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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第5章 第16話:準備完了の日


 学園祭前日の朝は、いつもより早く始まった。


 まだ朝鐘が鳴る前から、寮の廊下には小さな足音があった。誰かが衣装を運び、誰かが飾りの箱を抱え、誰かが忘れ物に気づいて小声で悲鳴を上げている。


 アルト・レインフォードは、男子寮の自室で目を覚ました。


 窓の外は薄い青。


 校舎の屋根の向こうに、朝の光がまだ控えめに滲んでいる。


 左手首に触れる。


 痛みはない。


 熱は少し。


 声もない。


 今日の予定を、机の上の紙で確認する。


 小さな灯の焼き菓子店。


 前日準備。


 一、看板最終確認。


 二、包装紙番号確認。


 三、物資箱B-十七確認。


 四、焼き菓子試作最終確認。


 五、出店位置の最終決定確認。


 六、退避経路確認。


 七、音響変更後の最終共有。


 八、明日の役割表確認。


 九、準備完了報告。


 紙の端には、ミリア・ファルネーゼの整った字でこう書かれている。


 完璧ではなく、始められる状態。


 昨日、歌詞変更の確認が終わった。


 白い鐘の祝祭歌は、曲名を「北の朝灯り」に変更されることになった。


 小型ベルは不使用。


 問題の歌詞「孤独な鍵ほど、よく響く」は、「小さな灯ほど、帰る道を照らす」に変更された。


 鐘を思わせる旋律も、朝の風のように変えるという。


 完全に怖くないわけではない。


 白鐘に似た透かし。


 北白蔦紙装商会。


 記録にない包装紙。


 二重封の木箱。


 黒い札に近い紙片。


 旧倉庫。


 鐘楼。


 王宮監察官オルド・ハイマン。


 未確認のものは、まだいくつもある。


 けれど、今日、自分たちは準備完了の日を迎える。


 怖さを消しきったからではない。


 怖さを地図に書き、記録し、境界線を引き、戻る場所を作ってきたからだ。


 アルトは左手首に触れ、静かに言った。


「痛みなし。熱、少し。声なし。現在地は、男子寮の自室。朝。僕はアルト。今日は学園祭前日、小さな灯の焼き菓子店の準備完了の日です」


 言葉にすると、胸の奥に小さな緊張が灯った。


 怖い。


 でも、少し楽しみでもある。


 その二つは、もう同時にあってもいいのだと思えた。


 中庭へ向かうと、学園全体が昨日までとは違う顔をしていた。


 廊下には布飾りが仮留めされ、柱には案内札が付けられ、窓辺には花飾りが置かれている。


 ただし、飾りの一つ一つには確認済みの印が付けられていた。


 装飾班管理番号。


 確認者。


 使用許可。


 旧倉庫由来品不使用。


 音響物品確認済み。


 紙材再点検済み。


 学園祭の華やかさの裏に、記録がある。


 そのことが、今のアルトには少し安心だった。


 中庭に出ると、いつものベンチの近くに、三人がいた。


 リゼ・グレイスは、物資箱B-十七の前に立っている。


 灰銀の髪を後ろで結び、制服の袖を少しだけ整え、記録帳を手にしていた。


 ミリアは、淡い橙色の布と小さなリボンを並べている。


 その手つきは丁寧で、どこか儀式のようですらあった。


 カイ・ロックハートは、大きな木箱を前に仁王立ちしている。


 その顔は、真剣そのものだ。


 木箱の側面には、小さな灯の印が貼られていた。


 丸い炎。


 その下に焼き菓子のような丸。


 アルトが書いた店名。


 リゼの管理番号。


 カイの受領印。


 ミリアの淡橙色のリボン封。


 準備委員会番号。


 すべてが、そこにある。


「おはようございます」


 アルトが声をかけると、三人が振り向いた。


「おはようございます」


 リゼが答える。


「おはよう、アルトさん」


 ミリアが微笑む。


「おはよう」


 カイは短く言い、それから箱を指差した。


「B-十七、異常なし」


 リゼがすぐに言う。


「まだ確認途中です」


「外から見た感じでは異常なし」


「表現を修正してください」


「外観異常なし」


「良好です」


 アルトは少し笑った。


 左手首が淡く温かくなる。


 怖くない熱。


 リゼが確認する。


「状態は」


「痛みなし。熱、少し。声なし。現在地は学園中庭。朝。リゼさん、ミリアさん、カイと、小さな灯の物資箱B-十七を確認しています」


