第5章 第2話:焼き菓子出店案
翌朝、カイ・ロックハートはいつもより早く中庭にいた。
しかも、ただ早いだけではなかった。
いつものベンチの前に立ち、腕を組もうとして一度止め、結局腰に手を当てている。足元には布袋が二つ。片方からは、焼き菓子の甘い匂いが漏れていた。
アルト・レインフォードが中庭へ着いた時、カイは噴水の音に負けない程度の声で言った。
「来たな」
「おはよう」
「おはよう」
声量は、少し抑えられている。
リゼ・グレイスに注意される前からだ。
剣術大会以降、カイは時々こういう変化を見せるようになった。前へ出る勢いは変わらない。けれど、出る前に一度だけ足元を見る。声を出す前に、少しだけ大きさを確かめる。
それはカイにとって、とても大きな一歩なのだと思う。
アルトは左手首に触れながら、朝の確認をした。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
現在地は、学園中庭。
朝。
噴水の近く。
カイがいる。
焼き菓子の匂いがする。
感情は、少し眠い。少し楽しみ。
怖さは、今は弱い。
カイは布袋を指差した。
「試作品だ」
「もう?」
「昨日、考えたら焼きたくなった」
「早いね」
「早くない。学園祭は準備が必要だってロウ先生も言ってただろ」
カイは真剣だった。
昨日の説明会で、飲食出店には企画申請書、担当教師、調理場所、材料申請、保存方法、販売場所、責任者が必要だと知った。
その時は「多い」と言っていた。
けれど、カイは多いからやめようとは思わなかったらしい。
むしろ、多いなら早く始めようと考えたのだろう。
アルトは布袋を見た。
「これ、全部焼いたの?」
「寮の厨房を借りた」
「許可は?」
アルトが聞くと、カイは少し胸を張った。
「取った」
「すごい」
「昨日の夜、寮監に聞いた。試作品なら少量、朝食前の厨房を汚さない範囲ならいいって言われた」
「ちゃんとしてる」
「俺も成長してるからな」
カイは得意そうだった。
そこへ、ミリア・ファルネーゼがやってきた。
朝の光を受けた金色の髪を整え、手には小さな包みを持っている。中にはおそらく茶葉か、紙と筆記具が入っているのだろう。
「おはようございます。まあ、いい匂い」
「試作品だ」
カイが即座に答える。
ミリアは微笑んだ。
「昨日の今日で?」
「準備は早い方がいい」
「とても良い心がけね。許可は取った?」
「取った」
「素晴らしいわ」
カイは少しだけ顔を赤くした。
「そこまで褒めることか?」
「褒めることよ。カイさんが先に許可を取ったのだから」
「俺、そんなに許可取らないやつだと思われてたのか」
ミリアは微笑みを崩さずに言った。
「突撃前に確認する訓練中でしょう?」
「……そうだった」
カイは納得したように頷いた。
少し遅れて、リゼ・グレイスが来た。
灰銀の髪を揺らし、いつものようにアルトの左側へ自然に立つ。だが、すぐに布袋の匂いに気づき、視線を向けた。
「焼き菓子ですか」
「試作品だ」
カイが言う。
「許可は取得済みですか」
「取った」
「調理場所は」
「寮の厨房」
「使用時間は」
「朝食前。短時間」
「衛生状態は」
「手洗いした。調理台拭いた。道具も洗った」
「材料は」
「小麦、卵、砂糖、バター、干し果物。全部昨日購買で買った」
「保存方法は」
カイは一瞬止まった。
「……布袋」
「不十分です」
「そこか」
「販売物として扱う場合、包装と保存時間の確認が必要です。試食の場合でも、清潔な紙または容器が望ましいです」
カイは少し悔しそうに布袋を見る。
「わかった。次は紙に包む」
「良好です」
リゼは頷いた。
カイは少しだけ肩の力を抜いた。
「食うか?」
「試食としてですか」
「そうだ」
「アレルギー確認は」
「……何だそれ」
リゼは真剣な顔で言う。
「食物によって体調不良を起こす可能性がある場合、事前確認が必要です」
カイが目を見開いた。
「焼き菓子って大変だな」
「飲食出店は責任を伴います」
「わかった。聞く。アレルギーあるか?」
カイは三人を順に見る。
ミリアが答えた。
「私はありません」
アルトも首を横に振る。
