんよ。ね、リゼさん」


「はい」


 リゼは頷く。


「同行しましょう」


「同行」


 アルトがまた笑う。


「リゼさんは、言葉が少し軍人さんみたいだね」


 リゼの心臓が、ほんのわずかに強く鳴った。


 表情には出さない。


 ミリアも一瞬こちらを見る。


 リゼは平静に答えた。


「地方騎士家で育ちました」


「そっか。だから姿勢が綺麗なんだ」


 アルトはそう言った。


 追及しない。


 助かった。


 しかし、気づいていないわけではない。


 アルトは見ている。


 リゼの言葉、姿勢、手、視線。


 そのうえで、あえて流している。


 護衛対象は、想定よりも厄介かもしれない。


 三人は講堂の入口へ向かった。


 中央扉をくぐると、内部の広さに圧倒される新入生たちの声があちこちで上がった。


 高い天井。


 巨大なステンドグラス。


 壁に並ぶ歴代学園長の肖像画。


 正面壇上には学園長席と教師席があり、その背後には王国旗と学園旗が掲げられている。天井中央には、祝福魔術用と思われる巨大な魔術陣が刻まれていた。光を通す透明な魔導硝子で構成され、細い銀の線が蜘蛛の巣のように広がっている。


 リゼの視線は、即座にそこへ吸い寄せられた。


 大規模術式。


 複数の補助陣。


 制御核はおそらく壇上右手。


 二階席にも補助術者用の位置がある。


 講堂全体に作用する構造。


 正常に使えば美しい儀式になる。


 だが、術式をほんの一部書き換えれば、光は刃にも火にも雷にもなる。


 リゼは喉の奥に、小さな違和感を覚えた。


 魔力の残り香。


 古い。


 だが、祝福用にしては少し鋭い。


「すごい……」


 アルトが小さく呟いた。


 その声には、純粋な感嘆があった。


 彼の目が天井の魔術陣を追う。


 魔術理論に適性があるという資料通り、ただ綺麗だから見ているわけではない。構造を読み取ろうとしている視線だった。


「アルトさんは、魔術が得意なの?」


 ミリアが尋ねる。


「実技はあまり。でも、理論は好きなんだ」


「魔術理論が好きなのね。私は実技寄りだから、理論が得意な人は尊敬するわ」


「ファルネーゼ家の人にそう言われると、恐縮するな」


「家名ではなく、私個人の感想よ」


 ミリアがさらりと言う。


 アルトは少し驚き、それから微笑んだ。


「ありがとう」


 リゼは二人の会話を聞きながら、周囲を確認した。


 一年C組の席は、講堂右側の中ほど。


 座席は縦に並んでおり、名簿順に指定されている。


 リゼ・グレイス。


 席は右列、中央付近。


 ミリア・ファルネーゼは同じ列の少し前。


 アルト・レインフォードは、リゼの二列斜め前。


 距離は近い。


 護衛可能範囲。


 ただし、席順の都合で直接隣には座れない。式典中に異常が起きた場合、リゼが動けるまでに二列分の障害がある。椅子の間隔は狭く、立ち上がる生徒が多ければ移動困難。


 天井からの攻撃には、位置的に不利。


 正面壇上からの攻撃にも、射線が通る。


 二階席からなら、アルトは狙いやすい。


 リゼは講堂二階へ視線を向けた。


 上級生、来賓、教師補助。


 誰が敵でもおかしくない。


 その中で、ひときわ静かな女性が目に留まった。


 長い黒髪を後ろでまとめた教師。


 白に近い薄紫のローブ。


 穏やかな微笑。


 年齢は二十代後半から三十代前半。


 彼女は二階席の手すり近くに立ち、講堂全体を眺めていた。


 目が合った。


 いや、正確には、合ったような気がした。


 次の瞬間、女性教師は別の生徒へ視線を移した。


 リゼは記憶する。


 教師。


 魔術師。


 冷静。


 要確認。


「リゼさん、席はこっちよ」


 ミリアに呼ばれ、リゼは視線を戻した。


 アルトは自分の席を見つけたらしく、案内票を確認している。


「僕はここみたいだ」


 彼の席は通路側ではない。


 内側。


 つまり、緊急時に動きにくい。


 リゼは一瞬、席を替わる方法を考えた。


 だが、不自然。


 入学式の席順は名簿通り。勝手に変えれば記録に残る。教師の注意を引く。


 アルトを守るには、自分の位置から動くしかない。


「リゼさん?」


 アルトが声をかける。


 リゼが彼を見た。


「どうかした?」


「いえ」


 リゼは一瞬迷い、言葉を足した。


「足元に荷物を置く場合、通路側に寄せない方がいいです」


「え?」


「緊急時の移動を妨げます」


 アルトは瞬きした。


 ミリアが後ろで頭を抱える気配がした。


 だがアルトは、怒らなかった。


 むしろ、少しだけ真面目な顔になった。


「……わかった。ありがとう」


 彼は素直に荷物を椅子の下へ収めた。


 理解が早い。


 それに、リゼの助言を奇妙だと思いながらも受け入れた。


 やはり、危険に対する感度がある。


 リゼは自分の席へ向かった。


 椅子に座る。


 背もたれが邪魔だ。


 視界が制限される。


 前方にアルトの後頭部が見える。


 護衛対象確認。


 距離、およそ四歩半。


 障害物、椅子二列、生徒二名。


 攻撃方向、天井、壇上、二階席、左右通路、背後。


 緊急時、最短経路は右通路から斜め前。椅子の背を踏んで越えれば一呼吸短縮可能。ただし目立つ。


 式典中は正体秘匿。


 しかし対象の生命が優先。


 リゼは呼吸を整える。


 周囲の生徒たちは、期待に満ちた顔で壇上を見ている。


 ミリアは前方で姿勢よく座っている。時折、周囲の生徒と小さく挨拶を交わす。


 アルトは静かに席についていた。


 手元の案内票を畳み、膝の上に置いている。背筋は伸びているが、肩にはわずかな力が入っている。


 緊張。


 それは普通の入学式への緊張か。


 それとも、自分が狙われるかもしれないという緊張か。


 判断不能。


 講堂の扉が閉じられる。


 重い音が響いた。


 その瞬間、リゼは反射的に扉の構造を確認した。


 内側から開閉可能。


 ただし混乱時には押し合いになる可能性が高い。


 閉鎖空間。


 敵にとっても味方にとっても、逃げ場は限られる。


 鐘が鳴った。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 講堂内のざわめきが静まっていく。


 壇上の奥から、学園長と思われる老人が現れた。白髪を後ろへ撫でつけ、深い青のローブを纏っている。歩みは遅いが、魔力は強い。老齢による衰えはあるが、並の魔術師ではない。