「感情は」


「緊張しています。でも、少し楽しみです」


 リゼは一拍置いて、頷いた。


「良好です」


 ミリアが柔らかく言った。


「少し楽しみ、なのね」


「はい」


 言うと、胸が少し熱くなる。


 以前なら、怖いものがあるのに楽しみだと言うことに罪悪感があったかもしれない。


 でも、今は少し違う。


 怖いままでも、楽しみにしていい。


 そう思えた。


 カイがにっと笑う。


「よし。じゃあ準備するぞ」


 最初の作業は、包装紙の確認だった。


 準備委員会立ち会いのもとで再配布された紙は、前回とは違い、開封から確認まで全員で行うことになっていた。


 淡橙色の無地紙。


 白い鐘なし。


 蔦模様なし。


 透かしなし。


 紙質確認。


 光に透かす。


 裏表確認。


 番号記録。


 小さな灯の印を手書き。


 店名。


 成分表示札を貼る位置。


 すべてを一枚ずつ確認する。


 リゼが言う。


「紙材番号、P-二十四からP-四十八。購買部再確認済み。準備委員会確認印あり。開封者、物資管理班。立会い、小さな灯の焼き菓子店四名」


 カイが紙を一枚持ち上げかけて、止まった。


「持っていいか?」


「まず目視」


「わかってる」


 カイは手を引っ込め、紙を見た。


「見た感じ、無地」


 ミリアが光に透かす。


「透かしなし」


 リゼが確認する。


「蔦・鐘意匠なし」


 アルトは左手首に触れる。


「痛みなし。熱、少し。声なし。怖くありません」


「良好です」


 一枚ずつ確認していく。


 地味で、時間のかかる作業だった。


 でも、誰も急がなかった。


 カイでさえ、途中で「一気にやった方が早い」と言いかけて、口を閉じた。


 そして、少し小さな声で言い直した。


「一枚ずつだな」


「はい」


 リゼが頷いた。


「非常に良好です」


「今日は素直に受け取る」


 カイは真面目に言った。


 ミリアが淡橙色の紙に小さな灯の印を入れていく。


 アルトはその横に、店名を書く。


 小さな灯の焼き菓子店。


 手は少し緊張していたが、昨日よりは震えなかった。


 一枚。


 もう一枚。


 また一枚。


 店名が増えていく。


 自分たちの紙が増えていく。


 左手首は穏やかだ。


 痛みなし。


 熱、少し。


 声なし。


 リゼが番号を記録し、カイが乾かす場所へそっと並べる。


 カイの手つきは、剣を振るう時とはまるで違った。


 慎重で、少しぎこちなくて、でも丁寧だった。


 ミリアが笑う。


「カイさん、紙を運ぶのが上手になったわね」


「破ったら困るからな」


「ええ。とても大事」


「焼き菓子包むからな」


 カイは真剣だった。


 それが、少し嬉しかった。


 次は、看板の確認だった。


 小さな灯の焼き菓子店。


 表面には、焦げ茶色の文字。


 背景は淡い橙。


 上には小さな炎の絵。


 左右に焼き菓子の丸い飾り。


 角は丁寧に削られている。


 脚部には転倒防止の補強。


 裏面には、カイの字で大きく書かれた言葉。


 戻ってこい。


 その下に、ミリアの柔らかな字で。


 食べた後、戻れる場所を確認してください。


 アルトは裏面を見て、胸が温かくなった。


 これは来場者には見えないかもしれない。


 でも、自分たちには見える。


 当日、怖くなったら。


 迷ったら。


 熱が上がったら。


 出店の裏で、この言葉を見られる。


 戻ってこい。


 戻れる場所を確認してください。


 リゼが看板の角を触らず目視確認し、それから軽く手で確かめる。


「角、問題なし。脚部、固定可能。文字、視認性良好。裏面内部合図、問題なし」


 カイが誇らしげに言う。


「俺の字、いいだろ」


「勢いがあります」


 リゼが答える。


「また部分的なやつか」


「今回は適切です」


「ならよし」


 ミリアが微笑む。


「裏面の言葉、とても小さな灯らしくなったわね」


「はい」


 アルトは頷いた。


「怖い時に見たいです」


 リゼがその言葉を記録した。


 看板裏面内部合図:本人安心要素。


 カイが言う。


「当日、見たくなったら言えよ。俺が看板ひっくり返す」


「来場者の前で不用意に裏返すと混乱します」


 リゼが即座に言う。


