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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第5章 第3話:白鐘という名前


 朝の中庭には、焼き菓子の匂いが残っていた。


 昨日、カイ・ロックハートが試作品を持ってきたせいではない。実際には、昨日の焼き菓子はもう全部食べ終わっているし、布袋もきちんと持ち帰られている。


 けれどアルト・レインフォードには、まだどこかに甘い匂いが漂っている気がした。


 小さな灯の焼き菓子店。


 見届けクッキー。


 戻ってこい焼き菓子店は却下されたが、その気持ちは残っている。


 昨日、仮受付済み企画の一覧に自分たちの店名が書かれた。まだ正式申請前の仮の名前。それでも、掲示板の紙の上にその文字を見た時、アルトの左手首は淡く光った。


 痛みはなかった。


 怖くもなかった。


 名前を付けることが、いつも怖いだけではないのだと思えた。


 だから今朝も、アルトは少しだけ早く中庭へ来ていた。


 左手首に布を巻き直し、いつものベンチに座り、昨日のメモを見直す。


 小さな灯の焼き菓子店。


 商品名候補。


 見届けクッキー。


 朝に食べる用。


 戻れる甘さ。


 勝てて嬉しい味。


 カイが提案した言葉と、ミリアが整えた言葉と、リゼが注意した項目と、自分が書いた言葉が混ざっている。


 アルトは紙の上を指でなぞった。


 名前は、怖いこともある。


 でも、戻れることもある。


 昨日そう言った。


 その言葉は、自分の胸の中でまだ温かかった。


 噴水の水音が聞こえる。


 校舎の窓が朝日を反射している。


 学園祭準備委員募集の掲示は、今日も剣術大会の結果掲示の隣に貼られていた。剣術大会の紙は少しずつ見に来る人が減っているが、学園祭の紙の前には新しい生徒が増えている。


