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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第5章 第13話:鳴らしてはいけない鐘


 翌朝、学園の空気は、昨日より少し重かった。


 それでも、朝鐘はいつも通り鳴った。


 高い鐘楼から落ちてくる音が、校舎の屋根を越え、中庭の噴水の水面を震わせ、寮の窓まで届く。


 アルト・レインフォードは、男子寮の自室でその音を聞いた。


 左手首は少しだけ温かい。


 痛みはない。


 声もない。


 朝鐘は、もう何度も聞いている。


 学園にいることを知らせる音。


 授業が始まることを知らせる音。


 現在地を確認するための音。


 怖い音ではない。


 少なくとも、今は。


「痛みなし。熱、少し。声なし。現在地は、男子寮の自室。朝。僕はアルト。朝鐘を聞きました」


 言葉にしてから、アルトは胸に置いた左手を少し強く押さえた。


 昨日、二重封の木箱が見つかった。


 旧倉庫横仮置き場。


 装飾紙材。


 記録にない外側封。


 古い紙飾りの下にあった、黒く変色した紙片。


 強制共鳴札そのものではない。


 だが、近い思想で作られている可能性がある。


 残滓か、試作品か、模倣品か。


 クラウス・ヴァイゼルはそう言った。


 アルトは撤退した。


 中庭へ戻った。


 焼き菓子を食べた。


 夜、自分の記録にも書いた。


 触らなかった。


 鳴らさなかった。


 記録して離れた。


 戻った。


 でも、胸の奥にはまだ冷たいものが残っている。


 黒い札に似た紙片。


 白鐘に似せた透かし。


 白い鐘の飾り。


 学園祭の準備の中に、怖いものが少しずつ混ざっている。


 それでも、学園祭はまだ中止にはなっていない。


 今日、学園長から正式な方針が出るという。


 アルトは机の上に置いた小さな灯の印を見た。


 丸い炎。


 焼き菓子のような丸。


 自分たちの紙。


 自分たちの箱。


 自分たちの看板。


 怖いものが入ってきても、全部を壊さず、全部を諦めず、自分たちの境界線を引く。


 そう決めたはずだった。


 だが、もし学園祭が中止になるなら。


 それは仕方がないことだ。


 安全が最優先だ。


 そう思う。


 けれど、胸の奥が少し沈む。


 小さな灯の焼き菓子店。


 カイが焼くと言った店。


 ミリアが飾ると言った店。


 リゼが出店班にいたいと言った店。


 自分が名前を書いた店。


 怖いから中止するのではなく、安全のために中止するなら、受け止めなければならない。


 でも、怖いものを紛れ込ませた誰かの意図で、全部を奪われるのは嫌だった。


 アルトは左手首に触れた。


「感情は、怖いです。少し悔しいです。でも、今日の方針を聞きます」


 そう言ってから、部屋を出た。


 中庭には、いつもの三人がいた。


 リゼ・グレイスは記録帳を開いている。


 ミリア・ファルネーゼは準備委員会から配られた連絡紙を持っている。


 カイ・ロックハートは、腕を組もうとして、途中でやめ、結局両手を腰に当てていた。


 昨日より少し顔が険しい。


「おはようございます」


 アルトが言うと、三人が振り向いた。


「おはようございます」


 リゼが答える。


「おはよう、アルトさん」


 ミリアが微笑む。


「おはよう」


 カイの声は、いつもより少し低い。


 リゼがすぐに尋ねた。


「状態は」


「痛みなし。熱、少し。声なし。現在地は学園中庭。朝。リゼさん、ミリアさん、カイといます」


「感情は」


「怖いです。昨日の箱のことがまだ残っています。あと、学園祭がどうなるか気になっています」


「良好です」


 リゼは頷いた。


 ミリアが連絡紙を見せる。


「学園長からの方針は、昼前に全準備委員と関係班へ説明があるそうよ。授業は通常通り。放課後の準備は、一部制限付きで継続」


