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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第1章 第3話:同室者と非常口


 夕食の食堂は、戦場の兵站所とはまったく違っていた。


 まず、匂いが違う。


 湯気の立つスープ。焼きたてのパン。香草をまぶした肉。煮込まれた野菜。甘い果実のソース。温かなミルク。


 どれも、保存性や携行性ではなく、食べる者の気分をよくするために用意されているように見えた。


 戦場で出る食事は、腹に入ればよかった。


 硬い黒パン。乾いた肉。塩気の強い豆の煮込み。水で薄めた酒。時には、泥の匂いが染みた携帯食だけで一日を終えることもあった。


 それに比べて、女子第一寮の食堂に並んだ夕食は、あまりにも整っていた。


 白い皿。磨かれた匙。花が飾られた長卓。壁に灯る柔らかな魔術灯。窓辺には淡い色のカーテンが揺れ、食堂の中央では新入生たちが緊張と期待の入り混じった声で話している。


 リゼは入口に立ったまま、室内を確認した。


 出入口は正面に一つ。奥に調理場へ続く扉。左手に窓が四つ。窓の外は中庭。逃走経路として使えるが、開閉金具に時間がかかる。長卓の配置は横三列。混乱時には移動の妨げになる。食器は陶器。割れば刃物になる。燭台はないが、魔術灯の支柱は取り外せば棒として使える。


 食事の香りに喜ぶ周囲の生徒たちとは、見ているものが違った。


「リゼさん」


 隣でミリアが小さく呼んだ。


「はい」


「食堂の入口で戦場を見る目をしない」


「戦場ではありません」


「なら、その顔をやめるの」


「顔」


「そう。今にも誰かを制圧しそうな顔」


 リゼは自分の表情に触れた。


 変化はわからない。


 ミリアは呆れたように息を吐き、それから空いている席を探した。


「こちらにしましょう」


 ミリアが選んだのは、窓際から二つ目の長卓だった。入口も調理場の扉も、直接は見えない。リゼにとっては最適とは言いがたい位置だったが、周囲の視線を集めずに座れるという点では妥当だった。


「そこは危険です」


「食堂で危険な席って何?」


「入口が見えません」


「食事中に入口を監視する必要はないわ」


「あります」


「ありません」


「窓が近すぎます」


「景色が見えるでしょう?」


「外から狙われます」


「誰に?」


「不明です」


「不明な誰かに狙われる前提で席を選ばないで」


 ミリアはそう言って、先に腰を下ろした。


 リゼは一瞬だけ迷った。


 任務上、彼女は目立ってはならない。ここで席に固執すれば、周囲の印象に残る。ならば、多少不利な席でも受け入れるべきだった。


 リゼはミリアの向かいに座った。


 背後に空間がある。


 落ち着かない。


 だが、彼女は何も言わなかった。


 しばらくして、寮の職員たちが食事を配り始めた。白いエプロンをつけた女性たちが、手際よく皿を並べていく。リゼの前にも、温かなスープ、パン、肉料理、野菜の皿が置かれた。


 食器がすべて揃ったところで、寮母が食堂の前に立つ。


「新入生の皆さん。長旅、お疲れさまでした。今日からここが、あなたたちの生活の場になります。家を離れて不安な者もいるでしょう。慣れない共同生活に戸惑う者もいるでしょう。ですが、規則を守り、互いを尊重すれば、この寮は必ずあなたたちの居場所になります」


 居場所。


 リゼはその単語を聞きながら、スープの表面を見た。


 湯気が立っている。


 毒の有無は、匂いだけでは判断できない。一般的な毒なら熱で変質する場合もある。銀匙が反応する毒もあるが、すべてではない。魔術性の毒なら、検知には専用術式が必要になる。