 日々が次へ移っているのがわかる。


 そこへ、ミリア・ファルネーゼがやってきた。


「おはようございます、アルトさん」


「おはようございます」


 ミリアはアルトの手元の紙を見て、柔らかく微笑んだ。


「もう名前を考えていたの?」


「はい。昨日の続きです」


「いいわね。急ぎすぎなくてもいいけれど、考える時間も楽しいもの」


「楽しい、ですか」


「ええ。名前を決めるのは、その場所がどんなふうに見えてほしいかを考えることだから」


 ミリアはベンチに腰を下ろした。


「小さな灯の焼き菓子店。私はとても好きよ」


「ありがとうございます」


 左手首が少しだけ温かくなる。


 痛みはない。


 声もない。


 ミリアが気づいて、すぐに尋ねた。


「熱は?」


「少し。痛みなし。声なし」


「現在地は?」


「学園中庭。朝。いつものベンチ。ミリアさんといます。焼き菓子店の名前を考えています」


「感情は?」


「少し恥ずかしいです。でも、嫌ではありません」


「良好ね」


 その言葉に、アルトは少し笑った。


 次に来たのはカイだった。


 今日は焼き菓子の布袋はない。代わりに、何枚もの紙を持っている。どれも字が大きく、勢いがある。


「新しい名前案だ」


 第一声がそれだった。


 ミリアが少し楽しそうに目を細める。


「昨日、かなり考えたのね」


「考えた」


 カイは紙を広げた。


 そこには、力強い字でいくつもの名前が書かれていた。


 戻ってこい焼き菓子店。


 見届け菓子屋。


 勝っても負けても食え店。


 熱下がれ亭。


 小さな灯と大きな焼き菓子。


 カイの必勝菓子。


 アルトは最後の一つを見て、少し吹き出しそうになった。


「カイの必勝菓子」


「一応書いた」


 カイは真面目だった。


 ミリアは紙を見ながら、笑いをこらえるように口元を押さえた。


「どれもカイさんらしいわ」


「褒めてるか?」


「ええ。とても」


「ならいい」


 カイは自信ありげに頷いた。


 そこへ、リゼ・グレイスが来た。


 いつものように周囲を確認し、アルトの左側へ立つ。灰銀の髪が朝の光に少しだけ透けて見える。


「おはようございます」


「おはようございます」


 アルトが返す。


 カイが紙を差し出した。


「新しい名前案だ」


 リゼは紙を受け取り、真剣に読み始めた。


 戻ってこい焼き菓子店。


「命令形です」


 見届け菓子屋。


「意味説明が必要ですが、商品名としては可能性があります」


 勝っても負けても食え店。


「食え、という表現は接客上不適切です」


 熱下がれ亭。


「薬効誤認の可能性があります」


 小さな灯と大きな焼き菓子。


「商品サイズに誤認が生じる可能性があります」


 カイの必勝菓子。


「個人名利用および効果保証の問題があります」


 カイは少しずつ肩を落としていった。


「全部駄目か?」


「完全否定ではありません。要調整です」


「それ、ほぼ駄目ってことじゃねえか」


「調整余地があります」


 ミリアが優しく言う。


「カイさんの案は、商品説明や限定札に使えるかもしれないわ」


「限定札?」


「例えば、“大切な日を見届けたい時に”とか、“勝っても負けても一息つきたい時に”とか」


 カイは少し考えた。


「勝っても負けても食え、より上品だな」


「そうね」


 リゼが頷く。


「意味は保持されています」


「ならよし」


 カイは少し立ち直った。


 アルトは三人のやり取りを見ながら、紙の端に小さく言葉を書き足した。


 大切な日を見届けたい時に。


 勝っても負けても、一息つける甘さ。


 怖い日にも、戻れる灯。


 その時、カイがふと思い出したように言った。


「そういえばさ、昨日の名前候補で一個思いついた」


「まだあるの?」


 ミリアが尋ねる。


「小さな灯って、いいだろ。でも、学園祭って鐘も鳴るし、白い飾りもあるし」


 アルトの指が止まった。


 カイはまだ気づかず続ける。


「白い鐘の焼き菓子店とかどうだ?」


 左手首が、一瞬で熱くなった。


 それは昨日の「小さな灯」を見た時の柔らかい熱ではなかった。


 芯から鋭く走るような熱。


 布の下で、銀環が強く光る。


 アルトは息を止めた。


 音が遠くなる。


 噴水の水音が、急に深い場所から響いているように聞こえた。


 白い鐘。


 白鐘。


 言葉が、胸の奥で形を変える。


 白鐘紙工房。


 白鐘礼拝堂。


 封音鐘。


 鳴らさないで。


 鐘を鳴らさないで。


 夢の中の声が、はっきり聞こえたわけではない。


 でも、思い出した。


 白い鐘。


 来てはいけない。


 鐘を鳴らさないで。


 友達を、扉に近づけてはいけない。


「アルトさん」


 リゼの声が聞こえた。


