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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第5章 第14話:祝祭歌の練習


 翌朝、アルト・レインフォードは、音のない紙を見ていた。


 机の上に置いた歌詞の写し。


 昨日、音響班の確認会で見せられた「白い鐘の祝祭歌」の写しではない。あれは生徒会管理になり、アルトの手元には残されていない。


 今あるのは、自分で記録した確認項目だった。


 曲名。


 白い鐘の祝祭歌。


 曲名に反応あり。


 小型ベル使用予定、停止。


 歌詞。


 孤独な鍵ほど、よく響く。


 強反応。


 歌詞変更提案。


 音確認は未実施。


 次回確認時は距離を取る。


 退避手順必須。


 音は、紙と違う。


 紙は見なければよい。


 触れなければよい。


 箱は開けなければよい。


 けれど、音は届く。


 扉の向こうからも、廊下の先からも、人混みの中からも。


 ロウ教師は昨日言った。


 音は線を越える。


 だからこそ、選ばなければならない。


 どこで鳴らすか。


 いつ鳴らすか。


 どの強さで鳴らすか。


 誰が準備を持つか。


 アルトは左手首に触れた。


 痛みはない。


 熱は少し。


 声はない。


「現在地は、男子寮の自室。朝。僕はアルト。今日は、白い鐘の祝祭歌の音を確認するかもしれない」


 言葉にした瞬間、胸の奥が少し冷えた。


 白い鐘。


 祝祭歌。


 孤独な鍵。


 鳴らしてはいけない鐘。


 夢の声が、輪郭だけを残している。


 鐘を鳴らさないで。


 だが、あれは命令ではなく警告として扱う。


 そう決めた。


 何が危険なのかを確認する。


 無理なら中止する。


 耳を塞いで逃げるだけではなく、聞かないと決めるための理由を探す。


 それは、少し怖い。


 とても怖い。


 でも、一人で行くわけではない。


 アルトは紙の一番下に、昨日書いた言葉をもう一度書いた。


 僕は孤独な鍵だけではない。


 それを見てから、寮の部屋を出た。


 中庭には、朝の光が差していた。


 噴水の水面が淡く輝き、花壇の葉に小さな露が残っている。


 リゼ・グレイスは、いつものようにアルトの左側に立てる位置で待っていた。灰銀の髪が朝の光に揺れている。


 ミリア・ファルネーゼは、今日の確認用の紙を持っていた。そこには、歌詞変更案、楽器一覧、演奏距離、退避場所などの項目が並んでいる。


 カイ・ロックハートは、焼き菓子の包みを持っていた。


 それはいつものことだが、今日は少し包み方が丁寧だった。淡い布で包まれ、簡単な小さな灯の印が結び目に付いている。


「おはようございます」


 アルトが言うと、三人が振り向いた。


「おはようございます」


 リゼが答える。


「おはよう、アルトさん」


 ミリアが微笑む。


「おはよう」


 カイは短く言った。


 声はいつもより少し硬い。


 リゼがすぐに確認する。


「状態は」


「痛みなし。熱、少し。声なし。現在地は学園中庭。朝。リゼさん、ミリアさん、カイといます」


「感情は」


「緊張しています。今日は歌を確認するかもしれないから」


「良好です」


 ミリアが確認用の紙を広げた。


「今日、音響班から連絡が来ています。昨日の時点で、小型ベルの使用は停止。問題の歌詞は削除または変更予定。曲名も変更案を検討中。ただ、旋律そのものがどの程度反応するかは未確認だから、希望があれば距離を取って確認できるそうよ」


