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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第6章 第1話:学園祭の朝


 学園祭の朝は、いつもの朝より早く音を持っていた。


 まだ朝鐘は鳴っていない。


 それなのに、男子寮の廊下にはもう足音がある。


 誰かが衣装の入った箱を抱えて走り、誰かが昨夜作った飾りを落としそうになり、誰かが「針と糸を貸してくれ」と隣の部屋を叩いている。


 笑い声。


 慌てる声。


 木箱を床へ置く鈍い音。


 布が擦れる音。


 いつもの学園の朝とは違う。


 今日は、門が開く日だ。


 アルト・レインフォードは、自室の机の前で左手首に触れた。


 布の下の銀環は、ほんの少しだけ温かい。


 痛みはない。


 声もない。


 昨夜、眠りに落ちかけた時、旧倉庫の奥に残された白い鐘飾りと呼応するように、銀環が淡く光った。


 音は聞こえなかった。


 声もなかった。


 それでも、手首の奥に小さな震えが残った。


 あれが夢だったのか、現実だったのか、まだわからない。


 だからこそ、アルトは朝の確認を丁寧に行う。


「痛みなし。熱、少し。声なし。現在地は、男子寮の自室。朝。僕はアルト。今日は学園祭当日です」


 言葉にすると、胸の奥にある緊張が少し形を持った。


 怖い。


 でも、それだけではない。


 机の上には、小さな灯の焼き菓子店の役割表が置かれている。


 アルト・レインフォード。


 担当:看板、成分表示説明補助、販売記録、体調記録。


 負荷上昇時:休憩所へ移動。


 中止条件:痛み強、声あり、現在地不明瞭、本人中止希望。


 その下に、ミリアの字で小さく書き添えられていた。


 戻れそうなら戻る。戻れない時は休む。それでも出店班です。


 アルトはその文字を指でなぞらず、ただ目で見た。


 触れなくても、心に触れる言葉がある。


 そのことを、最近ようやく知った。


 机の端には、小さな灯の印を描いた予備札が並んでいる。


 丸い炎。


 焼き菓子のような丸。


 鐘でも、蔦でも、鍵でもない。


 自分たちで選んだ印。


 アルトは一枚だけ手に取り、胸元のポケットへしまった。


 それから、寮の扉を開けた。


 廊下の空気は、ほんの少し甘い匂いがした。


 誰かが朝から菓子を焼いている。


 きっと、カイだ。


 中庭へ向かう道は、昨日までとは違っていた。


 廊下の柱には淡い布が結ばれ、窓辺には小さな花飾りが並び、校舎の壁には来場者用の案内札が貼られている。


 ただし、どの飾りにも確認済みの印があった。


 装飾班管理。


 旧倉庫由来品不使用。


 紙材再点検済み。


 音響物品確認済み。


 記録の文字が、華やかな布の裏側にそっと添えられている。


 アルトはそれを見るたび、少しだけ息がしやすくなった。


 怖いものを隠しているのではない。


 怖いものが入らないように、見て、書いて、確認している。


 それは、学園祭を楽しむための準備だった。


 中庭に出ると、朝の光が看板を照らしていた。


 小さな灯の焼き菓子店。


 淡い橙色の看板。


 焦げ茶色の文字。


 丸い炎の印。


 まだ客はいない。


 焼き菓子も並んでいない。


 台には布がかけられ、物資箱B-十七は台の下で静かに待っている。


 それでも、そこはもう昨日までのただの中庭ではなかった。


 自分たちの場所になっていた。


「おはようございます」


 アルトが声をかけると、台の向こうでリゼ・グレイスが振り向いた。


 灰銀の髪を後ろで結び、制服の袖をきっちり整えている。


 手には記録帳。


 腰に剣はあるが、いつものように戦場へ向かう姿ではない。


 今日のリゼは、出店班のリゼだった。


「おはようございます」


 リゼは静かに答え、すぐに確認した。


「状態は」


「痛みなし。熱、少し。声なし。現在地は学園中庭。小さな灯の焼き菓子店の前。リゼさんといます」


「感情は」


「怖いです。でも、楽しみでもあります」


 リゼは一拍置いて頷いた。


「良好です」


「リゼさんは?」


「私ですか」


「はい」


 リゼは少しだけ目を伏せた。


 そして、記録帳の端を指で押さえながら言った。


「緊張しています。警戒もあります。しかし、出店準備に対する期待もあります」


 アルトは少し笑った。


「楽しみですか?」


 リゼはもう一拍置いた。


「はい。楽しみです」


 それを言う時、リゼの声はいつもよりほんの少し柔らかかった。


