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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第5章 第6話:看板と名前


 翌朝、アルト・レインフォードは、自分の名前を紙に書いた。


 アルト。


 ただそれだけ。


 白い紙の中央に、黒いインクで小さく書いた。


 その文字を見つめていると、左手首がほんの少し温かくなる。


 痛みはない。


 声もない。


 怖くもない。


 昔からそうだったわけではない。


 名前は、アルトにとってずっと少し怖いものだった。


 呼ばれる名前。


 隠された名前。


 自分が知らなかった名前。


 誰かが記録し、誰かが利用し、誰かが鍵として扱おうとする名前。


 エルディア・レインフォード。


 その名前を知った時、左手首は激しく反応した。


 王宮の記録にある名前。


 血筋と封印に結びつく名前。


 自分の意思とは関係なく、誰かに扱われてしまいそうな名前。


 一方で、アルトという名前は違った。


 母が呼んだ名前。


 幼い頃から、自分の耳に残っていた名前。


 白鐘や銀環や王宮の記録とは違う場所で、自分を呼び戻してくれる音。


 まだすべてを知っているわけではない。


 けれど、今のアルトにとって、この名前は戻れる名前だった。


 アルトは紙の下に、もう一つ書いた。


 小さな灯の焼き菓子店。


 昨日、正式申請書の下書きに書いた名前だ。


 左手首が淡く光る。


 怖い熱ではない。


 あたたかい。


 中庭の夕方に灯る小さな明かりのような光。


 アルトは息を吐いた。


「痛みなし。熱、少し。声なし。現在地は、男子寮の自室。朝。僕はアルト。今日は、看板の名前を考える日」


 紙の上の文字は、静かにそこにあった。


 誰かに暴かれるための名前ではなく、自分たちで選んだ名前として。


 朝の中庭には、すでにカイ・ロックハートがいた。


 今日は焼き菓子の試作品ではなく、大きめの板を抱えている。


 木の板だ。


 まだ削りたての匂いがする。


 端は少し粗いが、表面はそれなりに平らに整えられていた。


 アルトが近づくと、カイは板を持ち上げた。


「看板だ」


「もう用意したの?」


「昨日、木工室の先生に聞いた。使っていい端材があるって言われたから、もらってきた」


「許可は?」


「取った」


「すごい」


「突撃前に確認だ」


 カイは少し誇らしげに言った。


 剣術大会で覚えた言葉が、学園祭準備にもちゃんと移っている。


 アルトは板を見た。


 小さな灯の焼き菓子店。


 この板に、その名前が書かれる。


 そう思うと、少し緊張した。


 そこへミリア・ファルネーゼが来た。


 今日の彼女は、色紙や布の端切れ、小さなリボンの束を持っている。


「おはようございます。まあ、いい板ね」


「看板用だ」


 カイが言う。


「許可は?」


 ミリアも同じことを聞いた。


「取った」


「素晴らしいわ」


 カイは少し満足げに頷いた。


 続いてリゼ・グレイスが来た。


 リゼは板を見るなり、周囲の角を確認し始めた。


「角がやや鋭いです。研磨が必要です」


「そこからか」


「接触時に怪我をする可能性があります。特に学園祭当日は人が多く、子どもの来場も想定されます」


「子どもも来るのか」


「保護者同伴の弟妹が来場する可能性があります」


 カイは看板を見直した。


「じゃあ削る」


「良好です」


 ミリアが微笑む。


「まずは安全確認からね」


「看板も大変だな」


「人前に出すものですから」


 アルトは板の中央を見つめた。


 まだ何も書かれていない木の面。


 そこに名前を書く。


 見知らぬ来場者が最初に見る文字になる。


 マリベル教師が言っていた。


 看板は、お客様が最初に見るものですから。


 最初に見るもの。


 そこにどんな言葉を置くか。


 アルトは、左手首に触れた。