「一部制限」


 カイが言う。


「物資管理と装飾品確認は教師立ち会い。旧倉庫横仮置き場は閉鎖。紙材と装飾品は再点検が終わるまで配布停止。音響物品も一覧確認に追加」


「音響物品」


 アルトの左手首が少し熱くなる。


「痛みなし。熱、少し。声なし」


 自分で言う。


 リゼが記録する。


「音響物品という語に反応少」


 カイが眉を寄せる。


「音も見るのか」


「必要です」


 リゼが言う。


「舞台裏でベル型の小道具に反応がありました。学園祭当日は楽団、舞台効果、鐘に似た音が使用される可能性があります」


「鐘に似た音」


 カイはその言葉を言ってから、すぐにアルトを見る。


「悪い。急だったか」


「大丈夫です。痛みなし。熱、少し。声なし」


「よし」


 ミリアが静かに言った。


「昨日まで紙や箱を見ていたけれど、音も境界線なのね」


 リゼが頷く。


「はい。音は物理的に接触しなくても届きます。アルトさんの銀環反応に影響する可能性があります」


 音は、触らなくても届く。


 アルトは朝鐘を思い出した。


 毎日の鐘。


 怖くない鐘。


 でも、白鐘や封音鐘の記憶に繋がる鐘。


 夢の中の声。


 鳴らさないで。


 鐘を鳴らさないで。


 アルトは左手首を押さえた。


 熱が少し強くなる。


「痛みなし。熱、中より少し弱い。声なし。夢の言葉を思い出しました」


 ミリアがすぐに尋ねる。


「現在地は」


「学園中庭。朝。リゼさん、ミリアさん、カイといます。朝鐘はもう鳴り終わっています。今は鳴っていません」


「感情は」


「怖いです。でも、今の鐘ではなく、夢の言葉を思い出しただけです」


 リゼが頷く。


「良好です」


 カイが低く言う。


「鳴らさないで、ってやつか」


 アルトは頷いた。


「はい」


「学園祭で、何か鳴るのか?」


 その問いに、ミリアが少しだけ目を伏せた。


「可能性はあるわ。楽団、舞台、開会の合図、鐘型の飾り。学園祭では音が多いもの」


「全部止められるのか?」


「全部止めるのは難しいと思う」


 ミリアは正直に答えた。


「でも、何が鳴るのかは確認できる」


 リゼが言う。


「音響物品一覧、演目曲目、開会・閉会合図、鐘楼使用有無を確認します」


 カイは強く頷いた。


「確認だな」


「はい」


 午前の授業で、ロウ教師は黒板に「音と届く距離」と書いた。


 教室の空気が少し変わった。


 アルトはペンを握る。


 朝から何度も鐘や音の話が出ている。


 左手首は少し熱い。


 だが、声はない。


 ロウ教師は教室を見渡し、静かに言った。


「音は、線を越える」


 その一言で、教室がさらに静かになった。


「門には扉がある。箱には蓋がある。紙には封がある。だが、音は、閉じた扉の向こうへも届く。見たくない者の耳にも届く。呼ばれたくない者の名を、呼んでしまうこともある」


 アルトの左手首が熱を持つ。


 痛みはない。


 声もない。


 リゼが横目で確認する。


 アルトは小さく頷いた。


「祝祭には音が必要だ。歌、楽器、歓声、鐘。音は人を集める。始まりを知らせる。終わりを知らせる。離れた者へ合図を送る。音がなければ、祭りは形を失うことがある」


 カイが真剣に聞いている。


 ミリアもノートを取っている。


「だが、音を鳴らすなら、その音が誰に届くかを考えなければならない。これは以前にも言った」


 アルトは、学園祭準備の最初の日を思い出した。


 祝祭と境界。


 門を開くなら、閉じる方法を知っていなければならない。


 音を鳴らすなら、その音が誰に届くかも考えなければならない。


 ロウ教師は続ける。


「音を恐れて全てを黙らせることは、祭りを殺す。だが、誰に届くかを考えず鳴らすことは、誰かを傷つける。必要なのは、音を選ぶことだ。どこで鳴らすか。いつ鳴らすか。どの程度の強さで鳴らすか。聞く準備を誰が持つか」


