第5章 第5話:リゼの役割選定
翌朝、リゼ・グレイスはいつもより早く目を覚ました。
女子寮の窓の外は、まだ薄い青だった。朝鐘までは少し時間がある。校舎の屋根の向こうに、夜の残りが淡く滲んでいる。
部屋の中は静かだった。
ミリア・ファルネーゼはまだ眠っている。金色の髪が枕に柔らかく広がり、規則正しい呼吸が聞こえる。
リゼは音を立てないように起き上がった。
机の上には、昨日の準備委員会説明会でもらった資料が積んである。
外部来場者導線。
物資搬入線。
飲食出店申請要項。
警備補助班の役割。
小さな灯の焼き菓子店、仮企画書。
そのすべてを、昨夜遅くまで読み直していた。
頭の中には、線がある。
正門から入る青い線。
搬入口から旧倉庫近くを通る赤い線。
生徒用通路の緑の線。
緊急退避経路の黄色い線。
中庭。
第一校舎。
講堂。
鐘楼裏。
物資置き場。
出店候補地。
そして、その中にいるアルト・レインフォード。
左手首に銀環を抱えた少年。
人混み、鐘、王宮関係者、白鐘関連語、外部来場者。
学園祭には、アルトを揺らす可能性が複数ある。
ならば、自分は警備補助へ入るべきだ。
それが合理的だ。
危険を早く察知し、導線を確認し、異常があれば報告する。
剣術大会で優勝した自分へ、周囲が警備補助を求めるのは自然だ。
自分は護衛者である。
危険を見られる。
危険に対処できる。
なら、警備に入るべきだ。
リゼは、そこまで考えて手を止めた。
机の上には、もう一枚の紙がある。
小さな灯の焼き菓子店。
出店名候補。
担当者。
カイ・ロックハート 調理担当。
ミリア・ファルネーゼ 企画書、装飾、接客補助。
リゼ・グレイス 安全管理、導線確認、衛生確認、物資確認。
アルト・レインフォード 記録、出店名、看板文句。
自分の名前が、そこにもある。
警備補助班の資料ではなく、出店班の紙に。
昨日、カイは言った。
リゼを全部持ってくなよ。
アルトは言った。
出店にもいてほしいです。
ミリアも言った。
出店班を主、警備補助は範囲を決めて。
そして自分は言った。
出店準備を継続したい可能性があります。
可能性。
その言葉は便利だった。
断定せずに済む。
感情を確定せずに済む。
自分の希望を、まだ曖昧な状態に置いておける。
だが、曖昧なままでは、申請書には書けない。
どの班に所属するか。
何を引き受けるか。
何を引き受けないか。
準備委員長リーナは昨日そう言った。
何でもできる必要はない。
何を引き受け、何を引き受けないかを決めることも、準備の一つ。
リゼはペンを取った。
記録帳を開く。
今日の欄に、まず書く。
学園祭準備における役割選定。
候補一、警備補助班を主とする。
利点。
外部来場者導線の確認が可能。
アルトさんの危険要素に早期対応可能。
王宮関係者、搬入口、鐘楼付近の監視補助が可能。
欠点。
出店準備への参加時間減少。
友人との共同作業機会減少。
警備責任の過剰取得の危険。
候補二、出店班を主とする。
利点。
小さな灯の焼き菓子店の準備継続。
カイさん、ミリアさん、アルトさんとの共同作業。
学園祭を任務ではなく参加者として経験可能。
アルトさんの退避場所に近い中庭出店と連動可能。
欠点。
警備情報への直接関与が限定される。
危険発生時の初動が遅れる可能性。
周囲からの警備期待との不一致。
候補三、出店班を主、警備補助を限定範囲で兼任。
利点。
出店準備継続。
中庭周辺の安全確認。
補助範囲明確化により過剰責任を回避可能。
欠点。
負荷増加。
役割混在による判断遅延の可能性。
リゼはそこまで書き、ペンを止めた。
合理的には、候補三が最適に見える。
出店班を主とし、警備補助を限定範囲で兼任。
しかし、その結論は本当に自分の希望を含んでいるのか。