「痛みなし。熱、少し。声なし。現在地は、学園中庭。朝。リゼさん、ミリアさん、カイと看板用の板を見ています」


 リゼが尋ねる。


「感情は」


「緊張しています。でも、嫌ではありません」


「良好です」


 カイが板をベンチの上に置いた。


「じゃあ、店名を書くか」


「まだ書体と配置を決めていません」


 リゼが即座に言った。


「何だ、書体って」


「文字の形です。読みやすさ、視認性、印象に影響します」


「字は字だろ」


「違います」


 ミリアが紙を取り出した。


「リゼさんの言う通りね。看板の文字は、遠くからでも読めること、店の雰囲気が伝わることが大事よ」


 カイは少し難しい顔になった。


「焼き菓子売るだけなのに、考えること多いな」


「焼き菓子を“ちゃんと”売るなら必要です」


 リゼが言う。


「そうだった」


 カイは素直に頷いた。


 ミリアは紙の上にいくつか文字を書いていく。


 小さな灯の焼き菓子店。


 細い字。


 丸い字。


 少し飾った字。


 大きく書いたもの。


 横書き。


 縦書き。


 アルトはそれを見て目を見開いた。


「同じ名前なのに、全然違って見えます」


「そうなの。名前は文字の形でも印象が変わるわ」


 ミリアは楽しそうに言った。


「細い字だと少し静か。丸い字だと親しみやすい。飾りを入れると学園祭らしくなるけれど、読みづらくなることもある」


 リゼが真面目に頷く。


「視認性を優先する必要があります」


「ええ。でも、温かさも欲しいわね」


 カイが自分の字で紙に書いた。


 小さな灯の焼き菓子店。


 力強く、少し斜めで、ところどころ大きさが違う。


 リゼが見て言う。


「勢いはあります」


「それ、褒めてるか?」


「部分的に」


 ミリアが笑った。


「カイさんの字は、看板の裏に向いているかもしれないわ」


「裏か」


「戻ってこい、を書くのでしょう?」


 カイの顔が明るくなる。


「それは俺が書きたい」


 アルトは少し笑った。


「いいと思います」


 看板の表には、小さな灯の焼き菓子店。


 裏には、戻ってこい。


 カイの字で。


 少し曲がっていても、きっとその方が合っている。


 リゼが確認する。


「看板裏面は来場者から通常見えません。内部合図として使用するなら問題は少ないです。ただし、不意に見られても誤解を招かない表現に整える必要があります」


「戻ってこい、は駄目か?」


「命令形です」


「またか」


「ただし、内部用であり、文脈を共有している場合は許容可能です」


「つまり?」


「書いてもよい可能性があります」


「よし」


 カイは満足そうだった。


 ミリアが紙に書く。


 表:小さな灯の焼き菓子店


 裏:戻ってこい


 裏の下に小さく:食べた後、戻れる場所を確認してください


 リゼはその文字を見て、少しだけ動きを止めた。


 昨日、自分が言った言葉だった。


 商品説明としては重いと言われた言葉。


 でも、アルトが看板の裏に書きたいと言った言葉。


「私の言葉も使用するのですか」


「はい」


 アルトは頷いた。


「看板の裏なら、僕たちだけが見る言葉にできます。カイの“戻ってこい”と、リゼさんの“戻れる場所を確認してください”は、少し違うけど、両方必要だと思います」


 リゼは黙って紙を見た。


 カイの言葉。


 リゼの言葉。


 ミリアが整える紙。


 アルトが選ぶ看板。


 名前と役割が、少しずつ形になっていく。


 リゼは静かに言った。


「使用を許可します」


 カイが笑う。


「許可出たぞ」


 ミリアも微笑む。


「では、裏面は決まりね。表面をどうするか考えましょう」


 午前の授業では、ロウ教師が「名と印象」という題で話をした。


 黒板に書かれた文字を見て、アルトは思わず顔を上げた。


 昨日までの流れを、ロウ教師はどこまで知っているのだろうと思う。


 おそらく、かなり知っている。


 ロウ教師は教室を見渡した。


