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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第5章 第15話:孤独な鍵の一節


 翌朝、アルト・レインフォードは、昨日の旋律をまだ少し覚えていた。


 木管の細い音。


 弦の低い響き。


 鐘を直接鳴らしていないのに、鐘を思わせる揺れ。


 白い鐘の祝祭歌。


 いや、昨日の確認では仮に「北の祝祭旋律」と呼ばれていた。


 小型ベルは使わない。


 問題の歌詞は変える。


 曲名も変更する。


 鐘を思わせる箇所も変える。


 そう決まった。


 けれど、アルトの胸に一番深く残っているのは、音そのものではなかった。


 孤独な鍵ほど、よく響く。


 その一節だ。


 歌詞の中にあった古い言葉。


 たぶん、もともとは祝祭の比喩だったのだろう。


 閉ざされた冬を開く鍵。


 遠くまで届く鐘の音。


 孤独な村へ春を知らせる歌。


 そういう意味だったのかもしれない。


 だが、今のアルトには違って聞こえた。


 孤独な鍵。


 よく響く。


 銀環。


 白鐘。


 封印。


 王宮。


 誰かが、自分を鍵として扱おうとしている。


 孤独にすれば、よく響く。


 その言葉は、まるで自分を狙う意図をそのまま歌にしたようで、怖かった。


 アルトは左手首に触れた。


 痛みはない。


 熱は少し。


 声はない。


「現在地は、男子寮の自室。朝。僕はアルト。昨日聞いた祝祭歌の歌詞を思い出しています。孤独な鍵という言葉が怖いです。でも、声は聞こえていません」


 自分で言う。


 声にすると、少しだけ輪郭が落ち着いた。


 あれは今、ここで鳴っている言葉ではない。


 昨日の記録。


 確認済みの反応。


 歌詞は変更予定。


 小型ベルは不使用。


 自分は孤独ではない。


 そう思っても、胸の奥の怖さはすぐには消えなかった。


 アルトは机の上に置いた小さな灯の印を見た。


 丸い炎。


 焼き菓子の丸。


 蔦ではない。


 鐘ではない。


 鍵でもない。


 この印は、自分たちで選んだ。


 誰かに役割を押しつけられるためのものではない。


 アルトは小さく息を吐き、寮の部屋を出た。


 中庭では、三人が待っていた。


 リゼ・グレイスは、昨日の音確認記録を読み直している。


 ミリア・ファルネーゼは、別の紙を持っていた。古い歌詞の写しではなく、翻訳案と変更案らしい。


 カイ・ロックハートは、焼き菓子の包みを持っている。今日は包みの上に、小さく「鍵じゃない用」と書かれた紙が貼られていた。


 アルトはそれを見て、思わず足を止めた。


「……カイ」


「おう」


「それは?」


「鍵じゃない用」


 カイは真剣だった。


 ミリアが少し困ったように微笑む。


「朝から何度か名前を変えようとしたのだけれど、カイさんが譲らなくて」


「大事だろ」


 カイは言う。


「昨日の歌詞、嫌だったからな」


 アルトの左手首が少し温かくなった。


 痛みはない。


 声もない。


 怖い言葉の後に、カイが付けた不器用な名前。


 鍵じゃない用。


 それは少し乱暴で、少し直球で、でもとてもカイらしかった。


「ありがとうございます」


 アルトが言うと、カイは少し顔を赤くした。


「食ってから言え」


 リゼが状態確認をする。


「痛みは」


「なし」


「熱は」


「少し」


「声は」


「なし」


「現在地は」


「学園中庭。朝。リゼさん、ミリアさん、カイといます。カイが鍵じゃない用の焼き菓子を持っています」


「感情は」


 アルトは少し考えた。


「少し怖いです。昨日の歌詞を思い出します。でも、嬉しいです」


「良好です」


 リゼは頷いた。


 ミリアが紙を広げる。


「今日、音響班と歌詞変更の確認があります。その前に、古い歌詞の意味を整理しておこうと思って」


 アルトの胸が少し硬くなる。


 ミリアはすぐに気づいた。


「無理に全部読まなくていいわ。問題の一節だけ、私が確認した範囲で説明する」


「お願いします」


 ミリアは一度、アルトの表情を確かめてから言った。


「“孤独な鍵ほど、よく響く”という一節は、古い北部の祝祭歌では、“閉ざされた季節を開くために、ひとつ残された合図ほど遠くへ届く”という意味に近いみたい」


「ひとつ残された合図」


「ええ。もともとは人間を鍵として扱う意味ではなく、冬の終わりを告げる小さな鐘や合図を指していた可能性が高いわ」


 アルトは左手首に触れた。


 熱は少し上がる。


 でも、痛みはない。


「痛みなし。熱、中より少し弱い。声なし」


 リゼが記録する。


 ミリアは続けた。


「ただし、今の状況では意味が変わってしまう。アルトさんが“鍵”として扱われてきたこと、銀環が音に反応すること、誰かが孤立させようとしている可能性があること。その文脈で聞くと、危険な意味になる」


