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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第1章 第2話:王立アークレイン学園


 受付棟の前には、長い列ができていた。


 王立アークレイン学園の正門をくぐってすぐ右手。白い石で造られた二階建ての建物は、受付棟と呼ぶにはあまりにも立派だった。高い窓には磨かれた硝子が嵌め込まれ、入口の上には金色の学園章が掲げられている。二頭の獅子と一本の杖。その周囲を、若葉を模した蔦模様が囲んでいた。


 建物の前では、制服姿の上級生たちが新入生を案内している。


 荷物を運ぶ者。道に迷った家族に笑顔で説明する者。書類を確認し、列を整理する者。誰もがよく訓練されているように見えた。


 だが、兵士ではない。


 足運びが違う。視線の配り方が違う。腰に武器の重みを感じていない。周囲を観察しているのではなく、人の流れを円滑にするために見ている。


 リゼは列の最後尾に立ち、周囲を確認した。


 正門から受付棟までの距離、約六十歩。


 右手に花壇。左手に噴水。噴水の裏は死角。受付棟二階の窓からは広場全体を見渡せる。屋根の縁は狭いが、人一人なら伏せられる。正面入口は広く、混乱時には人が詰まる可能性が高い。非常時の脱出経路としては不適。


 新入生の数は、ざっと百五十。


 同行する家族や従者を含めれば、広場には三百を超える人間がいる。


 多すぎる。


 リゼは無意識に、鞄の持ち手を握る指に力を込めた。


 武器はない。


 支給品の中にあるのは教科書、筆記具、生活用品、入学書類。どれも人を殺すための道具ではない。もちろん、使い方次第では武器になる。筆記用の金属ペンは目を潰せる。鞄の留め具は喉に叩き込める。革紐は絞め具に使える。


 だが、あくまで代用品だ。


 剣の感触はない。


 腰が軽い。


 その軽さが、落ち着かなかった。


「次の方、どうぞ」


 受付の声が聞こえ、列が一つ進む。


 リゼも前へ進んだ。


 前に並ぶ少年は、母親らしき女性に何度も襟元を直されている。


「ちゃんと先生のお話を聞くのよ。手紙も書くのよ。お友達とは仲良くするのよ」


「わかってるって、母さん」


「あと、朝はちゃんと起きること。あなた、家では起こされないと起きないんだから」


「わかってるってば」


 少年は耳まで赤くしていた。


 その様子を見て、周囲の者たちが微笑む。


 リゼは観察した。


 母親は涙ぐんでいる。少年は照れている。敵意なし。隠し武器なし。会話内容は生活上の注意。戦術的価値は低い。


 しかし、気になった。


 なぜ、起床の確認にあれほど感情がこもるのか。


 起きられなければ死ぬ。それだけの話ではないのだろうか。


 リゼは、学園案内書の端に小さく書き込んだ。


 ――朝、起きる。重要。


 その時、後方から小さなざわめきが起こった。


 リゼは振り返らず、窓硝子の反射で確認する。


 広場の端に、豪奢な馬車が停まった。


 黒ではない。深い葡萄色の車体に金の縁取り。車輪には魔術式の刻印が施されており、泥一つ跳ねていない。従者が三名、護衛が二名。護衛の腰には儀礼剣があるが、実戦経験は少なそうだ。


 馬車の扉が開く。


 降りてきたのは、一人の少女だった。


 淡い金色の髪が、夕陽を受けて輝いた。長く緩やかな髪は背中で上品に揺れ、白い手袋をした指先がスカートの裾を軽く持ち上げる。制服は同じはずなのに、彼女が着るとまるで舞踏会用の衣装のように見えた。


 周囲の生徒たちが、自然と道を開ける。


「あれ、ファルネーゼ家の……」


「ミリア様だ」


「本当に同じ学年なのか」


「魔術名門のご令嬢だろ?」


 囁きが広がる。


 ミリア・ファルネーゼ。


 リゼはその名を、頭の中で分類した。


 ファルネーゼ侯爵家。王国東部に広大な領地を持つ名門貴族。古くから王家に魔術師を輩出してきた家系。軍部よりも宮廷魔術院に近い。現侯爵は戦時中、後方支援と結界維持に関与。政治的影響力、大。