「じゃあ、後ろ側から見せる」


「良好です」


「だんだんわかってきた」


 カイは少し得意そうだった。


 午前の終わり頃、家庭実習室から甘い匂いが漂ってきた。


 カイの焼き菓子最終確認だ。


 マリベル教師の立ち会いのもと、前日分の仕込み確認と試作品の焼き上げが行われる。


 食品本体は当日の規定時間内に用意するが、今日は最終手順と味の確認だ。


 家庭実習室に入ると、温かな香りが一気に広がった。


 小麦。


 バター。


 砂糖。


 干し果物。


 火の入った生地の香ばしさ。


 アルトの胸が少し緩む。


 これは怖くない匂いだ。


 白い鐘でも、蔦模様でも、黒い札でもない。


 カイの焼き菓子の匂い。


 リゼが状態を尋ねる。


「状態は」


「痛みなし。熱、少し。声なし。現在地は家庭実習室。カイの焼き菓子の最終確認です。匂いは怖くありません」


「良好です」


 カイは袖をまくり、真剣な顔で生地を整えていた。


 普段の勢いとは違う。


 力任せではない。


 粉を混ぜる手。


 干し果物を刻む手。


 生地を丸める手。


 焼き上がりを確認する目。


 どれも慎重だった。


 マリベル教師がにこやかに言う。


「ロックハートさん、前より混ぜ方が丁寧になりましたね」


「突撃しないで混ぜることにしました」


「とても良い判断です」


 ミリアが口元に手を当てて笑いをこらえる。


 リゼは真面目に頷いている。


「調理においても突撃抑制は有効です」


「お前はすぐ記録する」


「必要です」


 焼き上がった試作品は、小さな丸い形をしていた。


 干し果物が少し見えて、表面は淡いきつね色。


 カイが緊張した顔で皿を置く。


「見届けクッキー、最終版」


 アルトはその名前を聞いて、左手首が少し温かくなる。


 痛みなし。


 声なし。


 怖くない。


 大切な一日を見届ける時に。


 その説明文も、もう成分表示札の下に小さく入ることになっている。


 リゼが確認する。


「成分。小麦、卵、乳、干し果物。干し果物は林檎と杏。保存時間、規定内。包装、確認済み紙使用。販売時は手袋着用」


 カイが頷く。


「覚えた」


 マリベル教師が試食し、微笑む。


「おいしいです。少し甘さを控えて、干し果物の味が出ていますね」


 カイの顔がぱっと明るくなる。


「本当ですか」


「ええ。当日は焼き時間を守れば大丈夫でしょう」


 ミリアも一つ食べる。


「おいしい。優しい甘さね」


 リゼも一口食べ、少し考える。


「食感良好。甘味過多ではありません。疲労時にも食べやすいと思われます」


「褒めてる?」


「はい」


「よし」


 アルトも一つ受け取った。


 まだ温かい。


 指先に熱が伝わる。


 口に入れると、ほろりと崩れ、干し果物の甘酸っぱさが広がった。


 強すぎない。


 でも、ちゃんと残る甘さ。


 中庭に戻る時の味に似ている。


「おいしいです」


 アルトが言うと、カイは少し照れくさそうに笑った。


「明日、もっとちゃんと焼く」


「はい」


「見届けクッキーだからな」


 その言葉は、もう冗談ではなく、出店の商品名としてそこにあった。


 昼休み、四人は中庭へ戻った。


 小さな灯の焼き菓子店の出店位置は、第一希望通り中庭の端に決まっていた。


 いつものベンチから少し離れた場所。


 休憩用小講義室へも近く、退避経路にも繋がる。


 来場者の流れは通るが、中心ほど混雑しない。


 リゼが地図を広げる。


「出店位置。中庭東側。背面に校舎壁。右手に休憩所入口。左手に水場。正面から来場者導線。退避経路は後方通路から小講義室、または第一校舎内へ」


 カイが地面を見て言う。


「ここに台。ここに看板。ここに俺」


「調理は家庭実習室です。ここでは販売のみです」


「わかってる。俺、販売もする」


 ミリアが配置図を描く。


「カイさんは販売と補充。私は接客と列整理。リゼさんは衛生確認と導線、混雑時報告。アルトさんは記録と看板、成分表示説明補助。ただし、負荷が高い時は休憩所へ」


「はい」


 アルトは頷く。


 リゼが確認する。


「アルトさんの当日手順。痛み、熱、声、現在地、感情を定期確認。白鐘関連語、王宮関係者、鐘音、北の朝灯り、物資異常、混雑で反応が上がった場合、ミリアさんへ共有。必要ならカイさんへ伝達。リゼは出店班として範囲内で対応し、警備補助必要時は教師または生徒会へ報告」