「言葉は同じでも、届き方が変わるんですね」


「ええ」


 ミリアは静かに頷いた。


「だから、古い歌詞が悪意で作られたとは限らない。でも、今そのまま使うのはよくない」


 カイが腕を組みかけ、途中でやめた。


「悪気なくても嫌なもんは嫌だな」


「その通りです」


 リゼが即座に言った。


「意図と影響は分けて記録する必要があります。作成時の意図が無害でも、現在の影響が有害なら変更が必要です」


 カイは少し驚いた顔をした。


「リゼ、今のわかりやすい」


「ありがとうございます」


 ミリアが微笑む。


「音響班にも、そう伝えましょう」


 アルトは紙を見つめた。


 孤独な鍵ほど、よく響く。


 もともとは、冬を開く合図。


 今は、アルトを孤立させる危険な言葉。


 言葉は、同じでも変わる。


 名前も、場所も、音も、文脈で変わる。


 白鐘という言葉が、古い地名や祭りの名前でもあり、自分にとって怖い手がかりでもあるように。


 アルトはゆっくり言った。


「その歌詞は、変えてほしいです」


 リゼがすぐに記録する。


「本人希望。該当歌詞変更」


「はい」


「変更後も確認しますか」


 アルトは少し迷った。


 怖い。


 だが、変えてもらった言葉を確認しないまま当日を迎えるのも怖い。


「短く、確認したいです。音ではなく、まず文字で」


「了解しました」


 朝の授業で、ロウ教師は黒板に「機能と人」と書いた。


 アルトはその文字を見て、胸の奥が少し重くなった。


 鍵。


 機能。


 人。


 ロウ教師は静かに話し始めた。


「人は時に、機能で呼ばれる」


 チョークの音が、黒板に短く響く。


「剣士、護衛、調理担当、記録係、案内役、鍵、器、証人、英雄。機能名は便利だ。だが、便利な名は人を削ることがある」


 リゼのペンが止まった。


 英雄。


 灰銀の戦乙女。


 剣。


 リゼもまた、機能で呼ばれてきた人だ。


 カイも真剣に前を見ている。


 ロウ教師は続ける。


「役割を持つことは悪ではない。鍵が扉を開けるように、剣士が剣を振るうように、調理担当が料理を作るように、人は何かを担う。だが、その役割だけがその人の全てになった時、危険が生じる」


 アルトはノートに書いた。


 役割だけがその人の全てになった時、危険。


「誰かを鍵と呼ぶなら、その者が開けたくない扉もあることを忘れるな。誰かを剣と呼ぶなら、その者が斬りたくないものもあることを忘れるな。誰かを英雄と呼ぶなら、その者が休みたい夜もあることを忘れるな」


