表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

79/167

第6章 第2話:小さな灯、開店


 販売記録の紙に、五本目の線が引かれた。


 アルト・レインフォードは、その細い線をしばらく見つめていた。


 一本目は、小さな女の子と母親。


 二本目は、通りがかった上級生。


 三本目は、ティナ・ベル。


 四本目は、ノエル・バートン。


 五本目は、リリア・ノース。


 どの線も同じように見える。


 けれど、アルトには一つ一つ違うものに見えた。


 焼き菓子が誰かの手に渡った印。


 小さな灯の焼き菓子店が、ちゃんと開いている証拠。


 自分たちの準備が、紙の上だけではなく、今ここで動いていることの記録。


 中庭には、少しずつ人が増えていた。


 正門から流れてくる来場者の列は、学園の案内班によっていくつかの方向へ分けられている。


 展示棟へ向かう人。


 舞台へ向かう人。


 食べ物の匂いにつられて中庭へ足を向ける人。


 校舎を懐かしそうに見上げる卒業生。


 子どもの手を引く保護者。


 見慣れた制服の中に、外の服装が混じっている。


 学園の内側に、外の世界が入ってきている。


 そのざわめきは大きい。


 声も、足音も、衣擦れも、笑い声も、遠くの案内の呼び声も、すべてが重なっている。


 それでも、小さな灯の焼き菓子店の前には、少しだけ穏やかな空気があった。


 淡い橙色の看板。


 布をかけた台。


 丸い見届けクッキー。


 小さな灯の印が入った包装紙。


 そして、看板の裏の言葉。


 戻ってこい。


 アルトは一度だけその裏側へ目を向けた。


 痛みはない。


 熱は少し。


 声もない。


「状態は」


 リゼ・グレイスが静かに尋ねた。


 彼女は台の左側に立ち、来場者の流れと出店の導線を同時に見ている。


 灰銀の髪は朝より少し陽に透け、表情はいつも通り冷静だった。


 だが、今日は剣士の目だけではない。


 店を守る者の目。


 出店班の一員として、客の流れ、台の位置、包装紙の残数、アルトの呼吸まで見ている。


「痛みなし。熱、少し。声なし。現在地は学園中庭。小さな灯の焼き菓子店の前。販売記録を見ています」


「感情は」


「嬉しいです。少し緊張しています」


「良好です」


 リゼは記録帳に短く書いた。


 アルトさん、販売継続可能。


 カイ・ロックハートは、台の奥で焼き菓子の籠を確認していた。


 朝、家庭実習室で焼いた初回分は、想定より早く減っている。


 カイはそれを嬉しそうに見て、しかしすぐに真剣な顔になった。


「補充分、あと何個だ」


 リゼが即答する。


「初回分残数、二十三。次回補充予定、三十分後。販売速度が想定より速いです」


「足りなくなるか?」


「現時点では即時不足ではありません。ただし、補充時間前に残数十以下になる可能性があります」


 カイは拳を握りかけ、途中で開いた。


「突撃補充は?」


「不可です」


「だよな。マリベル先生の確認がいる」


「はい」


「じゃあ、次の補充時間を早められるか聞く」


「単独で走らず、ミリアさんへ共有後、家庭実習室担当へ確認してください」


「わかった」


 カイは少し息を吐き、ミリア・ファルネーゼの方を見た。


 ミリアはちょうど客に焼き菓子を渡していた。


「ありがとうございます。よい学園祭を」


 柔らかな声。


 自然な笑顔。


 少し混み始めた列を、彼女はまるで布を整えるようにさばいている。


 前の人に商品を渡しながら、次の人へ成分表示を促し、横から入ろうとした子どもには優しく「順番に並びましょうね」と声をかける。


 その一つ一つに無理がない。


 カイが小声で言った。


「ミリア、すげえな」


「はい」


 アルトも頷いた。


「あんなふうに話せるの、すごいです」


 リゼも真面目に言う。


「列整理、接客、情報提供、感情調整を同時実施しています。非常に高い処理能力です」


 カイが少し笑った。


「リゼの褒め方もすごいな」


「事実です」


 その時、ティナが戻ってきた。


 さっき買ったばかりなのに、もう半分ほど食べ終えている。


「おいしい! すごくおいしい!」


 カイの顔が一瞬で明るくなる。


「本当か」


「本当! 甘すぎないし、干し果物がいい感じ!」


 ティナは勢いよく頷いた。


 隣のノエルも、包みを両手で持ったまま言う。


「商品名もいいよね。見届けクッキー。学園祭を見届けるって感じがする」


 リリアは控えめに笑った。


