第5章 第3話:白鐘という名前
朝の中庭には、焼き菓子の匂いが残っていた。
昨日、カイ・ロックハートが試作品を持ってきたせいではない。実際には、昨日の焼き菓子はもう全部食べ終わっているし、布袋もきちんと持ち帰られている。
けれどアルト・レインフォードには、まだどこかに甘い匂いが漂っている気がした。
小さな灯の焼き菓子店。
見届けクッキー。
戻ってこい焼き菓子店は却下されたが、その気持ちは残っている。
昨日、仮受付済み企画の一覧に自分たちの店名が書かれた。まだ正式申請前の仮の名前。それでも、掲示板の紙の上にその文字を見た時、アルトの左手首は淡く光った。
痛みはなかった。
怖くもなかった。
名前を付けることが、いつも怖いだけではないのだと思えた。
だから今朝も、アルトは少しだけ早く中庭へ来ていた。
左手首に布を巻き直し、いつものベンチに座り、昨日のメモを見直す。
小さな灯の焼き菓子店。
商品名候補。
見届けクッキー。
朝に食べる用。
戻れる甘さ。
勝てて嬉しい味。
カイが提案した言葉と、ミリアが整えた言葉と、リゼが注意した項目と、自分が書いた言葉が混ざっている。
アルトは紙の上を指でなぞった。
名前は、怖いこともある。
でも、戻れることもある。
昨日そう言った。
その言葉は、自分の胸の中でまだ温かかった。
噴水の水音が聞こえる。
校舎の窓が朝日を反射している。
学園祭準備委員募集の掲示は、今日も剣術大会の結果掲示の隣に貼られていた。剣術大会の紙は少しずつ見に来る人が減っているが、学園祭の紙の前には新しい生徒が増えている。
日々が次へ移っているのがわかる。
そこへ、ミリア・ファルネーゼがやってきた。
「おはようございます、アルトさん」
「おはようございます」
ミリアはアルトの手元の紙を見て、柔らかく微笑んだ。
「もう名前を考えていたの?」
「はい。昨日の続きです」
「いいわね。急ぎすぎなくてもいいけれど、考える時間も楽しいもの」
「楽しい、ですか」
「ええ。名前を決めるのは、その場所がどんなふうに見えてほしいかを考えることだから」
ミリアはベンチに腰を下ろした。
「小さな灯の焼き菓子店。私はとても好きよ」
「ありがとうございます」
左手首が少しだけ温かくなる。
痛みはない。
声もない。
ミリアが気づいて、すぐに尋ねた。
「熱は?」
「少し。痛みなし。声なし」
「現在地は?」
「学園中庭。朝。いつものベンチ。ミリアさんといます。焼き菓子店の名前を考えています」
「感情は?」
「少し恥ずかしいです。でも、嫌ではありません」
「良好ね」
その言葉に、アルトは少し笑った。
次に来たのはカイだった。
今日は焼き菓子の布袋はない。代わりに、何枚もの紙を持っている。どれも字が大きく、勢いがある。
「新しい名前案だ」
第一声がそれだった。
ミリアが少し楽しそうに目を細める。
「昨日、かなり考えたのね」
「考えた」
カイは紙を広げた。
そこには、力強い字でいくつもの名前が書かれていた。
戻ってこい焼き菓子店。
見届け菓子屋。
勝っても負けても食え店。
熱下がれ亭。
小さな灯と大きな焼き菓子。
カイの必勝菓子。
アルトは最後の一つを見て、少し吹き出しそうになった。
「カイの必勝菓子」
「一応書いた」
カイは真面目だった。
ミリアは紙を見ながら、笑いをこらえるように口元を押さえた。
「どれもカイさんらしいわ」
「褒めてるか?」
「ええ。とても」
「ならいい」
カイは自信ありげに頷いた。
そこへ、リゼ・グレイスが来た。
いつものように周囲を確認し、アルトの左側へ立つ。灰銀の髪が朝の光に少しだけ透けて見える。
「おはようございます」
「おはようございます」
アルトが返す。
カイが紙を差し出した。
「新しい名前案だ」
リゼは紙を受け取り、真剣に読み始めた。
戻ってこい焼き菓子店。
「命令形です」
見届け菓子屋。