 だが、夕食前に毒の話は禁止。


 ミリアからそう言われている。


 寮母の挨拶が終わり、生徒たちは食事を始めた。


 周囲から明るい声が上がる。


「おいしい」


「家の料理と違うけど、これもいいね」


「明日の入学式、緊張するなあ」


「同じ組の子、いる?」


「魔術適性検査って何をするんだろう」


 会話が多い。


 リゼは匙を手に取り、スープを一口飲んだ。


 温かい。


 塩味は薄め。野菜の甘みがある。毒物反応、少なくとも即効性のものはなし。口内に痺れなし。喉の灼熱感なし。呼吸に異常なし。


 安全と判断。


 食事を続ける。


 ミリアはその様子をじっと見ていた。


「どうかしましたか」


「いえ……あなた、食べる前に少し間を置いたでしょう」


「温度確認です」


「本当に?」


「はい」


 嘘ではない。


 温度も確認した。


 ミリアは疑わしそうだったが、それ以上は追及しなかった。


「食事は口に合う?」


「栄養価は十分です」


「感想が兵站担当者みたいね」


「味は良好です」


「それを最初に言えばいいのよ」


 ミリアはパンを小さくちぎり、スープにつけて食べた。所作が綺麗だった。肘の角度、匙の持ち方、口元の動き。どれも教育されたものだ。


 リゼはそれを観察し、自分の動作との差を確認した。


 食事は素早く済ませるもの。


 音を立てないこと、周囲を警戒すること、片手を空けておくこと、背後を取られないことが重要。


 だが、ここでは違うらしい。


 周囲の生徒たちは、ゆっくり食べている。笑い、話し、時に皿を交換し、知らない者同士でも名前を尋ねている。


 食事は、栄養補給だけではない。


 会話の場。


 関係構築の場。


 リゼは昼間に聞いたミリアの言葉を思い出した。


 友達になるには、一緒に食事をする。


 では、今これは、その条件に当てはまるのか。


 リゼはミリアを見る。


 ミリアはスープを飲みながら、首を傾げた。


「何?」


「これは、友達になる行為ですか」


 ミリアが軽くむせた。


 近くにいた生徒が驚いて振り返る。


 ミリアは咳を押さえ、頬をわずかに赤くした。


「あなたね……もう少し言い方を考えなさい」


「不適切でしたか」


「不適切というか、直球すぎるの」


「では、どう聞くべきでしたか」


「普通は……そうね。“一緒に食べられて嬉しい”とか、“これからよろしく”とか」


「一緒に食べられて嬉しいです。これからよろしくお願いします」


「今、復唱したでしょう」


「はい」


「素直すぎるのも問題ね……」


 ミリアは困ったように笑った。


 だが、不快そうではなかった。


 リゼはそれを観察し、記憶した。


 復唱でも、場合によっては関係悪化にはつながらない。


 夕食は穏やかに進んだ。


 途中、数人の新入生がミリアへ挨拶に来た。


「ファルネーゼ様、ご入学おめでとうございます」


「同じ学年になれて光栄です」


「もしよろしければ、今度お茶会で……」


 彼女たちは皆、丁寧だった。


 だが、緊張している。


 ミリアは自然な笑顔で応じる。


「ありがとう。でも、同じ新入生ですもの。どうかミリアと呼んでくださいな」


 その一言で、相手は嬉しそうに頬を染めた。


 リゼは黙って見ていた。


 すごい技術だ。


 一言で相手の警戒を解き、好意を高め、上下関係を和らげる。しかも自分の立場を損なっていない。


 戦場で言えば、敵部隊の士気を下げずに降伏させるようなものだった。


 交渉能力、高。


 情報収集役として有用。


 ただし、本人に自覚があるのかは不明。


 その後、話しかけてきた生徒の一人がリゼにも視線を向けた。


「あなたは……グレイスさん、でしたよね?」


「はい」


「剣術科なのですか?」


「はい」


「すごいですね。私、剣はまったく駄目で……」


「訓練すれば改善します」


「え、ええ。そうですね」


 会話が止まった。


 相手の少女は困ったように笑い、ミリアに会釈して去っていった。


 ミリアが小声で言う。


「もう少し、会話を広げてもいいのよ」


「広げる」


「相手が“剣は駄目”と言ったら、“どの科なの?”とか、“魔術が得意なの?”とか聞くの」


「情報収集ですか」


「交流です」


「違いは」


「また難しいところを……」


 ミリアは額に指を当てた。


「情報を得るためだけに聞くのではなく、相手に興味を持つの」


「興味」


「そう。あなたは何が好きなのか、何をしたいのか、どんな人なのか。そういうことを知ろうとするの」


「それは情報収集では」


「目的が違うの」


「目的」


「相手を利用するためではなく、相手を知るため」


 リゼは少しだけ考えた。


 相手を知る。


 利用目的ではなく。


 その違いは、まだはっきりしない。


 だが、ミリアが言うなら、学園生活において重要な概念なのだろう。


 記憶しておく。


 夕食後、新入生たちはそれぞれ部屋へ戻った。


 廊下には、まだ興奮冷めやらぬ声が響いている。


「明日の式、どんな感じかな」


「制服、変じゃないかな」


「寮って思ったより綺麗だね」


「同室の子、優しそうでよかった」


 リゼはミリアと並んで三階へ上がった。


 階段の段数、踊り場の広さ、窓の鍵、廊下の魔術灯の位置を確認する。見取り図と実際の構造はおおむね一致。ただし、三階北側の廊下奥に、地図には記載されていない小扉があった。清掃用具入れか、点検口か。