 近い。


 はっきりしている。


 アルトは左手首を押さえた。


 熱い。


 痛みは少し。


 声はない。


 声はない。


 今のは記憶。


 夢の記憶。


 現在地。


 現在地を言う。


「痛み、少し。熱、強。声なし」


 自分の声が少し震える。


 リゼがすぐに続ける。


「現在地は」


「学園中庭。朝。いつものベンチ。リゼさん、ミリアさん、カイがいる」


「原因は」


「白い鐘、という言葉。白鐘を思い出しました」


 カイの顔から血の気が引いた。


「悪い」


 彼はすぐに言った。


「俺、知らなくて」


「カイさん」


 リゼの声は鋭すぎなかった。


 止める声だった。


「謝罪は後で整理します。今はアルトさんの確認を優先します」


「おう」


 カイは拳を握りしめたまま頷く。


 ミリアがアルトの正面へしゃがみ込んだ。


 視線の高さを合わせる。


「アルトさん、感情は言えますか」


 アルトは息を吸った。


 白鐘。


 怖い。


 でも、今は中庭。


 朝。


 三人がいる。


「怖いです。急に、夢の言葉を思い出しました。でも、声は聞こえていません。ここにいます」


 ミリアが静かに頷く。


「良好です」


 リゼも言う。


「良好です」


 カイはまだ黙っている。


 アルトは左手首を押さえたまま、ゆっくり息を吐いた。


 熱はまだ強い。


 痛みは少し。


 でも、声はない。


 銀環の光は布の下で脈のように揺れている。


「白鐘」


 アルトは自分で小さく言った。


 言った瞬間、熱がまた少し上がる。


 けれど、倒れるほどではない。


 リゼがすぐに止めようとしたが、アルトは首を横に振った。


「大丈夫です。今、自分で言いました」


「負荷があります」


「はい。でも、全部遠ざけると、また急に聞いた時に怖いと思います」


 リゼは黙った。


 ミリアも静かに見ている。


 カイは苦しそうに口を開く。


「本当に悪かった。俺、白鐘が駄目な言葉だって、ちゃんと考えてなかった」


「駄目な言葉、ではないと思います」


 アルトはゆっくり言った。


 自分でも驚くほど、言葉は慎重に出てきた。


「怖い言葉です。でも、全部駄目にしたいわけじゃありません」


 カイが顔を上げる。


 リゼの灰銀の瞳が揺れる。


「白鐘って、僕の過去に関係ある言葉です。白鐘紙工房も、白鐘礼拝堂も。夢にも出てきました。だから怖いです。でも、完全に避け続けたら、何も知れない気がします」


 左手首はまだ熱い。


 でも、声はない。


 今は自分の言葉だ。


「店の名前には、使わない方がいいと思います。怖いから。でも、僕から全部隠さないでください」


 言い終えると、胸が少し痛くなった。


 怖い。


 言葉にしたことで、怖さがはっきり形を持った。


 でも、同時に少し楽になった。


 ミリアがそっと言った。


「わかったわ」


 リゼも頷く。


「白鐘を、危険語として管理します。ただし、全面排除ではなく、本人意思確認の上で段階的に扱う」


「はい」


 カイは深く息を吐いた。


「俺も覚える。白鐘は、急に言わない。言う前に確認する」


「ありがとうございます」


 アルトが言うと、カイは苦しそうに眉を寄せた。


「俺が言わせたのに、ありがとうって言うなよ」


「でも、今言えました」


「そうだけど」


 カイは髪をぐしゃりとかこうとして、途中でリゼの視線に気づき、手を止めた。


「……突撃じゃなくて確認だな」


「はい」


 リゼが頷いた。


「今後、白鐘関連語を扱う場合は事前確認を行います」


「俺もやる」


 ミリアが紙を取り出し、丁寧に書いた。


 白鐘関連語。


 事前確認必須。


 使用時は現在地確認。


 痛み・熱・声・感情を記録。


 無理なら中止。


 本人希望があれば段階的に調べる。


 アルトはその文字を見た。


 怖い言葉が、手順になる。


 それだけで、少しだけ持てるようになる気がした。


 朝の鐘が鳴った。


 アルトの左手首がまた淡く光ったが、先ほどのような強さではない。


 痛みは薄れてきている。


「痛み、弱。熱、中。声なし。現在地は学園中庭。朝。白鐘という言葉に反応した後、手順を作りました」


 リゼが頷く。


「良好です」


 授業前、リゼはロウ教師に相談することを提案した。


 アルトも同意した。


 ミリアも、カイも。


 そのため、四人は王国史の授業前にロウ教師の元へ向かった。


 ロウ教師は教卓で資料を整理していた。四人が近づくと、すぐに顔を上げる。


「どうした」


 リゼが簡潔に説明した。


「学園祭出店名検討中、白い鐘という語によりアルトさんの銀環が反応しました。痛み少、熱強、声なし。現在地確認により安定。本人は白鐘関連語を全面排除ではなく、段階的に扱うことを希望しています」


