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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第1章 第1話:英雄少女は制服を知らない


 雨は、灰の匂いを消してはくれなかった。


 王国西部、旧ヴァルム要塞跡。


 かつて敵軍の旗が立っていた石壁は、今では半分ほど崩れ落ち、黒く焦げた断面を曇天へ晒している。砲撃で抉られた大地には雨水が溜まり、そこに薄く油が浮いていた。水面を踏みつけるたび、泥と鉄錆と腐った木材の匂いが、重く跳ね上がる。


 兵士たちは、誰も大声を出さなかった。


 勝った戦のあとには、いつも妙な静けさが残る。


 歓声も、軍楽も、英雄を讃える歌も、王都の広場にしか存在しない。戦場に残るのは、折れた槍、燃え残った軍旗、名前を呼ばれなくなった死体、そして、生き残ってしまった者たちの沈黙だけだった。


 その沈黙の中を、一人の少女が歩いていた。


 年は十五。


 背は同年代の少女と比べても、特別高いわけではない。細身で、頬にはまだ幼さの線が残っている。けれど、泥に濡れた軍靴の運びには迷いがなく、外套の裾から覗く手は、冷えた雨の中でも震えていなかった。


 灰銀色の髪が、濡れて頬に張りついている。


 それは本来なら、月光を束ねたような淡い色だったのかもしれない。だが今は、雨と煤を吸って、戦場の灰そのものに見えた。


 少女――リゼット・ヴァルグレイは、崩れた城壁の影で足を止めた。


 足元には、敵兵の剣が一本落ちていた。


 刃は半ばから折れ、柄にはまだ血がこびりついている。誰の血かは、もうわからない。雨が降り続けているのに、血は完全には落ちていなかった。


 リゼットはそれを拾わなかった。


 必要がなかったからだ。


 腰には軍支給の短剣。背には細身の片刃剣。左脚には投げ針を仕込んだ革帯。右手首の内側には、薄い金属板。武器を失った状況からでも、三呼吸あれば目の前の相手を殺せる。


 その事実は、彼女にとって息をするのと同じくらい当たり前だった。


「ヴァルグレイ」


 背後から名を呼ばれた。


 リゼットは振り返る前に、声の主、距離、足音、周囲の兵の配置を確認した。敵意はない。二名。片方は軍靴の踵がわずかに削れている。もう片方は鎧を着ていない。高位将校か文官。


 振り返る。


 そこに立っていたのは、王国軍西方方面軍の副司令官、グラハム・ローグ大佐だった。四十代半ば。片目に古い傷があり、右腕は肩から先が義手になっている。戦場で部下を怒鳴る声は岩を割るほどだが、今は低く抑えられていた。


 隣には、黒い外套を着た男がいる。


 軍服ではない。だが仕立ては良い。雨の中でも靴を汚さない歩き方をしている。戦場に慣れていない者の足取りではないが、戦う者の足取りでもない。


 王都の人間だ。


 リゼットはそう判断した。


「任務ですか」


 彼女の第一声に、大佐は眉間をわずかに動かした。


「まずは、帰還報告だろう」


「第七遊撃分隊、ヴァルム要塞内部掃討を完了。敵残存兵、確認数三十七。うち投降十五、戦闘不能二十二。味方損耗、軽傷二、重傷なし。報告は以上です」


 少女の声は、平坦だった。


 勝利の高揚も、疲労も、誇りもない。雨音に濡れてなお、刃物のように乾いている。


 黒外套の男が、リゼットをじっと見た。


「君が、灰銀の戦乙女か」


 その呼び名を聞いた瞬間、近くにいた兵士が一人、わずかに肩を揺らした。


 リゼットは何も反応しなかった。


「その呼称は、広報部が使用しているものです」


「君自身は好まない?」


「作戦行動に必要ありません」


 男は小さく笑った。


 それは感心とも呆れとも取れる笑みだった。


「なるほど。報告書の通りだな」


 報告書。


 リゼットはその言葉に、少しだけ意識を向けた。


 自分についての報告書なら、何枚も書かれている。戦果、適性、精神状態、命令遵守率、単独作戦成功率、殺傷記録。兵士として評価されるために必要な項目は、おそらくすべて揃っている。