それとも、全員の要望と危険管理を合わせた結果だけなのか。
自分はどうしたいのか。
その問いは、剣術大会の時にもあった。
王宮に見られるから辞退するのか。
アルトを守るためだけに出場するのか。
それとも、自分自身が学園の中で剣をどう扱うかを確認するために出るのか。
あの時、リゼは言った。
私は、私の剣を学園の中で制御してみせます。
では今、自分は何を言えばいいのか。
私は、何を学園祭の中で確認したいのか。
リゼは机の上の焼き菓子店の紙を見た。
小さな灯の焼き菓子店。
まだ仮の名前。
でも、アルトが考えた名前。
カイが焼くと言った店。
ミリアが飾る店。
自分が安全管理だけでなく、出店班の一員として名前を書かれた店。
リゼはペンを動かした。
希望の有無。
手が止まった。
しばらく、何も書けなかった。
窓の外で朝鐘が鳴った。
ミリアが少し身じろぎする。
リゼは記録帳を閉じた。
まだ書けない。
けれど、空欄のまま残すことは、記録として正確だった。
朝の中庭では、すでにカイが待っていた。
今日は焼き菓子はない。代わりに、正式申請用の紙を持っている。昨日の説明会で聞いた内容を、ミリアが整理し、カイが自分なりに書き写したものらしい。
アルトも少し早く来ていた。
左手首に触れながら、掲示板の仮受付済み企画一覧を見ている。
小さな灯の焼き菓子店。
その名前を見ているのだろう。
リゼは二人へ近づいた。
「おはようございます」
「おはようございます」
アルトが振り向く。
「おはよう」
カイが言う。
すぐに、彼はリゼの顔を見る。
「眠れたか?」
リゼは一瞬、答えに詰まった。
睡眠時間。
睡眠の深さ。
覚醒回数。
記録はある。
「睡眠時間は基準内です」
「それ、眠れたってことか?」
「身体的には問題ありません」
「気持ちは?」
カイの問いは真っ直ぐだった。
リゼは少しだけ沈黙した。
アルトもこちらを見ている。
ミリアはまだ来ていない。
だが、カイがこう尋ねるようになったことも、変化なのだと思う。
「役割選定について、思考が継続しています」
「警備か出店か?」
「はい」
カイは頷いた。
「俺は出店にいてほしい」
「昨日確認しました」
「でも、お前が警備した方がいいって思うなら、それもわかる」
カイは少しだけ顔をしかめた。
「嫌だけど、わかる」
リゼはカイを見る。
カイは視線を逸らさなかった。
「だから、俺は出店にいてほしいって言う。でも、決めるのはお前だ」
その言葉は、カイらしくまっすぐで、少し不器用だった。
リゼは胸の奥に、小さな違和感のようなものを感じた。
不快ではない。
痛みでもない。
何かを受け取った時の反応。
分類はまだ難しい。
「情報として受け取ります」
「またそれか」
カイは少し笑った。
「でも、今日はそれでいい」
アルトが静かに言った。
「僕も、出店にいてほしいです」
「はい」
「でも、僕のためだけに警備を選ばないでほしいです」
「昨日確認しました」
「はい。でも、もう一度言いたかったです」
アルトは左手首に触れながら続けた。
「学園祭は怖いです。外部の人も来るし、王宮の人も来るかもしれないし、白鐘のこともあります。でも、リゼさんが全部警備に行けば安心するかというと、違う気がします」
「違う」
「はい」
アルトは少し言葉を探した。
「リゼさんが出店にいて、カイが焼き菓子を売って、ミリアさんが飾りを整えて、僕が看板を書いて、その場所が戻れる場所になるなら、それも安全だと思います」
リゼは息を止めた。
出店が、安全。
危険を見張ることだけが安全ではない。
戻れる場所を作ることも、安全。
それは、ロウ教師が言っていたことと似ている。
剣を置いた手で、何を作るか。
「戻れる場所を作ることも、安全管理に含まれますか」