 ロウ教師の表情が硬くなる。


 だが、驚きはしなかった。


「白鐘か」


 アルトの左手首が少し熱くなる。


 ロウ教師はすぐにそれに気づいた。


「すまない。今の言葉にも反応したか」


「少しです。痛みなし。熱少し。声なし」


「現在地は」


「第一教室。朝。ロウ先生、リゼさん、ミリアさん、カイといます」


「良好だ」


 ロウ教師は資料を置いた。


「危険語として扱う判断は妥当だ。ただし、危険だからといって全て隠せば、次に不意打ちで出た時に崩れる。本人が段階的に扱いたいと言うなら、手順を作れ」


「はい」


 アルトは頷く。


 カイが少し前へ出る。


「俺が言いました。白い鐘の焼き菓子店って」


「そうか」


 ロウ教師はカイを見る。


「悪意は」


「ありません。でも考えてなかった」


「なら、次から考えろ」


「はい」


「謝罪より手順だ。謝って終わるな」


 カイは真剣に頷いた。


「はい」


 ロウ教師はリゼへ視線を戻す。


「グレイス。危険語を聞いた時、即時遮断だけを選ぶな。もちろん、反応が強ければ中止だ。だが、本人が扱う意思を示している時は、本人の言葉を奪うな」


「はい」


 リゼは静かに答えた。


「私は、撤退判断を優先しすぎる可能性があります」


「自覚しているなら良い。撤退は重要だ。だが、撤退だけで人は学べない」


 その言葉に、リゼは小さく頷いた。


 ロウ教師はミリアを見る。


「ファルネーゼ嬢。記録を頼む」


「はい」


「カイ。今後、思いつきを口にする前に一呼吸置け」


「はい」


「アルト君」


 ロウ教師の目が、アルトへ向く。


「怖い言葉を扱うなら、扱えない日があることも認めなさい」


 アルトは少し息を止めた。


「扱えない日」


「そうだ。今日は言える。明日は無理かもしれない。それでいい。手順は、必ずやらなければならない命令ではない。戻るための道具だ」


 アルトはゆっくり頷いた。


「はい」


 授業が始まると、ロウ教師は予定を少し変えたようだった。


 黒板に書かれた文字は、祝祭名と古語。


「学園祭の準備を進める中で、古い言葉や土地の名前に触れることがある」


 教室が静かになる。


 アルトはペンを握った。


 左手首の熱はまだ少しあるが、痛みはない。


「古い名は、ただの飾りではない。土地、家、祭り、祈り、時に争いの記憶を持っている。だから、名を使う時は注意しなければならない」


 カイが真剣に聞いている。


 リゼも背筋を伸ばしている。


「例えば、ある地域でよく知られた祝祭名が、別の者にとっては失われた家や事件を思い出させることがある。美しい言葉が、誰かには痛みを呼ぶこともある」


 ロウ教師はチョークを置いた。


「だからといって、全ての古い名を消すべきだとは言わない。大事なのは、知らずに使わないことだ。使うなら、意味を調べる。誰に届くかを考える。反応が出たなら、記録する」