 後で確認する必要がある。


「今、また何か数えていたでしょう」


 ミリアが言った。


「階段の段数です」


「どうして?」


「暗闇でも移動できるように」


「魔術灯があるわ」


「消える可能性があります」


「なぜ消える前提なの?」


「灯りは消えます」


 ミリアは反論しようとして、やめた。


「……あなたの中では、そうなのね」


「はい」


 部屋に戻ると、外はすっかり夜になっていた。


 窓の向こうには、学園の灯りが点々と浮かんでいる。中央講堂の尖塔、図書館塔の上階、遠くの校舎の窓。昼間の賑やかさとは違い、夜の学園は静かだった。


 リゼは部屋に入ると、まず窓の鍵を確認した。


「開閉可能。鍵は内側のみ。外部からの解除は、道具があれば可能」


 小さく呟く。


 ミリアが荷物を整理しながら言った。


「リゼさん」


「はい」


「今のは独り言?」


「確認です」


「声に出す必要は?」


「記憶の固定に有効です」


「同室者の不安を煽る効果もあるわ」


「では、控えます」


「お願い」


 リゼは窓から離れ、今度は入口の扉を確認した。


 蝶番、古くはない。鍵穴、簡易。扉板、厚さはそこそこある。蹴破るには力が必要だが、魔術なら容易。机を扉の前に置けば侵入を遅らせられる。


 彼女が机に手をかけた瞬間、ミリアの声が飛んだ。


「動かさない」


「まだ何も」


「動かそうとしたでしょう」


「はい」


「駄目」


「非常時には」


「非常時になったら考えましょう」


「非常時には考える時間がありません」


「今は非常時ではありません」


 リゼは手を離した。


 ミリアは衣装棚の前で腕を組んでいた。昼間よりも表情が険しい。怒っている、というより、根気強く言い聞かせようとしている顔だった。


「リゼさん」


「はい」


「ここでは、まず普通に暮らすこと。いい?」


「普通の定義が不明です」


「そうね。では、今夜の普通を教えるわ」


 ミリアは指を一本立てた。


「まず、荷物を片づける」


「はい」


「次に、明日の準備をする。制服に皺がないか確認して、教科書や書類を鞄に入れる」


「はい」


「それから、顔を洗って、髪を整えて、寝る準備をする」


「はい」


「消灯時間になったら、灯りを消して寝る」


「はい」


「窓から外を偵察しない。机で扉を塞がない。ベッドの位置を変えない。隠し武器を作らない」


「最後の項目は想定外です」


「必要だと思ったの」


 ミリアは真剣だった。


 リゼは頷いた。


「了解しました」


「返事」


「はい」


「よろしい」


 ミリアは満足そうに息を吐いた。


 リゼは自分の荷物を片づけた。


 と言っても、量は少ない。替えの制服を衣装棚へ入れ、教科書を机に並べ、洗面道具を決められた棚に置く。筆記具と学園案内はすぐ手に取れる位置へ。身分証は内ポケットへ。髪留めは机の上。


 その後、彼女は明日の入学式に必要なものを確認した。


 入学証。


 筆記具。


 学園生活のしおり。


 基礎教養組の案内票。


 ハンカチ。


 ハンカチ。


 リゼはそれを手に取り、しばらく見つめた。


 白い布だった。


 用途は汗や手を拭くため。包帯の代用にもなる。止血には小さいが、指や掌の傷なら対応可能。水に濡らして口を覆えば煙避けにも使える。


 使用用途を確認し、鞄に入れる。


 ミリアはその様子を見て、少しだけ微笑んだ。


「それは武器ではないわよ」


「応急処置に使えます」


「発想が全部そちらへ行くのね」


「習慣です」


 言ってから、リゼは手を止めた。


 習慣。


 それは、偽装経歴の中では説明しにくい言葉だった。


 ミリアもそれに気づいたのか、少しだけ目を細める。


「あなたの家では、ずいぶん実戦的な教育をしていたのね」


「地方の騎士家ですので」


「遠縁、だったわよね」


「はい」


「ご両親は?」


 リゼの動きが完全に止まった。


 質問としては自然。


 同室者同士の会話。


 家族について尋ねることは、おそらく普通の範囲内。


 だが、リゼには答えるべき言葉が用意されていなかった。


 偽装書類には、こうある。


 父母は幼少期に病没。グレイス騎士家の遠縁に引き取られ、養育を受ける。


 暗記している。


 答えればいい。


 それだけ。


「幼少期に、亡くなっています」


 リゼは言った。


 ミリアの表情が変わった。


 後悔と気遣いが、はっきり浮かぶ。


「ごめんなさい。無神経だったわ」


「謝罪は不要です」


「でも」


「事実です」


 事実。


 少なくとも、書類上は。


 本当の両親の顔を、リゼはほとんど覚えていない。


 戦争孤児は珍しくなかった。村が焼け、家が消え、名前を記録する者もいないまま、子供だけが残る。傭兵部隊に拾われたのは偶然だったのか、そうでなければもっと早く死んでいたのか。


 どちらでもよかった。


 生き残った。


 それがすべてだった。


 ミリアは静かに言う。


「私の家は、逆に人が多いの。父、母、兄が二人、妹が一人。親戚も多くて、集まりの時は屋敷が戦場みたいになるわ」


 戦場。


 リゼの視線が一瞬鋭くなった。


 ミリアはすぐに両手を振る。


「比喩よ。今のは比喩。あなたの真似ではないわ」


「理解しました」


「兄たちは二人とも卒業生なの。だから私は、小さい頃からアークレインの話を聞いて育ったわ。図書館塔の最上階から見る夕焼けが綺麗だとか、食堂の焼き菓子が人気だとか、剣術大会で毎年大騒ぎになるとか」


