第5章 第8話:地図の鐘印
翌朝、アルト・レインフォードは地図を見ていた。
昨日の合同導線確認で配られた学園祭用の簡易地図だ。
正門。
中庭。
搬入口。
舞台裏。
鐘楼。
旧倉庫。
緊急退避経路。
何度も見たせいで、紙の端が少し柔らかくなっている。
アルトは机の上で地図を広げ、自分で書き込んだ印を確認した。
正門には「受付」。
中庭には「戻れる場所」。
搬入口には「物資注意」。
舞台裏には「音」。
鐘楼には「近づきすぎない」。
旧倉庫には「未確認、入らない」。
そして、中庭の端に小さく「小さな灯の焼き菓子店、第一希望」。
その文字を見ると、左手首が淡く温かくなった。
痛みはない。
声もない。
怖くもない。
地図の中に自分たちの店の場所がある。
まだ第一希望に過ぎないし、正式に決まったわけでもない。
それでも、そこに文字があることは、アルトにとって大きかった。
怖い場所だけでなく、戻れる場所も地図に書ける。
昨日、そう思った。
アルトは左手首に触れた。
「痛みなし。熱、少し。声なし。現在地は、男子寮の自室。朝。僕はアルト。今日は、昨日の地図を確認している」
熱は穏やかだった。
その時、扉が軽く叩かれた。
「アルト、起きてるか」
カイ・ロックハートの声だった。
「起きてるよ」
扉を開けると、カイが立っていた。
手には昨日の合同確認の資料と、少し潰れかけた焼き菓子の包みがある。
「朝から?」
アルトが尋ねると、カイは真剣な顔で言った。
「昨日の搬入口のこと考えてたら、目が覚めた」
「焼き菓子の材料?」
「それもある」
カイは部屋の中へ視線を向け、机の地図に気づいた。
「お前も地図見てたのか」
「うん。怖い場所と戻れる場所を確認してた」
「俺は物資の道を見てた」
カイは地図を覗き込む。
「材料が裏門から入って、搬入口で確認されて、中庭まで運ばれる。途中で混ざったら嫌だから、専用箱と小さな灯の札を作る」
「うん」
「あと、旧倉庫は使わない。外部搬入物と分ける」
「昨日決まったね」
「でもさ」
カイは眉を寄せた。
「旧倉庫って、何が入ってるんだろうな」
アルトの左手首が少し熱くなった。
旧倉庫。
昨日、扉の前に立った時、深い熱があった。
痛みはなかった。
声もなかった。
でも、何かを思い出しそうな感覚があった。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
アルトが言うと、カイはすぐに口を閉じた。
「悪い。急だったか」
「大丈夫。今は少しだけ」
「触らない。勝手に行かない。これは覚えてる」
「うん」
カイは少し安心したように息を吐いた。
「でも、何があるかわからないのは嫌だな」
「うん」
「だから、先生たちと確認できるならした方がいいんじゃねえかと思った」
アルトは地図を見る。
旧倉庫。
未確認、入らない。
その文字は正しい。
でも、未確認のままだと、当日もっと怖くなるかもしれない。
触れない。
鳴らさない。
勝手に入らない。
でも、先生たちと記録するなら。
「リゼさんたちに相談しよう」
「おう」
カイは頷き、それから焼き菓子の包みを机に置いた。
「地図確認用」
「朝から用途があるんだね」
「地図見ると腹減る」
「それはカイだけかも」
「そうか?」
カイは本気で不思議そうだった。
朝の中庭に着くと、リゼ・グレイスとミリア・ファルネーゼはすでにベンチにいた。
ミリアは学園祭の装飾案を見ている。
リゼは昨日の導線確認の記録を読み直していた。
アルトとカイが近づくと、リゼがすぐに顔を上げる。
「おはようございます」
「おはようございます」