 注意対象。


 ミリアは周囲の視線に慣れているようだった。


 けれど、高慢に顎を上げることはない。案内役の上級生に丁寧に礼を言い、従者に荷物を任せ、受付の列へ向かって歩いてくる。


 その歩き方は、美しかった。


 だが、隙がある。


 重心が高い。足元への注意が甘い。右側から押されると体勢を崩す可能性がある。手袋で指先の動きが制限されているため、即応性も低い。魔術師系統なら距離を取って戦うはずだが、この人混みでは発動までに妨害を受ける。


 護衛対象ではない。


 だが、目立つ。


 目立つ者の周囲には、事件が起こりやすい。


 リゼはそう判断した。


 列がまた進む。


 前の少年が受付を終え、母親に抱きしめられてから寮へ向かっていった。


 次はリゼの番だった。


 受付の机には、若い女性職員が座っている。柔らかく整えた栗色の髪に、学園職員用の紺色の制服。机の上には名簿、羽根ペン、印章、寮割りの書類、簡易魔術具が整然と並べられていた。


 職員はリゼを見ると、明るく微笑んだ。


「ご入学おめでとうございます」


 リゼは一拍置いた。


 応援された場合は、ありがとう。


 祝われた場合はどう返すのか。


 応援と祝福は同じ分類で処理してよいのか。


 判断に迷った末、彼女は背筋を伸ばした。


「任務了解」


 職員の笑顔が固まった。


 周囲の音が一瞬だけ遠のいた気がした。


「……ええと」


 職員は手元の名簿を確認する。


「リゼ・グレイスさん、でよろしいですか?」


「はい」


「グレイス騎士家のご出身ですね」


「はい」


「入学証をお願いします」


 リゼは革鞄から書類を取り出した。折れも汚れもない。防水用の封筒に入れ、さらに布で包んである。


 職員は受け取ると、少し驚いたように目を瞬かせた。


「とても丁寧に保管されていますね」


「重要書類です」


「ええ、そうですね」


 職員は苦笑しながら、入学証に魔術印を当てた。


 小さな青い光が灯る。


 本人確認用の簡易魔術具だ。血液や魔力紋ではなく、書類と身分証の登録情報を照合する程度のもの。偽装は可能。高位術者なら突破できる。受付段階の検査としては妥当だが、安全性は高くない。


 リゼは光の揺らぎを見て、そう判断した。


「確認できました。リゼ・グレイスさん。剣術科所属予定、基礎教養組は一年C組です」


「はい」


「寮は女子第一寮。お部屋は三階の三〇七号室になります。こちらが鍵です」


 職員が小さな鍵を差し出す。


 リゼは受け取った瞬間、形状を確認した。一般的な刻み鍵。複製は容易。防犯性能は低い。扉の構造次第では針金で開く。


「鍵の予備は」


「寮母室で管理しています」


「第三者が入手する可能性は」


「え?」


「鍵の管理体制について質問しています」


 職員は困ったように笑った。


「寮母が厳重に管理していますので、ご安心ください」


 厳重。


 定義が曖昧だ。


 リゼは追及を続けようとしたが、後ろの列が動かずに滞っていることに気づいた。視線が集まっている。


 目立つ行為は避けるべき。


「了解しました」


「次に、初回授業の案内です。明日の入学式後に全体説明がありますが、基礎科目と実技科目の選択票はこちらです。提出は三日後までになります」


「三日後」


「はい。それと、魔術適性検査は明後日の午前です。場所は第二魔術棟。必ず受けてくださいね」


「魔術適性は低いです」


「事前申告はされていますが、全員対象ですので」


「検査に危険性は」


「ありません。軽く魔力を流していただくだけです」


「魔術回路への干渉は」


「通常はありません」


「通常ではない場合は」


 職員が再び固まった。


 リゼは、失敗したと判断した。


 質問が多すぎる。


 一般的な新入生は、魔術検査の危険性について詳細確認しないらしい。


「問題ありません」


 リゼは自分で会話を終了させた。


 職員はほっとしたように笑顔を戻す。


「それから、学園内での武器携帯は禁止です。訓練用武器は授業時のみ貸与されます。私物の武器を持ち込んでいる場合は、受付横の保管窓口へ預けてください」


「持ち込んでいません」


「はい、結構です」


 持ち込みたかった。


 リゼはそう思ったが、言わなかった。


「最後に、こちらが学園生活のしおりと校内地図です。迷った時は案内役の上級生か、腕章をつけた職員に声をかけてください」


「迷いません」


「え?」


「現在位置を把握すれば問題ありません」


「ええと……はい。では、ようこそ王立アークレイン学園へ。素晴らしい三年間になりますように」


 職員はにこやかに言った。


 リゼは一瞬考えた。


 祝福。応援に近い。


「ありがとうございます」


 そう答えると、職員は少し安心したように笑った。


 リゼは書類、鍵、地図、しおりを受け取り、受付を離れた。


 受付棟の外へ出ると、広場の人波はいっそう増えていた。


 新入生たちはそれぞれ寮へ向かい、あるいは学園内を見学し、あるいは家族と最後の時間を過ごしている。上級生たちは忙しそうに動き回り、教師らしき大人たちが各所で目を光らせている。