 ただし、どの報告書にも、彼女が雨を嫌いかどうかは書かれていない。


 必要ないからだ。


「リゼット」


 大佐が言った。


 その声は、いつもの命令口調ではなかった。


「王都からの特命だ。今すぐ要塞を離れる」


「次の作戦地域は」


「戦場ではない」


 リゼットは瞬きをした。


 それが、彼女にとっては十分に大きな反応だった。


 黒外套の男が懐から封筒を取り出す。封蝋には、王国軍総司令部の印章と、その内側にさらに小さな紋が押されていた。王家直轄の極秘文書に用いられる印だ。


 男は封筒をリゼットへ差し出した。


 彼女は受け取る前に、大佐を見た。


 大佐が頷く。


 そこで初めて、リゼットは封筒を受け取った。封蝋を割り、中の書類に目を走らせる。


 文字の意味は、すぐに理解できた。


 だが、内容は理解できなかった。


「王立アークレイン学園」


 リゼットは、書かれている単語をそのまま読み上げた。


「そうだ」


「教育機関です」


「そうだ」


「私は学生ではありません」


「これからは学生だ」


 雨音が、やけに大きく聞こえた。


 リゼットは書類をもう一度見た。


 偽装身分。


 入学許可。


 所属予定、剣術科。


 氏名、リゼ・グレイス。


 出身、王国北東部グレイス騎士家の遠縁。


 年齢、十五。


 身長、髪色、身体的特徴。


 経歴、幼少期より地方騎士家で剣術訓練を受ける。魔術適性は平均以下。戦歴なし。


 戦歴なし。


 その一文を見て、リゼットは少しだけ目を細めた。


 戦歴なし。


 紙の上では、そういうことになるらしい。


「任務内容を」


 リゼットは封筒の中身をすべて確認し終え、顔を上げた。


 黒外套の男が答える。


「王立アークレイン学園へ入学し、ある人物を護衛してもらう」


「対象名は」


「アルト・レインフォード」


 新たに差し出された紙には、少年の簡単な情報が記されていた。


 アルト・レインフォード。十五歳。王都中央区出身。奨学生枠でアークレイン学園へ入学予定。基礎教養科所属。魔術理論に高い適性あり。身体能力は標準以下。家族構成、不明。