 リゼの灰銀の瞳が、少しだけ揺れた。


 アルトは左手首を押さえた。


 熱は少し。


 痛みはない。


 声もない。


「機能は人の一部に過ぎない。人は、役割を選べる。断れる。降りられる。別の名で呼ばれることもできる」


 アルト。


 エルディア。


 鍵。


 保護対象。


 銀環反応者。


 友達。


 看板係。


 小さな灯の焼き菓子店の一員。


 いくつもの呼ばれ方がある。


 その中で、自分が選びたい名前がある。


 アルト。


 看板係。


 友達。


 鍵だけではない。


 ロウ教師は最後に言った。


「もし誰かが君を機能として呼んだなら、問いなさい。“それだけか”と。君は、それだけではない」


 アルトはその言葉をノートに書いた。


 それだけではない。


 左手首が淡く光った。


 痛みはない。


 声もない。


 昼休み、四人は中庭のベンチに集まった。


 音響班との確認会は放課後だ。


 それまでに、アルト自身の希望を整理しておくことになった。


 ミリアが紙を広げる。


「確認しましょう。問題の歌詞は変更希望」


「はい」


 アルトが答える。


「“鍵”という言葉自体を避けたい?」


 アルトは少し考えた。


 鍵。


 怖い言葉。


 でも、全部避けたいわけではない。


 ロウ教師が言ったように、鍵が扉を開ける役割を持つこと自体は悪ではない。


 問題は、鍵だけにされること。


 孤独にされること。


 勝手に響かされること。


「鍵という言葉全部ではなく、僕を孤独にして響かせるような意味が嫌です」


 ミリアは頷き、書き取る。


「“孤独な鍵”と“よく響く”の組み合わせが特に負荷」


「はい」


 リゼが補足する。


「孤独化と強制共鳴を連想するため」


 その言葉に、アルトの左手首が少し熱くなる。


「痛みなし。熱、中より少し弱い。声なし」


 カイが言う。


「つまり、“みんなで帰る鍵”ならいいのか?」


 ミリアが一瞬きょとんとし、それから笑った。


「少し言い方は調整したいけれど、方向は近いわね」


 アルトも少し笑った。


「みんなで帰る鍵」


「駄目か?」


「いいと思います。でも、歌詞にするなら少し変かも」


「そうか」


 カイは真剣に考え込む。


「じゃあ、鍵じゃなくて灯にしようぜ」


 アルトは顔を上げた。


「灯」


「うちの店も小さな灯だし。孤独な鍵より、小さな灯の方がいい」


 ミリアの目が柔らかくなる。


「いいわね」


 リゼも頷いた。


「鍵よりも負荷が低い可能性があります」


「可能性じゃなくて、低いだろ」


 カイが言う。


 アルトは左手首に触れた。


 小さな灯。


 熱は穏やかだ。


 痛みはない。


 声もない。


「はい。小さな灯は怖くありません」


 ミリアが紙に書いた。


 変更案候補。


 孤独な鍵ほど、よく響く

 → 小さな灯ほど、帰る道を照らす


 アルトはその文字を見た。


 左手首が淡く温かくなる。


 怖くない。


 むしろ、胸の奥が少し温かい。


「これ、好きです」


 小さく言うと、ミリアが微笑んだ。


「では候補として出しましょう」


 リゼが記録する。


 本人反応:痛みなし、熱少、声なし。感情、好意的。


 カイが満足そうに頷いた。


「鍵じゃない用、役に立ったな」


「はい」


 アルトは笑った。


「とても」


 カイは少し照れたように焼き菓子を差し出した。


「じゃあ食え」


 放課後、音響班との歌詞変更確認は、昨日と同じ準備室で行われた。


 今日は音を鳴らさない。


 まず文字だけ。


 第一音楽室からは、別の曲の練習音が小さく聞こえていたが、扉は閉じられていた。