「剣術大会」


「そこに反応するのね」


「戦闘行事ですか」


「競技行事よ。授業の一環でもあるわね。あなたなら活躍できるのではなくて?」


「目立つのは避けたいです」


「剣術科なのに?」


「はい」


「変なの」


 ミリアはくすりと笑った。


 リゼは、その笑いに敵意がないことを確認した。


 会話はそこで一度途切れた。


 二人はそれぞれ洗面を済ませ、寝る準備をした。


 ミリアは慣れた手つきで髪をほどき、櫛で丁寧に梳かした。淡い金髪が魔術灯の光を受けて、柔らかく輝く。寝間着も上質で、襟元に小さな刺繍がある。


 一方、リゼは簡素な寝間着に着替え、髪を一つに束ね直した。


 背中の傷が少しだけ見えた。


 ミリアの視線がそこに止まる。


 リゼはすぐに上着を羽織った。


「怪我?」


 ミリアが小さく尋ねた。


「古傷です」


「剣術の訓練で?」


「はい」


 また短い嘘。


 ミリアは何か言いたげだったが、深くは聞かなかった。


「痛むの?」


「生活に支障はありません」


「そういう聞き方ではなくて」


 ミリアは少し困った顔をした。


「痛いなら、医務室に行った方がいいわ」


「治療済みです」


「そう」


 ミリアはそれ以上追及しなかった。


 灯りを少し落とす。


 部屋が柔らかな暗さに包まれた。


 窓の外には、夜の学園が広がっている。中庭の魔術灯が淡く光り、遠くで鐘が鳴った。消灯時間が近い。


 リゼはベッドに腰掛けた。


 柔らかすぎる。


 体が沈む。


 寝返りを打つ時、動きが遅れる。即応性が下がる。敵襲時には不利。


 床の方がよい。


 そう判断しかけた瞬間、ミリアの声がした。


「ベッドで寝るのよ」


「まだ何も」


「床を見たでしょう」


「はい」


「駄目」


「床の方が」


「駄目」


「はい」


 リゼは諦めて、ベッドに横になった。


 天井を見る。


 白い天井。小さな装飾。魔術灯の薄明かり。


 天井には穴がない。梁もない。隠れる場所は少ない。


 ただ、静かだった。


 あまりにも静かだった。


 戦場の夜には、音がある。


 遠くの焚き火。馬の鼻息。見張りの足音。負傷者の呻き。誰かの寝言。武具が触れ合う微かな金属音。風に揺れる軍旗。時には、敵陣から聞こえる不気味な歌。


 それらの音が、危険を教えてくれる。


 だが、この部屋には何もない。


 ミリアの穏やかな寝息。


 遠くの廊下を歩く寮母の足音。


 窓の外で揺れる木の葉。


 それだけ。


 静けさは、リゼにとって安心ではなかった。


 静けさは、何かが近づいている前触れだった。


 彼女は目を閉じた。


 だが眠れない。


 体は横になっているのに、意識は周囲を巡回し続ける。


 入口。


 窓。


 ベッド下。


 衣装棚。


 隣のベッド。


 廊下。


 階段。


 中庭。


 旧校舎。


 北西の窓。


 影。


 リゼは静かに起き上がった。


 音を立てない。


 床に足をつける。


 木の床はわずかに軋む。二歩目からは軋みを避ける位置を踏む。


 窓辺へ移動した。


 カーテンの隙間から外を見る。


 中庭は静かだった。


 魔術灯が淡い光を落としている。花壇の影。低い柵。雨上がりの石畳。遠くに見える旧校舎の輪郭。


 異常なし。


 そう判断した瞬間。


「眠れないの?」


 背後から声がした。


 リゼは反射的に振り向きかけ、寸前で止めた。


 ミリアがベッドの上で半身を起こしていた。髪が少し乱れ、眠そうな目をしている。だが、声は穏やかだった。


「起こしましたか」


「床が少し鳴ったから」


「すみません」


「謝らなくてもいいわ」


 ミリアは薄い掛け布を肩に寄せる。


「外に何かあった?」


「異常はありません」


「なら、どうして見ていたの?」


「確認です」


「何の?」


「安全の」


 ミリアは小さく息を吐いた。


 呆れではなく、少し困ったような息だった。


「リゼさん」


「はい」


「ここは、そんなに怖い場所に見える?」


 リゼは答えようとして、言葉を選んだ。


 怖い。


 その感覚は違う。


 彼女は学園を怖がっているわけではない。敵がいるかもしれないから確認する。死角があるから警戒する。眠っている間に襲われる可能性を考える。


 それは恐怖ではなく、必要な行動だった。


「怖いわけではありません」


「では?」


「安全と判断するための情報が不足しています」


 ミリアはしばらく黙っていた。


 それから、静かに言った。


「あなた、本当に変わっているわね」


「本日、複数回言われています」


「でしょうね」


 少し笑う。


 リゼは窓辺から離れようとした。


 だが、ミリアが続けた。


「リゼさんは、どこから来たの?」


 リゼの動きが止まる。


「書類上は」


 言いかけて、口を閉じた。


 危険な発言だった。


 ミリアの目が少しだけ細くなる。


「書類上?」


「失言です」


「普通は、そこで“失言です”とは言わないわ」


「はい」


「ねえ」


 ミリアはベッドの上で膝を抱えた。


「あなた、嘘が下手ね」


 リゼは沈黙した。


 嘘が下手。


 その評価はまずい。


 潜入任務において致命的な欠陥だ。


 だが、自分でも自覚はあった。戦場では、敵を欺くことはできる。罠を仕掛け、足跡を偽装し、虚報を流し、夜襲の時刻をずらすこともできる。


 けれど、普通の少女として振る舞う嘘は難しい。


 何を隠すべきか。


 何を話してよいのか。


 どこまでが自然なのか。


 基準がわからない。


「グレイス家の遠縁として育ちました」


 リゼは用意された経歴を答えた。


「幼少期に両親を亡くし、騎士家で剣術を学びました。魔術適性は高くありません。学園では剣術科に所属予定です」


 ミリアはじっと聞いていた。


 やがて、ぽつりと言う。


「教科書を読んでいるみたい」


「暗記しています」


「そうでしょうね」


 ミリアは苦笑した。


「でも、ありがとう。話してくれて」


「情報量は少ないです」


「それでもいいの」


「なぜですか」


「少しずつでいいから」


 少しずつ。


 リゼはその言葉を覚えた。


 学園では、すべてを即座に開示する必要はないらしい。


 あるいは、相手もそれを求めていない。


「ミリアさんは」


 リゼは言った。


「何?」


「なぜ、私に構うのですか」


 ミリアは瞬きをした。


「構う?」


「他に話す相手は多数います。あなたは目立つ。周囲もあなたと関係を築きたがっています。私と接触する利益は低いと判断します」


「また利益の話」


「はい」


 ミリアは少し考えるように視線を落とした。


 窓の外から入る月明かりが、その横顔を淡く照らしていた。


「そうね。最初は、ただ変わった子だと思っただけよ」


「はい」


「でも、見ていると、放っておけないの」


「理由は」


「あなたが、誰もいない場所で一人で立っているように見えるから」


 リゼは、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。


 誰もいない場所。


 一人で立っている。


 それは、戦場では珍しくない。


 部隊が壊滅したあと、煙の中で立っていたことがある。雪の降る峠で、撤退命令が届かないまま一晩過ごしたことがある。仲間が全員死んだ陣地で、朝まで敵を待ったこともある。