 不明。


 リゼットの視線がそこで止まる。


「対象の身元情報が不足しています」


「必要な範囲は記載されている」


「護衛任務において、対象の背景情報は重要です」


「これ以上は、現時点で開示できない」


「理由は」


「君の安全のためでもある」


 リゼットは黒外套の男を見た。


 男は表情を崩さなかった。目元だけが、疲れている。嘘をつくことに慣れた人間の目だった。


「私の安全は、任務達成率に影響しますか」


「君は本当に、そういう聞き方をするのだな」


 男の声には、わずかに苦味が混じった。


 大佐が横から口を挟む。


「命令は三つだ、リゼット」


「はい」


「一つ。学園内で、灰銀の戦乙女としての正体を明かすな」


「了解」


「二つ。対象アルト・レインフォードに、護衛であることを悟らせるな。必要以上の接触も避けろ」


「……護衛対象に接触せず、護衛を行うのですか」


「悟らせるな、と言った。接触するなとは言っていない」


「難度が高い任務です」


「だからお前が選ばれた」


 リゼットは黙った。


「三つ。学園の秩序を乱すな。武器の使用、殺傷行為、軍事行動に準ずる行為は、極力避けろ」


「極力」


「極力だ」


「殺傷許可条件は」


「対象の生命に直接危険が及ぶ場合のみ。ただし、その場合でも身元秘匿を優先する」


「敵の排除より、正体秘匿を優先」


「そうだ」


 大佐は義手の指を鳴らした。金属が雨に濡れて、鈍い音を立てる。


「今回の任務で一番難しいのは、敵を殺すことではない」


 リゼットは、彼の次の言葉を待った。


「普通の生徒として笑うことだ」


 リゼットは返答に詰まった。


 それは作戦目的として、あまりに曖昧だった。


 敵の数なら数えられる。射線なら読める。要塞なら落とせる。護衛対象の移動経路なら記憶できる。奇襲を受けた場合の対処も、三十通りは即座に組める。


 だが、普通の生徒として笑う。


 その成功条件がわからない。


「笑顔は、任務上必要ですか」


「必要になる」


「訓練項目にありません」


「今から覚えろ」


 リゼットはしばらく沈黙した。


 大佐はため息をつき、黒外套の男は口元を押さえた。笑いを堪えたようにも見えた。


「支給品がある」


 黒外套の男が後ろへ合図を送ると、控えていた兵が大きな革鞄を持ってきた。


 中身を広げられ、リゼットはそれを見下ろした。


 制服。


 白を基調としたブラウス。紺の上着。金糸で縁取られたリボン。膝下までのスカート。薄い靴下。革靴。学園章の入った外套。


 どれも新品だった。


 傷一つない布。泥も血も染みていない革。刃を受けるための厚みも、魔術を弾く刻印もない。


 リゼットは制服の上着を指でつまんだ。


 軽い。


 あまりに軽すぎた。


「これは、防具ではないのですか」


 大佐は目を閉じた。


 黒外套の男は、今度こそ小さく噴き出した。


「違う。制服だ」


「防刃性は」


「ない」


「耐火加工は」


「日常生活に必要な程度だ」


「隠し武器の収納は」


「ない」


「なぜですか」


「学園は戦場ではないからだ」


 大佐が言った。


 リゼットは制服を見下ろしたまま、真顔で返す。


「なら、なぜ護衛任務が必要なのですか」


 その問いに、二人の大人はすぐには答えなかった。


 雨が降る。


 遠くで、戦後処理の鐘が鳴っていた。遺体回収の合図だ。


 黒外套の男が、先ほどまでの軽さを消して言う。


「学園は戦場ではない。だが、戦場より厄介な場所になる可能性はある」


「敵勢力は」


「不明」


「想定される襲撃経路は」


「不明」


「対象を狙う理由は」


「開示不可」


「味方は」


「原則、いないものと思え」


「補給は」


「学園内で自力調達」


「撤退条件は」


「卒業まで任務継続」


「卒業」


 リゼットはその単語を反芻した。


「任務期間は、三年ですか」


「正確には、対象が卒業するまでだ」


 三年。


 戦場では、三年あれば国境線が三度変わる。部隊名が消え、司令官が交代し、昨日の味方が明日の敵になる。三年後に生きている保証など、誰にもない。


 それなのに、この任務は三年後まで続く前提で組まれている。


 リゼットには、それが奇妙に感じられた。


 戦争が終わったからだろうか。


 人は、三年先の予定を立てるようになるのか。


「質問を」


「許可する」


「学生とは、具体的に何をする存在ですか」


 黒外套の男は口を開きかけ、閉じた。


 大佐も同じく答えに詰まった。