 アルトは入室前に確認する。


「痛みなし。熱、少し。声なし。現在地は第一音楽室隣の準備室前。リゼさん、ミリアさん、カイ、ユリウス先輩といます。今日は歌詞変更案を確認します。音は聞きません」


 ミリアが尋ねる。


「感情は」


「緊張。でも、昨日より少し落ち着いています。変更案があります」


「良好です」


 準備室には、ユリウス、エレオノーラ、音響班代表、楽団担当教師、リーナがいた。


 音響班代表は、昨日よりもしっかりした顔でアルトたちを迎えた。


「昨日の確認を受けて、曲名と歌詞を変える案を作りました」


 机の上に、数枚の紙が並べられる。


 曲名案。


 北の朝灯り。


 冬明けの祝祭歌。


 小さな灯の帰り道。


 カイが小声で言う。


「うちの店みたいだな」


 ミリアが微笑む。


「影響を受けたかもしれないわね」


 アルトの左手首は穏やかだ。


 白い鐘という言葉がない。


 それだけで、かなり違う。


「痛みなし。熱、少し。声なし」


 リゼが記録する。


 音響班代表が言う。


「問題の一節は、三案あります」


 一つ目。


 遠い合図ほど、朝を呼ぶ。


 アルトは少し考える。


 反応は弱い。


「痛みなし。熱、少し。声なし。怖くはありません。でも、少し遠い感じがします」


 二つ目。


 ひとつの灯ほど、雪道を照らす。


 左手首が温かくなる。


 怖くない。


「痛みなし。熱、少し。声なし。少し好きです」


 三つ目。


 小さな灯ほど、帰る道を照らす。


 アルトは息を止めた。


 昼にミリアが書いた案に近い。


 いや、ほとんど同じだ。


 音響班代表が少し照れたように言う。


「リーナ先輩から、小さな灯の案を聞いて。許可があれば、この方向で」


 アルトは左手首を押さえた。


 熱は穏やか。


 痛みはない。


 声もない。


 胸が少し温かい。


「痛みなし。熱、少し。声なし」


 リゼが尋ねる。


「感情は」


「嬉しいです。怖くありません。帰る道という言葉が、安心します」


 ミリアが微笑んだ。


「では、この案が良さそうね」


 カイが頷く。


「孤独な鍵より、ずっといい」


 リゼも言った。


「強制共鳴や孤立を連想させる要素が除去されています。代替表現として適切です」


 音響班代表はほっとしたように息を吐いた。


「よかった」


 楽団担当教師が続ける。


「曲名はどうしましょう。白い鐘という語は外します。北の朝灯り、冬明けの祝祭歌、小さな灯の帰り道」


 アルトは少し考えた。


 小さな灯の帰り道。


 好きだ。


 でも、自分たちの店名と近すぎる気もする。


 それが嬉しくもあり、少し恥ずかしくもある。


「北の朝灯りが、いいと思います」


 アルトは言った。


「小さな灯は歌詞に残っているし、曲名は少し離れている方が、僕には聞きやすいです」


 ミリアが頷く。


「いい判断だと思うわ」


 リゼも記録する。


 曲名本人希望:北の朝灯り。理由、小さな灯表現は歌詞内に留め、曲名負荷を下げる。


 カイが言う。


「じゃあ、白い鐘の祝祭歌じゃなくて、北の朝灯りだな」


 アルトの左手首は穏やかだった。


「はい」


 ユリウスが頷いた。


「正式変更として申請する。ベル不使用、歌詞変更、曲名変更、鐘模倣箇所変更。明日、修正後の短い音確認をするかどうかは、アルト君の状態で決めよう」


「はい」


 アルトは頷いた。


 その時、楽団担当教師が言った。


「旋律の鐘を思わせる部分についても、別案を作っています。今日は鳴らしませんが、楽譜上では木管の揺れを減らし、弦の持続音に変えます。鐘の模倣ではなく、朝の風のように」