 だが、ミリアが言っているのは、そういう意味ではないのだろう。


「同情ですか」


「少し違うわ」


「監視ですか」


「さっきも言ったでしょう。心配よ」


「心配」


「ええ」


 ミリアは小さく笑った。


「それに、同室者ですもの。三年間、同じ部屋で過ごす相手が、夜な夜な窓辺で警戒していたら気になるわ」


「改善します」


「すぐに全部直せとは言っていないわ。ただ、眠れないなら、眠れないと言ってもいいの」


「言うと、何か変わりますか」


「変わらないかもしれない。でも、一人で抱えなくて済むでしょう?」


 一人で抱えない。


 その感覚も、リゼにはまだわからない。


 戦場では、荷物は分けられる。弾薬も食料も、怪我人も、運べる者が運ぶ。けれど、眠れないことや、静けさへの違和感を誰かに渡す方法は知らない。


「努力します」


「真面目ね」


「はい」


 ミリアは少し笑い、それから欠伸を噛み殺した。


「私はもう寝るわ。明日は入学式だもの。あなたも、せめて横になって」


「はい」


「あと、窓の鍵を三回確認するのは禁止」


「二回は」


「一回」


「はい」


 リゼは窓の鍵を一度だけ確認し、ベッドへ戻った。


 ミリアは安心したように布団へ潜る。


 部屋は再び静かになった。


 リゼは横になり、天井を見つめる。


 ミリアの寝息が、少しずつ穏やかになる。


 眠った。


 リゼは目を閉じる。


 暗闇の中で、別の夜が浮かぶ。


 焦げた空。


 血の匂い。


 雪の上に倒れた仲間。


 砲声。


 叫び。


 誰かが自分の名前を呼んでいた。


 リゼット。


 リゼット、走れ。


 彼女は目を開けた。


 呼吸は乱れていない。


 汗も少ない。


 問題なし。


 ただ眠れないだけだ。


 どれほど時間が経ったのか。


 廊下の足音も消え、寮全体が深い眠りに落ちた頃、リゼの耳が小さな音を拾った。


 かさり。


 窓の外。


 風ではない。


 木の葉が擦れる音に似ているが、周期が違う。重さがある。誰かが低木の枝に触れた音。


 リゼは音もなく起き上がった。


 今度は床を鳴らさない。


 窓辺に近づき、カーテンの隙間から外を見る。


 中庭。


 魔術灯。


 花壇。


 柵。


 誰もいない。


 だが、花壇の土がわずかに乱れている。


 雨上がりの柔らかい土。


 そこに、靴跡があった。


 一つではない。


 細い靴底。学生用の革靴よりも硬い跡。踵が深く沈んでいる。体重は成人男性程度か、荷物を持っていた可能性。歩幅は広い。寮の壁沿いを移動し、北側へ抜けている。


 見回りの職員なら、正規の石畳を歩くはずだ。


 花壇を踏む理由がない。


 リゼの視線が鋭くなる。


 侵入者。


 あるいは、監視者。


 彼女は窓を開けようとして、手を止めた。


 窓からの出入りは禁止。


 屋根に登るのも禁止。


 寮母の言葉。


 ミリアとの約束。


 普通の学生としての行動。


 だが、靴跡は現実にある。


 リゼは数秒で判断した。


 窓から出る必要はない。


 現在地点から確認できる情報を優先する。


 靴跡の向き。


 寮壁に沿って北へ。


 北側には通用口と、旧校舎方面へ続く細い管理道がある。


 靴跡の数から見て、一人。


 侵入ではなく接近と離脱。


 窓の下まで来ていない。三〇七号室を直接狙ったわけではない可能性が高い。ただし、寮全体の構造確認、あるいは新入生の部屋割り確認の可能性あり。


 リゼは窓を閉じたまま、さらに観察した。


 花壇の近くに、小さな枝が落ちている。


 折れ方が新しい。


 枝の先に、黒い繊維のようなものが絡んでいた。


 衣服の一部か。


 魔術具の紐か。


 確認には外へ出る必要がある。


 リゼはゆっくり息を吐いた。


 今、外へ出ればミリアを起こす可能性がある。寮の規則違反にもなる。初日から問題を起こせば、寮母と教師に目をつけられる。正体秘匿に支障。


 しかし、証拠は朝まで残るとは限らない。


 雨が降れば消える。


 誰かが回収するかもしれない。


 リゼは机へ向かい、学園案内の余白に簡易図を描いた。


 中庭。


 花壇。


 靴跡の位置。


 進行方向。


 落下物らしき枝。


 記録を残す。


 次に、窓から見える範囲をもう一度確認した。


 異常なし。


 旧校舎の方角は暗い。


 だが、その闇がただの夜なのか、何かを隠しているのか、まだ判断できない。


「リゼさん……?」


 背後から、眠気を含んだ声。


 ミリアがまた目を覚ましていた。