 リゼは地図を広げた。


 中央講堂、正面。


 受付棟、現在位置。


 第一校舎、北。


 第二魔術棟、北東。


 図書館塔、西。


 剣術訓練場、南西。


 女子第一寮、東。


 男子寮、東北東。


 食堂棟、中央南。


 旧校舎、敷地北西端。


 立入禁止。


 地図上の旧校舎には、赤い線が引かれていた。


 リゼの視線がそこで止まる。


 立入禁止区域。


 つまり、管理が行き届かない場所。警備が薄い可能性がある。あるいは、警備を必要とする何かがある場所。


 彼女は地図を折り、実際の地形と照合した。


 中央講堂の尖塔を基準にする。図書館塔は西。ならば旧校舎は、受付棟から見て左奥。蔦に覆われた灰色の建物がそれだ。


 第1話の門から見えた建物。


 窓の一部が割れている。


 外壁は古いが、完全な廃墟ではない。屋根の傷みは少ない。蔦が伸びているわりに、入口付近の石畳には草が少ない。人の出入りがある。


 リゼは目を細めた。


 その時だった。


「あなた」


 背後から声がした。


 柔らかいが、よく通る声。


 リゼは振り返る。


 そこに立っていたのは、先ほど葡萄色の馬車から降りてきた少女だった。


 ミリア・ファルネーゼ。


 近くで見ると、その存在感はいっそうはっきりしていた。整った顔立ち。淡い金の髪。青みを帯びた瞳。背筋はまっすぐ伸び、表情には余裕がある。新入生というより、すでにこの場に馴染んでいるように見えた。