 教師たちが席につく。


 その中に、先ほど二階席で見た黒髪の女性教師もいた。


 彼女は壇上右側、魔術系教師の席に座る。


 リゼの視線が一瞬だけ止まる。


 女性教師は、こちらを見ていない。


 だが、見られていないとは限らない。


「新入生諸君」


 学園長の声が、魔術で講堂全体に広がった。


 低く、穏やかで、よく通る声だった。


「王立アークレイン学園へ、ようこそ」


 講堂の空気が変わる。


 新入生たちは一斉に姿勢を正した。


 リゼも周囲に合わせて背筋を伸ばす。


 学園長の挨拶が始まった。


 歴史。


 誇り。


 学び。


 未来。


 王国に仕える者としての責務。


 自らの道を見つけること。


 仲間と共に成長すること。


 聞きながら、リゼは言葉の意味を分解していた。


 責務。


 道。


 仲間。


 成長。


 戦場でも似た言葉は使われた。


 だが、そこではもっと短く、もっと冷たかった。


 命令。


 進軍。


 部隊。


 生存。


 同じように聞こえて、まったく違う。


「君たちは今日、この学園の門をくぐった。三年後、この場所を去る時、君たちは今とは違う自分になっているだろう」


 三年後。


 リゼの視線が、前方のアルトへ向く。


 任務期間。


 卒業まで。


 三年後、この少年は生きているのか。


 生かさなければならない。


 それが任務。


 だが、彼自身は三年後の自分を想像しているのだろうか。


 アルトは静かに学園長を見ていた。


 その横顔は穏やかで、少し遠い。


 やはり、どこか諦めているように見える。


 学園長の挨拶が終わり、教師紹介へ移った。


 剣術科、魔術科、基礎教養科、薬学、歴史、礼法、戦術学。


 名前が読み上げられる。


 リゼは特に、魔術系教師の名前を記憶した。


「魔術史担当、セレスティア・ノクス」


 黒髪の女性教師が立ち上がった。


 講堂内の視線が集まる。


 セレスティア・ノクス。


 彼女は穏やかに微笑み、優雅に一礼した。


 その動作には無駄がない。


 貴族的な洗練とは少し違う。


 刃物を布で包んだような静けさ。


「皆さんと古き魔術の歴史を学べることを、心から楽しみにしています」


 声は柔らかい。


 聞く者を安心させる声。


 だが、リゼの背筋には、ほんのわずかに冷たいものが走った。


 この教師は危険だ。


 理由は明確ではない。


 魔力の質か。


 視線か。


 立ち方か。


 それとも、戦場で何度も生死を分けてきた感覚か。


 リゼはセレスティアの名を記憶した。


 教師紹介が続く。


 その間も、リゼはアルトを視界から外さない。


 アルトは特定の教師に強い反応を示していない。


 ただし、セレスティアが名乗った時、彼の指先が案内票の端を少しだけ強く握った。


 偶然か。


 要確認。


 在校生代表の祝辞が終わり、新入生代表が宣誓を行う。


 式は滞りなく進んでいる。


 何も起きない。


 普通の入学式。


 そう見える。


 だが、リゼの内側では警戒が薄まらない。


 天井の魔術陣。


 二階席。


 壇上右側の制御核。


 セレスティア。


 アルトの指先。


 すべてが細い糸でつながりそうで、まだつながらない。


 やがて、学園長が再び前へ出た。


「それでは、アークレインの伝統に従い、新入生諸君へ祝福を」