「案内班の休憩時間に食べます。道を覚える時、少し落ち着きそうなので」


 ミリアが嬉しそうに微笑む。


「ありがとう。そう言ってもらえると、とても嬉しいわ」


 カイは照れくさそうに鼻の下をこすりかけて、手袋をしていることを思い出して止めた。


「衛生」


 リゼがすかさず言う。


「わかってる。触ってない」


「良好です」


 ティナは看板を見上げた。


「本当にかわいいお店になったね。小さな灯って、今日みたいな日にぴったり」


 アルトの左手首が淡く温かくなった。


 怖くない。


 むしろ、胸の奥が少し明るくなる。


「ありがとうございます」


 アルトが言うと、ティナはにこっと笑った。


「アルトくん、店員さんっぽい!」


 その言葉に、アルトは少し固まった。


 店員。


 保護対象でも、鍵でも、銀環反応者でもなく。


 店員。


 小さな灯の焼き菓子店の店員。


 左手首が、穏やかに熱を持つ。


「痛みなし。熱、少し。声なし」


 リゼがすぐに尋ねる。


「感情は」


「嬉しいです。店員さんっぽいと言われました」


 カイが笑う。


「実際、店員だろ」


「はい」


 ミリアが優しく頷く。


「ええ。今日は立派な店員さんよ」


 アルトは販売記録の紙を少し強く握りそうになり、慌てて力を抜いた。


「はい」


 自分で返事をする。


 その声は、思ったよりしっかり出た。


 ティナたちが去ると、また別の客が来た。


 今度は年配の男性だった。


 卒業生らしい。


 胸元には古い学園章のピンがある。


「小さな灯、か。いい名だね」


 男性は看板を見て、目を細めた。


 アルトは少し緊張しながら成分表示を示す。


「見届けクッキーです。小麦、卵、乳、林檎、杏を使っています」


「ありがとう。では二ついただこう。昔はこんな洒落た店はなかったな」


 ミリアが微笑む。


「今年初めての出店です」


「そうか。いい学園祭になりそうだ」


 男性はそう言って、焼き菓子を受け取った。


 アルトは記録に線を引く。


 六。


 七。


 手が少し慣れてきた。


 成分表示の説明も、最初より少し大きな声で言える。


「こちらに表示があります」


「林檎と杏を使っています」


「乳製品が含まれています」


「ありがとうございます」


 同じ言葉を何度も繰り返す。


 それなのに、一回ごとに違う。


 相手の顔が違う。


 声の温度が違う。


 受け取る手が違う。


 焼き菓子が、別々の一日へ渡っていく。


 それは不思議な感覚だった。


 守られているだけではない。


 自分も、誰かへ何かを渡している。


 中庭の音はさらに増えていた。


 遠くの舞台では楽器の調整音が聞こえる。


 まだ北の朝灯りではない。


 別の明るい曲の断片。


 案内班の声。


 水場で手を洗う音。


 別の出店から上がる笑い声。


 ときおり、正門の方から来場者確認の呼び声が届く。


 音の層。


 アルトはそれを意識し、左手首に触れた。


「痛みなし。熱、少し。声なし。音は多いですが、今のところ大丈夫です」


 ミリアがすぐに頷く。


「現在地は?」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店。接客中です」


「感情は?」


「少し忙しいです。でも、嫌ではありません」


「良好ね」


 リゼが記録する。


 音量増加、現時点で反応軽微。


 その時、台の前に静かな影が立った。


 セレナ・アイゼンベルグだった。


 淡い灰色の髪を揺らし、いつものように落ち着いた表情で看板を見上げている。


 剣術大会の時と同じ、何かを観察している目。


 だが今日は、手に小さな財布を持っていた。


「開店おめでとうございます」


 セレナは淡々と言った。


 カイが少し構える。


「お、おう」


 リゼもわずかに姿勢を整えた。


「ありがとうございます」


 ミリアが自然に応じる。


「見届けクッキーはいかがですか?」


「一つください」


 セレナは看板から台へ視線を移す。


「小さな灯。良い名前ですね」


 アルトの左手首が少し温かくなる。


「ありがとうございます」


 自分でも言えた。


 セレナはアルトを見た。


 視線は鋭いが、敵意はない。


「今日は、店の近くでは安定しているように見えます」


 その言葉に、アルトの胸が少し跳ねた。


 銀環のことを言っている。


 リゼの目が少し鋭くなる。


 セレナは続けた。


「失礼。見えたことをそのまま言いました。詳細を広げる意図はありません」