「学園祭の準備では、多くの者が名前を付ける。出店名、演目名、展示名、班名。名は、ただの識別記号ではない」


 アルトはペンを握った。


 リゼも隣でノートを開く。


「名には、呼ぶ者の意図が入る。来てほしいのか。見てほしいのか。買ってほしいのか。思い出してほしいのか。名は、相手へ向けた最初の言葉だ」


 相手へ向けた最初の言葉。


 アルトはノートに書いた。


 看板は、お客様が最初に見るもの。


 名は、最初の言葉。


 ロウ教師は続ける。


「だから、名を軽く扱うな。古い名を使う時は意味を調べる。誰かを傷つける名ではないか考える。自分たちが何を見せたいか、何を隠したいかも考える」


 白鐘。


 アルトの左手首が少し熱くなる。


 自分で思い出しただけだ。


 痛みはない。


 声もない。


 リゼが横目で見る。


 アルトは小さく頷き、ノートに書いた。


 白鐘は危険語。急に使わない。調べる時は手順。


 ロウ教師の声は淡々としている。


「名は怖いものにもなる。勝手に名付けられることは、時に所有されることに近い。だが、自分で名を選ぶことは、居場所を作ることにもなる」


 アルトのペンが止まった。


 自分で名を選ぶことは、居場所を作ること。


 小さな灯の焼き菓子店。


 それは、出店の名前であると同時に、四人が戻れる場所の名前になり始めている。


 ロウ教師は教室を見渡し、少しだけ声を低くした。


「君たちが学園祭で付ける名が、誰かを閉じ込めるものではなく、誰かが来られる場所になることを望む」


 授業が終わった後、カイが小声で言った。


「ロウ先生、絶対俺たちの看板の話知ってるだろ」


 リゼが答える。


「情報共有されている可能性があります」


「だよな」


 ミリアが笑う。


「でも、いい授業だったわ」


 アルトは頷いた。


「はい」


 昼休み、四人は中庭ではなく、美術室を借りることにした。


 看板の下書きをするためだ。


 美術室には、絵の具の匂いと木材の匂いが混ざっている。窓際には乾かしている作品が並び、壁には過去の学園祭で使われた看板の一部が保管されていた。


 色とりどりの文字。


 花の飾り。


 魔術展示の看板。


 茶会の案内板。


 古書市の小さな札。


 アルトは少し圧倒された。


 学園祭は、名前だらけだ。


 たくさんの人が、たくさんの名前を作っている。


 その一つとして、自分たちの名前も並ぶ。


 左手首が少し温かくなる。


 痛みはない。


 声もない。


 リゼが尋ねる。


「状態は」


「痛みなし。熱、少し。声なし。現在地は美術室。昼休み。リゼさん、ミリアさん、カイと看板の下書きをします。感情は、緊張と少し楽しみです」


「良好です」


 美術担当の教師から借りた紙と木炭で、まずは下書きをする。


 ミリアが中心の配置を取る。


「文字は中央。上に小さな灯の絵を入れる。左右に焼き菓子の小さな飾り。色は暖色系がいいかしら」


 カイが聞く。


「暖色って何だ」


「赤、橙、黄色みたいに温かく見える色」


「焼き菓子っぽいな」


「ええ」


 リゼが補足する。


「視認性を考えると、背景は明るすぎない方が文字が読みやすいです」


「リゼさん、だんだん看板にも詳しくなってるわね」


 ミリアが言う。


「必要情報です」


 リゼは真面目に答える。


「出店班の一員ですので」


 その言葉が自然に出た。


 アルトは少し嬉しくなる。


 カイも聞き逃さなかった。


「今、普通に言ったな」


「何をですか」


「出店班の一員」


 リゼは一拍置いて答える。


「事実です」


「そうだな」


 カイは満足そうに頷いた。


 アルトは紙の中央に、ゆっくり文字を書いた。


 小さな灯の焼き菓子店。


 手が少し震える。


 字が曲がらないように、慎重に書く。


 最初の「小」。


 次の「さ」。


 「灯」。


 その文字を書いた時、左手首が淡く光った。


 怖い熱ではない。