リゼが問うと、アルトは少し驚いたように瞬きをした。
それから、ゆっくり頷いた。
「はい。僕には、含まれます」
カイも言う。
「俺にも含まれる」
「あなたにも?」
「おう。俺、学園祭でたぶん浮かれる。声もでかくなる。走りたくなる。焼き菓子売れても売れなくても騒ぐ」
「高確率です」
「だろ。だから戻れる場所がいる」
カイは自分で言って、少しだけ笑った。
「俺にも必要だ」
リゼは二人を見た。
アルトのため。
カイのため。
ミリアのため。
自分のため。
安全管理は、危険を排除するだけではない。
戻る場所を作ること。
その場所にいること。
それも、学園祭の準備なのかもしれない。
そこへ、ミリアがやってきた。
「おはようございます。三人とも、もう重要な話をしていたのね」
「おはようございます」
リゼが答える。
ミリアはリゼの顔を見て、少しだけ目を細めた。
「眠れた?」
「身体的には問題ありません」
「心は?」
「役割選定について、思考が継続しています」
「そう」
ミリアは静かに頷いた。
「今日、ロウ先生に相談してみる?」
リゼは一拍置いた。
「はい。必要だと思います」
午前の授業前、四人はロウ教師の元へ向かった。
ロウ教師は教室で資料を整理していた。四人が近づくと、顔を上げる。
「学園祭か」
まだ何も言っていないのに、そう言われた。
カイが少し驚く。
「何でわかるんだ」
「今の時期に四人で来れば、だいたいそうだ」
ロウ教師は淡々と答えた。
リゼが一歩前へ出る。
「相談があります。学園祭準備における私の所属と役割についてです」
「言ってみろ」
「警備補助班を主とするか、出店班を主とするか、または出店班を主として警備補助を限定範囲で兼任するかを検討しています」
ロウ教師は腕を組んだ。
「君自身はどうしたい」
その問いが、まっすぐ来た。
リゼはすぐに答えられなかった。
ロウ教師は待った。
アルトも、ミリアも、カイも黙っている。
「合理的には」
「合理性は後でいい」
ロウ教師が遮った。
鋭い声ではない。
しかし、逃げ道を塞ぐ声だった。
「君自身はどうしたい」
リゼは喉の奥が少し硬くなるのを感じた。
どうしたい。
その問いは、戦場ではほとんど必要なかった。
どこへ行くべきか。
何を守るべきか。
どの敵を止めるべきか。
そういう問いには答えられる。
しかし、何をしたいか。
それは難しい。
「警備補助に入ることは、学園祭全体の安全に寄与します」
「そうだな」
「外部来場者、王宮関係者、搬入口、鐘楼周辺、アルトさんの銀環反応。危険要素が複数あります」
「そうだな」
「私が警備情報を把握することは、有効です」
「そうだな」
ロウ教師は同じ調子で頷いた。
「それで、君はどうしたい」
リゼは言葉を失った。
カイが少し動きかけたが、ミリアが手で止めた。
アルトはリゼを見ている。
リゼは息を吸った。
「私は」
言葉が詰まる。
「私は、出店準備を」
さらに止まる。
言っていいのか。
それは合理性より優先してよいのか。
護衛者が、焼き菓子出店にいたいと言ってよいのか。
王宮が見ている中で。
危険がある中で。
リゼは拳を握りかけ、止めた。
机の上のチョークの白い粉が目に入る。
小さな灯の焼き菓子店。
看板の裏の戻ってこい。
カイの試作品。
ミリアの装飾案。
アルトの名前。
「私は、出店準備を継続したいです」
言った。
声は小さくなかった。
教室の空気が少し静かになった気がした。
ロウ教師は表情を変えない。
「理由は」
「小さな灯の焼き菓子店は、警備計画上の退避場所としても有効です」
「それは合理性だ」
「はい」
「他には」
リゼは目を伏せた。
「カイさんが調理担当として準備しています。ミリアさんが企画と装飾を進めています。アルトさんが名前と看板文句を考えています。私は安全管理と導線確認として登録されています」