 ただし、護衛はいない。


 従者たちは荷物の手続きに向かったのか、少し離れた場所にいる。


 ミリアはリゼを見て、小さく首を傾げた。


「もしかして、迷子?」


 リゼは即答した。


「現在位置は把握している」


「そう」


 ミリアは視線をリゼの手元の地図へ落とした。


「では、なぜ女子寮とは反対方向を見ているの?」


 リゼは少しだけ沈黙した。


 ミリアが指差す方向を確認する。


 確かに、女子第一寮は東。


 リゼが見ていた旧校舎は北西。


 目的地とは逆方向だった。


「迂回経路の確認です」


「迂回?」


「正規経路が使用不能になった場合に備えています」


「入学初日に?」


「はい」


「正規経路が使用不能になる予定でもあるの?」


「予定はありません」


「なら、どうして?」


「予定されていない事態に備えるためです」


 ミリアは数秒、リゼを見つめた。


 それから、口元に手を当てて小さく笑った。


「あなた、面白い人ね」


 面白い。


 分類不能。


 リゼは慎重に答えた。


「笑われる理由が不明です」


「馬鹿にしたわけではないわ。ただ、少し意外だったの。新入生の女の子が、入学初日に非常時の迂回経路を確認しているなんて」


「確認しないのですか」


「普通はしないわ」


「普通」


 また、その単語だった。


 学園に入ってから、何度も出てくる。普通。普通の生徒。普通の会話。普通の生活。


 リゼにとって、普通とは状況によって変わるものだった。


 戦場では、眠る時も靴を脱がないのが普通。食事の前に毒を疑うのが普通。夜中に物音がしたら、武器を持って起きるのが普通。


 だが、ここでは違うらしい。


 ミリアはリゼの無表情を見て、少しだけ表情を和らげた。


「あなた、女子第一寮でしょう? 鍵の色が同じだもの」


 ミリアが自分の鍵を見せた。


 リゼのものと同じ、青い房飾りがついている。


「はい」


「私もそちらへ行くところなの。よければ案内するわ」


「同行の理由は」


「え?」


「あなたが私を案内する理由です」


 ミリアは目を瞬かせた。


「理由……同じ寮だから、ついでに」


「ついで」


「ええ」


「利益は」


「利益?」


「あなたにとっての利益です」


 ミリアの眉が、わずかに上がった。


 周囲で聞いていた新入生数名が、気まずそうに視線を逸らす。


 リゼは即座に判断した。


 失言。


 どうやら親切に対して、利益を確認するのは一般的ではない。


 しかし、接近してくる相手の意図を確認しないことの方が危険だ。リゼの中では、質問は妥当だった。


 ミリアは少しだけ頬を膨らませた。


「利益がなければ、道案内をしてはいけないの?」


「いえ」


「では、なぜ聞くの?」


「意図の確認です」


「私があなたを罠にかけると思った?」


「可能性はあります」


 言ってから、また失敗したと気づく。


 ミリアは今度こそ、はっきりと眉を寄せた。


「あなた、初対面の相手にずいぶん失礼なことを言うのね」


「申し訳ありません」


 リゼはすぐに謝罪した。


 謝罪は関係悪化を防ぐために有効。上官からもそう教えられている。


 ただし、声に感情が乗らなかったため、効果は限定的だった。


 ミリアは腕を組む。


「本当に申し訳ないと思っている?」


「はい」


「顔が全然そう見えないわ」


「表情の調整が苦手です」


 ミリアは、怒るべきか笑うべきか迷ったような顔をした。


 それから、小さく息を吐く。


「もういいわ。あなた、名前は?」


「リゼ・グレイス」


「グレイス……騎士家の方?」


「遠縁です」


「そう。私はミリア・ファルネーゼ。よろしくね、リゼさん」


 ミリアは自然に手を差し出した。


 握手。


 リゼはその手を見る。


 白い手袋。指は細い。剣を握る手ではない。魔術師の手だ。だが、爪は整えられ、指先には小さな魔術触媒の指輪が嵌められている。完全に無防備ではない。


 握手は友好のしるし。


 ただし、手首を取られた場合、拘束に移行される可能性がある。


 リゼは慎重に手を伸ばした。


 力加減に注意する。


 握る。


 ミリアの手は温かかった。


 戦場で握った手とは違う。


 武器の硬さも、血の滑りも、震えもない。


 ミリアは少し驚いたように言った。


「あなたの手、ずいぶん硬いのね」


 リゼはすぐに手を離した。


「剣術科です」


「それだけでそんな手になるかしら」


「個人差があります」


「便利な言葉ね」


 ミリアはそう言って、歩き出した。


「行きましょう。女子寮はこっちよ。あなた一人だと、本当に旧校舎まで行ってしまいそうだもの」


「旧校舎は立入禁止です」


「知っているなら、なおさら見に行かないの」


「外観確認のみです」


「それも今日はやめておきなさい」


 ミリアの声は少し呆れていた。


 リゼは彼女の半歩後ろを歩きながら、周囲を確認する。


 ミリアは自然と道を選んでいた。


 混雑を避け、石畳の継ぎ目で足を取られないように歩き、上級生や職員に軽く会釈する。そのたび、相手は好意的に反応した。


 社交能力が高い。


 交渉、情報収集、対人関係構築に有用。


 ただし、無防備。


「まず、あそこが中央講堂」


 ミリアが前方の大きな建物を指した。


 白い円柱が並び、屋根には鐘楼がある。正面扉は巨大で、儀式用の魔術紋が刻まれている。


「明日の入学式はあそこで行われるわ。新入生全員と教師、それから来賓も入るから、とても混むでしょうね」


「出入口は正面のみですか」


「側面にもあるわ。非常口もあるはずよ」


「確認が必要です」


「式の最中に席を立たないでね」


「状況によります」


「状況を作らないで」


 ミリアは歩きながら、次に右手の高い塔を指した。


「あちらが図書館塔。王都の王立書庫に次ぐ蔵書量だと言われているわ。古代魔術の写本も一部保管されているそうよ」


「警備は」


「本の価値を考えれば厳重でしょうね。あ、でも生徒も普通に利用できるわ」


「普通に」


「ええ。勉強する場所だから」


 リゼは塔を見上げる。


 高さは五階相当。屋上からは学園全体を見渡せる可能性がある。狙撃地点として優秀。内部構造は複雑そうだが、火災時の避難経路が問題になる。古文書が多いなら、火気厳禁。つまり、火属性魔術の使用制限があるはず。