「はい」


 ミリアが優しく言う。


「無理に店番を続けなくていいのよ」


「はい。でも、できるだけいたいです」


 三人がこちらを見る。


 アルトは少し照れながら続けた。


「小さな灯の焼き菓子店は、僕も準備した場所だから」


 リゼの灰銀の瞳が柔らかくなる。


「良好です」


 カイが笑う。


「看板係がいないと困るしな」


「はい」


 ミリアが微笑む。


「記録係もね」


 午後は、出店台の設置と飾り付けだった。


 準備委員会の許可を受けた台を運び、布をかける。


 布は淡い橙色。


 小さな灯の印をつけた紙札を前面に並べる。


 成分表示の札。


 商品名。


 見届けクッキー。


 大切な一日を見届ける時に。


 看板を立て、脚部を固定する。


 倒れないか、リゼが何度も確認する。


「風圧による転倒可能性、低。接触時の揺れ、許容範囲。脚部固定、良好」


 カイが言う。


「看板、立ったな」


「はい」


 アルトは看板を見上げた。


 小さな灯の焼き菓子店。


 自分たちの名前が、学園祭の中庭に立っている。


 まだ当日ではない。


 客もいない。


 焼き菓子も並んでいない。


 それでも、その看板は確かにそこにあった。


 左手首が淡く光る。


「痛みなし。熱、少し。声なし。現在地は学園中庭。小さな灯の焼き菓子店の看板が立ちました」


 ミリアが尋ねる。


「感情は」


 アルトは看板を見たまま答えた。


「嬉しいです。少し怖いです。でも、嬉しい方が大きいです」


「良好です」


 リゼが記録した。


 カイは看板の裏を覗いた。


 戻ってこい。


 食べた後、戻れる場所を確認してください。


 その文字を見て、彼は満足そうに頷いた。


「いいな」


「はい」


 アルトも裏面を見た。


 胸が温かい。


 この裏側は、明日、自分たちだけが知っている戻り道になる。


 夕方近く、ユリウスとエレオノーラが中庭へ来た。


 エレオノーラは記録板を持ち、ユリウスは最終確認用の紙を持っている。


「小さな灯の焼き菓子店、確認に来た」


 ユリウスが言う。


 リゼがすぐに答える。


「お願いします」


 エレオノーラが順番に確認していく。


「出店位置、許可済み。物資箱B-十七、確認済み。包装紙、再配布品。独自印、番号管理。成分表示、確認済み。看板、固定確認。退避経路、後方通路および小講義室。音響班との距離、北の朝灯り演奏時は中庭音量弱、鐘型楽器不使用、該当時間はアルトさんへ事前通知」


 アルトは「北の朝灯り」という言葉を聞いて、左手首に触れた。


 熱は少し。


 痛みはない。


 声もない。


「痛みなし。熱、少し。声なし」


 エレオノーラが頷く。


「曲名変更後の反応、軽微。記録します」


 ユリウスがアルトへ言う。


「当日の演奏時間は、君たちの出店開始直後ではなく、午後の中盤に移した。必要なら、その時間は小講義室へ退避できる。無理に聞かなくていい」


「はい」


「オルド監察官を含む王宮関係者は、学園長と生徒会が対応する。中庭へ来る可能性はあるが、君たちが直接対応する必要はない。もし近づいた場合、リゼまたはミリアから生徒会へ報告」