「僕も、今の材料なら大丈夫だと思う」
リゼは少し考えてから答えた。
「既知の該当なし。ただし、体調変化があれば報告します」
「よし」
カイはようやく布袋を開けた。
中には、小さな丸い焼き菓子が並んでいた。少し不揃いだが、焼き色はきれいだった。干し果物がところどころに見え、甘い香りが朝の空気に広がる。
カイは一つずつ配った。
「学園祭検討継続用」
「また用途が増えましたね」
リゼが言う。
「必要だろ」
カイは当然のように返す。
アルトは焼き菓子を両手で受け取った。
まだ少し温かい。
口に入れると、外側はさくりとして、中はやわらかかった。干し果物の酸味と砂糖の甘さが混ざる。
「おいしい」
自然に言葉が出た。
カイの顔がぱっと明るくなる。
「だろ!」
「声量」
リゼがすぐに言う。
「だろ」
カイは声を落として言い直した。
ミリアも一口食べて頷く。
「とてもおいしいわ。少し甘めだけれど、学園祭ならこのくらいの方が喜ばれるかもしれない」
「本当か」
「ええ。ただ、同じ大きさに揃えた方が売りやすいわね。値段も決めやすいし、見た目も整う」
「なるほど」
カイはすぐに紙を取り出し、書こうとした。
そこへリゼが言う。
「手に菓子の油分が付着しています。記録前に拭いてください」
「細かいな」
「衛生管理です」
「わかった」
カイは素直に手を拭いた。
アルトはその様子を見ながら、胸の中が少し温かくなるのを感じた。
剣術大会の時、カイは負けた。
でも、折れなかった。
今度は剣ではなく、焼き菓子で前へ出ようとしている。
しかも、ただ勢いで出るのではない。
許可を取り、試作品を作り、リゼに注意されながら覚えている。
これも、カイの戻る足なのかもしれない。
前へ進むために、必要な確認を残す。
ミリアがベンチに腰掛け、紙を広げた。
「では、朝のうちに簡単な企画整理をしましょう」
カイが隣へ座る。
「朝からか」
「試作品を持ってきたのはカイさんでしょう?」
「そうだった」
リゼも座る。
アルトもその隣へ座った。
中庭の噴水の音が、紙の上に落ちる朝の光と混ざる。
ミリアは紙の上に、きれいな字で見出しを書いた。
焼き菓子出店案。
その下に、項目を並べる。
出店名。
販売物。
担当者。
調理場所。
材料。
包装。
価格。
当日導線。
安全管理。
退避手順。
アルトはそれを見て、少し圧倒された。
「昨日のカイの紙より増えたね」
「増えました」
リゼが頷く。
「実施に必要な項目です」
カイは自分の乱暴なメモを見て、少し眉を寄せた。
「俺のは、一、焼き菓子を売る、だったからな」
「最初の目的としては重要です」
リゼは真面目に言った。
「目的がないと、詳細化できません」
カイは少し嬉しそうにする。
「そうか」
「はい」
ミリアが微笑んだ。
「まず販売物。今日の試作品を基本にする?」
「干し果物入り」
カイが答える。
「他にも作れる。蜂蜜入りとか、木の実入りとか」
「木の実はアレルギー確認が難しくなる可能性があります」
リゼが言う。
「じゃあ後で考える」
「良好です」
ミリアが書き込む。
「基本商品は干し果物入り焼き菓子。追加味は検討」
次に、担当者。
ミリアは四人の名前を書いた。
「カイさんは調理担当」
「おう」
「私は企画書と装飾、当日の接客補助」
「ミリアさんは全部できそうです」
アルトが言うと、ミリアは首を横に振った。
「全部はできないわ。だから分けるの」
リゼが言う。
「私は安全管理、導線確認、衛生確認、物資確認」
カイが笑う。
「やっぱリゼは安全係だな」
「安全のみではありません」
リゼは少しだけ言い返すように言った。
カイがきょとんとする。
リゼは続けた。
「出店班の一員です」
その言葉に、アルトは胸が少し温かくなった。
ミリアも嬉しそうに微笑む。
「ええ。安全係で、出店班の一員ね」
リゼは静かに頷いた。
「はい」
ミリアはアルトを見る。
「アルトさんは、記録と出店名、看板文句をお願いしたいわ」
アルトの指先が少し止まった。
名前。
看板文句。
昨日も出た役割だ。
今朝、改めて言われると、胸の奥に小さな緊張が走る。
左手首が少し熱くなった。