「おはよう」
ミリアも微笑む。
「おはようございます。二人とも、今日は少し早いわね」
カイが地図を出した。
「旧倉庫のことで相談がある」
リゼの目がわずかに鋭くなる。
「単独確認は不可です」
「わかってる。行こうって話じゃねえ。先生たちと確認できないかって話だ」
リゼは少しだけ目を伏せた。
「良好です。突撃ではなく相談です」
「だろ」
カイは少し胸を張った。
アルトは地図を広げる。
「昨日、旧倉庫の前で少し熱くなりました。痛みも声もなかったけど、何があるかわからないのは少し怖いです。でも、勝手に入るのは嫌です。触らず、鳴らさず、記録だけできるなら、確認したいです」
リゼがすぐに確認する。
「現在の状態は」
「痛みなし。熱、少し。声なし。現在地は学園中庭。朝。リゼさん、ミリアさん、カイと地図を見ています。感情は、少し怖い。でも、相談できています」
「良好です」
ミリアが地図を覗き込む。
「昨日は旧倉庫の外だけ見たのよね」
「はい」
リゼが答える。
「内部には古い装飾品、備品、祭具、舞台道具があるとの説明でした」
「祭具」
ミリアの声が少し低くなる。
アルトの左手首が少し温かくなった。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
今度は自分で言えた。
ミリアは頷く。
「旧倉庫の中に、鐘や白鐘に似た装飾がある可能性はあるわね」
カイが顔をしかめる。
「それが当日に急に出てきたら嫌だ」
「ええ」
ミリアは静かに頷いた。
「事前確認は必要だと思う。ただし、先生と生徒会、物資管理班の立ち会いが必須ね」
リゼが記録帳に書く。
旧倉庫内部確認希望。
目的:当日使用予定備品、音響・鐘形装飾、白鐘関連意匠の有無確認。
条件:教師立会い、生徒会記録、接触禁止、鳴動禁止、短時間、本人中止権あり。
「ロウ先生とユリウス先輩へ相談します」
リゼが言う。
アルトは頷いた。
「お願いします」
その時、エレオノーラ・ヴィンスフェルトが掲示板の方から歩いてきた。
手には記録板を持っている。
彼女は四人に気づくと、少し足を止めた。
「ちょうどよかったです。昨日の合同導線確認の記録写しを確認してもらえますか」
リゼがすぐに受け取る。
「ありがとうございます」
エレオノーラの記録は、相変わらず整っていた。
正門受付台位置調整。
中庭休憩所確認。
搬入口物資番号管理。
舞台裏音響物品一覧作成。
鐘楼裏細道柵追加。
旧倉庫外部搬入物分離。
アルトはその文字を目で追った。
そして、旧倉庫の行の横で視線が止まった。
そこに、小さな印があった。
手書きのような、鐘の形。
ほんの小さな印。
エレオノーラの整った文字とは明らかに違う。
アルトは息を止めた。
左手首が熱を持つ。
強くはない。
でも、鋭い。
「痛みなし。熱、中。声なし」
リゼがすぐに反応する。
「原因は」
「ここ」
アルトは指を近づけたが、紙には触れなかった。
鐘の印。
「この印、昨日ありましたか?」
エレオノーラが眉をわずかに動かした。
「確認します」
彼女は記録板を見直し、持っていた原本と照合した。
しばらくして、声が硬くなる。
「私の記録ではありません」
空気が変わった。
カイが低く言う。
「誰かが書いたのか」
「可能性があります」
エレオノーラは紙を持つ手を慎重に動かした。
「この写しは、今朝、準備委員会の机から回収したものです。昨日の夜から今朝まで、数名の準備委員が触れる可能性がありました」
ミリアが静かに尋ねる。
「公式記号ではないのね」
「はい。少なくとも、警備記号、物資記号、出店記号のどれにも該当しません」