「意味説明が必要ですが、商品名としては可能性があります」
勝っても負けても食え店。
「食え、という表現は接客上不適切です」
熱下がれ亭。
「薬効誤認の可能性があります」
小さな灯と大きな焼き菓子。
「商品サイズに誤認が生じる可能性があります」
カイの必勝菓子。
「個人名利用および効果保証の問題があります」
カイは少しずつ肩を落としていった。
「全部駄目か?」
「完全否定ではありません。要調整です」
「それ、ほぼ駄目ってことじゃねえか」
「調整余地があります」
ミリアが優しく言う。
「カイさんの案は、商品説明や限定札に使えるかもしれないわ」
「限定札?」
「例えば、“大切な日を見届けたい時に”とか、“勝っても負けても一息つきたい時に”とか」
カイは少し考えた。
「勝っても負けても食え、より上品だな」
「そうね」
リゼが頷く。
「意味は保持されています」
「ならよし」
カイは少し立ち直った。
アルトは三人のやり取りを見ながら、紙の端に小さく言葉を書き足した。
大切な日を見届けたい時に。
勝っても負けても、一息つける甘さ。
怖い日にも、戻れる灯。
その時、カイがふと思い出したように言った。
「そういえばさ、昨日の名前候補で一個思いついた」
「まだあるの?」
ミリアが尋ねる。
「小さな灯って、いいだろ。でも、学園祭って鐘も鳴るし、白い飾りもあるし」
アルトの指が止まった。
カイはまだ気づかず続ける。
「白い鐘の焼き菓子店とかどうだ?」
左手首が、一瞬で熱くなった。
それは昨日の「小さな灯」を見た時の柔らかい熱ではなかった。
芯から鋭く走るような熱。
布の下で、銀環が強く光る。
アルトは息を止めた。
音が遠くなる。
噴水の水音が、急に深い場所から響いているように聞こえた。
白い鐘。
白鐘。
言葉が、胸の奥で形を変える。
白鐘紙工房。
白鐘礼拝堂。
封音鐘。
鳴らさないで。
鐘を鳴らさないで。
夢の中の声が、はっきり聞こえたわけではない。
でも、思い出した。
白い鐘。
来てはいけない。
鐘を鳴らさないで。
友達を、扉に近づけてはいけない。
「アルトさん」
リゼの声が聞こえた。
近い。
はっきりしている。
アルトは左手首を押さえた。
熱い。
痛みは少し。
声はない。
声はない。
今のは記憶。
夢の記憶。
現在地。
現在地を言う。
「痛み、少し。熱、強。声なし」
自分の声が少し震える。
リゼがすぐに続ける。
「現在地は」
「学園中庭。朝。いつものベンチ。リゼさん、ミリアさん、カイがいる」
「原因は」
「白い鐘、という言葉。白鐘を思い出しました」
カイの顔から血の気が引いた。
「悪い」
彼はすぐに言った。
「俺、知らなくて」
「カイさん」
リゼの声は鋭すぎなかった。
止める声だった。
「謝罪は後で整理します。今はアルトさんの確認を優先します」
「おう」
カイは拳を握りしめたまま頷く。
ミリアがアルトの正面へしゃがみ込んだ。
視線の高さを合わせる。
「アルトさん、感情は言えますか」
アルトは息を吸った。
白鐘。
怖い。
でも、今は中庭。
朝。
三人がいる。
「怖いです。急に、夢の言葉を思い出しました。でも、声は聞こえていません。ここにいます」
ミリアが静かに頷く。
「良好です」
リゼも言う。
「良好です」
カイはまだ黙っている。
アルトは左手首を押さえたまま、ゆっくり息を吐いた。
熱はまだ強い。
痛みは少し。
でも、声はない。
銀環の光は布の下で脈のように揺れている。
「白鐘」
アルトは自分で小さく言った。
言った瞬間、熱がまた少し上がる。
けれど、倒れるほどではない。
リゼがすぐに止めようとしたが、アルトは首を横に振った。
「大丈夫です。今、自分で言いました」
「負荷があります」
「はい。でも、全部遠ざけると、また急に聞いた時に怖いと思います」
リゼは黙った。
ミリアも静かに見ている。
カイは苦しそうに口を開く。