リゼがすぐに確認する。
「痛みは」
「なし」
「熱は」
「少し」
「声は」
「なし」
「現在地は」
「学園中庭。朝。いつものベンチ。リゼさん、ミリアさん、カイと焼き菓子出店案を考えています」
「感情は」
「少し緊張。名前を考えるのが、少し怖いです。でも、やってみたいです」
ミリアは静かに頷いた。
「怖いなら、無理に今すぐ決めなくていいわ」
「はい。でも、考えたいです」
アルトは自分の左手首に触れた。
「名前は、怖いこともあります。でも、戻れることもあると思うから」
リゼの目がわずかに揺れた。
「戻れる名前」
「はい」
アルトは少し恥ずかしくなりながら続けた。
「僕は、アルトって呼ばれると戻れることがあります。だから、出店の名前も、戻れる名前にできたらいいなと思いました」
ミリアは柔らかく微笑んだ。
「素敵ね」
カイは真剣な顔で頷く。
「じゃあ、戻ってこい焼き菓子店か」
「重いわ」
ミリアが即座に言った。
「でも戻れるぞ」
「意味はわかるけれど、初めて来るお客様には少し圧が強いわね」
リゼも頷く。
「命令形は販売店名として不適切な可能性があります」
「じゃあ、戻れる焼き菓子店」
「やはり説明が必要です」
「難しいな」
カイは腕を組みかけ、途中でやめた。
その様子を見て、アルトは少し笑った。
「カイは、用途から名前を考えるんだね」
「そりゃそうだろ。何に使うか大事だ」
リゼが真面目に頷く。
「用途表示型名称です」
ミリアが紙に小さく書く。
用途表示型名称。候補としては要調整。
カイが覗き込んだ。
「それ、残すのか」
「発想は大事よ」
「ならよし」
朝の時間はすぐに過ぎた。
授業の鐘が鳴り、四人は紙を一度まとめた。
カイは試作品の残りを丁寧に包み直そうとして、リゼに「布袋内で偏っています」と指摘され、少し慌てていた。
アルトは教室へ向かいながら、さっき自分が言った言葉を思い返していた。
名前は、怖いこともある。
でも、戻れることもある。
アルト。
その名前で呼ばれると、今は戻れる。
では、自分が名前を付ける時、誰かが戻れる場所を作れるのだろうか。
そう考えると、少し不安で、でも少し温かかった。
午前の授業中も、カイは時々紙を見ていた。
ロウ教師に一度だけ見つかり、「授業中の企画書作成は禁止だが、休み時間に続けなさい」と言われた。没収されなかったのは、剣術大会後の学びとして認められたのかもしれない。
昼休みになると、四人は食堂の端の席を確保した。
今日は中庭ではなく、食堂だ。
理由は単純だった。
飲食出店を考えるなら、食堂の人の流れを見るべきだとリゼが言ったからである。
「客導線の参考になります」
リゼは食堂の入口から配膳口、席、返却口までを視線で追っている。
カイは焼き菓子のことを考えながら、食堂のパンを食べていた。
「出店って、どこで売るんだろうな」
「説明会資料では、中庭周辺、第一校舎廊下、訓練場前広場の一部が飲食出店候補です」
リゼが答える。
「中庭がいい」
カイは即答した。
「いつもの場所に近いからですか」
アルトが尋ねると、カイは少し考えた。
「それもある。あと、人が多そうだし、戻りやすい」
「戻りやすい?」
「お前が熱くなったら、いつものベンチに行けるだろ」
アルトは一瞬、言葉を失った。
カイは特別なことを言ったつもりはない顔をしている。
でも、アルトの胸には強く届いた。
出店場所を考える時に、売れそうかどうかだけでなく、アルトが戻れるかどうかも考えてくれている。
ミリアも少し目を細めた。
「中庭出店は人気でしょうけれど、理由としてはとても良いわね」
リゼも頷く。
「アルトさんの退避経路を確保しやすいです。加えて、私が警備補助に呼ばれた場合でも視認性が高い可能性があります」
「だろ」
カイは少し得意げだった。
アルトは小さく言った。
「ありがとう」
「まだ決まってねえけどな」
「それでも」
カイは少し照れたようにパンをかじった。
ミリアが紙を広げる。
「では、出店場所の第一希望は中庭周辺。理由は、集客、退避経路、四人の戻る場所に近いこと」
リゼが補足する。
「ただし、人気区画のため抽選または審査の可能性があります」