 アルトの左手首が淡く温かくなる。


 痛みはない。


 声もない。


 その時、ミリア・ファルネーゼが布の束を抱えてやって来た。


 金色の髪を今日は少し高めに結い、淡いリボンを添えている。


 制服もいつも通りだが、袖口に小さな灯の色と同じ橙色の飾り紐が結ばれていた。


「おはよう、二人とも」


「おはようございます」


 リゼとアルトが答える。


 ミリアは台に布を置き、看板と台の位置を確認した。


「看板、少しだけ右へ寄せましょう。正面から来る方に見えやすいわ」


 リゼが即座に言う。


「右へ三十センチ。退避経路を塞がない範囲で移動可能です」


「ええ、そのくらい」


 二人で看板を動かす。


 アルトは裏面が少し見える位置に立ち、そこに書かれた言葉を見た。


 戻ってこい。


 食べた後、戻れる場所を確認してください。


 朝の光の中で、その文字は昨日よりもくっきり見えた。


 今日、この言葉を見ることがあるかもしれない。


 怖くなった時。


 熱が上がった時。


 声が聞こえた時。


 それでも、戻るための言葉がここにある。


 ミリアがアルトの視線に気づいて、そっと微笑んだ。


「見える?」


「はい」


「今日も、必要なら何度でも見ましょう」


「はい」


 遠くから、慌ただしい足音が近づいてきた。


「焼けたぞ!」


 カイ・ロックハートの声だった。


 彼は大きな布包みを抱え、家庭実習室の方から走ってくる。


 ただし、全力疾走ではない。


 速度は明らかに抑えていた。


 両腕の中の焼き菓子を揺らさないように、いつもの勢いを必死に押し込んでいる。


 それでも顔は輝いていた。


「初回分、焼けた!」


 カイは台の前で止まり、慎重に布包みを置いた。


 リゼがすぐに確認する。


「走行速度、やや速いですが許容範囲内。転倒なし。焼き菓子破損なし」


「褒めてる?」


「はい」


「よし」


 カイは胸を張った。


 ミリアが布包みを開く。


 甘い香りがふわりと広がった。


 見届けクッキー。


 丸い形。


 淡いきつね色。


 干し果物が少し見えている。


 朝の中庭に、焼き菓子の匂いが灯る。


 アルトの胸が、ふっと温かくなった。


「痛みなし。熱、少し。声なし。焼き菓子の匂いは怖くありません」


 言うと、カイが少し照れたように笑った。


「そりゃよかった」


 リゼはすでに成分表示札を確認していた。


「小麦、卵、乳、林檎、杏。表示良好。包装紙番号、P-二十四から使用開始。販売時間、開門後。食品管理、マリベル教師確認済み」


 ミリアが焼き菓子を一つずつ小さな灯の包装紙へ包む。


 アルトが店名と商品札を確認する。


 カイは台の奥で補充用の籠を整える。


 四人の手が、それぞれ違う動きで一つの店を作っていく。


 アルトはその様子を見ながら、不思議な気持ちになった。


 戦う準備ではない。


 逃げる準備でもない。


 誰かに渡すための準備。


 誰かが食べて、笑って、また学園祭へ戻っていくための準備。


 これも、準備なのだ。


 リゼが役割表をもう一度確認する。


「本日の役割確認。カイさん、販売補助、補充、焼き菓子管理。ミリアさん、接客、列整理、装飾、アルトさんの状態確認補助。アルトさん、看板、成分表示説明補助、販売記録、本人状態報告。私は衛生確認、導線管理、混雑時報告、出店班主担当。警備補助は中庭周辺報告のみ。武力対応なし。単独対応なし」


 カイが頷く。


「俺、突撃なし」


「はい」


「客に突撃もしない」


「はい。非常に重要です」


「わかってる」


 ミリアが笑う。


「お客様には、まず笑顔ね」


 カイは少し顔をしかめた。


「笑顔って難しいな」


「焼き菓子を渡す時の顔でいいわ」


「それならできる」


 アルトは小さく笑った。


 中庭の向こうで、正門側から人の気配が増えていく。


 まだ門は開いていない。


 だが、外側にはもう来場者が集まり始めているらしい。


 保護者。


 卒業生。


 認可商会。


 王都文化局関係者。


 王宮関係者。


 そして、まだ名前のわからない誰か。


 門が開けば、それらが学園の中へ入ってくる。


 アルトの左手首が少し熱を持った。


 リゼがすぐに気づく。


「状態は」


「痛みなし。熱、中より少し弱い。声なし。正門のことを考えました」


「現在地は」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店の前。リゼさん、ミリアさん、カイといます」