 おそらく、彼らにとっては説明するまでもないことなのだろう。だがリゼットにとっては、戦場で使われる暗号より難解だった。


 大佐は額を押さえながら言った。


「授業を受ける」


「はい」


「食事をする」


「はい」


「同級生と会話する」


「会話内容は」


「天気、授業、教師の噂、好きな食べ物、休日の予定、そういうものだ」


「情報価値が低いです」


「価値の問題ではない」


「では、目的は」


「関係構築だ」


「協力者の獲得ですか」


「友人を作れと言っている」


 リゼットはまた黙った。


 友人。


 その単語は知っている。辞書的な意味も理解している。戦場にも、冗談を言い合う兵士はいた。背中を預ける仲間もいた。死んだ時に少しだけ胸が痛む相手もいた。


 だが、それが友人なのかはわからない。


 なぜなら、彼らはいつも次の作戦で死んだからだ。


「友人は、任務達成に必要ですか」


 大佐は今度こそ深くため息をついた。


「リゼット」


「はい」


「必要だ」


 その声は、命令よりも重かった。


 リゼットは大佐の顔を見た。


 義手の将校は、彼女から目を逸らさなかった。戦場で多くの兵を死なせ、多くの命令を下し、それでも壊れずに立ってきた男の目だった。


「お前は十五だ」


「はい」


「十五歳の子供は、普通、学校に行く」


「私は兵士です」


「それは知っている」


「傭兵部隊所属です」


「それも知っている」


「戦闘可能です」


「知っている」


「ならば」


「だからこそだ」


 大佐の声が少しだけ低くなった。


「お前には、戦場以外の場所を覚えさせる必要がある」


 リゼットは、その意味を測りかねた。


 黒外套の男が書類を畳み、封筒に戻す。


「出発は一時間後。君の部屋に支給品を運ばせる。必要最低限の私物は持ち込み可能だが、軍用装備は制限される」


「剣は」


「持ち込めない」


「短剣は」


「不可」


「針は」


「不可」


「毒物は」


「論外だ」


「では、緊急時の対応は」


「学生として許可される範囲で行え」


「その範囲が狭すぎます」


「それも含めて任務だ」


 リゼットは制服を見下ろした。


 薄い布。


 軽い靴。


 刃を隠せない袖。


 走れば足にまとわりつきそうなスカート。


 戦場でこれを着ろと言われれば、彼女は命令者の正気を疑う。だが、これが学園という場所では正しい装備なのだという。


 不可解だった。


 だが、任務ならば遂行する。


「了解しました」


 リゼットは書類を胸元に抱え、踵を揃えた。


「リゼット・ヴァルグレイ、王立アークレイン学園潜入任務を受領します」


「違う」


 大佐が言った。


 リゼットはわずかに眉を動かす。


「今からお前は、リゼット・ヴァルグレイではない」


 大佐は革鞄の中から、学園章のついた小さな身分証を取り出した。


 そこには、新しい名前が刻まれていた。


 リゼ・グレイス。


「その名で呼ばれたら、返事をしろ」


「はい」


「灰銀の戦乙女と呼ばれても、反応するな」


「はい」


「戦場の話を聞かれても、知らないふりをしろ」


「はい」


「英雄と言われても、自分のことだと思うな」


 リゼットは、少しだけ間を置いた。


「それは容易です」


 大佐が、目を細める。


「なぜだ」


「私は、英雄ではありません」


 雨が、少女の肩を叩いていた。


 答えはそれだけだった。


 英雄。


 その言葉は、王都の広場で旗と一緒に掲げられるものだ。吟遊詩人が歌い、子供たちが木剣を振り回し、大人たちが酒場で語るためのものだ。


 戦場には、英雄はいない。


 生き残った者と、死んだ者がいるだけだ。


 リゼットはそれを知っていた。


 だから、英雄と呼ばれても、自分のことだとは思えなかった。


 大佐は何か言いかけたが、結局やめた。


「行け。着替えろ」


「ここでですか」


「部屋でだ」


「了解」


 リゼットは敬礼し、踵を返した。


 その背中を、大佐と黒外套の男が見送る。


 数歩進んだところで、大佐が呼び止めた。


「リゼット」


 彼女は振り返る。


「生きろ」


 命令としては曖昧だった。


 だが、否定する理由もない。


「了解しました」


 そう答えて、リゼットは再び歩き出した。


 軍施設の仮設宿舎に戻ると、彼女の部屋にはすでに支給品が運び込まれていた。


 部屋と呼ぶには粗末な場所だ。石壁に囲まれ、窓は小さく、寝台と机と装備箱しかない。だが、リゼットにとっては十分だった。雨風がしのげる。入口は一つ。窓は人が通れない大きさ。隣室との壁は厚い。就寝中に襲撃を受けても、三秒あれば起きられる。