「本当に悪かった。俺、白鐘が駄目な言葉だって、ちゃんと考えてなかった」
「駄目な言葉、ではないと思います」
アルトはゆっくり言った。
自分でも驚くほど、言葉は慎重に出てきた。
「怖い言葉です。でも、全部駄目にしたいわけじゃありません」
カイが顔を上げる。
リゼの灰銀の瞳が揺れる。
「白鐘って、僕の過去に関係ある言葉です。白鐘紙工房も、白鐘礼拝堂も。夢にも出てきました。だから怖いです。でも、完全に避け続けたら、何も知れない気がします」
左手首はまだ熱い。
でも、声はない。
今は自分の言葉だ。
「店の名前には、使わない方がいいと思います。怖いから。でも、僕から全部隠さないでください」
言い終えると、胸が少し痛くなった。
怖い。
言葉にしたことで、怖さがはっきり形を持った。
でも、同時に少し楽になった。
ミリアがそっと言った。
「わかったわ」
リゼも頷く。
「白鐘を、危険語として管理します。ただし、全面排除ではなく、本人意思確認の上で段階的に扱う」
「はい」
カイは深く息を吐いた。
「俺も覚える。白鐘は、急に言わない。言う前に確認する」
「ありがとうございます」
アルトが言うと、カイは苦しそうに眉を寄せた。
「俺が言わせたのに、ありがとうって言うなよ」
「でも、今言えました」
「そうだけど」
カイは髪をぐしゃりとかこうとして、途中でリゼの視線に気づき、手を止めた。
「……突撃じゃなくて確認だな」
「はい」
リゼが頷いた。
「今後、白鐘関連語を扱う場合は事前確認を行います」
「俺もやる」
ミリアが紙を取り出し、丁寧に書いた。
白鐘関連語。
事前確認必須。
使用時は現在地確認。
痛み・熱・声・感情を記録。
無理なら中止。
本人希望があれば段階的に調べる。
アルトはその文字を見た。
怖い言葉が、手順になる。
それだけで、少しだけ持てるようになる気がした。
朝の鐘が鳴った。
アルトの左手首がまた淡く光ったが、先ほどのような強さではない。
痛みは薄れてきている。
「痛み、弱。熱、中。声なし。現在地は学園中庭。朝。白鐘という言葉に反応した後、手順を作りました」
リゼが頷く。
「良好です」
授業前、リゼはロウ教師に相談することを提案した。
アルトも同意した。
ミリアも、カイも。
そのため、四人は王国史の授業前にロウ教師の元へ向かった。
ロウ教師は教卓で資料を整理していた。四人が近づくと、すぐに顔を上げる。
「どうした」
リゼが簡潔に説明した。
「学園祭出店名検討中、白い鐘という語によりアルトさんの銀環が反応しました。痛み少、熱強、声なし。現在地確認により安定。本人は白鐘関連語を全面排除ではなく、段階的に扱うことを希望しています」
ロウ教師の表情が硬くなる。
だが、驚きはしなかった。
「白鐘か」
アルトの左手首が少し熱くなる。
ロウ教師はすぐにそれに気づいた。
「すまない。今の言葉にも反応したか」
「少しです。痛みなし。熱少し。声なし」
「現在地は」
「第一教室。朝。ロウ先生、リゼさん、ミリアさん、カイといます」
「良好だ」
ロウ教師は資料を置いた。
「危険語として扱う判断は妥当だ。ただし、危険だからといって全て隠せば、次に不意打ちで出た時に崩れる。本人が段階的に扱いたいと言うなら、手順を作れ」
「はい」
アルトは頷く。
カイが少し前へ出る。
「俺が言いました。白い鐘の焼き菓子店って」
「そうか」
ロウ教師はカイを見る。
「悪意は」
「ありません。でも考えてなかった」
「なら、次から考えろ」
「はい」
「謝罪より手順だ。謝って終わるな」
カイは真剣に頷いた。
「はい」
ロウ教師はリゼへ視線を戻す。
「グレイス。危険語を聞いた時、即時遮断だけを選ぶな。もちろん、反応が強ければ中止だ。だが、本人が扱う意思を示している時は、本人の言葉を奪うな」
「はい」
リゼは静かに答えた。
「私は、撤退判断を優先しすぎる可能性があります」