 音を選ぶこと。


 アルトはノートに書いた。


 怖い言葉を全部消さない。


 怖い場所を全部避けない。


 怖い紙を使わないと決める。


 では、怖い音はどうするのか。


 全部消せるわけではない。


 でも、選べるかもしれない。


 ロウ教師の声が少し低くなる。


「そして、警告の声と命令の声を混同するな」


 アルトはペンを止めた。


 夢の声。


 鐘を鳴らさないで。


 友達を、扉に近づけてはいけない。


 来てはいけない。


 あれは命令なのか。


 警告なのか。


 まだわからない。


 でも、最近のロウ教師やクラウスの言葉では、警告として扱うべきだと言われてきた。


 ロウ教師は言う。


「警告は、判断材料だ。命令ではない。危険を知らせる声を聞いた時、ただ従うだけでは足りない。何が危険なのか。誰に危険なのか。どの条件で危険になるのか。それを確かめなさい」


 アルトは息を吸った。


 鐘を鳴らさないで。


 その声を聞いた時、怖くなる。


 鳴らしてはいけない。


 そう思う。


 だが、すべての鐘を止めるべきなのか。


 朝鐘も、夕鐘も、学園祭の合図も、楽団のベルも。


 違う気がする。


 危険な音があるのかもしれない。


 危険な鳴らし方があるのかもしれない。


 危険な場所と組み合わせがあるのかもしれない。


 それを確かめる必要がある。


 ロウ教師は最後に言った。


「鳴らすな、という声を聞いたなら、ただ耳を塞ぐな。何を、いつ、誰が、なぜ鳴らしてはならないのかを問え。問うことが、戻るための道になる」


 昼前、学園長からの方針説明が行われた。


 関係班の生徒たちは講堂に集められた。


 アルトたち四人も、出店班代表として後方の席に座っている。


 学園長は舞台に立ち、静かに話し始めた。


「昨日、物資管理の再確認中に記録にない封および危険性のある紙片が確認されました。詳細は安全上の理由により伏せますが、学園祭準備に関わる物資管理上の重大な問題として扱います」


 講堂がざわめく。


 アルトの左手首が少し熱くなる。


 リゼが視線で確認する。


 アルトは小さく頷いた。


 学園長は続けた。


「現時点で、学園祭を直ちに中止する判断はしません」


 カイが小さく息を吐いた。


 アルトも胸の奥が少し緩む。


 だが、学園長の声は厳しいままだ。


「ただし、準備は一部制限付きで継続します。物資管理、装飾品管理、音響物品管理、来場者導線、警備補助について、すべて再確認を行います。旧倉庫および旧倉庫横仮置き場は閉鎖。代替保管場所を設置します」


 音響物品管理。


 アルトの左手首がまた少し熱を持つ。


「痛みなし。熱、中より少し弱い。声なし」


 ミリアが小声で尋ねる。


「現在地は」


「講堂。昼前。学園長の方針説明を聞いています。学園祭は直ちに中止ではなく、一部制限付きで継続です」


「感情は」


「少し安心しました。でも、音響物品管理が気になっています」


「良好です」


 学園長は、最後に生徒たちへ向けて言った。


「不安を感じる者もいるでしょう。準備から外れることを希望する者は、遠慮なく申し出なさい。参加を続ける者は、独断で動かず、記録と報告を徹底すること。学園祭は、恐怖を無視して行うものではありません。恐怖を管理し、それでも開けると決めた門を、責任をもって開く行事です」