 リゼが頷く。


「了解しました」


 アルトの左手首は少し熱くなる。


 オルド。


 王宮。


 でも、痛みはない。


「痛みなし。熱、中より少し弱い。声なし」


 ミリアがすぐに聞く。


「現在地は」


「学園中庭。夕方。小さな灯の焼き菓子店の前。ユリウス先輩とエレオノーラ先輩が最終確認に来ています」


「感情は」


「緊張。でも、直接対応しなくていいと聞いて少し安心しました」


「良好です」


 ユリウスは少し表情を和らげた。


「君たちは、よく準備した」


 カイが少し驚いた顔をする。


「俺たちが?」


「ああ」


 ユリウスは看板を見る。


「物資混入、旧倉庫、二重封、音響変更。普通なら出店を諦めてもおかしくない。それでも、確認して、必要なところは変えて、残すものを残した」


 リゼが静かに言う。


「完璧ではありません」


「完璧である必要はない」


 ユリウスは答えた。


「明日、始められる状態であればいい」


 ミリアが少し笑った。


「私が朝書いた言葉と同じね」


「そうなのか」


「ええ」


 リゼは看板を見た。


 小さな灯の焼き菓子店。


「始められる状態」


 小さく呟く。


 それは、戦場での「準備完了」とは違う。


 敵を殲滅する準備ではない。


 誰かを迎える準備。


 怖くなったら戻る準備。


 間違いがあれば止める準備。


 必要なら報告する準備。


 それでも、焼き菓子を売る準備。


「はい」


 リゼは静かに言った。


「始められる状態です」


 夕方、準備委員会全体の最終確認が終わると、中庭は少しずつ静かになっていった。


 生徒たちはそれぞれの出店や展示を確認し、先生たちは施錠と物資管理を見回り、生徒会は最後の導線確認をしている。


 空は橙色から紫へ変わり始めていた。


 小さな灯の焼き菓子店の台には、まだ商品は並んでいない。


 でも、看板は立っている。


 包装紙は箱の中にある。


 成分表示札も揃っている。


 小さな灯の印もある。


 カイは台の前に立ち、腕を組みかけて、途中でやめた。


「明日か」


「はい」


 アルトが答える。


「明日です」


 ミリアが布の端を整える。


「ついにね」


 リゼが最終記録を記入する。


「小さな灯の焼き菓子店。前日準備完了。物資異常なし。包装紙異常なし。看板固定良好。退避経路確認済み。音響変更共有済み」


 カイが言う。


「リゼ」


「はい」


「お前、明日も出店にいるよな」


 リゼは記録帳から顔を上げた。


「はい。出店班を主とします。警備補助は中庭周辺の報告補助のみです」


「よし」


 カイは満足そうに頷いた。


 アルトも言った。


「僕も、明日ここにいたいです」


 リゼがすぐに確認する。


「無理はしない範囲で」


「はい」


 ミリアが微笑む。


「怖くなったら休憩所。戻れそうなら戻る。ずっと同じ場所にいなくても、出店班であることは変わらないわ」


「はい」


 アルトは看板を見る。


「怖いけど、明日が少し楽しみです」


 言った瞬間、左手首が淡く温かくなった。


 痛みはない。


 声もない。


 リゼが記録帳に書く。


 アルトさん発言:怖いけど、明日が少し楽しみ。


 カイがにっと笑う。


「いいな」


 ミリアも頷く。