「自覚しているなら良い。撤退は重要だ。だが、撤退だけで人は学べない」
その言葉に、リゼは小さく頷いた。
ロウ教師はミリアを見る。
「ファルネーゼ嬢。記録を頼む」
「はい」
「カイ。今後、思いつきを口にする前に一呼吸置け」
「はい」
「アルト君」
ロウ教師の目が、アルトへ向く。
「怖い言葉を扱うなら、扱えない日があることも認めなさい」
アルトは少し息を止めた。
「扱えない日」
「そうだ。今日は言える。明日は無理かもしれない。それでいい。手順は、必ずやらなければならない命令ではない。戻るための道具だ」
アルトはゆっくり頷いた。
「はい」
授業が始まると、ロウ教師は予定を少し変えたようだった。
黒板に書かれた文字は、祝祭名と古語。
「学園祭の準備を進める中で、古い言葉や土地の名前に触れることがある」
教室が静かになる。
アルトはペンを握った。
左手首の熱はまだ少しあるが、痛みはない。
「古い名は、ただの飾りではない。土地、家、祭り、祈り、時に争いの記憶を持っている。だから、名を使う時は注意しなければならない」
カイが真剣に聞いている。
リゼも背筋を伸ばしている。
「例えば、ある地域でよく知られた祝祭名が、別の者にとっては失われた家や事件を思い出させることがある。美しい言葉が、誰かには痛みを呼ぶこともある」
ロウ教師はチョークを置いた。
「だからといって、全ての古い名を消すべきだとは言わない。大事なのは、知らずに使わないことだ。使うなら、意味を調べる。誰に届くかを考える。反応が出たなら、記録する」
アルトはノートに書いた。
知らずに使わない。
意味を調べる。
誰に届くかを考える。
反応を記録する。
それは、今朝の白鐘のことそのものだった。
授業の終わり際、ロウ教師は淡々と言った。
「学園祭は楽しい行事だ。だが、楽しさは無知の上に立つ必要はない。知った上で、それでも明かりを灯しなさい」
アルトはペンを止めた。
知った上で、それでも明かりを灯す。
小さな灯の焼き菓子店。
その名前が、少し深くなった気がした。
昼休み、四人はクラウス・ヴァイゼルとユリウス・エインズワースに相談するため、第一校舎の小会議室へ向かった。
クラウスは王宮側の大人だ。
完全に安心できる相手ではない。
けれど、白鐘関連の情報を知っている。
ユリウスは学園側として同席してくれる。
小会議室に入る前、アルトは左手首を押さえた。
「痛みなし。熱、少し。声なし。現在地は第一校舎二階。小会議室前。リゼさん、ミリアさん、カイ、ユリウス先輩がいます。これからクラウス卿に白鐘のことを相談します」
カイが小さく言う。
「大丈夫か」
「少し怖い。でも、大丈夫です」
「無理なら止めるぞ」
「はい」
リゼが頷く。
「中止条件を確認します。痛み強、声あり、現在地不明瞭、または本人が中止希望を出した場合、中止」
「はい」
ミリアが記録する。
「了解です」
扉が開く。
クラウスが中で待っていた。
彼は静かに立ち上がり、アルトへ一礼した。
「来てくれてありがとう」
アルトは少し緊張しながら頷いた。
ユリウスが同席し、ミリアが記録役として座る。
リゼはアルトの左側に立ち、カイは反対側の少し後ろに座った。
クラウスが言う。
「白鐘という言葉に反応したと聞いた」
左手首が少し熱くなる。
でも、今度は予測していた。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
アルトは自分で言う。
クラウスは頷いた。
「ゆっくりでいい。白鐘という名は、旧領北部では複数の場所や物に残っている」
「複数」
「ああ。君が知っている白鐘紙工房や白鐘礼拝堂だけではない。白鐘橋、白鐘通り、白鐘市、白鐘祭。古い祝祭歌にも白鐘の名は出る」
アルトは左手首に触れた。
熱が少し上がる。
痛みはない。
声もない。
「白鐘は、一つの場所だけじゃないんですか」