「じゃあ企画書をちゃんと書かないとな」
カイが言う。
「そうね」
ミリアは頷き、次の項目へ移る。
「次は、出店名候補」
カイがすぐに言う。
「戻ってこい焼き菓子店」
「保留」
ミリアが即答。
「戻れる焼き菓子店」
「保留」
「勝てて嬉しい焼き菓子」
「商品名なら可能性はありますが、店名としては限定的です」
リゼが真面目に言う。
「決勝見届けクッキー」
「剣術大会を知らないお客様には伝わりにくいわね」
ミリアがやんわり却下する。
「熱下がれ菓子」
「薬効を誤認される可能性があります」
リゼが即座に言った。
「駄目か」
「駄目です」
カイは少し悔しそうだったが、楽しそうでもあった。
アルトは紙を見つめる。
戻る。
灯。
焼き菓子。
中庭。
怖い日。
学園祭。
名前を考えようとすると、たくさんの言葉が浮かんでは消える。
「小さな灯」
ふと、言葉が出た。
三人がアルトを見る。
アルトは少し慌てる。
「まだ、店名じゃないです。ただ、焼き菓子って、怖い時とか、戻ってきた時に食べることが多かったから。灯みたいだなと思って」
ミリアの表情が柔らかくなる。
「小さな灯の焼き菓子店」
彼女がゆっくりと言った。
紙に書いてみる。
小さな灯の焼き菓子店。
リゼがその文字を見つめる。
「意味は伝わりやすいです。過度に重くありません。温度感もあります」
「温度感」
カイが言う。
「悪くないな。ちょっと上品だけど」
「カイさんの案よりは、初見のお客様に優しいわね」
ミリアが言う。
「俺の案も一つくらい商品名にしようぜ」
「それは検討しましょう」
アルトは紙に書かれた文字を見ていた。
小さな灯。
左手首が淡く光る。
痛みはない。
熱は柔らかい。
声もない。
リゼが確認する。
「反応は」
「痛みなし。熱、少し。声なし」
「原因は」
「たぶん、名前を見たから。でも怖くないです」
ミリアが微笑む。
「候補にしましょう」
「はい」
アルトは頷いた。
その時、食堂の別の席から声がかかった。
「焼き菓子出店をやるの?」
ティナ・ベルだった。
ノエルとリリアも一緒にいる。
カイは即座に言った。
「やる」
リゼが即座に訂正する。
「申請前です」
「でも検討中なんだよね?」
ティナが笑う。
「はい」
アルトが答える。
「名前、何にするの?」
ノエルが尋ねる。
ミリアが紙を少し隠すようにしながらも、微笑んで言った。
「まだ候補よ」
「見たい」
ティナが身を乗り出す。
カイが得意げに言う。
「戻ってこい焼き菓子店」
ティナは一瞬黙り、それから笑った。
「すごくカイ君っぽい!」
「駄目か?」
「面白いけど、ちょっとびっくりするかも」
ノエルが言う。
「初めて買う人は、どこから戻るんだろうって思うかも」
「それもそうか」
カイは真剣に頷いた。
リリアが静かに紙を見た。
「小さな灯」
彼女が呟く。
アルトは少し驚く。
紙の端が見えていたらしい。
リリアは続けた。
「いいと思う」
「本当ですか」
「うん。学園祭は夜まで明かりが残るから。小さい灯は合う」
その言葉に、アルトの胸が少し温かくなる。
ティナも頷いた。
「かわいい! 買いに行きたい!」
「まだ申請前です」
リゼが念のため言う。
「じゃあ申請通ったら教えて!」
「はい」
ミリアが笑顔で答えた。
同級生たちが去った後、カイが言った。
「小さな灯、評判いいな」
「まだ二名の反応です」
リゼが言う。
「でもいい反応だろ」
「はい。好意的でした」
「じゃあ有力候補だ」
アルトは紙を見て、小さく頷いた。
「はい」
午後の授業が終わる頃には、焼き菓子出店案は少し形になっていた。
まだ未定だらけだ。
調理場所も、担当教師も、材料費も、販売場所も決まっていない。
でも、昨日よりは進んでいる。
目的だけだったものに、項目が増えた。
役割が増えた。
名前の候補ができた。
放課後、四人は準備委員会の仮受付へ向かった。
第一講義室の隣に設けられた受付では、上級生たちが企画相談を受け付けていた。
リーナ準備委員長もそこにいて、リゼたちを見ると明るく手を振った。
「あ、昨日の一年生たち。焼き菓子の子ね」
カイが少し胸を張る。