 彼女は濡れた外套を脱ぎ、軍服の留め具を外した。


 体には、いくつもの傷があった。


 肩口の古い裂傷。脇腹の刺し傷。左腕の火傷。右足首の矢傷。背中には、魔術爆発で焼けた跡が薄く残っている。


 十五歳の少女の体に刻まれるには、多すぎる記録だった。


 リゼットはそれらを見なかった。


 見慣れているからだ。


 代わりに、制服を手に取る。


 白いブラウス。


 布が柔らかい。


 あまりにも柔らかくて、頼りない。


 袖に腕を通す。ボタンを留める。上着を羽織る。鏡はないので、窓ガラスに映るぼやけた自分を確認する。


 似合っているかどうかは、判断できない。


 ただ、動きにくい。


 肩の可動域が軍服と違う。袖口が広い。スカートは足さばきの邪魔になる。革靴は軽いが、滑りやすい。リボンは首元でひらひらしていて、掴まれれば危険だ。


 リゼットはリボンを外そうとした。


 だが、支給品一覧に「着用必須」と書かれていたのを思い出し、手を止める。


 しばらく見つめる。


 結び方がわからない。


 軍服の紐なら目を閉じていても結べる。止血帯も、拘束縄も、罠の解除もできる。だが、このリボンは用途がわからないため、正しい形が想像できない。


 リゼットは机の上の説明書を開いた。


 制服着用手順。


 図がある。


 手順一。リボンを首元に通す。


 手順二。左右の長さを整える。


 手順三。中央で交差させる。


 手順四。形を整える。


「……形を整える」


 彼女は小さく呟いた。


 形とは、何を基準に整えるのか。


 戦闘装備なら、緩みがないこと、引っかかりがないこと、即座に外せることが基準になる。だが、このリボンには実用目的が見当たらない。


 彼女は三度結び直した。


 一度目は固くなりすぎた。首を絞めるには向いているが、制服としては不適切に見える。


 二度目は片側だけ長くなった。投擲紐としてなら使えそうだが、左右非対称は目立つ。


 三度目で、ようやく説明図に近い形になった。


 リゼットは息を吐いた。


 要塞の外壁を単独で突破した時より、時間がかかっている。


 装備箱の前にしゃがむ。


 持ち込み不可の武器は、すでに整理されていた。剣。短剣。投げ針。鋼線。小型爆薬。毒針。解毒薬。煙玉。携帯食。火打ち道具。戦場地図。


 どれも彼女にとっては、体の一部のようなものだった。


 だが、学園には持ち込めない。


 許可された私物は少ない。


 替えの衣服。筆記具。洗面道具。身分証。学園案内。教科書。日用品。


 そして、小さな銀の留め具。


 それは武器ではなかった。


 傭兵部隊にいた頃、同じ分隊の年上の少女がくれたものだ。髪をまとめるための留め具。装飾はほとんどない。端に小さな傷がある。


 その少女はもういない。


 名前は覚えている。


 声も覚えている。


 最後に何を言ったかも覚えている。


 だが、思い出す必要はない。


 リゼットは銀の留め具を手に取り、灰銀の髪を後ろで束ねた。


 鏡代わりの窓に映る自分は、やはり知らない人間のようだった。


 兵士ではない。


 傭兵でもない。


 英雄でもない。


 学生。


 そう呼ばれる存在。


 リゼットには、それがどんな顔をしているべきなのか、まだわからなかった。


 出発の時刻になると、雨は少し弱くなっていた。


 仮設宿舎の前には、王都行きの馬車が用意されている。軍用馬車ではない。黒塗りの車体に王立学園の紋があり、座席には柔らかそうな布が張られていた。