 恐怖を管理し、それでも開けると決めた門。


 アルトはその言葉を胸の中で繰り返した。


 説明の後、リーナ準備委員長から各班ごとの追加確認が伝えられた。


 飲食出店班は、包装材再配布、成分表示再確認、物資箱管理。


 装飾班は、旧倉庫由来の装飾品使用停止。


 物資管理班は、鍵付き保管と複数人確認。


 警備補助班は、旧倉庫周辺立入禁止強化。


 そして、舞台・楽団・音響班は、曲目と音響物品の一覧提出。


 その中に、ひとつの言葉があった。


 白い鐘の祝祭歌。


 アルトの左手首が強く熱を持った。


 痛みが少し走る。


 耳の奥が一瞬、遠くなる。


 だが、声はない。


「痛み、少し。熱、強。声なし」


 リゼが即座に姿勢を変える。


「現在地は」


「講堂。昼前。リゼさん、ミリアさん、カイといます。音響班の曲目に、白い鐘の祝祭歌という名前がありました」


 ミリアが息を呑む。


 カイが低く言う。


「白い鐘」


「感情は」


 ミリアがすぐに聞く。


 アルトは左手首を押さえた。


「怖いです。白鐘を思い出しました。夢の言葉も思い出しました。鐘を鳴らさないで。でも、声は聞こえていません」


 リゼが言う。


「休憩します」


「はい」


 四人は講堂の外へ出た。


 廊下の空気は少し冷たかった。


 アルトは壁際で深く息を吸う。


 白い鐘の祝祭歌。


 曲目。


 歌。


 学園祭で演奏されるのか。


 白い鐘。


 祝祭。


 歌。


 夢の声が、記憶の奥から上がってくる。


 鳴らさないで。


 鐘を鳴らさないで。


 アルトは自分の胸に手を当てる。


「痛み、少し。熱、強から中へ下がっています。声なし。現在地は講堂前の廊下。リゼさん、ミリアさん、カイといます」


 リゼが頷く。


「良好です」


 カイが拳を握る。


「その歌、止めればいいんじゃないか」


 ミリアがすぐに言った。


「気持ちはわかるわ。でも、まず確認しましょう」


「白い鐘だぞ」


「ええ。だからこそ、何が危険なのか確認しないといけない」


 カイは悔しそうに唇を噛んだ。


「ロウ先生が言ってたやつか」


「はい」


 アルトは小さく答えた。


「警告は命令ではない。何が危険なのか確かめる」


 リゼが静かに言う。


「曲名、歌詞、旋律、使用楽器、演奏場所、演奏時間、鐘型楽器の有無、音量、アルトさんの位置。確認項目があります」


「多いな」


 カイが言う。


「はい」


「でも、確認すれば止める理由も作れるかもしれない」


 ミリアが頷いた。


「そうね。全部止めるのではなく、危険な部分を変えられるかもしれない」


 アルトは左手首に触れた。


「僕は、全部止めてほしいとはまだ言えません」


 三人がこちらを見る。


 アルトは少し震える声で続けた。


「怖いです。でも、白い鐘の祝祭歌がどういう曲なのか、まだ知りません。名前だけで止めたら、また怖いものを全部避けることになります」


「無理に聞く必要はありません」


 リゼが即座に言った。


「はい。でも、手順があるなら、少しだけ確認したいです。無理なら止めます」


 ミリアが優しく頷く。


「それでいいと思うわ」


 カイは不満そうだったが、しばらくして頷いた。


「じゃあ、確認だ。でも、無理ならすぐ止める」


「はい」


 その時、ユリウスが廊下へ出てきた。