リゼの目が鋭くなる。
「旧倉庫の行に、鐘の印」
アルトの左手首がさらに少し熱くなる。
「痛みなし。熱、中。声なし。現在地は学園中庭。朝。記録写しの旧倉庫の行に、公式ではない鐘の印を見つけました」
ミリアがすぐに続ける。
「感情は」
「怖いです。でも、まだ声はありません。紙には触っていません」
「良好です」
カイが拳を握った。
「誰がこんなこと」
「推測は後です」
リゼが言った。
「まず共有と保全」
その言葉に、カイは唇を噛み、頷いた。
「わかった。突撃しない」
エレオノーラは記録写しを透明な保護紙に入れた。
「このままロウ先生、ユリウス先輩、クラウス卿へ共有します。触れた可能性のある者の確認も行います」
リゼが頷く。
「私たちも同行を希望します。ただし、アルトさんの負荷を考慮し、段階的に」
エレオノーラはアルトを見る。
「本人意思は」
アルトは左手首に触れた。
熱は中。
痛みなし。
声なし。
怖い。
でも、今、見つけた。
自分だけが見たわけではない。
リゼも、ミリアも、カイも、エレオノーラもいる。
「共有に同行したいです。ただ、旧倉庫にすぐ入るのは、先生たちが判断してからにしたいです」
「記録しました」
エレオノーラは頷いた。
授業前、四人とエレオノーラはロウ教師の元へ向かった。
ロウ教師は紙を見た瞬間、表情を変えなかった。
だが、目だけが鋭くなった。
「誰が書いた」
エレオノーラが答える。
「不明です。私の記録ではありません。公式記号でもありません」
ロウ教師は鐘の印を見つめた。
「旧倉庫の行か」
「はい」
リゼが言う。
「本日、旧倉庫内部の教師立会い確認を相談しようとしていたところ、当該印を発見しました」
「偶然にしては、嫌な重なりだな」
カイが小さく頷く。
「俺もそう思います」
ロウ教師はアルトを見る。
「状態は」
「痛みなし。熱、中より少し低い。声なし。現在地は第一教室。朝。ロウ先生、リゼさん、ミリアさん、カイ、エレオノーラ先輩といます。鐘の印について相談しています」
「感情は」
「怖いです。でも、声はありません。紙には触っていません」
「良好だ」
ロウ教師は紙をエレオノーラへ戻した。
「ユリウスとクラウスにも共有する。旧倉庫は教師立会いで確認する。ただし、アルト君が入る必要はない」
アルトは少し迷った。
怖い。
でも、見ないままも怖い。
「入口から見える範囲だけ確認したいです。無理なら離れます」
ロウ教師はしばらくアルトを見た。
「理由は」
「当日、何があるかわからないまま音や鐘の形を見る方が怖いからです。触らず、鳴らさず、記録して離れるなら、今見ておきたいです」
ロウ教師は頷いた。
「わかった。条件を決める」
リゼがすぐに記録する。
旧倉庫確認条件。
一、教師、生徒会、クラウス立会い。
二、アルトは入口から見える範囲のみ。
三、接触禁止。
四、鐘形装飾、祭具、紙製品に触れない。
五、鳴らさない。
六、痛み強、声あり、現在地不明瞭、本人中止希望で即撤退。
七、リゼは単独確認をしない。
八、カイは物品に触れない。
カイが少し眉を寄せる。
「俺だけ名指し」
「必要です」
リゼが即答した。
「わかってる」
ロウ教師は短く言った。
「昼休みに確認する。授業中は考えすぎるな、と言っても無理だろうが、現在地を保て」
「はい」
午前の授業は、いつもより長く感じた。
黒板の文字を追っていても、頭の片隅に小さな鐘の印が残っている。
公式記号ではない。
誰かが書き足した。
旧倉庫の行に。
なぜ。
見せたいのか。
誘っているのか。
反応を測っているのか。
白鐘。
鐘。
祭具。