 リゼットは乗り込む前に、車体の下、車輪、御者台、荷台、周囲の屋根を確認した。


 不審物なし。


 狙撃可能地点、三つ。


 逃走経路、二つ。


 馬の状態、良好。


「おい」


 御者が困惑した顔で言った。


「お嬢さん、何してるんだ?」


「安全確認です」


「は?」


 リゼットは答えず、馬車に乗り込んだ。


 中には黒外套の男がいた。


「王都までは私が同行する。学園の手前で別れる」


「監視ですか」


「案内だ」


「監視を兼ねた案内ですね」


「否定はしない」


 男は向かいの席に腰を下ろし、書類鞄を膝に置いた。


「私の名はクラウス。王都では、君の後見手続きを担当した者ということになっている」


「偽装関係ですね」


「もう少し柔らかい言い方を覚えた方がいい」


「養父ですか」


「そこまで親密ではない。遠縁の保護者、程度だ」


「了解しました、遠縁の保護者」


「名前で呼んでくれ」


「了解しました、クラウス遠縁保護者」


 クラウスは額に手を当てた。


「先が思いやられるな」


 馬車が動き出す。


 車輪が泥を踏み、戦場跡がゆっくりと後ろへ流れていく。


 リゼットは窓の外を見た。


 要塞の崩れた壁。黒い煙。雨に濡れた軍旗。担架で運ばれる兵士。泥の上に並べられた死体袋。


 それらが少しずつ遠ざかる。


 不思議な感覚だった。


 戦場から離れる時は、いつも次の戦場へ向かっていた。だから、後ろに置いていく景色を惜しむ必要はなかった。次の場所にも、似たような匂いがあるからだ。


 だが今回は違う。


 向かう先は学園。


 彼女の知らない場所。


 血ではなくインクの匂いがして、命令ではなく時間割で動き、敵兵ではなく同級生がいる場所。


 想像できない。


 馬車が丘を越えると、風景が変わった。


 焦げた大地が消え、緑が増える。雨に濡れた草が光り、遠くに小さな村が見える。煙突から上がる煙は、戦火ではなく朝食の支度のものだった。


 道端には、黄色い花が咲いていた。


 リゼットはそれを見て、眉をひそめた。


「どうした?」


 クラウスが尋ねる。


「花が」


「花?」


「この距離で咲いているのは不自然です。要塞周辺は踏み荒らされていたはずです」


「ここはもう要塞周辺ではない」


「……そうですか」


 リゼットは窓の外を見続けた。


 雨上がりの土の匂いが、わずかに馬車の中へ入ってくる。血と火薬の混じらない土の匂い。湿った草。馬の体温。遠くのパンを焼く匂い。


 落ち着かなかった。


 あまりに危険が少ない。


 視界のどこにも、即座に対処すべき脅威が見当たらない。だから逆に、どこかに見落としがあるような気がした。


「眠ってもいいぞ」


 クラウスが言った。


「不要です」


「昨夜も寝ていないだろう」


「移動中の睡眠は推奨されません」


「護衛対象はまだいない」


「敵がいない保証もありません」


「君はいつもそうなのか」


 リゼットは少し考えた。


「眠る必要がある時は眠ります」


「安心して眠ることは?」


「意味がわかりません」


 クラウスは返答しなかった。


 馬車は進む。


 戦場から王都へ。


 灰から緑へ。


 命令から、学園へ。


 途中、何度か休憩を挟んだ。宿場町では、子供たちが馬車を見て手を振った。リゼットは反射的に周囲を確認した。狙撃手なし。隠密なし。子供たちの手には木の枝とパン。脅威度は低い。