 リゼは窓辺から離れる。


「起こしましたか」


「少しだけ。今度は何?」


「外に靴跡があります」


 ミリアは寝ぼけた目で瞬きをした。


「靴跡?」


「寮の花壇です。職員の巡回経路から外れています。侵入者の可能性があります」


 ミリアはしばらく黙った。


 眠気が少しずつ引いていく。


「本当に?」


「はい」


「見間違いではなく?」


「いいえ」


 ミリアはベッドから降りようとした。


 リゼは手で制する。


「窓に近づかないでください」


「なぜ?」


「外部から見える可能性があります」


「あなたは近づいていたでしょう」


「私は確認のためです」


「私も確認するわ」


「推奨しません」


「同室者として、私にも知る権利があると思うの」


 ミリアの声には、昼間とは違う芯があった。


 リゼは一瞬考え、カーテンの影に入る位置を指示した。


「そこから。体を窓の正面に出さないでください」


「わかったわ」


 ミリアは言われた通り、カーテンの影からそっと外を見た。


 月明かりと魔術灯の薄い光。


 花壇の土。


 確かに、そこには靴跡があった。


 ミリアの表情が変わる。


「……本当ね」


「はい」


「見回りの人では?」


「巡回なら石畳を使います。花壇を踏む必要がありません」


「でも、誰かが迷っただけかも」


「深夜に、女子寮の壁沿いを、花壇を踏んで、北側へ移動する理由としては弱いです」


 ミリアは返答できなかった。


 部屋の空気が、少しだけ冷える。


 先ほどまでの学園の静けさが、別の意味を持ち始める。


 安全なはずの寮。


 閉ざされた敷地。


 消灯後の中庭。


 そこに残された、知らない誰かの靴跡。


「寮母様に知らせるべきかしら」


 ミリアが小声で言った。


「今すぐ知らせれば騒ぎになります」


「でも、危険なら」


「証拠を消される可能性があります。まず朝、自然な形で確認します」


「自然な形?」


「散歩、または落とし物を探すふりです」


「あなた、そういうところは妙に手慣れているのね」


「はい」


「褒めていないわ」


 ミリアは不安そうに外を見た。


「誰かが、寮を見ていたのかしら」


「可能性はあります」


「新入生の誰かを?」


「はい」


「あなた?」


 ミリアの問いは、軽くなかった。


 リゼはすぐに答えなかった。


 自分が監視されている可能性はある。


 正門で感じた視線。


 旧校舎の影。


 そして、寮の外の靴跡。


 だが、それを認めれば、ミリアを巻き込む。


「不明です」


 リゼは答えた。


 嘘ではない。


 完全な事実でもない。


 ミリアはリゼを見た。


「あなたは、本当に何者なの?」


 静かな問いだった。


 怒りより、不安が強い。


 リゼは答えられなかった。


 リゼ・グレイス。


 地方騎士家の遠縁。


 剣術科の新入生。


 それが、答えるべき名前。


 けれど、ミリアの目は、それだけでは納得しない。


「同室者です」


 リゼは言った。


 ミリアが少し目を見開く。


「今は、それだけです」


 その言葉は、リゼ自身にも少し意外だった。


 任務上の偽装ではない。


 完全な嘘でもない。


 今、この部屋で、ミリアと同じ空間にいる自分。


 それを表す言葉として、同室者。


 ミリアはしばらく黙っていた。


 やがて、小さく息を吐く。


「……そうね。今は、それでいいわ」


 彼女はカーテンを戻し、ベッドへ向かった。


 だが、すぐには横にならなかった。


「リゼさん」


「はい」


「もし本当に危険があるなら、一人で動かないで」


「それは」


「約束して」


 リゼは沈黙した。


 任務上、単独行動が必要になる場面はある。


 護衛対象の危機、証拠確保、敵追跡。


 約束すれば、行動を縛られる。


 しかし、ここで拒めばミリアの疑念は強まる。


 そして何より、彼女は本気で心配している。


 監視ではなく。


 利益でもなく。


 心配。


 リゼは、まだその扱い方を知らない。


「可能な限り」


 彼女は言った。


 ミリアは眉を寄せる。


「曖昧ね」


「絶対とは言えません」


「どうして?」


「状況によります」


「またそれ」


 ミリアは困ったように笑った。


「でも、今のあなたにしては譲歩した方なのかしら」


「はい」


「では、可能な限り、で手を打ちます」


 ミリアはベッドに戻った。


「朝になったら、一緒に確認しましょう」


「危険です」


「窓の外を一人で見張られる方が、私には危険に思えるわ」