「感情は」


「怖いです。外から人が入ってくるから。でも、ここにいます」


「良好です」


 ミリアが柔らかく言う。


「門が開くと、人も音も増えるわ。怖くなったら、すぐに言ってね」


「はい」


 カイが台の下を覗く。


「B-十七、異常なし」


 リゼが確認する。


「外観確認ですか」


「外観確認、異常なし」


「良好です」


 カイは少し満足そうだった。


 その時、朝鐘が鳴った。


 高い鐘楼から、澄んだ音が落ちてくる。


 一つ。


 次に、もう一つ。


 学園全体へ朝を知らせる、いつもの鐘。


 だが今日は、その音が開門の前触れにも聞こえた。


 アルトの左手首が熱を持つ。


 少し強い。


 痛みはない。


 声もない。


 耳は遠くならない。


 アルトは看板の裏を見る。


 戻ってこい。


 それから、言葉にする。


「痛みなし。熱、中。声なし。現在地は学園中庭。小さな灯の焼き菓子店の前。朝鐘が鳴りました。今日は学園祭当日です」


 ミリアが隣で尋ねる。


「感情は」


「怖いです。でも、これは学園の朝鐘です。白い小鐘ではありません。大鐘の通常音です」


 リゼが静かに頷く。


「良好です。音の分類ができています」


 カイが言った。


「今の鐘は、いつもの鐘だ」


「はい」


「で、俺たちはここにいる」


「はい」


 朝鐘の余韻が中庭から消えていく。


 それに重なるように、正門側で別の音がした。


 門の閂が外される音。


 受付台の布が取られる音。


 生徒会の号令。


 来場者のざわめき。


 開門の時間だ。


 遠くで、リーナ準備委員長の明るい声が響く。


「王立学園祭、開門します!」


 正門が開いた。


 最初に流れ込んできたのは、外の空気だった。


 学園の外の匂い。


 石畳の乾いた匂い。


 馬車の車輪の油。


 花束。


 香水。


 焼き菓子とは違う、街の甘い匂い。


 その後に、人の声が入ってくる。


 笑い声。


 驚く声。


 案内を読む声。


 子どものはしゃぐ声。


 卒業生らしい大人が懐かしそうに校舎を見上げる声。


 学園の中に、外が入ってくる。


 アルトの胸が少し硬くなった。


 だが、同時に、目の前の看板が朝日に照らされている。


 小さな灯の焼き菓子店。


 ここにある。


 リゼが静かに言った。


「開門確認。中庭来場者流入開始。出店班、準備」


 ミリアが台の前に立ち、布の端を整えた。


「では、灯をともしましょう」


 カイが籠を持ち上げる。


「見届けクッキー、初回分」


 アルトは販売記録用の紙を手に取った。


 手が少し震えている。


 でも、ペンは持てる。


 リゼが看板の位置を最後に確認し、台の左側へ立つ。


 剣ではなく、記録帳と衛生布を持って。


「小さな灯の焼き菓子店」


 リゼは静かに言った。


「開店準備完了です」


 その言葉とほとんど同時に、最初の客が中庭の道から近づいてきた。


 小さな女の子だった。


 おそらく在校生の妹か、教職員の子どもだろう。


 母親らしい女性に手を引かれ、看板を見上げている。


「小さな、あかり?」


 女の子がたどたどしく読んだ。


 ミリアが優しく微笑む。


「いらっしゃいませ。小さな灯の焼き菓子店です」


 カイが硬い笑顔を作る。


 少し不自然だったが、焼き菓子を見せる手つきは丁寧だった。


「見届けクッキー、あります」


 女の子は目を輝かせた。


「まるい!」


「はい、丸いです」


 アルトは思わず答えた。


 母親が成分表示を見ようとしたので、アルトは少し緊張しながら札を指した。


「小麦、卵、乳、林檎、杏を使っています。こちらに表示があります」


 声は小さかった。


 でも、届いた。


 女性は優しく頷く。


「ありがとう。ひとついただけますか」


 カイが目を見開いた。


 それから、慌てず、包装済みの焼き菓子を一つ取る。


 ミリアが代金を受け取り、アルトが記録紙に一本線を引く。


 販売数、一。


 たった一本の線。


 それが、あまりにも大きく見えた。


 女の子は焼き菓子を受け取り、嬉しそうに笑った。


「ありがとう!」


「ありがとうございました」


 ミリアが言い、アルトも少し遅れて言った。