「焼き菓子です」
リゼが資料を差し出した。
「飲食出店企画の仮相談を希望します」
「もう? 早いね」
リーナは楽しそうに資料を受け取った。
紙を見て、目を細める。
「小さな灯の焼き菓子店。いい名前」
アルトの胸が少し跳ねた。
左手首が淡く熱を持つ。
痛みはない。
声もない。
リゼが視線だけで確認する。
アルトは小さく頷いた。
リーナは続けて資料を読む。
「販売物は干し果物入り焼き菓子。追加味は検討。担当者、調理担当カイ・ロックハート、企画・装飾ミリア・ファルネーゼ、安全管理リゼ・グレイス、記録・看板文句アルト・レインフォード」
読み上げられると、少し照れくさい。
アルトは自分の名前が役割と一緒に並ぶのを聞いて、不思議な気持ちになった。
保護対象。
銀環反応。
移送判断。
そういう言葉ではなく。
記録・看板文句。
学園祭の企画書の中で、自分がそう書かれている。
リーナは顔を上げた。
「かなりちゃんと考えてるね。飲食出店は人気だけど、この内容なら仮申請して大丈夫だと思う」
カイの顔が明るくなる。
「通るか?」
「まだ仮よ。担当教師を決めて、調理場所と保存方法を明確にして、正式申請してね」
「担当教師って誰に頼めばいいんだ」
カイが尋ねる。
「飲食なら家庭実習担当の先生が基本だけど、安全管理や警備導線が絡むなら、ロウ先生に相談してもいいかもしれないわね」
リゼが頷く。
「確認します」
リーナは資料を見ながら、ふとリゼへ視線を向けた。
「それと、リゼさん。警備補助班の件だけど、出店班を主にするなら、無理に入らなくて大丈夫。ただ、中庭周辺で出店するなら、自然に周辺確認はお願いすることになるかも」
「補助範囲を明確にする必要があります」
リゼはすぐに答えた。
リーナは少し驚き、それから笑った。
「うん、それでいいと思う。全部お願いするつもりはないよ」
ミリアが静かに頷く。
「ありがとうございます」
リーナは紙に仮受付印を押した。
「では、仮相談受理。正式申請までに、出店名は変えても大丈夫。場所希望も第三希望まで書いてね」
「第一希望は中庭周辺です」
リゼが言う。
「理由は?」
リーナが尋ねる。
リゼは淡々と答えた。
「集客、視認性、退避経路、普段使用している休憩場所への近接性、安全確認の容易さです」
リーナは少し目を丸くした。
「すごく実務的」
カイが横から言う。
「戻りやすいからです」
その一言に、リーナは少しだけ表情を柔らかくした。
「なるほど。いい理由だね」
受付を終えると、四人は中庭へ戻った。
夕方の光が噴水の水面を赤く染めている。
学園祭準備委員募集の掲示の下には、早くもいくつかの仮企画名が貼り出され始めていた。
舞台劇。
魔術展示。
古書市。
茶会。
模擬騎士団体験。
そして、まだ正式ではないが、小さな紙に書かれた仮受付済み企画の一覧に、アルトたちの案も加えられていた。
小さな灯の焼き菓子店。
その文字を見た瞬間、アルトの左手首が淡く光った。
痛みはない。
熱は穏やか。
声もない。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
アルトは自分から言った。
リゼが頷く。
「現在地は」
「学園中庭。夕方。掲示板前。リゼさん、ミリアさん、カイといる。仮受付済み企画の一覧に、小さな灯の焼き菓子店と書かれています」
ミリアが聞く。
「感情は」
アルトは少し考えた。
「恥ずかしい。嬉しい。少し怖い。でも、嫌じゃありません」
カイが笑う。
「なら良好だな」
「はい」
リゼも静かに頷いた。
「良好です」
その時、カイがふと掲示を見ながら言った。
「でもさ」
「何ですか」
リゼが尋ねる。
「“小さな灯”っていいけど、商品名に一個くらい俺の用途名を入れてもいいよな」
ミリアが苦笑する。
「まだ諦めていなかったのね」
「当然だ。戻ってこい用は無理でも、見届け用くらいならいけるだろ」
アルトは少し笑った。
「見届けクッキー?」
「いいな」
「いいんですか?」
アルトがミリアを見ると、彼女は考えるように顎に手を添えた。
「商品説明次第では、ありかもしれないわね。“大切な一日を見届ける時に”とか」