 確認事項が増える。


「そして、あちらが第二魔術棟。魔術実技や適性検査を行う場所ね。私は明後日の検査が楽しみなの」


「楽しみ」


「ええ。自分の適性を正式に測るのは、入学後最初の大きな行事だもの」


「結果が悪かった場合は」


「努力するしかないわね」


「結果が良かった場合は」


「もっと努力するわ」


 リゼはミリアを見た。


 迷いのない答えだった。


 ミリアは微笑む。


「ファルネーゼの名を背負っている以上、中途半端な成績は取れないもの」


「家名のためですか」


「それもあるわ。でも、それだけではないわね」


「では、何のために」


 ミリアは少しだけ考えた。


「自分がどこまで行けるか、知りたいの」


 その言葉に、リゼは返答できなかった。


 自分がどこまで行けるか。


 そんなことを考えたことはなかった。


 どこまで行けるかではない。


 命令された場所まで行く。


 必要なら敵陣深くまで行く。


 退路がなくても行く。


 帰ってこられるかは、その時の状況次第。


 それだけだった。


 ミリアはリゼが黙ったのを見て、不思議そうにする。


「あなたは?」


「何がですか」


「アークレインで、何を学びたいの?」


 任務。


 そう答えかけて、リゼは口を閉じた。


 受付での失敗を思い出す。


 ここでは任務という言葉は不自然だ。


 学生らしい答えが必要。


 剣術科。地方騎士家の遠縁。戦歴なし。


「剣術を」


 短く答える。


「それだけ?」


「はい」


「ずいぶん簡潔ね」


「他に必要ですか」


「必要というより、夢とか目標とか」


「目標」


「卒業後に騎士になるとか、近衛を目指すとか、領地を守るとか」


 卒業後。


 三年後。


 リゼには、その先を想像する習慣がなかった。


「未定です」


「そうなの?」


「はい」


「では、この三年間で見つけるのね」


 ミリアは当たり前のように言った。


「見つける」


「ええ。学園はそのための場所でもあるもの」


 リゼは周囲を見た。


 広い庭園。笑う生徒たち。校舎を行き交う上級生。掲示板の前で予定を確認する新入生。荷物を運ぶ従者。遠くで鳴る鐘。


 ここは、何かを見つけるための場所。


 そう言われても、まだ実感はない。


 リゼにとって、ここは護衛任務の現場だ。敵の潜伏場所であり、対象を守るための戦場だ。


 だが、ミリアにとっては違う。


 多くの生徒にとっても、おそらく違う。


 その認識の差を、リゼは記憶に留めた。


「左手に見えるのが剣術訓練場よ」


 ミリアが言った。


 そこは広い砂地の訓練場だった。周囲には観覧席があり、木剣や盾を保管する武具庫も見える。すでに数人の上級生が素振りをしていた。


 リゼの視線が自然とそちらへ吸い寄せられる。


 木剣。


 訓練用とはいえ、武器だ。


 距離、約八十歩。


 緊急時、走れば十秒以内に到達可能。武具庫の鍵が開いていれば、そこから装備を確保できる。


「剣術科なら、あそこをよく使うことになるでしょうね」


「はい」


「嬉しそうね」


「そう見えますか」


「ほんの少しだけ」


 リゼは自分の表情に触れた。


 変化はわからなかった。


 ミリアは楽しそうに笑う。


「あなた、やっぱり変わっているわ」


「先ほども言われました」


「よく言われるでしょう?」


「戦場では言われませんでした」


 言ってから、リゼは凍りついた。


 ミリアの足が止まる。


 リゼも止まった。


 風が通り抜ける。


 噴水の音が遠くで聞こえた。


「戦場?」


 ミリアが振り返る。


 リゼは即座に修正を試みた。


「比喩です」


「比喩」


「地方の訓練場は、厳しい環境でした」


「それを戦場と表現したの?」


「はい」


 ミリアはリゼの顔を見つめた。


 嘘を見抜こうとする目。


 完全には納得していない。


 リゼは呼吸を一定に保つ。


 偽装任務において、沈黙は時に弁明より有効。相手に想像させすぎる危険はあるが、余計な情報を与えない利点もある。


 ミリアはやがて、小さく息を吐いた。


「そう。ずいぶん厳しい訓練場だったのね」


「はい」


「でも、学園ではあまり物騒な比喩は使わない方がいいわ」


「なぜですか」


「友達が減るから」


「まだいません」


「そういうことを言うからよ」


 ミリアは再び歩き出した。


 今度は少しだけ、歩幅が緩やかになった。


 リゼはその横顔を見た。


 警戒されたか。


 可能性はある。


 だが敵意はない。むしろ、先ほどよりも慎重な関心が向けられている。


 これは良い状態なのか悪い状態なのか、判断が難しい。


 やがて、女子第一寮が見えてきた。


 白い壁に青い屋根の、大きな建物だった。四階建て。窓が多い。入口は正面に一つ、左右に通用口らしき扉が二つ。裏手に庭と洗濯場。周囲には低い柵と花壇。警備兵はいないが、魔術灯に監視用の術式が組み込まれている可能性がある。