 アルトは少し息を吸った。


「距離を取って」


「ええ。第一音楽室の中には入らず、廊下の曲がり角。さらに必要なら階段下。そこで、短い旋律だけを確認する」


 リゼが補足する。


「音量は弱。小型ベル不使用。歌詞なし。楽器のみ。確認時間は十秒以内から開始。反応を見て中止または継続判断」


 カイがすぐに言った。


「無理なら即中止」


「はい」


 リゼが頷く。


「中止条件。痛み強、声あり、現在地不明瞭、本人中止希望。加えて、耳の遠さが続く場合、熱強が持続する場合も中止」


「はい」


 アルトは頷いた。


 カイが包みを差し出す。


「音確認前用」


 ミリアが少し笑う。


「今日はやっぱりそれね」


「必要だろ」


「必要です」


 リゼが真面目に言った。


 アルトは焼き菓子を受け取った。


 小さな灯の印のついた布。


 その印を見ただけで、左手首の熱が少し穏やかになる。


「痛みなし。熱、少し。声なし。小さな灯の印を見ています」


 カイが少しだけ表情を緩めた。


「効くな」


「薬効誤認の可能性があります」


 リゼが即座に言う。


「そういう意味じゃねえ」


「理解しています」


 ミリアがくすりと笑った。


 その笑いに、朝の硬さが少しだけほどけた。


 午前の授業で、ロウ教師は黒板に「美しい危険」と書いた。


 アルトは、その文字を見た瞬間、少しだけ胸がざわついた。


 美しい。


 危険。


 二つの言葉は、普段は並べたくない。


 危険なものは、醜くあってほしい。


 怖いものは、怖い顔をしていてほしい。


 そうでなければ、間違えて近づいてしまう。


 ロウ教師は教室を見渡した。


「危険なものが、常に醜いとは限らない」


 静かな声だった。


「毒のある花が美しいこともある。悲惨な歴史を持つ歌が、今聞けば美しく響くこともある。危険な思想が、きれいな言葉で包まれることもある」


 アルトの左手首が少し熱くなる。


 昨日の歌詞。


 孤独な鍵ほど、よく響く。


 あれは、古い歌の一節としては詩的なのかもしれない。


 でも、今のアルトには怖かった。


「だから、美しいから安全だと決めるな。嫌悪感がないから危険ではないとも決めるな。逆に、怖いから全て悪だとも決めるな」


 ロウ教師はチョークを置いた。


「美しいものが危険を含む時、大事なのは、何が美しく、何が危険なのかを分けて見ることだ。旋律か。歌詞か。楽器か。場所か。聞く者の記憶か。使う者の意図か」


 アルトはノートに書いた。


 何が美しいか。


 何が危険か。


 旋律。


 歌詞。


 楽器。


 場所。


 記憶。


 意図。


 リゼも同じようにノートを取っている。


 カイは少し眉を寄せながらも、丁寧に書いていた。


 ミリアは静かに前を見ている。


「祝祭歌は、多くの場合、人を集めるために作られる。人の足を止め、耳を向けさせ、同じ気持ちへ揃える。その力は、良い方向にも悪い方向にも働く」


 同じ気持ちへ揃える。


 アルトは胸の奥が少し冷えるのを感じた。


 もし、歌が銀環を揺らすなら。


 もし、人混みの中でその音が鳴るなら。


 自分だけではなく、周囲の空気も巻き込まれるかもしれない。


「聞く訓練をする時は、無理をするな。美しいから最後まで聞かなければならない、ということはない。危険を確かめるために、自分を壊す必要はない」


 リゼがわずかに頷いた。


 ロウ教師は続ける。


「途中で止めること。距離を取ること。歌詞を変えること。楽器を外すこと。演奏場所を変えること。それらは、音楽を否定する行為ではない。音を、誰かが戻れる形へ調整する行為だ」