「ありがとうございました」


 女の子と母親が去っていく。


 カイはしばらく固まっていた。


 それから、小さく呟く。


「売れた」


 リゼが記録する。


「初回販売、成功。接客、問題なし。成分表示説明、実施。カイさん、硬直三秒」


「それ記録するのか」


「改善可能です」


「わかったよ」


 ミリアが笑った。


「でも、最初のお客様、喜んでくれたわ」


 アルトは販売記録の一本線を見つめた。


 左手首が淡く温かい。


 怖くない。


「痛みなし。熱、少し。声なし。最初の焼き菓子が売れました」


 リゼが尋ねる。


「感情は」


「嬉しいです」


 ミリアが微笑む。


 カイがにっと笑う。


 リゼは一瞬だけ目を細め、それから記録帳に書いた。


 アルトさん、嬉しいと発言。


 その後、来場者は少しずつ増えていった。


 まだ開門直後で、中庭は大混雑ではない。


 それでも、学園の中に外部の人の声が混じるだけで、空気は大きく変わった。


 ティナ・ベルが友人たちと駆け寄ってきた。


「開店おめでとう!」


 ノエル・バートンは看板を見上げて、「本当にいい名前だね」と言った。


 リリア・ノースは成分表示を丁寧に読み、「道案内係の休憩用に買っていきます」と静かに笑った。


 カイは照れながらも、焼き菓子を包む。


 ミリアは自然に列を整える。


 リゼは流れを見て、台の位置を少しだけ調整する。


 アルトは記録線を増やしていく。


 一。


 二。


 三。


 四。


 売れるたびに、焼き菓子が誰かの手へ渡っていく。


 大切な一日を見届ける時に。


 その言葉が、ただの説明文ではなくなっていく。


 ふと、アルトは正門の方を見た。


 来場者の列の奥に、王都文化局の腕章をつけた人物が見えた。


 そのさらに後ろに、王宮関係者らしき服装の一団。


 白い手袋。


 整った外套。


 感情の読みにくい顔。


 その中に、オルド・ハイマンの姿はまだ見えない。


 それでも、左手首が少し熱を持った。


「痛みなし。熱、中より少し弱い。声なし」


 ミリアがすぐに声を落とす。


「現在地は」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店。来場者の中に王都文化局と王宮関係者らしき人が見えました」


「感情は」


「緊張。でも、ここにいます。直接対応はまだありません」


 リゼが頷く。


「良好です。王宮関係者は学園長と生徒会対応。私たちは出店班を継続します」


「はい」


 カイが台の向こうから低く言った。


「見るのは客と焼き菓子でいい」


「はい」


 アルトは看板へ視線を戻した。


 小さな灯。


 今はここ。


 その時、風が中庭を抜けた。


 正門から入ってきた外の風が、布飾りを揺らし、紙札をかすかに鳴らす。


 遠く、旧倉庫へ続く方角で、立入禁止の札が一瞬だけ見えた。


 白い札が風に揺れている。


 アルトの左手首が、ほんの少しだけ熱を増した。


 痛みはない。


 声もない。


 けれど、昨夜の淡い光が思い出される。


 旧倉庫の奥。


 記録にない白い鐘飾り。


 リゼが小さく尋ねる。


「反応は」


「痛みなし。熱、中。声なし。旧倉庫の方角の札を見ました」


「現在地は」


「学園中庭。小さな灯の焼き菓子店」


「感情は」


「少し怖いです。でも、店にいます」


「良好です」


 リゼは旧倉庫の方を一瞬だけ見た。


 しかし、動かなかった。


 出店班としてここに残る。


 それが、今日のリゼの役割だった。


 中庭に、また客が来る。


 小さな灯の焼き菓子店の前で足を止める。


 カイが焼き菓子を取る。


 ミリアが微笑む。


 アルトが成分表示を示す。


 リゼが流れを確認する。


 学園祭は始まった。


 怖さも、不安も、未回収の記録も、まだすべてここにある。


 それでも、焼き菓子の甘い匂いが朝の中庭に広がっている。


 アルトは販売記録に、また一本線を引いた。


 五。


 その小さな線は、遠くの鐘ではなく、今ここにある灯の数のように見えた。


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