 四人の様子を見ると、すぐに状況を察したらしい。


「曲目に反応した?」


「はい」


 リゼが答える。


「白い鐘の祝祭歌という曲名に、アルトさんの銀環反応。痛み少、熱強、声なし。現在は熱中へ低下」


 ユリウスの表情が硬くなる。


「音響班へ確認する。曲目は旧北部の祝祭歌として申請されている。今のところ、学園祭の昼の楽団演奏候補だ」


「旧北部」


 アルトの左手首がまた少し熱くなる。


「痛みなし。熱、中。声なし」


 ミリアがすぐに言う。


「現在地は」


「講堂前の廊下。ユリウス先輩が来ています。白い鐘の祝祭歌が旧北部の祝祭歌として申請されていると聞きました」


「感情は」


「怖い。でも、聞けています」


 ユリウスは慎重に言った。


「この曲は、すでに楽団が練習を始めている可能性がある。今日の放課後、音楽室で音響班の確認会がある。君たちが参加するかは、本人意思と負荷を見て決めよう」


 アルトはすぐには答えられなかった。


 音楽室。


 練習。


 曲を聞く。


 白い鐘の祝祭歌。


 怖い。


 だが、知らないまま当日を迎えるのはもっと怖い。


「音そのものを聞く前に、まず歌詞と楽器を確認したいです」


 アルトは言った。


「音を聞くかどうかは、その後で決めたいです」


 ユリウスは頷いた。


「妥当だ。音響班にその順で確認するよう伝える」


 リゼが記録する。


 白い鐘の祝祭歌:曲名反応あり。音確認前に歌詞、由来、楽器、演奏場所、音量、鐘型楽器有無を確認。本人意思確認必須。


 昼休み、四人は中庭のベンチへ戻った。


 カイは焼き菓子の包みを出した。


「方針説明後用。あと、変な歌確認前用」


 ミリアが少し笑った。


「今日は二つの用途ね」


「必要だろ」


「必要です」


 リゼが頷く。


 アルトは焼き菓子を受け取った。


 手の中の甘い重み。


 これがあると、少し呼吸がしやすい。


 カイが言う。


「白い鐘って名前、もう嫌だな」


「はい」


 アルトは正直に頷いた。


「嫌です」


「じゃあ止めたい」


「でも、確認します」


「わかってる」


 カイは焼き菓子を食べながら、悔しそうに言う。


「確認してから、止めるか変えるか決める」


 ミリアが言う。


「もしかしたら、曲名だけ変えれば済むかもしれない。歌詞の一部を変える必要があるかもしれない。楽器を変えれば大丈夫かもしれない。演奏場所や時間をずらせばいいかもしれない」


 リゼが補足する。


「または、アルトさんの退避手順を作ることで対応可能な可能性もあります」


「全部確認だな」


 カイが言う。


「はい」


 アルトは左手首に触れた。


 熱は中から少し下がっている。


「僕は、もし無理なら中止と言います」


 リゼが頷く。


「はい。中止権を保持してください」


 放課後、音響班の確認会は第一音楽室で行われた。


 ただし、アルトたちは最初から音を聞くことはしなかった。


 音楽室の隣にある小さな準備室で、まずユリウスとエレオノーラ、音響班代表、楽団担当教師、リーナと一緒に資料を見ることになった。


 アルトは部屋に入る前に確認する。


「痛みなし。熱、中より少し弱い。声なし。現在地は第一音楽室隣の準備室前。リゼさん、ミリアさん、カイ、ユリウス先輩といます。これから白い鐘の祝祭歌の資料を確認します」