 音を、戻れる形へ調整する。


 その言葉が、アルトの胸に残った。


 白い鐘の祝祭歌。


 もしかしたら、完全に消さなくても、戻れる形に変えられるかもしれない。


 もしかしたら、無理かもしれない。


 その確認を、今日する。


 ロウ教師は最後に言った。


「美しい危険を見つけた時、逃げることだけが答えではない。だが、魅入られることも答えではない。立ち止まり、分けて見なさい」


 昼休み、四人は中庭で音確認の手順を最終確認した。


 リゼの紙には、細かい項目が書かれている。


 一、第一音楽室には入らない。


 二、廊下曲がり角から開始。


 三、歌詞なし。


 四、小型ベル不使用。


 五、旋律冒頭十秒。


 六、音量弱。


 七、アルトさんは壁を背に立つ。


 八、ミリアさんが状態確認。


 九、カイさんは廊下出口側に立ち、突撃せず退避経路確認。


 十、リゼは音源側とアルトさんの間に位置し、中止合図を出す。


 十一、中止合図は手を上げる、またはアルトさん本人の「中止」。


 十二、中止後は即座に中庭または小講義室へ退避。


 カイがそれを見て言った。


「俺、突撃せずって書かれてる」


「必要です」


 リゼが答える。


「わかってるけど」


「カイさんは出口側を確認してください。アルトさんが下がる時、通路に人がいないか見る役割です」


「退避路係か」


「はい」


 カイは少し真剣な顔になった。


「わかった。突撃じゃなくて、道を見る」


 ミリアが微笑む。


「とても大事な役割よ」


 カイは少し照れたように頷いた。


 アルトは手順を見ていた。


 自分は、音を聞く人。


 反応を伝える人。


 無理なら中止と言う人。


 ただ耐える人ではない。


「中止と言えるか、少し不安です」


 アルトが言うと、リゼがすぐに答えた。


「言えない場合に備え、身体反応でも中止します。痛み強、耳の遠さ、呼吸乱れ、視線固定、現在地不明瞭。本人が言語化できない場合、周囲が中止判断をします」


「ありがとうございます」


 ミリアが優しく言う。


「でも、言えそうなら言ってね。アルトさんの“中止”が一番強い合図だから」


「はい」


 カイが焼き菓子をもう一つ差し出した。


「言えた時用は後でな」


「もう名前が決まってるんだ」


「必要になるだろ」


 カイは真剣だった。


 アルトは少し笑った。


「はい。必要になるかもしれません」


 放課後、第一音楽室へ向かう廊下は、いつもより静かに感じた。


 実際には、遠くの教室から生徒の声が聞こえるし、階段を降りる足音もある。


 けれど、アルトの耳はその中から音楽室の方を探そうとしていた。


 まだ演奏は始まっていない。


 第一音楽室の扉は閉じている。


 その隣の準備室には、ユリウス、エレオノーラ、音響班代表、楽団担当教師が待っていた。


 リーナ準備委員長もいる。


 ロウ教師は少し離れた廊下に立っていた。


 必要ならすぐ介入できる位置。


 アルトは左手首に触れた。


「痛みなし。熱、中より少し弱い。声なし。現在地は第一音楽室前の廊下。放課後。リゼさん、ミリアさん、カイ、ユリウス先輩たちといます。これから祝祭歌の旋律を短く確認します」


 ミリアが尋ねる。


「感情は」


「怖いです。でも、手順があります」


「良好です」


 ユリウスが確認する。


「今日の確認は、曲名を仮に“北の祝祭旋律”として扱う。小型ベルは使用しない。歌詞も歌わない。楽器は弦と木管のみ。冒頭十秒、音量弱。アルト君の中止合図、またはリゼの中止合図で即停止」