 アルトはノートに書いた。


 知らずに使わない。


 意味を調べる。


 誰に届くかを考える。


 反応を記録する。


 それは、今朝の白鐘のことそのものだった。


 授業の終わり際、ロウ教師は淡々と言った。


「学園祭は楽しい行事だ。だが、楽しさは無知の上に立つ必要はない。知った上で、それでも明かりを灯しなさい」


 アルトはペンを止めた。


 知った上で、それでも明かりを灯す。


 小さな灯の焼き菓子店。


 その名前が、少し深くなった気がした。


 昼休み、四人はクラウス・ヴァイゼルとユリウス・エインズワースに相談するため、第一校舎の小会議室へ向かった。


 クラウスは王宮側の大人だ。


 完全に安心できる相手ではない。


 けれど、白鐘関連の情報を知っている。


 ユリウスは学園側として同席してくれる。


 小会議室に入る前、アルトは左手首を押さえた。


「痛みなし。熱、少し。声なし。現在地は第一校舎二階。小会議室前。リゼさん、ミリアさん、カイ、ユリウス先輩がいます。これからクラウス卿に白鐘のことを相談します」


 カイが小さく言う。


「大丈夫か」


「少し怖い。でも、大丈夫です」


「無理なら止めるぞ」


「はい」


 リゼが頷く。


「中止条件を確認します。痛み強、声あり、現在地不明瞭、または本人が中止希望を出した場合、中止」


「はい」


 ミリアが記録する。


「了解です」


 扉が開く。


 クラウスが中で待っていた。


 彼は静かに立ち上がり、アルトへ一礼した。


「来てくれてありがとう」


 アルトは少し緊張しながら頷いた。


 ユリウスが同席し、ミリアが記録役として座る。


 リゼはアルトの左側に立ち、カイは反対側の少し後ろに座った。


 クラウスが言う。


「白鐘という言葉に反応したと聞いた」


 左手首が少し熱くなる。


 でも、今度は予測していた。


「痛みなし。熱、少し。声なし」


 アルトは自分で言う。


 クラウスは頷いた。


「ゆっくりでいい。白鐘という名は、旧領北部では複数の場所や物に残っている」


「複数」


「ああ。君が知っている白鐘紙工房や白鐘礼拝堂だけではない。白鐘橋、白鐘通り、白鐘市、白鐘祭。古い祝祭歌にも白鐘の名は出る」


 アルトは左手首に触れた。


 熱が少し上がる。


 痛みはない。


 声もない。


「白鐘は、一つの場所だけじゃないんですか」


「そうだ。ただし、君の銀環が特に強く反応するのは、紙工房や礼拝堂、封印に関わるものと見ている」


 リゼが尋ねる。


「学園祭において白鐘関連語が自然に登場する可能性はありますか」


「ある」


 クラウスは即答した。


 ミリアの表情が少し硬くなる。


「祝祭歌や装飾、古い商標、紙細工。学園祭は過去の文化を模した装飾も多い。白い鐘の意匠が出る可能性は否定できない」


 カイが低く言う。


「じゃあ、全部避けるのは難しいのか」


「難しい」


 クラウスは正直に答えた。


「だが、事前に知っていれば対処できるものもある」


 ユリウスが言う。


「学園祭準備委員会には、装飾案や楽団曲目が集まる。白鐘関連の名称や意匠が含まれるか確認できるよう、こちらでも手配する」


 アルトは胸の奥が少し軽くなるのを感じた。


 全部避けるのではない。


 事前に知る。


 手順を作る。


 反応を記録する。


 それなら、少し扱えるかもしれない。


 クラウスは少し沈黙してから言った。


「ただし、気をつけてほしい。白鐘という言葉は、君にとって過去への手がかりであると同時に、君を揺らすための言葉にもなり得る」


 アルトは頷いた。


「誰かが、わざと使うかもしれない」


「その可能性はある」


 リゼの目が鋭くなる。


「敵性誘導」


「あり得る」


 クラウスは否定しなかった。


「だから、反応を隠しすぎるのも危険だ。信頼できる者には共有し、記録すること。君がどの言葉にどう反応するかを、敵ではなく君たちが先に知る必要がある」


 その言葉は重かった。


 敵ではなく、君たちが先に知る。


 アルトは左手首を見た。


 布の下で、銀環は静かに熱を持っている。


 怖い。


 けれど、自分たちが知らないままでいる方がもっと怖い。