 講堂内に、わずかなざわめきが広がる。


 新入生たちの顔が輝いた。


 ミリアも前方で、少しだけ楽しそうに天井を見上げている。


 アルトも顔を上げた。


 リゼは顔を上げない。


 視線だけで天井の魔術陣を見る。


 壇上右手に、数名の教師が移動する。


 二階席の補助術者たちも立ち上がった。


 魔力が流れ始める。


 祝福魔術。


 光の花弁。


 安全な儀式。


 そのはずだった。


 最初に灯った光は、美しかった。


 天井の魔術陣に沿って銀の線が輝き、青白い光がゆっくりと広がっていく。やがて、それは淡い金色へ変わり、花びらの形を作り始めた。


 講堂のあちこちから感嘆の声が漏れる。


「綺麗……」


「すごい」


「これがアークレインの祝福……」


 ミリアも目を奪われている。


 アルトもまた、静かにその光を見上げていた。


 リゼは、光の美しさを見ていなかった。


 魔力の流れを見ていた。


 主術式は正常。


 補助陣も安定。


 だが、講堂右側上部。


 アルトの頭上に近い領域。


 ほんのわずかに、流れが歪んだ。


 祝福用の光属性魔力に、細い別系統の魔力が混じっている。


 色はほとんど変わらない。


 一般の生徒にはわからない。


 教師でも、儀式の全体制御に意識を向けていれば見逃すかもしれない。


 だが、リゼは見逃さなかった。


 戦場で一度、似たものを見た。


 敵の司令官を暗殺するため、祝勝用の発光魔術に雷撃術式を混ぜた罠。


 発動まで、数呼吸。


 標的。


 アルト・レインフォード。


 リゼの全身から、余計な感覚が消えた。


 音が遠くなる。


 新入生たちの歓声も、衣擦れも、鐘の残響も消える。


 残るのは、対象との距離、障害物、魔力の歪み、可能な対応。


 全力で動けば間に合う。


 だが、目立つ。


 椅子を蹴り、前列を飛び越え、アルトを押し倒せば守れる。


 しかし、それをすれば正体が露見する可能性が高い。


 動かない。


 対象死亡。


 任務失敗。


 別の方法。


 リゼの視線が床へ落ちる。


 隣の生徒が、緊張のせいか筆記具を落としていた。小さな金属製のペン先。床に転がり、椅子の脚の近くで止まっている。


 利用可能。


 雷撃はまだ形成途中。


 術式は魔術陣から直接落ちるのではなく、光の花弁を媒介にして変質する。角度をずらせば、標的点を変えられる。


 金属片。


 反射。


 誘導。


 リゼは体をわずかに沈めた。


 落とし物を拾うように。


 周囲からはそう見える角度で。


 指先がペン先を拾う。


 親指と中指に挟む。


 力加減。


 角度。


 目標は天井の装飾金具。


 そこへ当てれば、揺れた装飾が光の経路を乱す。


 完全には止められない。


 だが、直撃は外せる。


 発動まで、一呼吸。


 リゼは金属片を弾いた。


 音は小さい。


 ほとんど誰にも聞こえない。


 金属片は椅子の下を抜け、前列の脚の間を通り、斜め上へ跳ねた。講堂の装飾金具に当たり、澄んだ小さな音を立てる。


 次の瞬間。


 アルトの頭上に降りるはずだった光の花弁が、鋭く白く変質した。


 雷。


 祝福の光に紛れた殺意。


 リゼは立ち上がりかける。


 間に合え。


 白い閃光が落ちた。


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