 寮というより、小さな屋敷に近い。


 入口の前では、寮母らしき年配の女性が新入生を迎えていた。


 厳しそうな顔立ちだが、目は優しい。背筋が伸び、声がよく通る。片手に名簿、もう片手に鍵束。腰には小さな警笛。歩き方に無駄がない。


 この人物は油断できない。


 リゼはそう判断した。


「新入生ですね。名前を」


 寮母が言う。


 ミリアが先に一歩出た。


「ミリア・ファルネーゼです。本日よりお世話になります」


 美しい礼。


 寮母は満足そうに頷いた。


「三〇七号室です。荷物はすでに運ばれていますよ」


「ありがとうございます」


 次に、寮母の視線がリゼへ向く。


「あなたは」


「リゼ・グレイスです」


 寮母は名簿を確認し、少しだけ眉を上げた。


「あなたも三〇七号室ですね」


 リゼはミリアを見た。


 ミリアもリゼを見た。


「同室?」


 ミリアが言う。


「そのようです」


 リゼは答えた。


 寮母は二人を交互に見て、淡々と続ける。


「第一寮は二人部屋です。貴族も平民も、成績も家名も関係なく割り振られます。共同生活も学びの一つですからね」


「はい」


 ミリアは素直に返事をした。


 リゼも少し遅れて頷く。


「規則を説明します。消灯は十時。朝食は六時半から八時。門限は八時。無断外泊は禁止。男子寮への立ち入りは禁止。私物武器の持ち込みは禁止。決闘は禁止。窓からの出入りは禁止。屋根に登るのも禁止です」


 リゼは、いくつか確認したい項目があった。


 窓からの出入りが禁止。


 屋根に登るのも禁止。


 つまり、過去にやった者がいる可能性が高い。


 あるいは、想定される危険行動として明文化されている。


「質問があります」


 寮母がリゼを見る。


「何ですか」


「緊急避難時も、窓からの出入りは禁止ですか」


 ミリアが隣で小さく息を呑んだ。


 寮母は目を細める。


「火災や災害時は、寮母または職員の指示に従いなさい」


「職員が不在、または行動不能の場合は」


「そのような事態を起こさないために、私たちがいます」


「しかし、可能性は」


「グレイスさん」


 寮母の声が低くなった。


「ここは軍の宿舎ではありません」


 リゼは口を閉じた。


 寮母は続ける。


「心配性なのは悪いことではありません。ですが、まずは寮の生活に慣れること。規則を疑う前に、規則を覚えなさい」


「了解しました」


「返事は、はい、で十分です」


「はい」


 寮母は少しだけ表情を緩めた。


「よろしい。部屋へ行きなさい。夕食は六時からです。遅れないように」


「はい」


 ミリアが歩き出し、リゼも続く。


 寮の中は、外観以上に整えられていた。


 磨かれた床。壁に掛けられた風景画。廊下に並ぶ魔術灯。階段の手すりは滑らかで、隅には花瓶が置かれている。空気には石鹸と乾いた木の匂いが混じっていた。


 血の匂いがしない。


 火薬も、腐肉も、濡れた革の臭いもない。


 清潔すぎる空間。


 それがリゼには、かえって不自然に感じられた。


 三階へ上がる。


 廊下の窓から、学園の敷地が見えた。中央講堂の屋根、庭園、遠くの旧校舎。夕陽はほとんど沈みかけ、空は薄紫に染まっている。


 三〇七号室の前で、ミリアが鍵を差し込んだ。


 扉が開く。


 部屋は広かった。


 二つのベッド。二つの机。二つの衣装棚。中央には小さな丸テーブル。窓は南向きで、庭園が見える。暖炉はないが、壁に暖房用の魔術具が埋め込まれている。天井は高く、床は木張り。カーテンは淡い青。