旧倉庫。
左手首が何度か熱を持った。
そのたびに、アルトは小さく確認した。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
現在地は教室。
午前の授業中。
リゼさんが隣にいる。
ミリアさんとカイもいる。
今日の昼、旧倉庫を入口から確認する。
今は授業。
今はここ。
リゼも何度か視線で確認してくれた。
カイはいつもより静かだった。
ミリアは休み時間に、アルトの机にそっと小さな紙を置いた。
そこには、きれいな字でこう書いてあった。
触れず、鳴らさず、記録して離れる。
アルトはそれを見て、胸の奥が少し落ち着いた。
昼休み。
旧倉庫前には、ロウ教師、ユリウス、エレオノーラ、クラウス、物資管理班の上級生が集まっていた。
そして、アルトたち四人。
旧倉庫は昨日と同じように、校舎裏の静かな場所に立っている。
鉄の鍵がついた重い扉。
高い位置の小さな窓。
周囲の空気は少し冷たい。
アルトの左手首が熱を持つ。
中。
痛みはない。
声もない。
「痛みなし。熱、中。声なし。現在地は旧倉庫前。昼。ロウ先生、ユリウス先輩、エレオノーラ先輩、クラウス卿、リゼさん、ミリアさん、カイといます」
ミリアが続ける。
「感情は」
「怖いです。でも、条件があります。入口から見るだけです」
リゼが言う。
「中止条件を確認します」
アルトは頷いた。
「痛み強、声あり、現在地が言えない、僕が中止したいと言った場合」
「良好です」
クラウスは旧倉庫の扉を見ていた。
表情が硬い。
「この倉庫には、古い祭具もあるのか」
物資管理班の上級生が答える。
「はい。以前の学園祭で使った鐘飾りや、礼拝堂風の舞台装飾、古い紙飾りなどが保管されているはずです」
礼拝堂風。
アルトの左手首が少し熱を増す。
「痛みなし。熱、中から強。声なし」
リゼがすぐに言う。
「接近はここまででも可能です」
アルトは息を吸った。
「まだ見られます。でも、短くしたいです」
ロウ教師が頷く。
「短時間で終える」
ユリウスが鍵を開ける。
金属音が、昼の静けさに少し大きく響いた。
アルトの肩がわずかに跳ねる。
カイが横で低く言った。
「今のは鍵の音だ。鐘じゃない」
アルトは頷いた。
「はい。鍵の音」
扉が開く。
古い木と紙の匂いが流れてきた。
少し湿った空気。
埃の匂い。
しまい込まれた布の匂い。
中は薄暗かった。
ロウ教師が先に立ち、魔術灯を一つ灯す。
柔らかい光が、倉庫の中を照らした。
棚。
木箱。
古い椅子。
巻かれた布。
舞台背景の板。
紙飾りの束。
そして、奥の棚に白いものが見えた。
鐘の形をした飾り。
アルトの左手首が強く熱を持つ。
痛みは少し。
声はない。
「痛み、少し。熱、強。声なし」
リゼがすぐにアルトの前に半歩出る。
「中止しますか」
アルトは息を吸う。
白い鐘。
でも、鳴っていない。
飾り。
触れていない。
入口にいる。
「まだ、見えます。短く」
「了解しました」
ミリアが記録する。
白い鐘形装飾、目視で熱強、痛み少、声なし。
クラウスが奥を見て、表情を硬くする。
「白鐘そのものではない。学園祭用の模造飾りだろう。ただ、意匠が近い」
「白鐘蔦に近い模様はありますか」
リゼが尋ねる。
クラウスは少し目を細めた。
「近づかずには断定できない。だが、蔦模様らしきものは見える」
アルトの胸が少し重くなる。
白い鐘の飾り。
蔦模様。
夢の言葉。
鐘を鳴らさないで。
アルトは耳を澄ませた。
声はない。
音もない。
ただ、自分の鼓動が少し速い。
「声なし。音なし。現在地は旧倉庫入口。昼。見ているだけ」