「そうだ。ただし、君の銀環が特に強く反応するのは、紙工房や礼拝堂、封印に関わるものと見ている」
リゼが尋ねる。
「学園祭において白鐘関連語が自然に登場する可能性はありますか」
「ある」
クラウスは即答した。
ミリアの表情が少し硬くなる。
「祝祭歌や装飾、古い商標、紙細工。学園祭は過去の文化を模した装飾も多い。白い鐘の意匠が出る可能性は否定できない」
カイが低く言う。
「じゃあ、全部避けるのは難しいのか」
「難しい」
クラウスは正直に答えた。
「だが、事前に知っていれば対処できるものもある」
ユリウスが言う。
「学園祭準備委員会には、装飾案や楽団曲目が集まる。白鐘関連の名称や意匠が含まれるか確認できるよう、こちらでも手配する」
アルトは胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
全部避けるのではない。
事前に知る。
手順を作る。
反応を記録する。
それなら、少し扱えるかもしれない。
クラウスは少し沈黙してから言った。
「ただし、気をつけてほしい。白鐘という言葉は、君にとって過去への手がかりであると同時に、君を揺らすための言葉にもなり得る」
アルトは頷いた。
「誰かが、わざと使うかもしれない」
「その可能性はある」
リゼの目が鋭くなる。
「敵性誘導」
「あり得る」
クラウスは否定しなかった。
「だから、反応を隠しすぎるのも危険だ。信頼できる者には共有し、記録すること。君がどの言葉にどう反応するかを、敵ではなく君たちが先に知る必要がある」
その言葉は重かった。
敵ではなく、君たちが先に知る。
アルトは左手首を見た。
布の下で、銀環は静かに熱を持っている。
怖い。
けれど、自分たちが知らないままでいる方がもっと怖い。
アルトはゆっくり言った。
「白鐘を、少しだけ調べたいです」
リゼがこちらを見る。
ミリアも。
カイも。
クラウスは静かに頷いた。
「どこまで」
「今日は、言葉だけ。白鐘がどういう場所や名前に使われているのか。紙工房と礼拝堂の詳しい話は、まだ少し怖いです」
「わかった」
クラウスは慎重に答えた。
「では、今日は一覧だけにしよう。詳細は後日、本人確認を取ってから」
ミリアが記録する。
白鐘関連語一覧。
詳細説明は段階的。
本人確認必須。
反応記録あり。
クラウスは旧領北部に残る白鐘の名をいくつか挙げた。
白鐘橋。
白鐘市。
白鐘祭。
白鐘紙工房。
白鐘礼拝堂。
白鐘の古い祝祭歌。
白鐘蔦の紋様。
それぞれを聞くたび、アルトは左手首の反応を報告した。
白鐘橋。
熱、少し。
痛みなし。
声なし。
白鐘市。
熱、少し。
痛みなし。
声なし。
白鐘祭。
熱、中。
胸が少し重い。
声なし。
白鐘紙工房。
熱、強。
痛み少し。
声なし。
白鐘礼拝堂。
熱、強。
痛み少し。
耳が少し遠い。
声なし。
そこでリゼが一度中止を提案した。
アルトは頷いた。
「今日は、ここまでにしたいです」
「了解しました」
リゼがすぐに答えた。
クラウスも頷いた。
「十分だ」
カイが深く息を吐く。
「名前だけでこんなに違うのか」
「はい」
アルトは左手首を押さえた。
「紙工房と礼拝堂は、強いです」
ミリアが記録紙を見つめる。
「大事な情報ね」
クラウスは静かに言った。
「今日の記録は、学園側管理に留める。王宮へそのまま渡すものではない」
リゼが確認する。
「情報共有範囲は」
ユリウスが答える。
「学園長、ロウ教師、クラウス卿、エレオノーラ、僕。必要に応じて医務担当。王宮側へは、本人に負荷のある語が確認されたため配慮が必要、という抽象度に留める」
「了解しました」
アルトは少し安心した。
自分の反応が、すぐに王宮の細かい報告書になるわけではない。
それもまた、境界線だった。
小会議室を出た後、四人は中庭へ戻った。