 ミリアが尋ねる。


「感情は」


「怖い。でも、音はまだ聞きません。資料から見ます」


「良好です」


 準備室の机の上に、曲目表と歌詞の写し、使用楽器一覧が置かれていた。


 白い鐘の祝祭歌。


 そのタイトルを見るだけで、左手首が熱くなる。


「痛みなし。熱、中。声なし」


 リゼが記録する。


 音響班代表の上級生は、少し緊張した顔をしていた。


「この曲は、古い北部の祝祭歌として、去年の資料集に載っていたものです。学園祭の祝祭感に合うと思って選びました。危険な意図はありません」


 ミリアが穏やかに頷く。


「わかっています。今は責める場ではなく、確認の場です」


 上級生は少しほっとしたように頷いた。


 楽団担当教師が説明する。


「曲自体は穏やかな旋律です。鐘を模した小型のベルを一部で使う予定でしたが、必要なら外せます」


 小型のベル。


 アルトの左手首が熱くなる。


「痛みなし。熱、中から強。声なし」


 リゼがすぐに言う。


「ベル使用は確認対象。現時点で演奏しないでください」


「もちろんです」


 楽団担当教師はすぐに頷いた。


 エレオノーラが記録する。


 小型ベル使用予定。現時点で停止。


 次に歌詞を確認することになった。


 ミリアがアルトを見る。


「読み上げる前に、こちらで目を通すわ」


「お願いします」


 ミリアは歌詞の写しを受け取り、リゼと一緒に目を通した。


 カイも横から見ようとして、途中で止まった。


「俺が見てもわかんねえかもしれない」


「でも、見たいなら見てもいいわ」


 ミリアが言う。


「いや、先にミリアが見てくれ」


 ミリアは頷き、歌詞を静かに読む。


 最初の方は、祝祭の朝、門を開くこと、白い鐘が遠くの村へ春を告げることを歌っているらしい。


 アルトは内容を聞くだけで少し熱くなるが、痛みはない。


 だが、ミリアの指が歌詞の中ほどで止まった。


 リゼの目もそこに向く。


「どうしましたか」


 アルトが尋ねる。


 ミリアは少し迷ってから言った。


「少し気になる一節があります」


「読んでください」


「無理なら止めるわ」


「はい」


 ミリアはゆっくり読んだ。


「孤独な鍵ほど、よく響く」


 左手首が強く熱を持った。


 痛みが走る。


 胸の奥で、何かが鳴りそうになる。


 だが、声はない。


 音もない。


 ただ、言葉が刺さった。


 孤独な鍵ほど、よく響く。


 鍵。


 孤独。


 響く。


 アルトは左手首を強く押さえた。


「痛み、少し。熱、強。声なし」


 リゼが即座に立つ。


「中止しますか」


 アルトは息を吸う。


 今は準備室。


 音は鳴っていない。


 歌詞を読んだだけ。


 ミリア、リゼ、カイ、ユリウスがいる。


 孤独ではない。


「現在地は、第一音楽室隣の準備室。放課後。リゼさん、ミリアさん、カイ、ユリウス先輩、エレオノーラ先輩たちといます。歌詞に、孤独な鍵ほど、よく響くという一節がありました」