自分で言った。
ロウ教師が頷く。
「良好だ。十分見た。離れる」
その時、カイが小さく言った。
「待って」
全員がカイを見る。
リゼの目が鋭くなる。
「触らないでください」
「触らねえよ」
カイは真剣な顔で、倉庫の床を指差した。
「床に紙が落ちてる。あれ、何か裏に模様ある」
入口から少し入った場所に、古い紙飾りの切れ端のようなものが落ちていた。
魔術灯の光を受けて、紙の端に薄い模様が見える。
蔦のような線。
その中央に、小さな白い鐘の形。
アルトの左手首が、じわりと熱くなる。
強い。
でも、痛みは少し。
声はない。
「痛み、少し。熱、強。声なし」
リゼが即座に判断する。
「アルトさんは後退してください」
アルトは頷いた。
ミリアが肩に触れない距離で寄り添う。
「一歩下がりましょう」
「はい」
一歩。
外の光に近づく。
熱は少しだけ下がる。
ロウ教師が紙片を直接触らず、保護用の薄い板で覆った。
「触るな。記録する」
エレオノーラが位置と状態を記録する。
クラウスは低い声で言った。
「白鐘紙工房の透かしに似ている」
アルトの胸がひやりとする。
白鐘紙工房。
左手首が強く光る。
「痛み、少し増えました。熱、強。声なし」
リゼが言う。
「撤退を提案します」
今度は、アルトも頷いた。
「撤退します」
「了解しました」
短い言葉で、全員が動いた。
アルトはミリアとカイに挟まれるようにして倉庫から離れた。
リゼは最後まで入口側を見ていたが、ロウ教師の指示で扉から距離を取った。
ユリウスが扉を閉める。
鍵がかかる音。
今度はアルトの肩は跳ねなかった。
「鍵の音」
カイが小さく言う。
「はい。鍵の音」
アルトも答えた。
旧倉庫から少し離れた場所で、全員が状態を確認した。
ミリアが尋ねる。
「痛みは」
「少し。下がっています」
「熱は」
「中」
「声は」
「なし」
「現在地は」
「旧倉庫から少し離れた校舎裏。昼。リゼさん、ミリアさん、カイ、ロウ先生、ユリウス先輩、エレオノーラ先輩、クラウス卿といます」
「感情は」
「怖いです。白い鐘の飾りと、紙片が怖かった。でも、鳴らしていません。触っていません。記録して離れました」
リゼが静かに頷いた。
「良好です」
ロウ教師も言う。
「良好だ。今日はここまで」
カイが悔しそうに旧倉庫を見た。
「あの紙、何なんだよ」
「調べる」
クラウスが言った。
「ただし、君たちはこれ以上近づかない。紙片は保全し、学園長へ報告する。白鐘紙工房の透かしと一致するか、模倣かを確認する」
ミリアが静かに問う。
「誰かが、ここを見せたかったのでしょうか」
エレオノーラが記録板を見ながら言う。
「警備記録写しに鐘印。旧倉庫内に白い鐘飾りと透かし様の紙片。偶然と断定するには、関連が強すぎます」
リゼが低く言った。
「誘導の可能性があります」
アルトは左手首を押さえた。
誘導。
誰かが、地図に鐘の印を書いた。
旧倉庫を見せたかった。
白い鐘の飾りを見せたかった。
紙片を見せたかった。
アルトの反応を測るためか。
白鐘へ意識を向けるためか。
それとも、別の何かを知らせるためか。
わからない。
でも、一つだけ確かなことがある。
今日は鳴らさなかった。
触れなかった。
記録して離れた。
それは、できた。
昼休みの残り時間、四人は中庭へ戻った。
いつものベンチに座ると、アルトはようやく深く息を吐いた。
左手首の熱は少しずつ下がっている。
ミリアが小さな包みを取り出した。
「旧倉庫確認後用」
カイが少し驚いた。
「用意してたのか」
「必要になるかもしれないと思って」
「さすがだな」
「今日は少し甘めです」