「はい」


 楽団担当教師が深く頷いた。


「演奏者にも伝えてあります。今日は確認のためだけです」


 音響班代表は昨日より少し落ち着いた顔をしていた。


「歌詞の該当部分は変更します。曲名も別案を出します」


 ミリアが静かに言った。


「ありがとうございます」


 まず、アルトたちは音楽室から少し離れた廊下の曲がり角に立った。


 壁を背にする。


 リゼは音源側に半歩前。


 ミリアはアルトの横。


 カイは廊下の出口側を確認する位置。


 ユリウスは音楽室の扉近く。


 エレオノーラは記録。


 すべてが配置されると、リゼが確認した。


「アルトさん、現在地」


「第一音楽室から少し離れた廊下の曲がり角。壁を背にしています。リゼさんが音源側、ミリアさんが隣、カイが出口側にいます」


「痛み」


「なし」


「熱」


「中より少し弱い」


「声」


「なし」


「中止合図は」


「中止と言います。言えない場合は、痛みや耳の遠さが出たら止めてください」


「了解しました」


 ユリウスが扉の向こうへ合図を送った。


 短い沈黙。


 その沈黙が、一番怖かった。


 何が来るかわからない時間。


 アルトは左手首を押さえた。


 そして、音が始まった。


 最初は、木管の細い音だった。


 柔らかく、少し寂しい。


 次に、弦が低く重なる。


 音は小さい。


 扉越しで、廊下に薄く流れてくるだけだ。


 それでも、旋律はわかった。


 美しい、と思ってしまった。


 白い鐘。


 祝祭。


 北の空。


 まだ見たことのない雪の道。


 遠くの村へ届く朝の音。


 そんな景色が浮かびそうになる。


 左手首が熱を持つ。


 中。


 少し上がる。


 痛みはない。


 声もない。


 だが、胸の奥がぎゅっとする。


 美しい。


 怖い。


 その両方が同時にあった。


 十秒になる前に、リゼが手を上げた。


 音が止まる。


 廊下に、静けさが戻った。


 アルトは息を吸った。


「痛みなし。熱、中から強の手前。声なし。耳の遠さなし」


 ミリアがすぐに聞く。


「現在地は」


「第一音楽室の廊下。曲がり角。リゼさん、ミリアさん、カイ、ユリウス先輩たちがいます。今、歌詞なし、小型ベルなしで、旋律の冒頭を少し聞きました」


「感情は」


 アルトは少し迷った。


「怖いです。でも、きれいでした」


 言った瞬間、胸が少し苦しくなった。


 怖いものをきれいだと言っていいのか。


 そう思った。


 だが、ロウ教師は言っていた。


 何が美しく、何が危険なのかを分けて見る。


「きれいだったから、余計に怖いです」


 ミリアが静かに頷いた。


「良好です。ちゃんと分けて言えています」


 カイが不機嫌そうに言った。


「きれいなのが腹立つな」


 アルトは思わずカイを見た。


 カイは本気で腹立たしそうだった。


「嫌な曲なら、最初から嫌な音で鳴ればいいのに。きれいだと、止めにくいだろ」


 その言葉に、アルトは少し救われた。


 自分が感じた矛盾を、カイはまっすぐ怒ってくれた。


「はい」


 アルトは頷いた。


「嫌なのにきれいなのが、怖いです」


 リゼが記録する。


「旋律のみ、ベルなし、歌詞なし、距離あり。痛みなし、熱中から強手前、声なし。感情、恐怖および美しいという認識。カイさん発言、嫌なのにきれいなのが腹立つ」


「それ記録するのか」


 カイが少し驚く。


「有効な感情表現です」


「そうか?」


「はい」


 ユリウスが近づいてきた。


「続けられる?」


 アルトは左手首を確認した。


 熱は中。


 痛みなし。


 声なし。


 耳も遠くない。


「もう一度、同じ距離で十秒だけなら」


 リゼが確認する。


「無理はありませんか」


「怖いです。でも、今の反応をもう一度確認したいです。ベルと歌詞なしなら、声はありませんでした」


「了解しました」


 二度目の確認。


 同じ配置。


 同じ距離。


 木管の音。


 弦の音。


 今度は、旋律が少し先へ進んだ。


 上がって、下がる。


 どこかで鐘の揺れを真似ているような動きがある。