 一人の幼い少女が、リゼットの制服を見て言った。


「お姉ちゃん、学生さん?」


 リゼットは答えに詰まった。


 クラウスが横から微笑む。


「そうだよ。これから入学するんだ」


「すごい! アークレイン?」


「そう」


「いいなあ」


 幼い少女は目を輝かせた。


 リゼットには、その反応の理由がわからなかった。


 アークレイン学園。


 王国最高峰の教育機関。貴族、騎士、魔術師、官僚、軍人、将来の要人候補が集められる場所。入学は名誉であり、卒業は人生を保証する切符だという。


 だが、リゼットにとっては護衛任務の現場でしかない。


 いいなあ、という言葉に、どう返すべきかわからない。


「……任務です」


 小さく言うと、クラウスが咳払いをした。


「勉強だ」


「勉強です」


 言い直す。


 幼い少女はきょとんとして、それから笑った。


「がんばってね!」


 リゼットは無言で頷いた。


 馬車が再び動き出した後、クラウスが言った。


「今の場面では、ありがとう、と言うといい」


「なぜですか」


「応援されたからだ」


「応援には返礼が必要なのですか」


「基本的には」


「了解しました」


 リゼットは記憶した。


 応援された場合、ありがとう。


 学園生活に必要な情報として、分類する。


 王都へ近づくにつれ、道は整えられ、人通りが増えた。商人の荷馬車。旅人。巡回騎士。学園へ向かうらしい同年代の少年少女たち。


 彼らは笑っていた。


 大きな鞄を抱え、友人らしき相手と話し、これから始まる新生活に胸を弾ませている。


 リゼットは彼らの手元を見る。


 武器は少ない。


 杖を持つ者はいるが、魔術触媒としてのものだろう。剣を持つ者も、儀礼用か訓練用。殺意が乗っていない。


 それが奇妙だった。


 同じ年頃の人間が、これほど無防備に歩いている。


 戦場では、十五歳はもう十分に兵士だった。少なくとも、死ぬには十分な年齢だった。


 だがここでは、彼らは死ぬことなど考えていないように見えた。


「不思議か?」


 クラウスが言った。


「はい」


「何が?」


「彼らは、周囲を警戒していません」


「それが普通だ」


「普通」


「そうだ。普通は、道を歩く時に狙撃手を探さない。食事の前に毒を疑わない。眠る前に非常口を確認しない」


 リゼットは窓の外を見たまま言った。


「危険です」


「危険ではない世界を作るために、戦争を終わらせたんだ」


「戦争は終わっていません」


 その言葉は、ほとんど反射だった。


 クラウスが黙る。


 リゼットも、言ってから少しだけ口を閉ざした。


 王国は勝利した。


 条約は結ばれた。


 敵国は降伏し、国境線は引き直され、王都では終戦記念式典が行われた。灰銀の戦乙女の名も、その場で大きく語られたらしい。


 だが、リゼットの中で戦争は終わっていない。


 目を閉じれば、まだ火薬の匂いがする。


 耳を澄ませば、まだ叫び声が聞こえる。


 雨が降れば、灰の匂いが蘇る。


 終わったと言われても、体が信じていない。


「すまない」


 クラウスが低く言った。


 リゼットは首を傾げた。


「謝罪理由が不明です」


「忘れてくれ」


「了解しました」


 馬車は夕方前、王都外縁を通過した。


 高い城壁。検問所。整列する衛兵。遠くに見える王城の尖塔。石畳に反響する車輪の音。人の声。鐘。商人の呼び込み。焼き菓子の甘い匂い。


 情報量が多い。


 リゼットは無意識に背筋を固くした。


 人が多すぎる。


 死角が多すぎる。


 屋根が高すぎる。


 窓が多すぎる。


 敵が紛れるには、理想的な場所だった。


 クラウスがカーテンを少し下ろす。


「顔を見られすぎるな」


「私の顔は知られていないのでは」


「正確には、知られていないことになっている」


「差異は重要ですか」


「非常に」


 リゼットは納得した。


 戦場の英雄としてのリゼット・ヴァルグレイは、民衆の間では半ば伝説になっている。だが、その姿は一定していない。


 背丈は大人の兵士ほどあるとも、白馬に乗った聖女のようだったとも、銀の鎧を着ていたとも、敵将の首を片手で掲げたとも言われている。


 実際の彼女は、濡れた制服の襟を少し気にしている十五歳の少女だ。


 伝説とは、便利な隠れ蓑だった。


 馬車は王都中心部を抜け、北東へ向かった。


 やがて街並みが少し落ち着き、広い並木道へ入る。


 そこから先は、学園区だった。


 王立アークレイン学園。


 王都北東の丘陵地帯を丸ごと使った、巨大な教育施設。


 石造りの外壁が見えた時、リゼットは一瞬、それを城塞と誤認した。


 高い壁。広い門。見張り塔のような尖塔。敷地を囲む魔術障壁。内部には複数の校舎と訓練場、寮、庭園、図書館塔がある。


 防衛に適した構造だ。


 ただし、装飾が多すぎる。


 外壁には蔦模様の彫刻があり、門柱には歴代学園長の言葉が刻まれている。鉄格子には花の意匠。戦場の要塞なら、無駄と断じられるものばかりだ。


 だが、夕陽に照らされた学園は、美しかった。


 白い石壁が淡く染まり、尖塔の窓が金色に光っている。門の前には新入生とその家族が集まり、笑い声が重なっていた。誰かが花束を抱え、誰かが記念の絵姿を描かせ、誰かが不安そうに親の袖を掴んでいる。