ミリアは焼き菓子を配った。
アルトはそれを受け取り、しばらく見つめた。
白い鐘の飾り。
蔦模様の紙片。
白鐘紙工房に似た透かし。
それらが頭の中に残っている。
でも、手の中には焼き菓子がある。
中庭の噴水の音がする。
リゼが左側にいる。
ミリアが目の前にいる。
カイが隣で眉を寄せながらも座っている。
ここに戻ってきた。
「痛みなしに近い。熱、少し。声なし。現在地は学園中庭。昼。いつものベンチ。リゼさん、ミリアさん、カイといます。旧倉庫から戻りました」
リゼが尋ねる。
「感情は」
「怖かったです。でも、少し安心もしています。見えたから。あと、戻れたから」
ミリアが微笑む。
「良好ね」
カイが低く言った。
「俺、紙見つけてよかったのか悪かったのか、わかんねえ」
リゼが答える。
「発見は有効でした。接触しなかったことも良好です」
「でも、アルトの熱上がった」
「既に白い鐘飾りで上がっていました。紙片は重要情報です」
「そうか」
「はい」
カイは少しだけ息を吐いた。
「触らなくてよかった」
「非常に良好です」
リゼが言うと、カイは苦笑した。
「今日は素直に受け取る」
アルトは焼き菓子を一口食べた。
甘い。
少し強めの甘さが、まだ残っている怖さをゆっくり溶かす。
ミリアが言った。
「今日は、触れず、鳴らさず、記録して離れられたわ」
「はい」
アルトは頷いた。
リゼも静かに言う。
「中止判断も実施できました」
「はい」
「白鐘紙工房に似た透かしについては、学園側で確認します。あなたが今追う必要はありません」
「はい」
カイが言う。
「でも、隠されるわけじゃないんだよな」
ミリアが頷く。
「ええ。共有範囲を決めて、必要な情報はアルトさん本人にも伝える」
「ならいい」
アルトは左手首に触れた。
怖い情報だった。
でも、自分から全部奪われるわけではない。
見つけたことも、怖かったことも、戻れたことも、記録に残る。
それは大事だった。
午後の授業は、少しぼんやりした。
ロウ教師は無理に何かを問わなかった。
授業の最後にだけ、短く言った。
「記録して離れることは、逃げではない。触れない判断、鳴らさない判断、追わない判断も、時に最も重要な行動になる」
アルトはその言葉をノートに書いた。
触れない判断。
鳴らさない判断。
追わない判断。
それは今日、自分たちがしたことだった。
放課後、準備委員会から正式に共有があった。
旧倉庫の使用予定は一時停止。
内部物品の再点検。
鐘形装飾の使用保留。
紙片は保全。
警備記録写しの鐘印について調査。
出店班には、物資搬入時の専用札管理を強化するよう指示。
カイはその紙を見て、真剣に頷いた。
「小さな灯の札、絶対作る」
リゼが言う。
「偽造防止のため、複数人確認が必要です」
「複数人?」
「カイさんが札を作り、アルトさんが文字を書き、ミリアさんが飾りを付け、私が番号を記録します」
アルトは少し驚いた。
「みんなで作るんですね」
「はい。単独作成より安全です」
ミリアが微笑む。
「それに、私たちの店らしいわ」
カイは大きく頷いた。
「よし。小さな灯の札も作る」
夕方、中庭で、アルトはもう一度地図を開いた。
旧倉庫の横に、今日の情報を書き足す。
白い鐘飾り。
蔦模様の紙片。
触れない。
鳴らさない。
記録して離れる。
調査中。
その横に、リゼが小さく書き足した。
確認地点。単独接近不可。
カイがさらに書いた。
触るな。
ミリアが最後に、柔らかい字で書いた。
戻ったら中庭。
アルトはその三つの書き込みを見て、胸が少し温かくなった。
怖い場所の横に、三人の言葉がある。