「それも役割説明だ」
「はい」
「他には」
ロウ教師は逃がさない。
リゼは唇をわずかに結んだ。
「私は」
胸の奥が熱い。
恐怖ではない。
不快でもない。
何かを認める時の熱。
「私は、その場にいたいです」
言ってしまった。
自分でも、少し驚いた。
カイが小さく息を呑む。
アルトの左手首が淡く光った。
ミリアがそっと微笑む。
ロウ教師は、ようやく一つ頷いた。
「それを先に言えるようになれ」
リゼは顔を上げる。
「はい」
「警備補助をするなとは言わん。君が中庭の安全確認に関わることは有効だ。だが、警備を理由に自分の居場所を捨てるな」
ロウ教師の声は低い。
「剣術大会で剣を制御した。次は、剣を持たない時間を制御しろ」
リゼはその言葉を受け止めた。
剣を持たない時間。
出店準備。
焼き菓子。
看板。
装飾。
友人と並ぶ時間。
それも制御するものなのか。
「出店班を主とします」
リゼは言った。
「警備補助は、中庭周辺、事前確認、報告補助に限定します。武力対応、単独対応、出店時間中の不定期呼び出しは拒否します」
ロウ教師は頷いた。
「よし」
ミリアが静かに息を吐く。
カイが小さく拳を握る。
アルトは左手首を押さえながら、微笑んだ。
「リゼさん」
「はい」
「今の、聞けて嬉しかったです」
リゼは少しだけ目を伏せた。
「私も、言えて良かった可能性があります」
カイがすぐに言う。
「可能性じゃなくて?」
リゼは一拍置いた。
「良かった、と思います」
カイはにっと笑った。
「よし」
午前の授業で、ロウ教師は黒板に「役割と所有」と書いた。
剣術大会の時にも、剣と所有の話があった。
今日はそれが、学園祭準備へ移っている。
「役割は便利だ」
ロウ教師は教室を見渡した。
「調理担当、記録担当、警備担当、案内担当、装飾担当。役割があれば、集団は動きやすい」
アルトはペンを取る。
隣でリゼもノートを開いている。
「だが、役割は時に人を閉じ込める。強い者は警備へ、話せる者は案内へ、器用な者は装飾へ。周囲が勝手に決めた役割が、本人の希望を押し潰すことがある」
リゼのペンが止まる。
「大事なのは、役割を持つことではなく、役割を選ぶことだ。引き受けることと、引き受けないことを決めることだ」
カイが真剣に聞いている。
ミリアも静かに頷いた。
「学園祭は、普段見えにくいその人の形が出る。何を作るか。何を守るか。何を断るか。君たちはその練習をしている」
アルトはノートに書いた。
役割を持つことではなく、役割を選ぶこと。
引き受けることと、引き受けないこと。
リゼが出店班にいたいと言ったこと。
警備補助を限定すると言ったこと。
それは、役割を選ぶことだった。
昼休み、四人は中庭のいつものベンチに集まった。
今日は正式申請書の下書きを進める日だ。
ミリアがきれいな紙を広げる。
カイは調理担当欄を見ている。
アルトは出店名と看板文句の欄。
リゼは安全管理欄と、警備補助の備考欄を持っている。
ミリアが確認する。
「では、所属はどう書く?」
リゼは静かに答えた。
「出店班。小さな灯の焼き菓子店」
「警備補助は?」
「備考欄に、中庭周辺の事前確認および混雑時の報告補助のみ可能、と記載します」
「武力対応は?」
「行いません」
「単独対応は?」
「行いません」
「出店時間中の不定期呼び出しは?」
「原則不可。緊急時は教師または生徒会からミリアさん経由で確認」
ミリアが満足そうに頷く。
「とても明確ね」
カイが言う。
「じゃあリゼは出店にいるんだな」
「はい」
「よし」
カイは申請書の端に何かを書こうとして、リゼに止められた。
「正式書類に用途名を書かないでください」
「まだ何も書いてねえ」
「予兆がありました」