 むしろ、名前が少しずつ板の上に灯っていくような感覚だった。


 ミリアが覗き込み、優しく言う。


「いい字ね」


「少し震えました」


「それも味になるわ」


 リゼが確認する。


「読みやすいです」


 カイも頷く。


「俺の字より店っぽい」


「カイの字は裏に向いています」


 アルトが言うと、カイは満足そうに笑った。


「任せろ」


 表の下書きができると、次は看板裏面の下書きになった。


 カイは木炭を握り、少し真剣な顔になる。


 大きく書く。


 戻ってこい。


 文字は少し傾いている。


 でも、まっすぐだった。


 力強くて、少し不器用で、カイらしい。


 アルトはその文字を見て、胸が熱くなった。


 戻ってこい。


 剣術大会で、リゼが戻った。


 アルトも戻った。


 カイも負けた後に戻った。


 学園祭でも、きっと何度も必要になる言葉だ。


 ミリアがその下に、小さく柔らかな字で書く。


 食べた後、戻れる場所を確認してください。


 リゼがその文字を見つめる。


 自分の言葉が、柔らかい字になってそこにある。


 リゼは少しだけ困ったように言った。


「私の言葉が、看板に適用されています」


「ええ」


 ミリアが微笑む。


「リゼさんの言葉は、時々とても必要なのよ」


「硬くありませんか」


「硬いけれど、必要な硬さもあるわ」


 カイが言う。


「リゼが言うと、本当に確認しそうになる」


「確認は重要です」


「だからいいんだろ」


 アルトも頷いた。


「僕も、この言葉があると安心します」


 リゼは三人を見た。


 それから、少しだけ目を伏せた。


「確認しました」


 美術室での下書き作業が終わる頃、ティナ・ベルたちが覗きに来た。


「看板作ってるの?」


 ティナが目を輝かせる。


「まだ下書きです」


 リゼが答える。


「見てもいい?」


 ミリアがアルトを見る。


 アルトは少し緊張したが、頷いた。


「はい」


 ティナ、ノエル、リリアが看板の表面を見る。


「小さな灯の焼き菓子店。やっぱりかわいい!」


 ティナが言う。


 ノエルも頷く。


「読みやすいね。色が付いたらもっと目立ちそう」


 リリアはじっと見てから、静かに言った。


「安心する名前」


 アルトの左手首がふわりと温かくなる。


「安心する、ですか」


 リリアは頷く。


「大きな光じゃないから。小さいから、近くにありそう」


 その言葉に、アルトは胸の奥が温かくなった。


 小さな灯。


 大きな光ではない。


 遠くで誰かを照らすものでもない。


 近くに置ける、小さな明かり。


 戻れる場所。


「ありがとうございます」


 アルトは言った。


 ティナが裏面を見ようとした瞬間、カイが慌てて看板を持ち上げた。


「裏は秘密だ」


「えー、気になる!」


「秘密だ」


 カイは頑固だった。


 ミリアが笑う。


「出店班内部用の合図なの」


「そう言われるとますます気になる」


「当日、もしかしたら見えるかもしれないわ」


 ティナは少し不満そうだったが、笑って頷いた。


「じゃあ楽しみにしてる」


 同級生たちが去った後、カイは看板をそっと置いた。


「裏、見せなくていいよな」


「はい」


 リゼが頷く。


「内部用合図です」


 アルトも頷いた。


「はい。まだ、僕たちだけの方がいいと思います」


 ミリアが静かに言った。


「名前には、表に出すものと、内側で支えるものがあるのね」


 その言葉は、アルトの胸に残った。


 午後、看板の正式な作成許可を得るため、美術担当の教師と準備委員会へ下書きを見せに行った。


 美術担当教師は、表の文字と灯の飾りを見て頷いた。


「読みやすいですね。色は、背景を薄い橙、文字を焦げ茶にすると焼き菓子らしいかもしれません」


 ミリアがすぐに記録する。


 背景、薄い橙。


 文字、焦げ茶。


 灯、黄色と金。


 リゼが尋ねる。


「耐久性は」


「当日一日なら問題ありません。雨の場合は屋根のある場所に設置してください」