「なぜですか」


「あなたがそのまま窓から出ていきそうだから」


「禁止されています」


「それを覚えているなら安心ね」


 ミリアは布団を被った。


「おやすみ、リゼさん」


 リゼは少し遅れて答えた。


「おやすみなさい」


 部屋はまた静かになった。


 だが、さっきまでの静けさとは違う。


 窓の外には靴跡がある。


 誰かがいた。


 誰かが、女子寮の近くを通った。


 目的は不明。


 対象も不明。


 ただし、偶然と断じるには不自然。


 リゼはベッドに横になりながら、頭の中で可能性を整理した。


 一、寮内の生徒を狙った不審者。


 二、学園内の職員による非公式巡回。


 三、旧校舎方面からの侵入者。


 四、自分を監視している者。


 五、護衛対象アルト・レインフォードに関係する者。


 五番目の可能性は、現時点では低い。


 アルトの所在は男子寮側のはずだ。女子寮付近を通る理由は薄い。


 だが、学園全体の構造把握を目的とした者なら、あり得る。


 リゼは目を閉じた。


 眠るべきだ。


 明日は入学式。


 護衛対象と初めて接触する可能性が高い。


 睡眠不足は判断を鈍らせる。


 それは理解している。


 けれど、体はまだ眠りを拒んでいた。


 戦場と同じように、浅い眠りに落ちる準備だけをする。


 半分は休み、半分は起きている。


 そうして夜をやり過ごす。


 どれほど経ったか。


 窓の外で、遠くの鐘が一度だけ鳴った。


 深夜の時を告げる低い音。


 リゼは薄く目を開けた。


 ミリアは眠っている。


 呼吸は安定。


 異常なし。


 リゼは視線だけを窓へ向ける。


 カーテンの向こう、夜の中庭。


 そのさらに向こうにある旧校舎の黒い輪郭。


 そこに、ほんの一瞬だけ、淡い光が灯った。


 青白い、小さな光。


 魔術灯ではない。


 すぐに消えた。


 リゼは起き上がらなかった。


 今動けば、ミリアが起きる。


 それに、距離がありすぎる。ここからでは詳細確認は不可能。


 代わりに、時刻、方角、光の色、持続時間を記憶する。


 旧校舎北側二階付近。


 青白い発光。


 持続、およそ一秒未満。


 魔術式の起動光に類似。


 彼女の中で、警戒度が一段上がった。


 学園初日。


 受付。


 ミリア。


 女子寮。


 靴跡。


 旧校舎の光。


 平和な学園生活の輪郭が、夜の中で少しずつ歪んでいく。


 リゼは静かに目を閉じた。


 眠れなくてもいい。


 休めなくてもいい。


 明日、護衛対象を確認する。


 そのために、今は動かない。


 任務を優先する。


 窓の外で、風が木の葉を揺らした。


 靴跡は、朝まで残っているだろうか。


 旧校舎の光は、誰のものだったのか。


 そして、自分はこの部屋で、どこまで普通の学生として振る舞えるのか。


 答えのない問いを抱えたまま、リゼは夜明けまで、浅い眠りと警戒の境目を漂い続けた。


 翌朝。


 最初に聞こえたのは、砲声ではなかった。


 鐘の音だった。


 澄んだ音が寮の廊下に響き、窓の外から朝の光が差し込んでくる。鳥の声。遠くで誰かが笑う声。調理場から漂う焼きたてのパンの匂い。


 リゼは即座に起き上がった。


 場所を確認。


 三〇七号室。


 女子第一寮。


 王立アークレイン学園。


 任務初日、二日目の朝。


 異常なし。


 隣のベッドで、ミリアがもぞもぞと動いた。


「……おはよう」


「おはようございます」


 リゼはすでに身支度を始めていた。


 寝間着を畳み、制服に着替え、髪を束ね、鞄の中身を確認する。動きに無駄はないが、リボンの結び目で少し止まった。


 ミリアが眠そうな目でそれを見て、苦笑する。


「また苦戦しているの?」


「形が安定しません」


「貸して」


 ミリアはベッドから降り、リゼの前に立った。


「じっとしていて」


 リゼは動きを止める。


 ミリアの指が、リゼの首元に触れた。


 反射で手を掴みそうになる。


 寸前で抑えた。


 ミリアはそれに気づいたのか、少しだけ手を止める。


「大丈夫。リボンを結ぶだけよ」


「はい」


 彼女の指は手早く、しかし優しかった。


 布を通し、左右の長さを整え、中央で綺麗な形を作る。


 昨日、リゼが三度かけて作ったものより、ずっと自然だった。


「はい。できた」


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 ミリアは自分の支度を始めながら、窓の外へ視線を向けた。