「ええ」


 リゼは少しだけ目を伏せ、それから言った。


「私も、明日の出店を楽しみにしている可能性があります」


 カイがすぐに言う。


「可能性?」


 リゼは一拍置く。


「楽しみにしています」


 カイが笑った。


「よし」


 ミリアが嬉しそうに微笑んだ。


 アルトの胸にも、小さな灯がともったような気がした。


 夜になる前に、四人は最後の焼き菓子を食べた。


 カイが包みを開く。


「準備完了用」


 ミリアが言う。


「今日はその名前しかないわね」


「だろ」


 カイは一つずつ配った。


 焼き菓子は、明日の見届けクッキーと同じ形だった。


 小さな丸。


 干し果物が少し見える。


 まだ温かさが残っている。


 アルトはそれを手に持ち、看板の前で食べた。


 甘さがゆっくり広がる。


 今日一日歩いた足。


 確認し続けた目。


 少し緊張した胸。


 全部に、優しく染みるような味だった。


「おいしいです」


 アルトが言うと、カイは笑った。


「明日はもっと焼く」


「はい」


 ミリアが言う。


「明日は忙しくなるわね」


「はい」


 リゼが頷く。


「混雑、体調、物資、王宮関係者、音響、退避経路、成分表示、金銭管理、看板固定」


 カイが顔をしかめる。


「並べると大変だな」


 ミリアが笑う。


「でも、準備してきたでしょう?」


「そうだな」


 アルトは看板を見た。


 小さな灯の焼き菓子店。


 裏には、戻ってこい。


 怖いことは、きっとまだある。


 でも、戻る場所はある。


 準備は完璧ではない。


 でも、始められる。


 夜。


 男子寮の自室で、アルトは机に向かった。


 左手首は穏やかだった。


 痛みはない。


 熱は少し。


 声もない。


 机の上には、今日書いた小さな灯の印の予備札がある。


 その横に、明日の役割表。


 そして、今日の紙片。


 アルトはペンを取った。


 今日は、準備完了の日だった。


 朝、小さな灯の物資箱B-十七を確認した。


 カイは、外観異常なしと言えた。


 リゼさんは、それを良好だと言った。


 包装紙を一枚ずつ確認した。


 透かしなし。


 白い鐘なし。


 蔦模様なし。


 小さな灯の印を入れた。


 僕は店名を書いた。


 リゼさんが番号を記録した。


 ミリアさんが紙を整えた。


 カイが乾かす場所へ運んだ。


 看板も確認した。


 表には、小さな灯の焼き菓子店。


 裏には、カイの字で戻ってこい。


 その下に、食べた後、戻れる場所を確認してください。


 怖い時に見たいと思った。


 家庭実習室で、見届けクッキーの最終確認をした。


 カイの焼き菓子はおいしかった。


 干し果物の甘さがあって、強すぎなくて、戻る時に食べたい味だった。


 マリベル先生も良いと言ってくれた。


 昼、中庭の出店位置を確認した。


 小さな灯の焼き菓子店は、中庭東側になった。


 休憩所にも近い。


 退避経路もある。


 明日、僕は記録と看板、成分表示説明補助をする。


 無理なら休憩所へ行く。


 戻れそうなら戻る。


 午後、台と看板を設置した。


 看板が中庭に立った時、嬉しかった。


 少し怖かったけど、嬉しい方が大きかった。