 ミリアの荷物はすでに片側に運ばれていた。大きな革鞄が二つ、丁寧に置かれている。


 リゼの荷物は反対側。


 簡素な鞄が一つだけ。


 ミリアは部屋を見回し、満足そうに微笑んだ。


「素敵な部屋ね」


 リゼは入口に立ったまま、室内を確認した。


 窓、一つ。


 開閉可能。外側に足場なし。ただし、窓枠の幅は指がかかる。三階から地面まで約十メートル。無傷で飛び降りるのは困難だが、カーテンとシーツを利用すれば降下可能。


 入口、一つ。


 鍵は簡易。内側から机を動かせば一時的な封鎖は可能。


 隠れる場所、衣装棚下部、ベッド下、カーテン裏。


 死角、入口右側。


 リゼは部屋に入るなり、自分のベッドを持ち上げようとした。


「ちょっと」


 ミリアが慌てて声を上げる。


「何をしているの?」


「位置を変更します」


「どうして?」


「現在の配置では、入口と窓を同時に監視できません」


 ミリアは額に手を当てた。


「ここは戦場ではないわ」


「なら、なぜ鍵があるのですか」


「防犯のためでしょう」


「防犯が必要な場所は、安全ではありません」


「あなたの理屈だと、世界中の建物が危険地帯になるわよ」


「多くの建物は危険です」


「……本気で言っているのね」


「はい」


 ミリアは深く息を吸って、ゆっくり吐いた。


「ベッドは動かさない。これは寮の備品よ。勝手に配置を変えたら、寮母様に怒られるわ」


「怒られるだけですか」


「十分でしょう」


「罰則は」


「あなた、怒られることを軽く見すぎていない?」


 リゼはベッドから手を離した。


 怒られる。


 軍では、命令違反には減給、拘束、懲罰房、最悪の場合は処刑がある。怒られるだけなら軽微な罰則だが、学園では重いのかもしれない。


 記憶しておく必要がある。


 ミリアは鞄を開けながら言った。


「とにかく、あなたの場所はそちら。私はこちら。机と棚も同じように分けましょう。共有部分は綺麗に使うこと。いい?」


「はい」


「返事は素直なのに、どうして行動が物騒なのかしら」


「物騒ではありません。合理的です」


「それを物騒と言うの」


 ミリアは荷物の中から、丁寧に畳まれた衣服や本、化粧道具、小さな魔術具を取り出していく。


 リゼは自分の鞄を開けた。


 替えの制服。下着。洗面道具。教科書。筆記具。学園案内。身分証。髪留め。以上。


 少ない。


 ミリアがちらりと見て、目を瞬かせた。


「荷物、それだけ?」


「はい」


「本当に?」


「はい」


「日用品は? 私服は? 予備の靴は? 手紙を書く便箋は? お茶道具は?」


「必要ですか」


「人によるけれど……必要な場面は多いわ」


「後で調達します」


「あなた、もしかして準備が苦手?」


「戦闘準備は得意です」


「学園生活の準備の話よ」


「初任務です」


 また言ってしまった。


 リゼはすぐに訂正する。


「初めてのため、不慣れです」


 ミリアはリゼを見つめた。


 今度は追及しなかった。


 代わりに、自分の荷物から新品の便箋を一束取り出す。


「少し分けてあげるわ」


「利益は」


 言いかけて、リゼは止まった。


 ミリアの眉が上がる。


 リゼは短く言い直した。


「ありがとうございます」


 ミリアは一瞬驚き、それから満足そうに笑った。


「どういたしまして」


 リゼは便箋を受け取った。


 白い紙。端に小さな花の模様。香りがついている。


 用途は手紙。


 手紙を書く相手はいない。


 だが、もらったものを即座に不要と判断するのは失礼に当たる可能性がある。リゼは机の引き出しに丁寧にしまった。


 窓の外は、さらに暗くなっていた。


 夕食まで、まだ少し時間がある。


 ミリアは制服の上着を脱ぎ、椅子に掛けた。


「少し休みましょう。今日は移動で疲れたでしょう?」


「疲労は軽度です」


「そういう時も、疲れたと言っておくものよ」


「なぜですか」


「会話が続くから」


「会話の継続が目的ですか」


「ええ。相手と仲良くなるには必要でしょう?」


「仲良く」


「友達になる、ということ」


 リゼは、その言葉を聞いてミリアを見た。


 友達。


 大佐の言葉が蘇る。


 友人を作れ。


 学園生活に必要。


 ミリアは、リゼの視線に少し戸惑ったようだった。