それだけで、地図の中の旧倉庫は、少しだけ一人で見る場所ではなくなった。
夜。
男子寮の自室で、アルトは地図と紙片を広げた。
左手首はまだ少し重い。
だが、痛みはない。
声もない。
机の上には、今日見つけたことの記録がある。
警備記録写しにあった小さな鐘印。
旧倉庫の白い鐘飾り。
蔦模様の紙片。
白鐘紙工房に似た透かし。
アルトはペンを握った。
今日は、地図にないはずの鐘印を見つけた。
朝、昨日の合同導線確認の記録写しをエレオノーラ先輩が持ってきた。
旧倉庫の行の横に、小さな鐘の印があった。
エレオノーラ先輩の記録ではなく、公式記号でもなかった。
誰かが書き足した可能性がある。
その時、左手首は熱くなった。
痛みはなく、声もなかった。
ロウ先生、ユリウス先輩、クラウス卿に共有した。
昼休みに旧倉庫を確認することになった。
条件は、教師と生徒会とクラウス卿の立ち会い。
僕は入口から見るだけ。
触らない。
鐘形装飾や祭具、紙製品に触れない。
鳴らさない。
痛み強、声あり、現在地不明瞭、中止希望で撤退。
リゼさんは単独確認しない。
カイは物品に触れない。
旧倉庫の扉が開いた。
古い木と紙の匂いがした。
奥に白い鐘の形をした飾りがあった。
左手首は熱くなって、痛みが少し出た。
声はなかった。
夢の言葉を思い出した。
鐘を鳴らさないで。
でも、鳴っていなかった。
触っていなかった。
入口にいた。
カイが床の紙片を見つけた。
触らなかった。
紙片には蔦のような模様と、小さな白い鐘の形があった。
クラウス卿は、白鐘紙工房の透かしに似ていると言った。
そこで僕は撤退した。
怖かった。
でも、触れず、鳴らさず、記録して離れた。
中庭へ戻って、旧倉庫確認後用の焼き菓子を食べた。
ミリアさんが用意してくれていた。
リゼさんは、中止判断も実施できたと言った。
カイは、紙を見つけてよかったのか悪かったのかわからないと言った。
リゼさんは、発見は有効で、接触しなかったことも良好だと言った。
放課後、旧倉庫の使用予定は一時停止になった。
鐘形装飾も使用保留。
紙片は保全。
鐘印は調査。
小さな灯の物資札も、みんなで作ることになった。
地図の旧倉庫の横に書いた。
白い鐘飾り。
蔦模様の紙片。
触れない。
鳴らさない。
記録して離れる。
調査中。
リゼさんは、確認地点。単独接近不可と書いた。
カイは、触るなと書いた。
ミリアさんは、戻ったら中庭と書いた。
怖い場所の横に、三人の言葉が増えた。
アルトはペンを止めた。
白鐘紙工房。
その言葉を書くか、少し迷う。
左手首はすでに少し熱い。
でも、今日の記録には必要だ。
アルトはゆっくり書いた。
白鐘紙工房に似た透かし。
熱が少し強くなる。
痛みはない。
声もない。
現在地は、男子寮の自室。
夜。
机に向かっている。
これは記録。
今は一人だが、明日、必要な範囲で共有できる。
アルトは最後に一行を書いた。
誰かが鐘印で僕を誘ったのかもしれない。
でも今日は、誘われたまま進むのではなく、みんなで見て、触れず、鳴らさず、戻ってこられた。
紙片を折り、引き出しへしまう。
左手首を胸の上に置いた。
熱は少し。
痛みはない。
声もない。
「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。今日は、地図の鐘印と旧倉庫を確認した。怖かった。でも、戻った」
銀環は淡く光った。
その光は、遠くの鐘に呼ばれて進むためのものではなく、鳴らしてはいけないものの前で足を止め、記録を閉じて帰るための小さな灯のように、手首の奥で静かに揺れていた。