 ミリアが柔らかく、しかし境界線を引く声で言う。


「ここは出店ですので、必要な話は人の少ない場所でお願いしますね」


「はい」


 セレナは素直に頷いた。


 アルトは左手首に触れた。


「痛みなし。熱、少し。声なし。セレナさんが、店の近くでは安定しているように見えると言いました」


 リゼが尋ねる。


「感情は」


「少し驚きました。でも、嫌ではありません」


 セレナはその確認を黙って待っていた。


 そして、焼き菓子を受け取ると、小さく言った。


「店の周囲に、戻る印が多いからかもしれません。看板、包装紙、箱、あなたたちの配置。見ていて面白いです」


 カイが眉を寄せる。


「面白いって何だよ」


「良い意味です」


 セレナは焼き菓子の包みを見た。


「戦うための陣形ではないのに、戻るための陣形になっている」


 リゼの灰銀の瞳がわずかに揺れる。


 戻るための陣形。


 アルトは店の配置を見た。


 リゼは左側。


 ミリアは前で客と向き合う。


 カイは奥で焼き菓子と補充を支える。


 自分は看板と記録のそば。


 後ろには休憩所へ続く道。


 台の下にはB-十七。


 看板裏には戻ってこい。


 本当に、そうかもしれない。


 戦うためではない。


 でも、戻るために並んでいる。


「ありがとうございます」


 アルトが言うと、セレナは少しだけ目を細めた。


「午後の音響確認、気をつけてください。曲は変わっても、音が届く場所は変わりますから」


 リゼが即座に問う。


「何か見えましたか」


「今は何も。ただ、音は人より先に届くので」


 セレナはそれだけ言い、焼き菓子を持って去っていった。


 カイはその背中を見送る。


「相変わらず、何か怖いこと言うな」


「有効な注意喚起です」


 リゼが答える。


「そうだけど」


 アルトは左手首に触れた。


 熱は少し。


 痛みなし。


 声なし。


 北の朝灯り。


 変更された歌。


 小型ベル不使用。


 鐘の模倣箇所変更。


 それでも、音が届く場所は変わる。


 午後の演奏時間は、まだ先だ。


 だが、その言葉は胸に残った。


 ミリアが優しく言う。


「今は、次のお客様ね」


「はい」


 アルトは視線を戻した。


 また列ができ始めていた。


 販売記録の線は増えていく。


 十。


 十一。


 十二。


 カイは途中で家庭実習室へ補充確認に行くことになった。


 ただし、単独で走るのではない。


 物資管理班の確認を受け、ミリアが時刻を記録し、リゼが出発と戻りの予定を確認する。


「カイさん、家庭実習室へ補充確認。出発時刻、十時十二分。戻り予定、十時二十二分。走行禁止」


「早歩きは?」


「許容範囲内。ただし、焼き菓子保持時は速度低下」


「了解」


 カイはそう言って、いつもより丁寧に歩き出した。


 五歩目で少し早くなり、リゼが「速度」と言う。


 カイはすぐに歩幅を落とした。


 ミリアがくすりと笑う。


「本当に成長したわね」


「はい」


 アルトも笑った。


 カイが戻るまでの間、リゼとミリアとアルトで店を回す。


 少し忙しくなる。


 アルトは成分表示を説明し、記録をつけ、包装済みの焼き菓子を台の手前へ出す。


 ミリアは客の目線を見て、迷っている人には説明を加える。


 リゼは台の奥で手袋と包装紙の残数を管理しながら、混雑の流れを見ている。


 途中で、小さな子どもが列を間違えて横から入ってきた。


 リゼが一歩出かける。


 だが、ミリアが先に屈み、優しく言った。


「こちらから並びましょうね。小さな灯は逃げないわ」


 子どもはこくりと頷き、母親のところへ戻る。


 リゼはそれを見て、静かに言った。


「対応、良好です」


「ありがとう」


 ミリアは微笑む。


「リゼさんも、今のは剣ではなく言葉で対応しようとしていたでしょう?」


「はい。声をかける予定でした」


「それも良好ね」


 リゼは少しだけ瞬きをした。


「ありがとうございます」


 アルトはそのやり取りを見ながら、販売記録に線を引いた。


 十五。


 この店では、みんなが少しずつ変わっている。


 カイは走らない。


 リゼは剣ではなく声を選ぶ。


 ミリアは場を整える。


 自分は説明する。


 それは、学園祭の中でしか見られない姿かもしれなかった。


 やがて、カイが補充分を持って戻ってきた。


 顔が輝いている。


「追加焼けた。マリベル先生の確認済み」


 リゼがすぐに確認する。


「移動速度は」


「早歩き。最後の角で減速した」