 ミリアが静かに聞く。


「感情は」


「怖いです。僕のことを言われた気がしました。でも、今は一人ではありません」


 カイが低く言った。


「そんな歌詞、嫌だ」


 リゼも表情を硬くしている。


「アルトさんを鍵として扱う表現に近いです」


 ユリウスが歌詞を確認し、眉を寄せた。


「この一節は、削除または変更を提案する」


 楽団担当教師もすぐに頷いた。


「問題ありません。演奏前に歌詞変更できます」


 音響班代表は顔を青くしていた。


「そんな意味があるとは……」


 ミリアが穏やかだが、はっきりと言った。


「古い歌詞は、今の文脈で違う意味を持つことがあります。今わかったので、変えれば大丈夫です」


 アルトは少し息を吐いた。


 変えられる。


 止めるだけではなく、変えられる。


 だが、熱はまだ強い。


 リゼが言う。


「今日は音の確認は実施しません。歌詞確認のみで終了を提案します」


 アルトは頷いた。


「はい。今日は聞けません」


 ユリウスも頷く。


「そうしよう。音響班は、ベル使用停止、歌詞該当部分変更、曲名変更案も検討。明日以降、本人確認の上で再確認する」


 エレオノーラが記録する。


 白い鐘の祝祭歌。曲名反応あり。ベル使用予定あり、停止。歌詞「孤独な鍵ほど、よく響く」に強反応。歌詞変更提案。音確認は本日中止。


 アルトは準備室を出た。


 廊下に出ると、遠くから楽団の別の曲の練習音が聞こえてきた。


 明るい旋律。


 鐘ではない。


 白い鐘の祝祭歌ではない。


 それでも、アルトは少しだけ肩を揺らした。


 カイがすぐに言う。


「今のは別の曲だ」


「はい。別の曲」


「ベルじゃない」


「はい」


「今は廊下」


「はい。第一音楽室の廊下です」


 リゼが頷く。


「良好です」


 中庭へ戻る頃には、夕方の光が薄くなっていた。


 アルトは少し疲れていた。


 左手首の熱は中まで下がっている。


 痛みはもうない。


 カイはかなり不機嫌そうだった。


「孤独な鍵ほど、よく響くって何だよ」


 中庭のベンチに座るなり、彼は言った。


「嫌な歌詞だ」


 ミリアも表情を曇らせている。


「ええ。今の状況では、とてもよくないわ」


 リゼが静かに言う。


「アルトさんを機能として扱う表現です」


「僕も嫌でした」


 アルトは左手首に触れながら言った。


「鍵って言われるのが嫌でした。孤独なほど響く、というのも嫌でした」


 カイが即座に言う。


「孤独じゃねえしな」


 その言葉は早かった。


 強かった。


 アルトは顔を上げる。


 カイは真剣な顔で続けた。


「少なくとも、今は違うだろ。俺たちいるし」


 ミリアが頷く。


「ええ。孤独にしないために、ここにいるの」


 リゼも静かに言った。


「あなたは鍵だけではありません」


 アルトの胸が詰まった。


 左手首が淡く光る。


 熱は少し変わった。


 怖い熱ではなく、温かい熱。


「痛みなし。熱、中から少し下がっています。声なし」


 ミリアが優しく聞く。


「現在地は」


「学園中庭。夕方。いつものベンチ。リゼさん、ミリアさん、カイといます。白い鐘の祝祭歌の歌詞を確認した後です」


「感情は」


「怖かったです。嫌でした。でも、今は少し安心しています。孤独じゃないと言ってもらえたから」


 カイは焼き菓子の包みを出した。


「変な歌詞確認後用」


 ミリアが苦笑する。


「本当にその名前でいいの?」


「今日はこれだろ」


「そうね」


 リゼが真面目に頷いた。


「必要な用途です」


 アルトは焼き菓子を受け取った。


 甘い匂いがする。


 音も、言葉も、まだ胸の中に残っている。


 白い鐘の祝祭歌。


 孤独な鍵ほど、よく響く。


 だが、今は中庭。


 四人でいる。


 焼き菓子を持っている。


 孤独ではない。


 夜。


 男子寮の自室で、アルトは机に向かった。


 左手首はまだ少し熱い。


 痛みはない。


 声もない。


 机の上には、今日の音響確認のメモがある。


 白い鐘の祝祭歌。


 小型ベル使用予定、停止。


 歌詞「孤独な鍵ほど、よく響く」。


 音確認、本日中止。


 歌詞変更提案。


 アルトは紙片を広げた。


 今日は、鳴らしてはいけない鐘について考えた。


 朝鐘はいつも通り鳴った。