昼休みは半分以上終わっていたが、ミリアが持っていた小さな包みから焼き菓子を出してくれた。
「今日は、危険語確認後用ね」
カイが少し驚く。
「それ、俺の用途みたいだな」
「今日は私が考えました」
「いい用途だ」
カイは真剣に頷いた。
リゼが焼き菓子を受け取り、少し見つめる。
「危険語確認後用」
「ええ」
ミリアが言う。
「怖い言葉を扱った後は、戻るものが必要でしょう」
アルトは焼き菓子を受け取った。
甘い匂いがする。
今朝、白い鐘という言葉で一気に熱くなった左手首は、まだ少し重い。
でも、今は中庭にいる。
リゼ、ミリア、カイといる。
怖い言葉を聞いても、ここへ戻ってきた。
アルトは焼き菓子を一口食べた。
甘さがゆっくり広がる。
「おいしいです」
「よかった」
ミリアが微笑む。
カイが真剣な顔で言う。
「アルト」
「うん」
「今後、俺が変な名前を思いついたら、先に見せる」
「うん」
「口に出す前に確認する」
「ありがとう」
「あと、白鐘は、急に言わない」
カイは少し言いにくそうにその言葉を口にした。
アルトの左手首は少し熱くなったが、強くはなかった。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
アルトはすぐに言った。
カイがほっとしたように息を吐く。
「こうやって確認すればいいんだな」
「はい」
リゼが頷く。
「事前確認があれば、反応は低下する可能性があります」
「じゃあ、やる」
カイは力強く頷いた。
午後の授業は少し疲れた。
アルトは何度か左手首を確認しながら、授業を受けた。
リゼはいつもより少しだけ近い位置を保っていたが、過剰には寄らなかった。ミリアは休み時間ごとに視線だけで状態を確認し、カイは何か言いたそうになるたびに一呼吸置いていた。
それが少しおかしかった。
でも、ありがたかった。
放課後、四人は仮企画書の名前欄を見直した。
白い鐘の焼き菓子店は、候補から外す。
これはすぐに決まった。
理由は、アルトへの負荷が高いこと。
そして、白鐘関連語を軽く扱わないため。
リゼは企画メモにこう記録した。
白鐘関連語は店名・商品名に使用しない。
ただし、本人希望により、危険語として段階的に調査する。
出店名候補は「小さな灯の焼き菓子店」を維持。
アルトはその文字を見て、左手首に触れた。
小さな灯。
痛みなし。
熱、穏やか。
声なし。
やはり、この名前は怖くない。
むしろ、戻れる。
ミリアが尋ねた。
「この名前で、正式申請に進めそう?」
アルトは頷いた。
「はい」
カイも頷く。
「俺の案も商品名に残すなら」
「見届けクッキーは候補として残します」
リゼが言う。
「戻ってこいは?」
ミリアが少し考える。
「看板の裏に小さく書く?」
カイの目が輝く。
「いいのか?」
「お客様に見せる表ではなく、私たちだけが見る場所に」
アルトは想像した。
看板の裏。
表には、小さな灯の焼き菓子店。
裏には、戻ってこい。
それは少し秘密の合図のようだった。
怖い時、看板の裏にある言葉を思い出す。
戻ってこい。
命令ではなく、呼びかけとして。
「いいと思います」
アルトは言った。
リゼも少し考えてから頷く。
「内部用語としてなら、許容可能です」
「よし」
カイは満足そうだった。
夕方、掲示板の前で、四人はもう一度仮受付済み企画の一覧を見た。
小さな灯の焼き菓子店。
その名前は、昨日と同じ場所にある。
今日、白鐘という言葉で強く揺れた後だからこそ、その名前の穏やかさがよくわかった。
アルトは左手首を押さえた。
「痛みなし。熱、少し。声なし。現在地は、学園中庭。夕方。掲示板前。リゼさん、ミリアさん、カイといる。小さな灯の焼き菓子店の名前を見ています」
ミリアが聞く。
「感情は」
「少し疲れました。白鐘は怖かったです。でも、小さな灯は怖くありません」
リゼが頷く。
「良好です」
カイが小さく言う。