「角の研磨は」


「必要ですね。木工室で仕上げましょう」


 カイが頷く。


「俺がやる」


「教師立ち会いで」


 リゼが言う。


「わかってる」


 準備委員会の仮受付では、リーナが看板案を見て笑顔になった。


「いいね。小さな灯の焼き菓子店。中庭に合いそう」


「第一希望は中庭周辺です」


 リゼが言う。


「理由欄も見たよ。退避経路と休憩場所への近接性。ちゃんと書いてあるから、場所調整の時に考慮するね」


 アルトは少し安心した。


 戻れる場所に近い出店。


 それが、ただのわがままではなく、準備委員会の調整事項として扱われている。


 リーナは裏面の下書きも見た。


 戻ってこい。


 食べた後、戻れる場所を確認してください。


 少し驚いた後、彼女は優しく笑った。


「いい裏面だね」


 カイが少し身構える。


「変か?」


「変じゃないよ。表がお客様への名前で、裏が自分たちへの名前なんだね」


 アルトはその言葉にはっとした。


 表がお客様への名前。


 裏が自分たちへの名前。


 リーナは何気なく言ったのかもしれない。


 でも、アルトにはとても大事な言葉に聞こえた。


 自分には、アルトという名前と、エルディアという名前がある。


 片方は今、自分が日常で呼ばれる名前。


 もう片方は、まだ怖さを伴う名前。


 表と裏ではない。


 けれど、名前には向ける相手や置く場所がある。


 それを自分で選べるかどうかが大事なのかもしれない。


 夕方、中庭へ戻ると、空は淡い橙色になっていた。


 看板の下書きは筒状に巻かれ、ミリアが大切に抱えている。


 カイは木の板を抱え、リゼは角の研磨予定と設置場所の安全確認を書いた紙を持っている。


 アルトは、店名と看板文句の候補を書いた紙を胸元にしまっていた。


 いつものベンチに座ると、カイが購買の焼き菓子を取り出した。


「看板下書き完了用」


 ミリアが笑う。


「今日はそれなのね」


「あと、名前決まってきた用」


「良い用途です」


 リゼが頷く。


 カイは得意げに焼き菓子を配った。


 アルトは一つ受け取り、夕方の光の中で見つめた。


 丸い焼き菓子。


 小さな灯。


 戻ってこい。


 名前が少しずつ形を持っていく。


 ミリアが尋ねた。


「アルトさん、今日の状態は?」


「痛みなし。熱、少し。声なし」


「現在地は」


「学園中庭。夕方。いつものベンチ。リゼさん、ミリアさん、カイといる。看板の下書きができました」


「感情は」


 アルトは少し考えた。


「緊張しました。名前を書くのは、やっぱり少し怖いです。でも、小さな灯の焼き菓子店は怖くありません。戻ってこい、も、怖くありません」


 リゼが静かに頷く。


「良好です」


 カイが焼き菓子を食べながら言う。


「白鐘は使わない」


 急にその言葉が出たが、今回はカイの声が慎重だった。


 言う前に、少しだけ間があった。


 アルトの左手首は少し熱くなった。


 けれど、強くはない。


「痛みなし。熱、少し。声なし」


「よし」


 カイはほっとしたように頷く。


「急に言わないようにした」


「はい。助かります」


「でも、完全に言わないんじゃなくて、確認しながらだろ」


「はい」


 アルトは頷いた。


「怖い名前だけど、全部消さない」


 ミリアが優しく言う。


「そして、戻れる名前も作る」


「はい」


 リゼが紙を見ながら言った。


「本日の成果。表面名称、小さな灯の焼き菓子店。裏面内部合図、戻ってこい。補足文、食べた後、戻れる場所を確認してください」


 カイが笑う。


「完璧だな」


「完璧ではありません。下書き段階です」


「でも、かなり進んだ」


「はい。進捗は良好です」


 アルトは焼き菓子を一口食べた。


 甘さがゆっくり広がる。


 自分で名前を書いた日。


 怖い名前を避けるだけではなく、戻れる名前を作った日。


 それは小さなことかもしれない。