「鋭いな」
アルトは少し笑った。
左手首は穏やかだ。
今日は王宮の話も白鐘の話も少ない。
もちろん、危険が消えたわけではない。
外部来場者も、王宮関係者も、搬入口も、白鐘関連語も、全部まだある。
でも、今日はリゼが「いたい」と言った日だ。
そのことが、アルトには大きかった。
正式申請書の出店内容欄に、ミリアが書き込む。
出店名:小さな灯の焼き菓子店
内容:焼き菓子販売。干し果物入り焼き菓子を中心に、当日の見守りや休憩に寄り添う小さな菓子を提供する。
アルトはその文章を見て、少し顔が熱くなる。
「当日の見守りや休憩に寄り添う」
「どうかしら」
ミリアが尋ねる。
「少し恥ずかしいです。でも、いいと思います」
「では候補ね」
カイが言う。
「見届けクッキーは?」
ミリアが別欄に書く。
商品名候補:見届けクッキー
説明:大切な一日を見届ける時に。干し果物入りの小さな焼き菓子。
「いいな」
カイが満足そうに頷く。
リゼも確認する。
「薬効誤認なし。成分表示と一致。意味は説明文で補足。問題は少ないと思われます」
「通るか?」
「正式判断は担当教師です」
「でもいけそうだな」
「はい」
カイは嬉しそうに笑った。
ミリアはリゼを見る。
「リゼさんの商品説明案もありますか?」
「私ですか」
「ええ。出店班の一員でしょう?」
リゼは少し困ったように瞬きをした。
「商品説明」
「無理に詩的でなくていいわ。リゼさんの言葉で」
リゼは紙を見た。
焼き菓子。
見届ける。
戻る。
安全。
衛生。
導線。
言葉を選ぶ。
「安全に包装されています」
カイが吹き出しそうになった。
ミリアが笑いをこらえる。
アルトは少し笑ってしまった。
リゼは真面目に首を傾げる。
「不適切ですか」
「大事だけど、商品説明の一文目ではないかもしれないわ」
ミリアが優しく言う。
「でも、リゼさんらしいです」
アルトが言うと、リゼは少しだけ目を伏せた。
「では、別案を検討します」
少し考えて、彼女は言った。
「食べた後、戻れる場所を確認してください」
カイが真剣に頷いた。
「俺は好きだ」
「私も好きだけれど、商品説明としては少し重いわね」
ミリアが言う。
アルトは紙の端に書いた。
食べた後、戻れる場所を確認してください。
表には使わないかもしれない。
でも、大事な言葉だった。
「看板の裏側に、戻ってこいと一緒に書きたいです」
アルトが言うと、リゼが少し驚いたように見た。
「私の案をですか」
「はい。表には出さなくても、僕たちには必要だと思います」
カイが頷く。
「いいな。看板の裏がすごいことになる」
ミリアが笑った。
「秘密の看板ね」
リゼは少しだけ考えた後、静かに頷いた。
「許可します」
昼休みの終わり頃、リーナ準備委員長が中庭を通りかかった。
四人の申請書を見つけると、にこやかに近づいてくる。
「進んでる?」
「はい」
ミリアが答える。
「正式申請書の下書きです」
「見てもいい?」
「どうぞ」
リーナは紙を受け取り、目を通した。
「出店班。小さな灯の焼き菓子店。中庭周辺希望。いいね」
そして、リゼの備考欄を見る。
「リゼさん、警備補助は中庭周辺の事前確認と混雑時の報告補助のみ。武力対応なし。単独対応なし。出店時間中の不定期呼び出し原則不可」
リーナは顔を上げた。
「とても明確。助かる」
リゼは少し驚いたようだった。
「助かりますか」
「うん。できることとできないことを書いてくれる方が、こちらも調整しやすいの。何でもできます、って言われる方が怖い」
リゼはその言葉を受け取るように沈黙した。
何でもできます。
そう言ってしまう方が、期待も責任も際限なく増える。
できること。
できないこと。
それを書くことは、弱さではなく、調整のための情報なのだ。
リーナは笑った。