「白鐘は、急に言わない」
アルトの左手首が少しだけ熱を返す。
けれど、すぐに落ち着く。
「はい」
アルトは頷いた。
「でも、少しずつ調べたいです」
リゼが静かに答えた。
「一緒に手順を作ります」
夜。
男子寮の自室で、アルトは紙片を広げた。
今日は書くことが多い。
少し疲れている。
左手首はまだ少し重い。
でも、書きたいと思った。
今日は、白鐘という名前に反応した。
朝、中庭で焼き菓子店の名前を考えていた。
カイが、白い鐘の焼き菓子店という案を出した。
カイに悪気はなかった。
でも、僕の左手首は強く光った。
痛みが少しあって、熱が強かった。
声はなかった。
でも、夢の言葉を思い出した。
来てはいけない。
鐘を鳴らさないで。
友達を、扉に近づけてはいけない。
リゼさんが現在地を聞いてくれた。
ミリアさんが感情を聞いてくれた。
カイはすぐ謝ったけど、リゼさんは謝罪より確認を優先した。
僕は、白鐘は怖いけれど、全部遠ざけたいわけじゃないと言った。
怖い言葉だけど、僕の過去に関係がある言葉だから。
全部隠されると、何も知れない気がする。
その後、ロウ先生に相談した。
ロウ先生は、危険語として扱うのは妥当だけど、危険だから全部隠すと次に不意打ちで崩れると言った。
本人が段階的に扱いたいなら、手順を作れと言った。
怖い言葉を扱うなら、扱えない日があることも認めなさいと言った。
手順は命令ではなく、戻るための道具だと言った。
授業では、祝祭名と古語の話をした。
古い名は、土地、家、祭り、祈り、争いの記憶を持っている。
知らずに使わないこと。
意味を調べること。
誰に届くかを考えること。
反応が出たら記録すること。
知った上で、それでも明かりを灯しなさいと言った。
昼、クラウス卿とユリウス先輩に相談した。
白鐘という名前は、旧領北部では複数の場所や物に残っているらしい。
白鐘橋、白鐘市、白鐘祭、白鐘紙工房、白鐘礼拝堂、白鐘の古い祝祭歌、白鐘蔦の紋様。
橋や市は反応が少しだった。
祭は中くらい。
紙工房と礼拝堂は強かった。
礼拝堂で耳が少し遠くなったので、今日はそこで中止した。
白鐘は、僕の手がかりでもあり、誰かが僕を揺らすために使う言葉にもなるかもしれない。
クラウス卿は、敵ではなく君たちが先に知る必要があると言った。
怖かったけど、少しだけ調べたいと言えた。
午後、企画メモに、白鐘関連語は店名・商品名に使わないと書いた。
でも、危険語として段階的に調査することにした。
出店名は、小さな灯の焼き菓子店のまま。
この名前は怖くない。
左手首も穏やかに光る。
カイは、今後変な名前を思いついたら口に出す前に確認すると言った。
看板の裏に、戻ってこいと書く案も出た。
表には小さな灯。
裏には戻ってこい。
それは、少し好きだと思った。
アルトはペンを止めた。
白鐘。
紙に書こうとして、少し手が止まる。
でも、今日の記録には必要だ。
アルトはゆっくり、その二文字を書いた。
白鐘。
左手首が少し熱くなる。
痛みはない。
声もない。
現在地は、男子寮の自室。
夜。
机に向かっている。
これは記録。
今は一人だが、明日になればリゼ、ミリア、カイに共有できる。
怖い言葉を、一人で抱えない。
アルトは最後に一行を書いた。
白鐘は怖い。
でも、怖い名前を全部消すのではなく、戻れる手順を作って、少しずつ知りたい。
紙片を折り、引き出しへしまう。
左手首を胸の上に置く。
熱は少し。
痛みはない。
声もない。
「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。今日は白鐘という名前に反応した。でも、戻ってこられた」
銀環は淡く光った。
その光は、遠くの鐘へ引かれるためのものではなく、怖い名前を紙の上に置いても現在地へ戻るための、小さな灯のように手首の奥で静かに揺れていた。