 リゼットは馬車の中から、それを見ていた。


 胸の奥が、少しだけ変な感じがした。


 痛みではない。


 恐怖でもない。


 説明できない圧迫感。


 彼女はそれを、警戒反応として処理した。


「ここからは君一人だ」


 クラウスが言った。


 馬車が停まる。


「私は学園の外で後見人として登録されている。緊急時の連絡先でもあるが、基本的に接触はしない」


「了解」


「入学手続きは正門を入って右手の受付棟。寮は女子第一寮。部屋番号は書類にある」


「対象アルト・レインフォードの所在は」


「明日の入学式で接触できる可能性が高い」


「それまでの護衛は」


「学園側の警備に任せる」


「信頼できますか」


 クラウスは少しだけ沈黙した。


「完全には」


「ならば」


「だから君がいる」


 彼は小さな革鞄をリゼットに渡した。


「最後に一つ」


「はい」


「入学初日に、誰かを投げ飛ばすな」


「条件によります」


「条件をつけるな」


「対象の安全が脅かされた場合は」


「その時は、できるだけ目立たずにやれ」


「了解しました」


 クラウスは何か言いたげだったが、諦めたように笑った。


「君の幸運を祈る、リゼ・グレイス」


 リゼットは一拍遅れて反応した。


 新しい名前。


 リゼ・グレイス。


「ありがとうございます」


 応援された場合、ありがとう。


 先ほど覚えた情報を適用した。


 クラウスはわずかに驚き、それから穏やかに頷いた。


 リゼット――いや、リゼは馬車を降りた。


 地面に足をつけた瞬間、周囲の視線が少しだけ集まった。


 新入生の一人。


 灰銀の髪の少女。


 小柄で、無表情で、やけに姿勢がいい。


 それだけの視線。


 だが、その中に一つだけ、違うものがあった。


 リゼは振り返らなかった。


 正門の方を見るふりをしたまま、意識だけを背後へ向ける。


 距離、およそ三十歩。


 門の左手、馬車止めの影。


 視線の質が違う。


 好奇ではない。


 値踏み。


 観察。


 獲物の動きを測る目。


 リゼは鞄の持ち手を握り直した。


 武器はない。


 だが、手は空いている。


 それだけで十分だ。


 門の前では、学園の制服を着た上級生らしき者たちが新入生を案内していた。受付へ向かう列ができている。家族と別れを惜しむ者。期待に顔を輝かせる者。不安で泣きそうな者。


 リゼはその列へ向かって歩き出した。


 背後の視線は、まだ消えない。


 しかし、ここで振り返れば相手に気づいたことを悟られる。


 彼女は前だけを見た。


 王立アークレイン学園の正門が、ゆっくりと近づいてくる。


 門の上には、古い王国語で言葉が刻まれていた。


 知と誇りと未来のために。


 リゼには、その意味が少し遠かった。


 知識は生存率を上げるためにある。


 誇りは時に判断を鈍らせる。


 未来は、作戦終了後に生き残っていた者だけが考えればいい。


 それが彼女の知る世界だった。


 けれど、門の向こうでは、同年代の少年少女たちが笑っている。


 彼らは明日の授業のことを話し、寮の部屋割りに一喜一憂し、新しい友人を探している。誰も空の雲を砲煙と間違えない。誰も鐘の音に身を伏せない。誰も、隣に立つ人間の喉元までの距離を測っていない。


 リゼは一歩、門の内側へ入った。


 その瞬間、風が吹いた。


 雨上がりの庭の匂い。


 濡れた石畳。


 花壇の土。


 遠くの食堂から漂う焼きたてのパン。


 そして、その奥にかすかに混じる、魔力の焦げた匂い。


 リゼの足が、ほんのわずかに止まった。


 学園の鐘が鳴る。


 澄んだ音が、夕暮れの空へ広がっていく。


 周囲の新入生たちは、歓声を上げた。誰かが「始まるんだ」と言った。誰かが「三年間、楽しみだね」と笑った。


 リゼは門の奥に続く石畳を見た。


 中央講堂。


 図書館塔。


 剣術訓練場。


 寮棟。


 旧校舎らしき、蔦に覆われた建物。


 死角。


 侵入経路。


 高所。


 逃走路。


 守るべき対象はまだ見えない。


 敵の数も不明。


 味方は、原則いない。


 正体は明かせない。


 武器は持てない。


 三年間、普通の生徒として過ごす。


 リゼは、自分の胸元のリボンに一度だけ触れた。


 戦場なら、こんなものは不要だ。


 だが今の彼女にとっては、これが鎧だった。


 薄く、頼りなく、意味のわからない鎧。


 正門の外で、クラウスの乗った馬車が静かに動き出す気配がした。


 戻る道はない。


 リゼ・グレイスは、学園の中へ歩き出した。


 その背後。


 馬車止めの影にいた何者かが、ほんの一瞬だけ口元を歪めた。


 リゼは振り返らない。


 ただ、心の中で静かに判断する。


 この学園は、戦場だ。


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