「出店班のリゼさん、よろしくね」
リゼは一拍置いて、答えた。
「はい。よろしくお願いします」
その声は、昨日より少しだけ自然だった。
午後の授業後、四人は家庭実習担当の教師へ相談に行った。
焼き菓子出店には担当教師の確認が必要だからだ。
家庭実習担当のマリベル教師は、ふくよかな体型の穏やかな女性で、カイの試作品について聞くと興味深そうに目を細めた。
「焼き菓子ね。前日調理なら、保存方法と包装をしっかり。卵と乳と小麦の表示は必須。干し果物も種類を書いてください」
「はい」
カイは真剣に頷く。
「味見はできますか」
「正式申請前に試作品を一度持ってきてください。衛生状態を確認します」
「わかりました」
マリベル教師はリゼの安全管理欄を見て、少し笑った。
「導線確認、退避経路、混雑時対応、衛生確認。ずいぶんしっかりしていますね」
「必要事項です」
リゼが答える。
「頼もしいわ。でも、あなた一人で全部背負わないこと。飲食出店では、担当者全員が衛生と安全を理解する必要があります」
「はい」
リゼは頷いた。
「全員で確認します」
「良い返事です」
マリベル教師はアルトを見る。
「あなたは記録と看板文句?」
「はい」
「看板は大事ですよ。お客様が最初に見るものですから」
アルトは少し緊張した。
「はい」
「優しい名前ね。小さな灯の焼き菓子店」
左手首が淡く光る。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
アルトは自分から言った。
マリベル教師は少し驚いたが、ミリアが静かに補足する。
「体調確認です。問題ありません」
「そう。無理のないようにね」
「はい」
アルトは頷いた。
夕方、中庭へ戻る頃には、正式申請書の下書きはかなり埋まっていた。
まだ清書は必要だ。
材料費も計算しなければならない。
試作品ももう一度作る必要がある。
場所希望も第三希望まで書く必要がある。
でも、形になってきている。
カイは資料を見ながら満足そうだった。
「出店、できそうだな」
「正式許可前です」
リゼが言う。
「でも近づいてる」
「はい」
「リゼも出店班だしな」
リゼは少しだけ沈黙した。
それから、静かに言った。
「はい。出店班です」
カイが嬉しそうに笑う。
ミリアも微笑む。
アルトは左手首に触れた。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
現在地は、学園中庭。
夕方。
リゼさん、ミリアさん、カイといる。
小さな灯の焼き菓子店の申請書が形になってきた。
リゼさんが出店班ですと言った。
感情は、嬉しい。
その時、カイが布袋を取り出した。
「役割決定用」
ミリアが笑う。
「今日もあるのね」
「購買のだけどな」
「十分です」
リゼが真面目に言う。
カイは焼き菓子を配った。
「リゼ出店班用。アルト看板係用。ミリア企画係用。俺調理担当用」
「係名が増えましたね」
アルトが言うと、カイは胸を張った。
「役割だからな」
リゼが焼き菓子を受け取り、しばらく見つめた。
「役割を選ぶこと」
小さく呟く。
ミリアが聞く。
「今の感情は?」
リゼは少し考えた。
「不安があります。警備補助を限定することへの不安。危険を見逃す可能性への不安」
「うん」
「しかし、出店班にいることについて、不快はありません」
「それは良かったわ」
「加えて」
リゼは言葉を選ぶ。
「少し、楽しみだと思います」
アルトの左手首がふわりと温かくなった。
カイが目を輝かせる。
「言ったな」
「はい」
「楽しみって言ったな」
「はい」
「よし」
「なぜあなたが満足するのですか」
「そりゃ満足するだろ」
カイは焼き菓子を頬張った。
ミリアはくすくす笑っている。