 ユリウス先輩とエレオノーラ先輩が最終確認に来た。


 物資箱、包装紙、看板、成分表示、退避経路、音響変更、全部確認された。


 北の朝灯りの演奏時間も調整された。


 王宮関係者は学園長と生徒会が対応する。


 僕たちが直接対応する必要はない。


 ユリウス先輩は、僕たちはよく準備したと言った。


 リゼさんは、始められる状態ですと言った。


 夕方、小さな灯の焼き菓子店の前で、準備完了用の焼き菓子を食べた。


 僕は、怖いけど、明日が少し楽しみですと言った。


 リゼさんも、楽しみにしていますと言った。


 カイは明日もっと焼くと言った。


 ミリアさんは明日は忙しくなると言った。


 怖いことはまだある。


 北白蔦紙装商会の調査は終わっていない。


 透かし入りの包装紙を誰が混ぜたのかも、二重封の木箱の外側封を誰が付けたのかも、まだわからない。


 オルド監察官も来るかもしれない。


 王宮関係者も来る。


 鐘楼もある。


 音もある。


 人も多い。


 でも、戻る場所もある。


 小さな灯の焼き菓子店。


 見届けクッキー。


 物資箱B-十七。


 看板の裏の戻ってこい。


 小講義室。


 現在地確認。


 リゼさん、ミリアさん、カイ。


 アルトはペンを止めた。


 明日。


 学園祭当日。


 楽しみだと書くのは、少し勇気がいる。


 でも、書ける。


 怖い。


 楽しみ。


 その両方を書ける。


 アルトは最後に一行を書いた。


 準備は完璧ではないけれど、僕たちは怖さを隠さず、戻る場所を作って、明日を始められる状態にした。


 紙片を折り、引き出しへしまう。


 左手首を胸の上に置いた。


「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。今日は小さな灯の焼き菓子店の準備が完了した。怖いけど、明日が少し楽しみです」


 銀環は淡く光った。


 その光は、まだ始まっていない祭りの灯のように、手首の奥で静かに揺れていた。


 同じ頃。


 学園の旧倉庫は、鍵をかけられ、立入禁止の札を下げたまま静まり返っていた。


 旧倉庫横仮置き場も閉鎖され、物資は別の保管場所へ移された。


 鐘楼裏の細道には柵が置かれ、警備補助用の札が夜風にかすかに揺れている。


 学園祭前夜の学園は、昼間の騒がしさが嘘のように静かだった。


 正門は閉じられ、受付台はまだ布をかけられている。


 中庭の出店台は整然と並び、それぞれの看板が夜の中で明日を待っていた。


 その一つ。


 小さな灯の焼き菓子店の看板も、静かに立っている。


 表には、柔らかな文字。


 裏には、戻ってこい。


 誰もいない中庭で、その言葉は夜の空気に向かって黙っていた。


 旧倉庫の奥。


 使われない棚の陰。


 すでに確認済みとされた古い祭具の箱の、そのさらに奥。


 白い鐘の形をした小さな飾りが、ひとつだけ残っていた。


 記録には、ない。


 誰も触れていない。


 誰も鳴らしていない。


 ただ、夜の静けさの中で、ほんのわずかに震えていた。


 音はしなかった。


 けれど、男子寮の一室で、眠りに落ちかけていたアルトの左手首が、布の下で淡く光った。


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