カイが目を輝かせる。
「それだ!」
「声量」
リゼが言う。
「それだ」
カイは声を落とした。
ミリアが紙に書く。
商品名候補:見届けクッキー。
アルトはその文字を見て、胸が温かくなる。
剣術大会で、自分は見届けた。
銀環が反応しても、戻って、見届けた。
その経験が、焼き菓子の商品名になる。
怖かったことが、少しだけ温かい形になる。
名前を付けるとは、こういうことなのかもしれない。
夜。
男子寮の自室で、アルトは今日の記録を書いた。
今日は、カイが朝から焼き菓子の試作品を持ってきた。
寮の厨房を借りる許可を取っていた。
カイは本当に成長していると思う。
リゼさんは、調理場所、衛生状態、材料、保存方法、アレルギー確認を次々に聞いた。
カイは途中で、焼き菓子って大変だなと言った。
僕もそう思った。
食べた焼き菓子はおいしかった。
少し温かくて、干し果物が入っていた。
カイは、学園祭検討継続用と言った。
朝、中庭で企画整理をした。
ミリアさんが、出店名、販売物、担当者、調理場所、材料、包装、価格、当日導線、安全管理、退避手順を書いた。
カイは調理担当。
ミリアさんは企画書と装飾、接客補助。
リゼさんは安全管理、導線確認、衛生確認、物資確認。
僕は記録と出店名、看板文句。
名前を考えるのは少し怖い。
でも、やってみたいと言えた。
僕は、名前は怖いこともあるけれど、戻れることもあると思うと言った。
アルトという名前で呼ばれると、今は戻れることがある。
だから、出店の名前も戻れる名前にできたらいいと思った。
カイは、戻ってこい焼き菓子店を提案した。
ミリアさんは重いと言った。
リゼさんは命令形は販売店名として不適切な可能性がありますと言った。
昼、食堂で人の流れを見ながら続きを考えた。
中庭周辺に出店したいと思った。
理由は、人が多いことと、いつものベンチに戻りやすいこと。
カイが、僕が熱くなったらいつものベンチに行けるだろと言った。
嬉しかった。
僕は、小さな灯という言葉を思いついた。
ミリアさんが、小さな灯の焼き菓子店と言った。
その名前を見たら、左手首が少し光った。
でも怖くなかった。
ティナさんたちにも少し見られて、いいと思うと言われた。
放課後、準備委員会の仮受付へ行った。
リーナ先輩は、小さな灯の焼き菓子店をいい名前だと言ってくれた。
仮相談は受理された。
正式申請には、担当教師、調理場所、保存方法、場所希望が必要。
第一希望は中庭周辺。
理由は、集客、視認性、退避経路、普段使っている休憩場所への近さ、安全確認のしやすさ。
カイは、戻りやすいからですと言った。
夕方、仮受付済み企画の一覧に、小さな灯の焼き菓子店と書かれていた。
自分たちの名前ではないけれど、自分たちで考えた名前が掲示板にあるのは不思議だった。
恥ずかしい。
嬉しい。
少し怖い。
でも嫌じゃなかった。
商品名候補に、見届けクッキーも出た。
大切な一日を見届ける時に、という説明ならいいかもしれない。
怖かったことが、少し温かい名前になる気がした。
アルトはペンを止めた。
机の上には、学園祭準備委員会の資料と、今日の仮企画メモが並んでいる。
小さな灯の焼き菓子店。
見届けクッキー。
戻ってこい焼き菓子店は、たぶん店名にはならない。
でも、その気持ちは残っている。
戻ってこい。
見届ける。
小さな灯。
それらは全部、剣術大会で得た言葉から生まれたものだ。
アルトは最後に、一行を書いた。
名前を付けるのは少し怖い。
でも、怖かったことに温かい名前を付けられるなら、少しだけ前に進める気がする。
紙片を折り、引き出しへしまう。
左手首を胸の上に置いた。
熱は少し。
痛みはない。
声もない。
「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。今日は、小さな灯の焼き菓子店という名前を考えた。怖くなかった。少し嬉しかった」
銀環は淡く光った。
その光は、誰かに呼ばれて暴くための名前ではなく、自分たちで選んだ小さな看板の明かりのように、手首の奥で静かに揺れていた。