 ベルは鳴っていないのに、鐘を思わせる。


 アルトの左手首が熱くなる。


 中から強。


 痛みはない。


 声もない。


 だが、夢の言葉の輪郭が近づく。


 鳴らさないで。


 まだ声ではない。


 記憶だ。


 アルトは口を開いた。


「中止」


 音が止まった。


 すぐに。


 廊下の空気が戻る。


 カイが出口側から一歩だけ近づく。


 リゼがアルトの前で確認する。


「痛み」


「なし」


「熱」


「強」


「声」


「なし」


「耳」


「少しだけ遠くなりかけました。でも今は戻っています」


「現在地は」


「第一音楽室の廊下。曲がり角。リゼさん、ミリアさん、カイ、ユリウス先輩たちがいます。二回目の旋律確認で、鐘を思わせるところがあり、中止と言いました」


「感情は」


「怖いです。でも、中止と言えました」


 ミリアが柔らかく言った。


「とても良好です」


 カイがすぐに包みを出した。


「言えた時用」


 リゼが言う。


「ここではまだ飲食不可です」


「わかってる。見せただけだ」


「良好です」


 カイは少し得意げだった。


 ユリウスが楽団担当教師と話し、戻ってきた。


「確認結果を反映する。ベルは不使用。歌詞変更。曲名変更。さらに、旋律の鐘を思わせる部分を短くするか、別の楽器に置き換える案を検討する」


 楽団担当教師も頷く。


「可能です。あの部分は木管で揺らしていましたが、リズムを変えれば鐘の模倣感は弱まります」


 音響班代表が申し訳なさそうに言う。


「当日は、この曲自体を外すこともできます」


 アルトは少し考えた。


 外してほしい、と言うこともできる。


 怖かった。


 熱も強くなった。


 中止と言った。


 でも、ベルなし、歌詞なし、距離ありなら、声は出なかった。


 美しいと思う部分もあった。


 それをどう扱えばいいのか、まだわからない。


「今日は、外すかどうかを僕だけで決めたくありません」


 アルトは言った。


「でも、今のままは無理です。ベルは使わないでほしいです。歌詞も変えてほしいです。鐘みたいに聞こえるところも変えてほしいです。あと、僕が当日近くで聞くのは無理だと思います」


 リゼが記録する。


 アルト本人希望。


 ベル不使用。


 歌詞変更。


 鐘模倣箇所変更。


 当日近距離聴取不可。


 音響班代表は真剣に頷いた。


「わかりました」


 ミリアが付け加える。


「演奏場所や時間も調整しましょう。中庭の出店時間と重なるなら、アルトさんの退避手順が必要です」


 ユリウスが頷く。


「時間表を確認する」


 リゼが言う。


「小さな灯の焼き菓子店の位置が中庭の場合、演奏が聞こえる範囲か確認が必要です」


「それも確認する」


 ユリウスは答えた。


 その日の音確認はそこで終了した。


 音楽室を離れる時、アルトは少し疲れていたが、足は動いていた。


 中止と言えた。


 音は止まった。


 誰も責めなかった。


 むしろ、変更案が出た。


 それは大きかった。


 中庭へ戻る頃には、夕方の光が柔らかくなっていた。


 いつものベンチに座ると、カイはすぐに包みを開いた。


「言えた時用。あと、嫌な曲なのにきれいで腹立つ用」


 ミリアが小さく笑った。


「後半、長いわね」


「必要だろ」


「必要かもしれないわ」


 リゼが頷く。


「本日の感情整理に有効です」


 カイは満足そうに焼き菓子を配った。


 アルトはそれを受け取る。


 手が少し疲れていた。


 音を聞くというだけで、こんなに体に力が入っていたのだと気づく。


 焼き菓子を一口食べると、甘さが舌の上に広がった。


 音とは違う。


 自分の手で持てるもの。


 自分の速さで食べられるもの。


 それが少し安心だった。


 リゼが記録を読み上げる。


「本日の確認。白い鐘の祝祭歌、仮称北の祝祭旋律。確認一回目、歌詞なし、小型ベルなし、距離あり、冒頭十秒未満。痛みなし、熱中から強手前、声なし。感情、恐怖と美しい認識。確認二回目、鐘模倣箇所で熱強、耳の遠さ予兆、本人が中止発言。即停止。以降、ベル不使用、歌詞変更、鐘模倣箇所変更、演奏場所・時間調整を提案」