 朝鐘は怖くなかった。


 現在地を確認できる音だった。


 でも、学園祭の音響物品も確認対象になった。


 昨日の二重封の木箱や、黒い札に似た紙片があったから、物だけでなく音も確認することになった。


 午前の授業で、ロウ先生は音と届く距離の話をした。


 音は線を越える。


 扉の向こうにも届く。


 見たくない人の耳にも届く。


 呼ばれたくない人の名を、呼んでしまうこともある。


 でも、祝祭には音が必要。


 全部黙らせると祭りが死ぬ。


 だから、音を選ぶ。


 どこで鳴らすか。


 いつ鳴らすか。


 どの強さで鳴らすか。


 誰が準備を持つか。


 警告の声と命令の声を混同するなとも言われた。


 夢の中の、鐘を鳴らさないで、という声は、命令ではなく警告として扱う。


 何を、いつ、誰が、なぜ鳴らしてはいけないのかを問う。


 昼前、学園長の方針説明があった。


 学園祭は、すぐには中止にならなかった。


 でも、一部制限付きで準備を続けることになった。


 物資管理、装飾品管理、音響物品管理、来場者導線、警備補助を再確認する。


 恐怖を無視して行うのではなく、恐怖を管理し、それでも開けると決めた門を責任をもって開くと言った。


 その後、音響班の曲目に、白い鐘の祝祭歌という曲があると知った。


 その名前だけで左手首が強く熱くなった。


 痛みも少しあった。


 夢の言葉を思い出した。


 鐘を鳴らさないで。


 でも、今日はすぐに音を聞かず、まず歌詞と楽器を確認することにした。


 放課後、第一音楽室の隣の準備室で確認した。


 白い鐘の祝祭歌は、古い北部の祝祭歌として選ばれた曲だった。


 小型ベルを使う予定だった。


 ベルは一度停止になった。


 歌詞の中に、孤独な鍵ほど、よく響くという一節があった。


 それを聞いた時、左手首が強く熱くなった。


 痛みも少しあった。


 僕のことを言われた気がした。


 鍵として扱われるのが嫌だった。


 孤独なほど響くと言われるのも嫌だった。


 でも、声はなかった。


 音も鳴っていなかった。


 リゼさん、ミリアさん、カイ、ユリウス先輩たちがいた。


 僕は一人ではなかった。


 今日は音を聞くのは中止した。


 歌詞は変更されることになった。


 曲名変更も検討される。


 中庭に戻ってから、カイは孤独じゃねえしなと言った。


 ミリアさんは、孤独にしないためにここにいると言った。


 リゼさんは、あなたは鍵だけではありませんと言った。


 それを聞いて、少し安心した。


 僕は、鍵だけではない。


 響くために孤独にされるものではない。


 もし誰かが僕を響かせたいなら、孤独にしようとするのかもしれない。


 でも、今は戻る場所がある。


 小さな灯の焼き菓子店がある。


 リゼさん、ミリアさん、カイがいる。


 アルトはペンを止めた。


 左手首の布の上に手を置く。


 夢の声は、まだ怖い。


 鐘を鳴らさないで。


 その言葉は、ただの幻ではない気がする。


 でも、何を鳴らしてはいけないのかは、まだわからない。


 すべての鐘ではない。


 朝鐘は怖くない。


 では、白い鐘の祝祭歌なのか。


 小型ベルなのか。


 孤独な鍵という歌詞なのか。


 それとも、白鐘に似せた紙や黒い札に近いものと音が重なった時なのか。


 わからない。


 だから、確認する。


 無理なら止める。


 音を聞く時は、手順を作る。


 アルトは最後に一行を書いた。


 鳴らしてはいけない鐘があるとしても、僕は一人でその音を待つのではなく、何が危険なのかをみんなと確認して、無理なら止めると言える。


 紙片を折り、引き出しへしまう。


 左手首を胸の上に置いた。


 熱は少し。


 痛みはない。


 声もない。


「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。今日は白い鐘の祝祭歌の名前と歌詞を見た。怖かった。でも、僕は孤独な鍵だけではない」


 銀環は淡く光った。


 その光は、遠くの鐘にただ応えて響くものではなく、鳴らしてはいけない音の前で立ち止まり、誰の声を聞き、誰と戻るかを確かめるための小さな灯のように、手首の奥で静かに揺れていた。


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