 でも、アルトにとっては、とても大きかった。


 夜。


 男子寮の自室で、アルトは机に向かった。


 朝書いた紙が、まだ机の端に置いてある。


 アルト。


 小さな灯の焼き菓子店。


 その横に、今日の看板案を書き足す。


 表。


 小さな灯の焼き菓子店。


 裏。


 戻ってこい。


 食べた後、戻れる場所を確認してください。


 アルトはしばらくそれを見つめた。


 左手首は穏やかに温かい。


 紙片を広げ、今日の記録を書く。


 今日は看板と名前を考えた。


 朝、自分の名前を書いた。


 アルト。


 この名前は、今の僕にとって戻れる名前だと思う。


 エルディア・レインフォードという名前は、まだ怖い。


 王宮の記録や銀環や血筋に引っ張られる気がする。


 でも、アルトという名前で呼ばれると、今は戻れる。


 小さな灯の焼き菓子店という名前も、怖くない。


 カイが看板用の板を持ってきた。


 許可を取っていた。


 リゼさんは角が鋭いから研磨が必要だと言った。


 ミリアさんは、看板の字は形で印象が変わると言った。


 細い字、丸い字、飾った字、いろいろ見せてくれた。


 カイの字は、表より裏に向いていることになった。


 表には、小さな灯の焼き菓子店。


 裏には、カイの字で戻ってこい。


 その下に、リゼさんの言葉で、食べた後、戻れる場所を確認してください。


 午前の授業で、ロウ先生は名と印象について話した。


 名は、ただの識別記号ではない。


 名には、呼ぶ者の意図が入る。


 名は、相手へ向けた最初の言葉。


 名は怖いものにもなる。


 勝手に名付けられることは、時に所有されることに近い。


 でも、自分で名を選ぶことは、居場所を作ることにもなる。


 この言葉が、とても大事だと思った。


 昼、美術室で看板の下書きをした。


 僕が小さな灯の焼き菓子店と書いた。


 少し手が震えた。


 でも、怖くなかった。


 リリアさんが、安心する名前だと言った。


 大きな光じゃないから、小さいから近くにありそうと言った。


 それが嬉しかった。


 看板の裏は、最初は秘密にした。


 ミリアさんは、名前には表に出すものと、内側で支えるものがあるのねと言った。


 準備委員会でリーナ先輩に見せたら、表がお客様への名前で、裏が自分たちへの名前なんだねと言われた。


 僕は、自分の名前のことを考えた。


 アルトという名前。


 エルディアという名前。


 名前には置く場所や向ける相手があるのかもしれない。


 自分で選べるなら、少し怖くなくなるのかもしれない。


 夕方、看板下書き完了用の焼き菓子を食べた。


 カイは、白鐘は使わないと言った。


 急にではなく、少し間を置いて言った。


 左手首は少し熱くなったけど、大丈夫だった。


 怖い名前を全部消すのではなく、確認しながら扱う。


 そして、戻れる名前を作る。


 今日は、その両方をした日だった。


 アルトはペンを止めた。


 机の上の紙を見る。


 アルト。


 小さな灯の焼き菓子店。


 戻ってこい。


 食べた後、戻れる場所を確認してください。


 どれも名前であり、言葉であり、戻るための目印だった。


 アルトは最後に一行を書いた。


 名前は、誰かに所有されるためだけのものではない。


 自分で選んで、自分たちで書けるなら、それは戻る場所の灯にもなる。


 紙片を折り、引き出しへしまう。


 左手首を胸の上に置いた。


 熱は少し。


 痛みはない。


 声もない。


「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。今日は看板に、自分たちで選んだ名前を書いた」


 銀環は淡く光った。


 その光は、誰かに本当の名を暴かれるためのものではなく、自分で選んだ名を小さな看板に灯すための明かりのように、手首の奥で静かに揺れていた。


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