 朝の風。


 その言葉は怖くなかった。


 アルトは少し息を吐いた。


「ありがとうございます」


 音響班代表は深く頭を下げた。


「こちらこそ、言ってくれてありがとうございます。昨日、中止と言ってもらえなかったら、何が負荷なのかわからないままでした」


 アルトは驚いた。


「僕が、中止と言ったから?」


「はい。止めてくれたから、直す場所がわかりました」


 アルトの胸に、静かな温かさが広がる。


 中止と言うことは、迷惑ではなかった。


 曲を壊すことでもなかった。


 直す場所を知らせることだった。


 リゼが静かに言った。


「中止合図は有効な情報です」


 カイが頷く。


「だな」


 ミリアが微笑む。


「言えてよかったわね」


「はい」


 アルトは左手首に触れた。


「言えてよかったです」


 準備室を出ると、廊下の遠くから別の曲が聞こえた。


 明るい練習音。


 アルトの左手首は少しだけ温かい。


 痛みはない。


 声もない。


 リゼが確認する。


「状態は」


「痛みなし。熱、少し。声なし。現在地は第一音楽室前の廊下。歌詞変更案を確認しました」


「感情は」


「安心しました。少し嬉しいです」


「良好です」


 中庭へ戻ると、夕方の光が柔らかく落ちていた。


 噴水の水音が聞こえる。


 学園祭の準備は、少しずつ進んでいる。


 装飾班は別の場所で点検済みの布を広げている。


 物資管理班は鍵付きの箱を運んでいる。


 舞台班は音響班と相談しながら楽譜の写しを確認している。


 怖いものが混ざった後でも、準備は止まっていない。


 ただ、手順が増えた。


 確認が増えた。


 境界線が増えた。


 そして、言葉が変わった。


 孤独な鍵ほど、よく響く。


 それが。


 小さな灯ほど、帰る道を照らす。


 に変わった。


 カイが焼き菓子の包みを取り出した。


「鍵じゃなくなった用」


 ミリアが笑う。


「朝より少し柔らかくなったわね」


「成長した」


 カイは真剣に言った。


 リゼが頷く。


「良好な名称変更です」


 アルトは笑った。


 焼き菓子を受け取る。


 布の結び目には、小さな灯の印。


 今はそれが、とても安心できる。


 カイが言った。


「アルト」


「うん」


「お前、鍵でも何でも、勝手に使わせなきゃいい」


 その言葉は、あまりにカイらしくて、少し乱暴で、でもまっすぐだった。


 アルトは胸が熱くなる。


「はい」


 ミリアが続ける。


「鍵という言葉が必要な時があっても、どの扉を開けるかは選べるわ。開けない扉を選ぶこともできる」


 リゼが静かに言った。


「あなたは鍵だけではありません。アルトさんです。看板係であり、記録者であり、小さな灯の焼き菓子店の一員であり、私たちの友人です」


 左手首が淡く光った。


 痛みはない。


 熱は温かい。


 声もない。


 アルトは焼き菓子を持つ手に力を込めた。


「僕は、鍵だけではありません」


 言った。


 自分の声で。


 三人が頷いた。


 カイがにっと笑う。


「そうだ」


 ミリアが微笑む。


「ええ」


 リゼが静かに言う。


「記録します」


「記録するんですか?」


「重要発言です」


 アルトは少し恥ずかしくなった。


 でも、止めなかった。


 記録されていいと思った。


 夜。


 男子寮の自室で、アルトは机に向かった。


 今日の紙片を広げる。


 左手首は穏やかだった。


 痛みはない。


 声もない。


 机の上には、音響班から受け取った変更案の写しがある。


 曲名。


 北の朝灯り。


 歌詞。


 小さな灯ほど、帰る道を照らす。


 アルトはその文字を見た。


 怖くない。


 胸が温かくなる。


 ペンを取る。


 今日は、孤独な鍵の一節を変えた。


 朝、昨日の歌詞を思い出して怖かった。


 孤独な鍵ほど、よく響く。


 その言葉は、僕を鍵として扱う言葉に聞こえた。


 孤独にすれば響くと言われているようで、怖かった。


 でも、ミリアさんが古い歌詞の意味を調べてくれた。


 もともとは、閉ざされた季節を開くための、ひとつ残された合図という意味に近いらしい。


 悪意で作られた歌詞とは限らない。


 でも、今の僕には危険な意味になる。


 意図と影響は別。


 リゼさんがそう言った。


 午前の授業で、ロウ先生は機能と人の話をした。


 人は時に、機能で呼ばれる。


 剣士、護衛、調理担当、記録係、案内役、鍵、器、証人、英雄。


 機能名は便利だけど、人を削ることがある。


 誰かを鍵と呼ぶなら、その人が開けたくない扉もあることを忘れるな。


 誰かを剣と呼ぶなら、その人が斬りたくないものもあることを忘れるな。


 誰かを英雄と呼ぶなら、その人が休みたい夜もあることを忘れるな。


 君は、それだけではない。


 その言葉が残った。


 昼、歌詞変更案を考えた。


 カイは、鍵じゃなくて灯にしようと言った。


 ミリアさんが、小さな灯ほど、帰る道を照らすという案を書いた。


 僕はその言葉が好きだと思った。


 放課後、音響班と確認した。


 曲名は、白い鐘の祝祭歌から変えることになった。


 候補の中で、僕は北の朝灯りがいいと言った。


 小さな灯は歌詞の中に残して、曲名は少し離れている方が聞きやすいと思ったから。


 問題の歌詞は、小さな灯ほど、帰る道を照らす、になった。


 左手首は痛くならなかった。


 怖くなかった。


 安心した。


 小型ベルは使わない。


 鐘を思わせる旋律も、朝の風のように変えるらしい。


 音響班の先輩は、昨日僕が中止と言ったから直す場所がわかったと言ってくれた。


 中止と言うことは、迷惑ではなく、直す場所を知らせることにもなると知った。


 夕方、中庭で鍵じゃなくなった用の焼き菓子を食べた。


 カイは、お前、鍵でも何でも、勝手に使わせなきゃいいと言った。


 ミリアさんは、どの扉を開けるかは選べるし、開けない扉も選べると言った。


 リゼさんは、あなたは鍵だけではありません。アルトさんです。看板係であり、記録者であり、小さな灯の焼き菓子店の一員であり、私たちの友人ですと言った。


 僕は、僕は鍵だけではありませんと言った。


 リゼさんは、それを重要発言として記録した。


 少し恥ずかしかった。


 でも、記録されていいと思った。


 アルトはペンを止めた。


 紙の上の文字を見つめる。


 僕は鍵だけではありません。


 その一文を、もう一度書く。


 左手首が淡く光った。


 痛みはない。


 熱は温かい。


 声もない。


 アルトは最後に一行を書いた。


 誰かが僕を孤独な鍵として響かせようとしても、僕は一人ではなく、開ける扉も開けない扉も選べる。


 そして、僕は鍵だけではない。


 紙片を折り、引き出しへしまう。


 左手首を胸の上に置いた。


「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。今日は、孤独な鍵の歌詞を変えた。僕は鍵だけではありません」


 銀環は淡く光った。


 その光は、孤独にされた鍵として遠くの鐘へ響くためのものではなく、帰る道を照らす小さな灯のそばで、自分の名前をもう一度確かめるための明かりのように、手首の奥で静かに揺れていた。


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