「何?」


「友達になるには、疲れたと言う必要がありますか」


「必ずではないわよ。たとえばの話」


「では、他には何が必要ですか」


「そうね……相手の話を聞く。自分のことも少し話す。一緒に食事をする。困っていたら助ける。約束を守る」


 リゼはすぐに机から筆記具を取り出し、学園案内の余白に書き始めた。


 ミリアが目を丸くする。


「何を書いているの?」


「友達になる条件です」


「条件ではなくて、心がけの話よ」


「違いは」


「……難しいわね」


 ミリアは苦笑した。


 その笑顔に敵意はない。


 リゼは、少しだけ不思議に思った。


 なぜこの少女は、自分のような不審な人間に付き合っているのだろう。


 貴族令嬢なら、もっと話しやすい相手はいくらでもいる。周囲も彼女に近づきたがっていた。名門家の娘。魔術の秀才。社交的で、明るく、目立つ存在。


 リゼとは、何もかも違う。


「あなたは」


 リゼは口を開いた。


 ミリアが首を傾げる。


「私と友達になりたいのですか」


 ミリアは一瞬、言葉に詰まった。


 それから、少しだけ頬を染めた。


「ずいぶん直接聞くのね」


「確認です」


「そうね……まだ会ったばかりだから、友達と言うには早いかもしれないわ。でも」


「でも」


「放っておくと、あなたは一人で旧校舎に突撃しそうだから」


「突撃はしません。偵察です」


「なお悪いわ」


 ミリアは笑った。


「だから、まずは同室者として、あなたを見張ることにするわ」


「監視ですか」


「そういう言い方をすると可愛くないわね。心配、と言いなさい」


「心配」


「そう」


 リゼはその単語を頭の中で繰り返した。


 監視と心配。


 行動としては似ている場合がある。


 だが、意味は違うらしい。


 その時、廊下の方から鐘が鳴った。


 柔らかい音が寮全体に響く。


 ミリアが立ち上がる。


「夕食の時間ね。食堂へ行きましょう」


「寮内ですか」


「今日は新入生用に、寮の食堂で簡単な夕食が出るはずよ。明日からは中央食堂も使えるけれど」


「毒見は」


 ミリアの動きが止まった。


「今、何て?」


「毒見は必要ですか」


「必要ありません」


「提供者の確認は」


「寮の調理員よ」


「調理員の身元は」


「リゼさん」


 ミリアは笑顔だった。


 ただし、目が笑っていなかった。


「夕食の前に、毒の話はしない」


「はい」


「絶対に」


「はい」


 リゼは学園案内の余白に書き加えた。


 ――夕食前、毒の話は禁止。


 二人は部屋を出た。


 廊下には、同じように食堂へ向かう新入生たちがいた。笑い声。足音。部屋番号を確認する声。自己紹介の練習をしている者もいる。


 リゼはその中を歩きながら、自然と背後を確認した。


 誰かがつけている気配はない。


 ただし、廊下の窓から外を見た瞬間、彼女の意識が北西へ向いた。


 旧校舎。


 夕暮れの闇に沈む灰色の建物。


 割れた窓。


 蔦に覆われた壁。


 立入禁止の赤い表示。


 その二階の窓奥で、何かが動いた。


 ほんの一瞬。


 人影のようにも、古いカーテンが揺れただけのようにも見える。


 リゼは足を止めた。


「どうしたの?」


 ミリアが振り返る。


 リゼは窓の外を見続けた。


 旧校舎の窓は、もう静かだった。


 風が吹き、蔦の葉が揺れている。


 それだけ。


「何でもありません」


 リゼは答えた。


「本当に?」


「はい」


 ミリアは疑わしそうに見たが、食堂へ向かう生徒たちの流れに押されるように歩き出した。


 リゼも続く。


 だが、意識の一部は旧校舎に残ったままだった。


 立入禁止。


 人の出入りがある痕跡。


 そして、窓の奥で動いた影。


 学園初日。


 まだ護衛対象とも接触していない。


 だが、リゼの中で警戒の糸は、すでに張られていた。


 廊下の奥から、夕食の温かな匂いが漂ってくる。


 焼いた肉。


 スープ。


 柔らかなパン。


 新入生たちは、それに嬉しそうな声を上げる。


 リゼは最後にもう一度、窓の外へ視線を向けた。


 旧校舎の黒い窓は、まるでこちらを見返しているようだった。


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