「良好です」


「焼き菓子、破損なし」


「非常に良好です」


 カイは嬉しそうに台へ補充分を置いた。


「見届けクッキー、第二陣だ」


 客の一人がその言葉に笑う。


「第二陣?」


 カイが一瞬固まる。


 ミリアがすかさず微笑む。


「焼きたての追加分です」


「ああ、そういうこと」


 客は楽しそうに頷いた。


 カイは小声で言う。


「第二陣、駄目か?」


「戦闘表現は控えめにしましょう」


 リゼが答える。


「了解」


 アルトは思わず笑ってしまった。


 笑うと、胸の中の緊張が少しほどけた。


 その時、遠くで音響班の確認鐘ではない合図が鳴った。


 軽い木板の音。


 北の朝灯りの演奏準備を知らせる掲示が、舞台側に出されたらしい。


 アルトの左手首が少し熱を持つ。


 痛みはない。


 声もない。


 だが、意識がそちらへ引かれた。


 リゼが気づく。


「状態」


「痛みなし。熱、中より少し弱い。声なし。舞台側で、演奏準備の合図がありました」


 ミリアが掲示を確認する。


「北の朝灯りは、予定通り午後の中盤ね。今の合図は別演目の準備みたい」


「はい」


 アルトは息を吐く。


「現在地は?」


 ミリアが優しく尋ねる。


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店。今は接客中です」


「感情は」


「少し緊張しました。でも、北の朝灯りではありません」


「良好です」


 リゼが記録する。


 音響合図に反応少。分類可能。


 分類できる。


 それだけで、少し安心できる。


 全部の音が怖いわけではない。


 全部の鐘が同じではない。


 全部の紙が危険ではない。


 全部の名前が自分を縛るわけではない。


 一つずつ確認すれば、分けられる。


 それを、第5章からずっと学んできた。


 昼に近づくにつれて、中庭はさらに賑やかになった。


 小さな灯の焼き菓子店には、短い列が途切れず続くようになった。


 見届けクッキーは好評だった。


 甘すぎない。


 食べやすい。


 名前がいい。


 看板がかわいい。


 そんな声が聞こえるたび、カイは顔を赤くし、ミリアは嬉しそうに笑い、リゼは真面目に評価を記録する。


 アルトは販売記録の線を数える。


 二十。


 二十五。


 三十。


 その数が増えるたびに、少しずつ、この場所が確かなものになっていく。


 リゼがふと、台の前に置いた小さな灯の札を直した。


「位置、少しずれていました」


 ミリアが笑う。


「リゼさん、もう完全に出店班ね」


 リゼは少し考えてから答えた。


「はい。私は現在、小さな灯の焼き菓子店の出店班です」


 その言葉に、アルトの左手首が温かくなる。


 カイがにっと笑う。


「いいな」


「はい」


 リゼは静かに頷いた。


 その瞬間だけ、灰銀の戦乙女という名前は、中庭のざわめきの中で遠くなった。


 ここにいるのは、剣で敵を倒す英雄ではない。


 焼き菓子店の札を直す一人の生徒だった。


 アルトはその姿を見て、胸が温かくなった。


 この場所を守りたい。


 そう思った。


 戦うためではなく。


 このまま続いてほしいから。


 昼前の休憩交代の直前、エレオノーラ・ヴィンスフェルトが中庭を横切ってやってきた。


 白い制服。


 手には記録板。


 彼女はいつものように整った足取りで店の前へ立つ。


「小さな灯の焼き菓子店、状況確認です」


 リゼがすぐに答える。


「販売継続中。物資異常なし。包装紙異常なし。アルトさんの反応、音量増加時に軽微。現在、痛みなし、声なし」


 エレオノーラが記録する。


「確認しました」


 それから、彼女は少しだけ声を低くした。


「音響班から共有です。北の朝灯りの演奏は、予定より少し早まる可能性があります」


 アルトの左手首が熱を持った。


 痛みはない。


 声もない。


 しかし、胸の奥がきゅっと縮む。


 北の朝灯り。


 白い鐘の祝祭歌から変わった曲。


 小さな灯ほど、帰る道を照らす。


 安全確認済み。


 でも、音は届く。


 セレナが言っていた。


 音が届く場所は変わる。


 リゼがすぐに確認する。


「痛みは」


「なし」


「熱」


「中」


「声」


「なし」


「現在地」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店。エレオノーラ先輩が、北の朝灯りの演奏が予定より早まる可能性を伝えに来ました」