 カイが言う。


「ちゃんと止まったな」


「はい」


 アルトは頷いた。


「中止と言ったら、すぐ止まりました」


 ミリアが微笑む。


「それが大事ね」


「はい」


 アルトは左手首に触れた。


「怖かったです。でも、全部駄目とはまだ思いませんでした」


 カイが少し不満そうに見る。


「俺は駄目にしたいけどな」


「僕も、今のままは駄目です」


「ならいい」


「でも、変えられるなら、変えた後にどうなるかを知りたいです」


 カイはしばらく黙った。


 そして、少し悔しそうに頷く。


「わかった。変えた後、また確認だな。でも無理なら止める」


「はい」


 ミリアが言う。


「美しいものが、全部安全とは限らない。でも、危険な部分を取り除いて、誰かが安心して聞ける形にできるなら、それも祭りの準備ね」


 リゼが静かに頷いた。


「音を戻れる形へ調整する」


 ロウ教師の言葉。


 アルトはそれを聞いて、少し息を吐いた。


 小さな灯の焼き菓子店も、最初はただの出店だった。


 でも、今は戻れる場所になろうとしている。


 祝祭歌も、怖いまま置かれるのではなく、戻れる形へ変えられるかもしれない。


 まだ、わからない。


 けれど、今日、自分は「中止」と言えた。


 それは確かだった。


 夜。


 男子寮の自室で、アルトは机に向かった。


 耳の奥には、まだ少しだけ旋律の残りがある。


 木管の細い音。


 弦の低い音。


 鐘を思わせる揺れ。


 美しかった。


 怖かった。


 その両方を書かなければならないと思った。


 アルトは紙片を広げた。


 今日は、祝祭歌の練習を確認した。


 朝から怖かった。


 白い鐘の祝祭歌。


 昨日、曲名と歌詞だけで強く反応した曲。


 小型ベルは停止になった。


 問題の歌詞も変更予定になった。


 でも、旋律そのものがどのくらい怖いのかは、まだわからなかった。


 午前の授業で、ロウ先生は美しい危険の話をした。


 危険なものが、いつも醜いとは限らない。


 美しいから安全だと決めるな。


 怖いからすべて悪だとも決めるな。


 何が美しく、何が危険なのかを分けて見る。


 旋律。


 歌詞。


 楽器。


 場所。


 聞く人の記憶。


 使う人の意図。


 音を戻れる形へ調整することは、音楽を否定することではないと言った。


 放課後、第一音楽室の廊下で確認した。


 音楽室には入らなかった。


 歌詞なし。


 小型ベルなし。


 弦と木管だけ。


 音量は弱。


 廊下の曲がり角で、壁を背にして聞いた。


 リゼさんは音源側に立った。


 ミリアさんは隣で状態確認。


 カイは出口側で退避路を見た。


 ユリウス先輩とエレオノーラ先輩もいた。


 一回目、旋律はきれいだった。


 木管の細い音と、弦の低い音。


 怖いのに、きれいだった。


 きれいだから余計に怖かった。


 カイは、嫌な曲なのにきれいなのが腹立つと言った。


 僕は、それを聞いて少し安心した。


 自分だけではなかった。


 二回目、旋律の途中に鐘を思わせる揺れがあった。


 小型ベルは鳴っていないのに、鐘みたいに聞こえた。


 熱が強くなって、耳が少し遠くなりかけた。


 僕は、中止と言った。


 音はすぐ止まった。


 誰も責めなかった。


 中止と言えたことが、とても大事だった。


 その後、変更案が決まった。


 ベルは使わない。


 歌詞は変える。


 鐘を思わせる箇所も変える。


 演奏場所と時間も調整する。


 僕が当日近くで聞くのは無理だと思う。


 でも、曲を完全に外すかどうかは、まだ僕一人で決めたくなかった。


 変えられるなら、変えた後にどうなるかを見たい。


 怖いものを全部消すのではなく、戻れる形にできるかもしれないから。


 夕方、中庭で言えた時用、あと嫌な曲なのにきれいで腹立つ用の焼き菓子を食べた。


 長い用途だった。


 でも、必要だった。


 カイは無理なら止めると言った。


 ミリアさんは、危険な部分を取り除いて安心して聞ける形にできるなら、それも祭りの準備だと言った。


 リゼさんは、音を戻れる形へ調整すると言った。


 今日は怖かった。


 でも、中止と言えた。


 音が止まった。


 それは、僕がただ響かされるだけではないということだと思う。


 アルトはペンを止めた。


 耳の奥に残っていた旋律は、もうかなり薄れている。


 代わりに、カイの言葉が残っていた。


 嫌な曲なのにきれいなのが腹立つ。


 その不器用な言葉は、アルトの感じた矛盾をちゃんと受け止めてくれた。


 リゼの記録も、ミリアの確認も、ユリウスの停止合図も、全部あった。


 だから、中止と言えた。


 アルトは最後に一行を書く。


 美しい音が怖いものを含んでいても、僕はただ響かされるのではなく、中止と言い、変えてほしいと伝え、戻れる形を探すことができる。


 紙片を折り、引き出しへしまう。


 左手首を胸の上に置く。


 熱は少し。


 痛みはない。


 声もない。


「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。今日は祝祭歌の旋律を聞いた。怖かった。きれいだった。でも、中止と言えた」


 銀環は淡く光った。


 その光は、美しい旋律に引かれて遠くの鐘へ響くものではなく、音が越えてくる線の上で自分の足を止め、戻れる形へ変えるための小さな合図のように、手首の奥で静かに揺れていた。


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