 アルトはゆっくり言った。


「白鐘を、少しだけ調べたいです」


 リゼがこちらを見る。


 ミリアも。


 カイも。


 クラウスは静かに頷いた。


「どこまで」


「今日は、言葉だけ。白鐘がどういう場所や名前に使われているのか。紙工房と礼拝堂の詳しい話は、まだ少し怖いです」


「わかった」


 クラウスは慎重に答えた。


「では、今日は一覧だけにしよう。詳細は後日、本人確認を取ってから」


 ミリアが記録する。


 白鐘関連語一覧。


 詳細説明は段階的。


 本人確認必須。


 反応記録あり。


 クラウスは旧領北部に残る白鐘の名をいくつか挙げた。


 白鐘橋。


 白鐘市。


 白鐘祭。


 白鐘紙工房。


 白鐘礼拝堂。


 白鐘の古い祝祭歌。


 白鐘蔦の紋様。


 それぞれを聞くたび、アルトは左手首の反応を報告した。


 白鐘橋。


 熱、少し。


 痛みなし。


 声なし。


 白鐘市。


 熱、少し。


 痛みなし。


 声なし。


 白鐘祭。


 熱、中。


 胸が少し重い。


 声なし。


 白鐘紙工房。


 熱、強。


 痛み少し。


 声なし。


 白鐘礼拝堂。


 熱、強。


 痛み少し。


 耳が少し遠い。


 声なし。


 そこでリゼが一度中止を提案した。


 アルトは頷いた。


「今日は、ここまでにしたいです」


「了解しました」


 リゼがすぐに答えた。


 クラウスも頷いた。


「十分だ」


 カイが深く息を吐く。


「名前だけでこんなに違うのか」


「はい」


 アルトは左手首を押さえた。


「紙工房と礼拝堂は、強いです」


 ミリアが記録紙を見つめる。


「大事な情報ね」


 クラウスは静かに言った。


「今日の記録は、学園側管理に留める。王宮へそのまま渡すものではない」


 リゼが確認する。


「情報共有範囲は」


 ユリウスが答える。


「学園長、ロウ教師、クラウス卿、エレオノーラ、僕。必要に応じて医務担当。王宮側へは、本人に負荷のある語が確認されたため配慮が必要、という抽象度に留める」


「了解しました」


 アルトは少し安心した。


 自分の反応が、すぐに王宮の細かい報告書になるわけではない。


 それもまた、境界線だった。


 小会議室を出た後、四人は中庭へ戻った。


 昼休みは半分以上終わっていたが、ミリアが持っていた小さな包みから焼き菓子を出してくれた。


「今日は、危険語確認後用ね」


 カイが少し驚く。


「それ、俺の用途みたいだな」


「今日は私が考えました」


「いい用途だ」


 カイは真剣に頷いた。


 リゼが焼き菓子を受け取り、少し見つめる。


「危険語確認後用」


「ええ」


 ミリアが言う。


「怖い言葉を扱った後は、戻るものが必要でしょう」


 アルトは焼き菓子を受け取った。


 甘い匂いがする。


 今朝、白い鐘という言葉で一気に熱くなった左手首は、まだ少し重い。


 でも、今は中庭にいる。


 リゼ、ミリア、カイといる。


 怖い言葉を聞いても、ここへ戻ってきた。


 アルトは焼き菓子を一口食べた。


 甘さがゆっくり広がる。


「おいしいです」


「よかった」


 ミリアが微笑む。


 カイが真剣な顔で言う。


「アルト」


「うん」


「今後、俺が変な名前を思いついたら、先に見せる」


「うん」


「口に出す前に確認する」


「ありがとう」


「あと、白鐘は、急に言わない」


 カイは少し言いにくそうにその言葉を口にした。


 アルトの左手首は少し熱くなったが、強くはなかった。


「痛みなし。熱、少し。声なし」


 アルトはすぐに言った。


 カイがほっとしたように息を吐く。


「こうやって確認すればいいんだな」


「はい」


 リゼが頷く。


「事前確認があれば、反応は低下する可能性があります」


「じゃあ、やる」


 カイは力強く頷いた。


 午後の授業は少し疲れた。


 アルトは何度か左手首を確認しながら、授業を受けた。


 リゼはいつもより少しだけ近い位置を保っていたが、過剰には寄らなかった。ミリアは休み時間ごとに視線だけで状態を確認し、カイは何か言いたそうになるたびに一呼吸置いていた。