「感情は」


「緊張。少し怖いです。でも、曲名は白い鐘ではありません。小型ベルは使わない予定です」


 ミリアが頷く。


「良好です」


 カイが台の奥から言った。


「手順通りにするんだろ」


「はい」


 アルトは答えた。


 エレオノーラが説明する。


「舞台演目の一部が短縮されたため、北の朝灯りが早まる可能性があります。正式時刻は追って共有します。演奏前に必ず通知します。無通知で開始はしません」


 リゼが確認する。


「演奏内容に変更はありませんか」


「現時点では、曲名変更済み、歌詞変更済み、小型ベル不使用、鐘模倣箇所変更済み。音量弱。演奏場所、舞台中央。中庭への到達音量は確認済みですが、来場者数増加により反響が変わる可能性あり」


 反響が変わる。


 アルトは中庭を見渡した。


 朝より人が増えている。


 布飾りも揺れている。


 出店台も増え、声も増え、壁に跳ねる音も変わっている。


 同じ曲でも、届き方が変わる。


 それは確かにあり得る。


「演奏前は休憩所へ移動します」


 アルトは言った。


 三人がこちらを見る。


「店から離れるのは少し嫌です。でも、最初は休憩所前で聞きたいです」


 リゼが頷く。


「本人希望、確認。演奏前に休憩所前へ移動。無理なら小講義室へ退避」


 ミリアが優しく微笑む。


「とても良い判断だと思うわ」


 カイも頷いた。


「店は俺たちで見る。いや、リゼも一緒に行くか?」


 リゼは少し考える。


「演奏確認時は、私がアルトさんの音源側に位置します。店はカイさんとミリアさんが一時対応。ただし混雑時は一時販売停止」


 ミリアが頷く。


「そうしましょう」


 カイは少し緊張した顔で頷いた。


「わかった。販売止めるのも手順だな」


「はい」


 アルトは看板を見た。


 小さな灯の焼き菓子店。


 店を離れるのは少し嫌だ。


 でも、離れても出店班であることは変わらない。


 戻れそうなら戻る。


 戻れない時は休む。


 それでも出店班です。


 ミリアの言葉が胸の中で光る。


 エレオノーラは記録を終え、焼き菓子を一つ買った。


「私も一ついただきます」


 カイが少し驚く。


「食べるんですか」


「休憩時に」


 エレオノーラは淡々と答えた。


 ミリアが微笑む。


「ありがとうございます」


 アルトは成分表示を示した。


「小麦、卵、乳、林檎、杏を使っています」


「確認しました」


 エレオノーラは焼き菓子を受け取り、少しだけ表情を緩めた。


「良い包装です」


 ミリアの目が嬉しそうに細まる。


「ありがとうございます」


 エレオノーラが去ると、カイが小声で言った。


「エレオノーラ先輩も買うんだな」


「はい」


 アルトは販売記録に線を引く。


 三十一。


 その線は、少し特別に見えた。


 記録する人も、今日は見届けクッキーを買っていった。


 中庭のざわめきは続いている。


 開店からまだそれほど時間は経っていない。


 だが、アルトにはもう一日分の出来事があったように感じられた。


 最初の客。


 ティナたち。


 卒業生の男性。


 セレナ。


 エレオノーラ。


 音の層。


 北の朝灯りの予定変更。


 不安は増えた。


 でも、販売記録の線も増えた。


 小さな灯の焼き菓子店は、ちゃんと開いている。


 アルトは左手首に触れた。


「痛みなし。熱、少し。声なし。現在地は学園中庭。小さな灯の焼き菓子店。今、店は開いています」


 ミリアが聞く。


「感情は」


 アルトは看板を見て、台を見て、三人を見た。


「忙しいです。怖いこともあります。でも、ここにいられて嬉しいです」


 カイが笑う。


「よし」


 リゼが記録する。


「アルトさん、ここにいられて嬉しいと発言」


 ミリアが静かに微笑む。


「私もよ」


 カイが言う。


「俺もだな」


 リゼは一拍置いた。


「私もです」


 その時、風が中庭を抜けた。


 看板の表が少し揺れる。


 裏の「戻ってこい」は、今日はまだ見せるためではなく、そこにあるために静かに隠れている。


 遠くの舞台で、次の演目のための楽器が短く鳴った。


 アルトの左手首がわずかに温かくなる。


 北の朝灯りは、予定より少し早まるかもしれない。


 音は人より先に届く。


 その言葉を胸の隅に置きながら、アルトは次の客へ向き直った。


「いらっしゃいませ。小さな灯の焼き菓子店です」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