リゼは少しだけ困ったように瞬きをしたが、焼き菓子を一口食べた。
「甘いです」
「好き?」
ミリアが尋ねる。
リゼは少し考えてから答えた。
「好きだと思います」
その答えは、以前より少しだけ早かった。
夜。
男子寮の自室で、アルトは今日の紙片を書いた。
今日は、リゼさんが役割を選んだ日だった。
朝、リゼさんは警備補助班を主にするか、出店班を主にするか、両方をするかで迷っていた。
カイは、出店にいてほしい。でも決めるのはお前だと言った。
僕も、出店にいてほしいと言った。
でも、僕のためだけに警備を選ばないでほしいとも言った。
学園祭は怖い。
でも、リゼさんが全部警備に行けば安心するわけではない。
出店が戻れる場所になるなら、それも安全だと思うと言った。
リゼさんは、戻れる場所を作ることも安全管理に含まれますかと聞いた。
僕には含まれると答えた。
ロウ先生に相談した。
ロウ先生は、合理性は後でいい、君自身はどうしたいと聞いた。
リゼさんは最初、合理的な理由を言った。
警備に入ることは有効。
危険要素が複数ある。
警備情報を把握することは有効。
でも、ロウ先生は何度も、君自身はどうしたいと聞いた。
リゼさんは最後に、私は出店準備を継続したいですと言った。
そして、私はその場にいたいですと言った。
僕はそれを聞けて嬉しかった。
ロウ先生は、警備を理由に自分の居場所を捨てるなと言った。
剣術大会で剣を制御した。次は、剣を持たない時間を制御しろと言った。
午前の授業では、役割と所有の話をした。
役割は便利だけど、人を閉じ込めることもある。
大事なのは、役割を持つことではなく、役割を選ぶこと。
引き受けることと、引き受けないことを決めること。
昼、小さな灯の焼き菓子店の正式申請書を進めた。
リゼさんは、出店班を主にして、警備補助は中庭周辺の事前確認と混雑時の報告補助だけにすると書いた。
武力対応なし。
単独対応なし。
出店時間中の不定期呼び出しは原則不可。
リーナ先輩は、それは助かると言った。
何でもできますと言われる方が怖いと言った。
出店班のリゼさん、よろしくねと言った。
リゼさんは、はい。よろしくお願いしますと言った。
家庭実習担当のマリベル先生にも相談した。
焼き菓子には成分表示が必要。
卵、乳、小麦、干し果物の種類。
試作品を一度持っていくことになった。
看板はお客様が最初に見るものだから大事だと言われた。
夕方、役割決定用の焼き菓子を食べた。
カイは、リゼ出店班用、アルト看板係用、ミリア企画係用、俺調理担当用と言った。
リゼさんは、不安はあるけど、出店班にいることについて不快はないと言った。
そして、少し楽しみだと思いますと言った。
僕は、それがとても嬉しかった。
アルトはペンを止めた。
机の上に、正式申請書の写しを置く。
まだ下書きだ。
それでも、そこには四人の名前がある。
カイ・ロックハート。
ミリア・ファルネーゼ。
リゼ・グレイス。
アルト・レインフォード。
小さな灯の焼き菓子店。
出店班。
その紙の中で、リゼは護衛者でも、優勝者でも、王宮が欲しがる剣でもなく、出店班の一員だった。
アルトは最後に、一行を書いた。
役割は押しつけられることもあるけれど、自分で選べるなら、そこは居場所になるのかもしれない。
紙片を折り、引き出しへしまう。
左手首を胸の上に置いた。
熱は少し。
痛みはない。
声もない。
「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。今日はリゼさんが、出店班にいたいと言った」
銀環は淡く光った。
その光は、誰かに役割を刻まれるためのものではなく、自分で選んだ場所へ名前を書き込むための小さな灯のように、手首の奥で静かに揺れていた。