「靴跡、見に行くのでしょう?」


「はい」


「私も行くわ」


「危険性は低くありません」


「なら、なおさら一人で行かせられないわ」


 リゼは反論しかけた。


 だが、昨夜の約束を思い出す。


 可能な限り、一人で動かない。


「わかりました」


 ミリアは満足そうに頷いた。


 二人は朝食前、人の少ない時間を選んで中庭へ出た。


 朝の空気は冷たく、雨上がりの土の匂いが残っている。花壇の草花には水滴が光り、石畳はまだ少し濡れていた。


 寮の周囲には、すでに数人の生徒がいた。


 深呼吸をしている者。朝の散歩をしている者。友人と話している者。誰も花壇の靴跡には気づいていない。


 リゼは自然な歩調で、昨夜見た場所へ向かった。


 ミリアも隣を歩く。


 現場に近づく。


 靴跡は、残っていた。


 ただし、一部が崩れている。


 誰かが踏み直したわけではない。夜露と土の緩みで輪郭が甘くなったのだろう。


 リゼはしゃがみ込んだ。


「やっぱりあるわね」


 ミリアが小声で言う。


「はい」


 リゼは靴跡の大きさを測る。自分の靴と比較。成人男性、または大柄な女性。学生用の革靴ではない。底面に斜め格子の滑り止め。軍用靴に近いが、王国軍の標準品とは違う。


 花壇の縁に、昨夜見た枝が落ちている。


 リゼはそれを拾った。


 枝の先には、黒い繊維が絡んでいた。


 細い。


 上質な布ではない。外套か、作業着か。魔術加工の痕跡は薄いが、完全には不明。


「それ、証拠になる?」


 ミリアが尋ねる。


「現時点では不十分です」


「寮母様に知らせる?」


「知らせる場合、質問されます」


「どうして気づいたのか、ね」


「はい」


「夜中に窓から中庭を見ていた、と言うと怒られそうね」


「はい」


「でも、黙っているのも危険でしょう?」


 リゼは枝を見つめた。


 報告すべきか。


 報告すれば、寮母や学園側が調査する。だが、相手が学園内部の者なら証拠は消される。リゼ自身の行動にも注目が集まる。初日から異常に敏感な新入生として記録される。


 報告しなければ、敵の動きを追える可能性がある。


 ただし、寮の安全を軽視することになる。


 判断が難しい。


「まずは、落とし物として届けます」


「落とし物?」


「この繊維が絡んだ枝を、寮周辺で見つけたと報告します。靴跡については、相手の反応を見ます」


 ミリアは少し驚いたようにリゼを見た。


「あなた、そういうことは考えられるのね」


「どういう意味ですか」


「正面から“侵入者です”って言いに行くかと思ったわ」


「状況によります」


「便利な言葉ね」


 ミリアは小さく笑った。


 その時、寮の入口から寮母が出てきた。


 朝の見回りらしい。


 リゼはすぐに立ち上がり、枝を手に持った。


「おはようございます」


 寮母が二人に気づく。


「おはようございます。早いですね」


 ミリアが自然に挨拶する。


「おはようございます、寮母様。朝の空気が気持ちよかったので」


「よい習慣です。ただし、朝食の時間には遅れないように」


「はい」


 リゼは一歩前に出た。


「寮母様」


「何ですか、グレイスさん」


「花壇の近くで、これを見つけました」


 枝を差し出す。


 寮母はそれを受け取り、目を細めた。


「枝ですね」


「黒い繊維が絡んでいます」


 寮母の表情が、ごくわずかに変わった。


 本当にわずか。


 普通の生徒なら見逃す程度。


 だが、リゼは見逃さなかった。


 寮母はすぐに平静を取り戻す。


「風で飛んできたのでしょう。こちらで処分しておきます」


「はい」


「あなたたちは朝食へ行きなさい。今日は入学式です。余計なことに気を取られず、身だしなみを整えるように」


「はい」


 ミリアが礼をし、リゼも続いた。


 二人は寮へ戻る。


 廊下に入ってから、ミリアが小声で言った。


「今の、気づいた?」


「はい」


「寮母様、何か知っているのかしら」


「少なくとも、ただの枝とは判断していません」


「どうしてわかるの?」


「視線が繊維で止まりました。呼吸が一度浅くなりました。左手の指が名簿を握るように動きました」


「よく見ているのね」


「必要です」


 ミリアは少しだけ不安そうな顔をした。


「この学園、本当に大丈夫なのかしら」


 リゼは答えなかった。


 大丈夫。


 安全。


 普通。


 昨日から何度も聞いた言葉。


 けれど、夜の靴跡も、旧校舎の光も、寮母の一瞬の反応も、それらを少しずつ削っていく。


 朝食の匂いが廊下に満ちていた。


 生徒たちの明るい声が聞こえる。


 今日は入学式。


 リゼは、まだ見ぬ護衛対象の名を思い浮かべた。


 アルト・レインフォード。


 同じ一年。


 同じ基礎教養組。


 そして今日、初めて顔を合わせる予定の少年。


 その名が書かれた名簿を思い出した時、リゼの胸の奥で、任務の糸が静かに張り詰めた。


 食堂へ向かう前、廊下の掲示板が目に入った。


 新入生の組分け表。


 リゼは足を止める。


 一年C組。


 リゼ・グレイス。


 その数行下に、確かにその名前があった。


 アルト・レインフォード。


 リゼは名簿を見つめる。


 護衛対象。


 任務の中心。


 そして、おそらくこの学園に潜む何かの標的。


 ミリアが隣で尋ねる。


「知っている名前でもあった?」


 リゼは掲示板から目を離した。


「いいえ」


 そう答えた声は、静かだった。


 廊下の窓から朝の光が差し込む。


 学園は美しく、穏やかで、何も知らない新入生たちの期待に満ちている。


 その中で、リゼだけが別のものを見ていた。


 昨夜の靴跡。


 旧校舎の光。


 寮母の反応。


 そして、名簿に記された護衛対象の名前。


 入学式は、もうすぐ始まる。


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