 それが少しおかしかった。


 でも、ありがたかった。


 放課後、四人は仮企画書の名前欄を見直した。


 白い鐘の焼き菓子店は、候補から外す。


 これはすぐに決まった。


 理由は、アルトへの負荷が高いこと。


 そして、白鐘関連語を軽く扱わないため。


 リゼは企画メモにこう記録した。


 白鐘関連語は店名・商品名に使用しない。


 ただし、本人希望により、危険語として段階的に調査する。


 出店名候補は「小さな灯の焼き菓子店」を維持。


 アルトはその文字を見て、左手首に触れた。


 小さな灯。


 痛みなし。


 熱、穏やか。


 声なし。


 やはり、この名前は怖くない。


 むしろ、戻れる。


 ミリアが尋ねた。


「この名前で、正式申請に進めそう?」


 アルトは頷いた。


「はい」


 カイも頷く。


「俺の案も商品名に残すなら」


「見届けクッキーは候補として残します」


 リゼが言う。


「戻ってこいは?」


 ミリアが少し考える。


「看板の裏に小さく書く?」


 カイの目が輝く。


「いいのか?」


「お客様に見せる表ではなく、私たちだけが見る場所に」


 アルトは想像した。


 看板の裏。


 表には、小さな灯の焼き菓子店。


 裏には、戻ってこい。


 それは少し秘密の合図のようだった。


 怖い時、看板の裏にある言葉を思い出す。


 戻ってこい。


 命令ではなく、呼びかけとして。


「いいと思います」


 アルトは言った。


 リゼも少し考えてから頷く。


「内部用語としてなら、許容可能です」


「よし」


 カイは満足そうだった。


 夕方、掲示板の前で、四人はもう一度仮受付済み企画の一覧を見た。


 小さな灯の焼き菓子店。


 その名前は、昨日と同じ場所にある。


 今日、白鐘という言葉で強く揺れた後だからこそ、その名前の穏やかさがよくわかった。


 アルトは左手首を押さえた。


「痛みなし。熱、少し。声なし。現在地は、学園中庭。夕方。掲示板前。リゼさん、ミリアさん、カイといる。小さな灯の焼き菓子店の名前を見ています」


 ミリアが聞く。


「感情は」


「少し疲れました。白鐘は怖かったです。でも、小さな灯は怖くありません」


 リゼが頷く。


「良好です」


 カイが小さく言う。


「白鐘は、急に言わない」


 アルトの左手首が少しだけ熱を返す。


 けれど、すぐに落ち着く。


「はい」


 アルトは頷いた。


「でも、少しずつ調べたいです」


 リゼが静かに答えた。


「一緒に手順を作ります」


 夜。


 男子寮の自室で、アルトは紙片を広げた。


 今日は書くことが多い。


 少し疲れている。


 左手首はまだ少し重い。


 でも、書きたいと思った。


 今日は、白鐘という名前に反応した。


 朝、中庭で焼き菓子店の名前を考えていた。


 カイが、白い鐘の焼き菓子店という案を出した。


 カイに悪気はなかった。


 でも、僕の左手首は強く光った。


 痛みが少しあって、熱が強かった。


 声はなかった。


 でも、夢の言葉を思い出した。


 来てはいけない。


 鐘を鳴らさないで。


 友達を、扉に近づけてはいけない。


 リゼさんが現在地を聞いてくれた。


 ミリアさんが感情を聞いてくれた。


 カイはすぐ謝ったけど、リゼさんは謝罪より確認を優先した。


 僕は、白鐘は怖いけれど、全部遠ざけたいわけじゃないと言った。


 怖い言葉だけど、僕の過去に関係がある言葉だから。


 全部隠されると、何も知れない気がする。


 その後、ロウ先生に相談した。


 ロウ先生は、危険語として扱うのは妥当だけど、危険だから全部隠すと次に不意打ちで崩れると言った。


 本人が段階的に扱いたいなら、手順を作れと言った。


 怖い言葉を扱うなら、扱えない日があることも認めなさいと言った。


 手順は命令ではなく、戻るための道具だと言った。


 授業では、祝祭名と古語の話をした。


 古い名は、土地、家、祭り、祈り、争いの記憶を持っている。


 知らずに使わないこと。


 意味を調べること。


 誰に届くかを考えること。


 反応が出たら記録すること。


 知った上で、それでも明かりを灯しなさいと言った。


 昼、クラウス卿とユリウス先輩に相談した。


 白鐘という名前は、旧領北部では複数の場所や物に残っているらしい。


 白鐘橋、白鐘市、白鐘祭、白鐘紙工房、白鐘礼拝堂、白鐘の古い祝祭歌、白鐘蔦の紋様。


 橋や市は反応が少しだった。


 祭は中くらい。


 紙工房と礼拝堂は強かった。


 礼拝堂で耳が少し遠くなったので、今日はそこで中止した。


 白鐘は、僕の手がかりでもあり、誰かが僕を揺らすために使う言葉にもなるかもしれない。


 クラウス卿は、敵ではなく君たちが先に知る必要があると言った。


 怖かったけど、少しだけ調べたいと言えた。


 午後、企画メモに、白鐘関連語は店名・商品名に使わないと書いた。


 でも、危険語として段階的に調査することにした。


 出店名は、小さな灯の焼き菓子店のまま。


 この名前は怖くない。


 左手首も穏やかに光る。


 カイは、今後変な名前を思いついたら口に出す前に確認すると言った。


 看板の裏に、戻ってこいと書く案も出た。


 表には小さな灯。


 裏には戻ってこい。


 それは、少し好きだと思った。


 アルトはペンを止めた。


 白鐘。


 紙に書こうとして、少し手が止まる。


 でも、今日の記録には必要だ。


 アルトはゆっくり、その二文字を書いた。


 白鐘。


 左手首が少し熱くなる。


 痛みはない。


 声もない。


 現在地は、男子寮の自室。


 夜。


 机に向かっている。


 これは記録。


 今は一人だが、明日になればリゼ、ミリア、カイに共有できる。


 怖い言葉を、一人で抱えない。


 アルトは最後に一行を書いた。


 白鐘は怖い。


 でも、怖い名前を全部消すのではなく、戻れる手順を作って、少しずつ知りたい。


 紙片を折り、引き出しへしまう。


 左手首を胸の上に置く。


 熱は少し。


 痛みはない。


 声もない。


「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。今日は白鐘という名前に反応した。でも、戻ってこられた」


 銀環は淡く光った。


 その光は、遠くの鐘へ引かれるためのものではなく、怖い名前を紙の上に置いても現在地へ戻るための、小さな灯のように手首の奥で静かに揺れていた。


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